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春のお彼岸過ぎ、寒い冬が終わったと思ったら急に暖かくなり、各地でソメイヨシノの開花宣言が出される中、京都ではまだだった。地下鉄丸太町駅の北東出口から地上に出ると、御所(と呼んできたが、正しくは京都御苑)の南西端(写真は出っ張りのある南西角を北から眺めた)。そこから西の石垣に沿って歩いて、一番近い門から御苑に入ってみた。京都御苑の中を自転車で走り抜ける人たちなど、生活の場ともなっていることを知って、いつか中に入ってみたいと思って久しいが、突然そんな機会がぼた餅のように落ちてきた。椹木口(さわらぎぐち)から入ったところに上の案内板がある。何と御苑の中に住宅地があるという。どんな人たちが暮らしているのだろう。それはともかく、宗像神社や厳島神社などが御苑の中にあるのが面白いので、その辺りに行ってみよう。直進するとどんつきが宗像神社。赤い車が駐まっている手前の道を見ると、その先に閑院宮邸跡というところが開いていた。説明に、閑院宮家は、伏見宮、桂宮、有栖川宮家と並ぶ四親王家のひとつで、東山天皇の第六皇子直仁親王を始祖として宝永7年(1710)に創立されました。当時は烏丸通と丸太町通が交差するところの東北角にL字型の屋敷地を構え、御門と塀をのぞく建物は東山院旧殿を移築した総面積498坪(1.643㎡)にも及ぶ大規模なものでしたとある。入っていくと右の建物が展示館になっていたが、時間がないので東の門へと通り抜けようとしたら、南側に築山と通路が見えたので、時間が許す限り、庭園を散策してみることにした。東壁際に面白い灯籠が。ん?灯籠かな・・・ちょびっと咲いている水仙もいい感じ。南側には池。説明は、庭園の造営時期や当初の池の位置など詳しいことはわかっていませんが、発掘調査の結果、新旧2つの時期の池底や州浜状の礫敷きが確認され、18世紀中頃に作庭されたものが、度重なる改修を経て現在の形になったと考えられますという。閑院宮邸の建物群南に回る。
お寺などの庭園にある池は大抵縁に石が巡っているが、ここは緩やかな傾斜で、自然な水辺のよう。説明は、州浜は海辺の景色を表現する手法で、京都御所、仙洞御所、桂離宮などの宮廷庭園に見られるものです。州浜が閑院宮邸跡でも見られることは注目されますという。これが御所の南西角。外から見ると烏丸丸太町の北東角(京都風に言うと、からすままるたまちのきたひがしかど)。木塀は曲面になっている。振り返ると灯籠が見えたので、その方へ向かうと、遣水と園池という説明板によると、この庭園は宮内省京都市庁長官舎の庭園として造られたものです。本庭園の特徴のひとつに、遣水と園池の組み合わせがあげられます。遣水は庭園内に水を導き流れるようにする伝統的手法で、京都御所御常御殿庭園、同小御所庭園、旧近衛邸庭園、旧中山邸庭園、旧九條邸庭園などにも見られます。遣水の起点には矢跡の残る白川石が立てられ、流れは穏やかに屈曲して小さな滝となって池に注ぎます。また州浜意匠や舟遊びを象徴する切石護岸など、本庭園には江戸時代の公家が好んだ庭園意匠を踏襲し、小規模ながら気品のある趣を醸し出していますということで、下図は長官舎側から見た庭園。江戸時代の閑院宮邸の庭園の続きだと思っていた。その背後に回ると、右に二つ目の灯籠、左には矢跡の残る白川石。その向こうに遣水の流れ出す仕掛けがあるらしい。こちらが園池。切石護岸も右端にやや弧を描いて見えている。池際には雪見型灯籠、三つ目。
さて、その北側には伽藍石が。続いて2段の石段も。どうやらこれが長官舎の建物跡のよう。建物の北が玄関のよう。木材で建物の間取りを表していて、部屋ごとにその名称も記されている。玄関周りの三和土と、沓脱石が残されている。中庭
左向こうの来客棟主室説明板は、この部屋は客座敷の主室で、八畳敷、東側に床と床脇棚を設け、床柱は栂の四方柾の角柱で、丸太長押をめぐらし、釘隠金具が打たれ、格調を整えた数寄屋風の造りでした。部屋からは、庭園を北東から南西に流れる遣水を楽しむことができます。流れの上流には沢飛び石があり遣水を渡ることができます。流れの上流には沢飛び石があり、遣水を楽しむことがどきますという。![]()
私室棟の台所周り。一角に井戸があった。
右奥の座敷にはテーブルが置かれている。説明板は、ここは来客棟より庭の方へ張り出して建てられている私室棟の先端の座敷です。来客棟の客座敷よりは簡素ですが、十畳の広さの一隅に押し入れを設け、南から東へ庭を見晴らせるように縁から庭へ開放的に構成されています。部屋からは矢跡の残る白川石を起点に遣水が池に注ぐ庭園の全景を眺めることができます。庭園内には形の異なる5つの燈籠が配され、沓脱石から庭の近くに降りることができますという。縁側、沓脱石、そして縁先手水鉢庭の通っていない通路に入ると、石板が遣水の上に架けてあり、その向こうは沢飛び石が数個。そして左の日陰の中に見え隠れしているのは、鄙びた藁屋根の家屋をかたどったような灯籠だった。5つあるという灯籠の四つ目。後一つは見つけられずに去る。
東側の門から出て、
続いて宗像神社へ。立て札は、本舎は宗像三女神、即ち多紀理姫命、市岐嶋姫命、多岐津姫命を主祭神として祀る。宗像三女神は別名「道主貴」といい、これは全ての道を司る神の尊称である。この地はもと小一条殿(文徳天皇皇后明子の里、藤原忠平の邸宅)といい、平安の御代、清和天皇ご誕生の地である。社伝によれば、平安京遷都の翌年、延暦14年(795)、桓武天皇の命により、藤原冬嗣が筑紫(現在の福岡県)より勧請(神様をお招きすること)し、創建されたと伝えられる。応仁の乱の兵火で社殿ことごとく焼失した後、再建された。現在の社殿は江戸期安政年間に再建されたものである。明治維新までは花山院家の邸地となり、本社もその廷内にあったが邸宅が廃せられて後は社殿のみ残ったという。小さな舞台の脇で木蓮が花を付けていた。春ですなあ。奥の前庭では種類はわからないがサクラが満開。その右奥に拝殿。色あせた門や苔むした屋根が好ましい。左は吽形の狛犬だが、右は阿形の獅子。それとも時代が下がると、どちらも狛犬と呼ばれるようになるのかな。
続いて厳島神社へ。堀があるのか端を渡った先のよう。いや大きな池の中島に神社があるのだった。
立て札は、当社は往昔平 相國清盛公 安藝の國佐伯郡に坐す厳島大神を崇敬の余り摂津の國菟原郡兵庫築島に一社を設けて この大神を勧進し給い鎮祭されたのであり後 故あって側らに清盛公の母儀祇園女御をも合祀されました 後世年を経て この九條家廷内 拾翠池の嶋中に移転遷座されたものであります この地 旧侯爵 九條家の廷内に属せしにより自ら同家の鎮守となりました 又古くより家業繁栄家内安全の守護神として一般の人々よりも深く崇敬されている ところであります神前の鳥居(重要美術品)は破風形の鳥居として有名という。
その先は小さな出島になっている。その向こうに視線を向けると、橋脚がいくつも並ぶ大きな橋があってびっくり。橋の先を辿っていると、出島から突き出た石の上にアオサギが。どこにでもいる鳥だが、思わず写してしまった。どうやら向こうの魚を狙っているみたい。どうせならカワセミを見たかったが、こんなに濁った水のところには来ないかな。南西の建物は何かな。池の上に藤棚もあり、ゴールデンウィーク頃には、この静かな景色の中で、にぎやかに花を垂らす姿が見られそう。
再び端を渡って神社から出ると、ずっと遠くに通年無料の一般公開になった京都御所。
先ほど見えた橋は渡ることができそう。左の立て札は、九條邸跡 九條家は、五摂家の一つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白につきました。江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請に対し徳川幕府は了解する考えでしたが、朝廷側の孝明天皇は反対でした。折しも京市内では、幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白九條尚忠の邸もその舞台の一つとなりました。広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭と、九條邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るばかりですという。あの二階建ての建物が九條家茶室、拾翠亭だった。厳島神社のある中島の続きの小さな出島と思っていたところは、かなり細長く続いている。さきほどのアオサギは頭を上げているではないか。橋の右側
境町御門から外に出る。京都に来る度に、学生時代に自転車で移動していた快適さを思い出し、今も自転車があったら、もっといろんな通を見て回ることができるのにと残念に思う。
写真の人のように、いつか自転車で京都御苑の中を走り抜けよう!
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突然やってきた地下鉄丸太町駅下車という機会は、松屋常盤の近くに行けることだと2日ほど前に思いあたった。久しく口にしていない味噌松風が食べたいと、もう無理かなと思いつつ予約の電話を入れると大丈夫とのこと。厚かましいついでに、「松風の端っこもありますか?」と尋ねると、これまたOKだった。
境町御門の前には横断歩道はないので、ちょっと東の裁判所前まで行って、渡ってから引き返すことにはなる。境町通左右の家並みも落ち着いている。西側と東側。マンションもできたりしているが、それでも板塀の家が続いていて、京都らしい雰囲気が残っている。車もあまり通らず、静かな通だ。
そして松屋常盤のお店。味噌松風と切れ端(箱入りだった)を、厚かましくお店の中でリュックに入れさせてもらった。荷物の入れ替えで手間取っている間に別のお客さんが買いに来られた。その日の予約数によって松風の小は多めにできる時もあるらしく、小箱を予約なしで買っておられたが、切れ端はもうないとのことだった。切れ端も予約しておいて良かった!ついでですが、大箱は予約だけとのこと。
リュックを背負って、お店に入った時に気になっていたこの火鉢をどうしてもカメラに収めておきたくなった。お店の方に「写真を撮ってもいいですか?」と尋ねると、先ほど同様に「どうぞ」とのこと。そばに寄るとほんのりと暖かみが伝わってきた。このお店の雰囲気そのもののような火鉢なのだった。どう撮ればこの木製の火鉢が映えるかなど考えてはいられない。まして動かすこともできないのでまず1枚。そして別の方向からもう1枚。創業以来使ってこられたのかと思うほどに、縁がひび割れ、炭化している。そしてこの火箸!頭が猪目形になっていて、カマキリの頭のようでもある。後日ある人にこの写真を見せると、お寺などの大きな建物の建造に使う釘なのだそう。
切れ端の箱を味噌松風(大)と比べると意外と大きく、ずっしりと重い。ずっと以前に箱いっぱいに入っている味噌松風の取り出し方について、箱を解体するという記事を書いたが、今回もそうするつもりで、両側の紙を引っ張ると、すっぽりと抜けた。こんなに簡単に取り出せるとは。
小皿に取り分ける。まずは白い皿に。
次に蕗の薹の皿に。このように斜めから撮影すると、かなり前の方にお菓子をのせても、前側が大きく写ってしまい、後方に偏って置いたように見えてしまう。
そしてこれが切れ端。お味噌がかかっているので、手で取り出すとベタベタしてしまうので、お箸で取り出した方が良いのだが、切れ端どうしがお味噌でくっついているので難しい。
まずは鎌倉彫の皿に。この3つの文様は何だろう?大きな3つの如意頭の端が向かい合った形でもなさそう。下の方に曲がった切れ端があって面白いと思ったので。これが上の方の切れ端。ざっくりと盛った方が切れ端っぽいと思ったけれど、センスがないもので😅
そして、白い鉢にも。切ったものを盛りつけるのもアリです。食べやすいし。
包みに入っていた味噌松風の説明には、代々、公家や茶人に愛でられてきた紫野味噌松風は、謡曲(松風)に因み大徳寺57世和尚から伝授されたといわれています。京都の白みそ(西京味噌)に小麦粉を練り混ぜ焼き上げたものです。一子相伝の技で香ばしく焦げ色ついた表側と、ほの白い裏側の対比に趣きが有ると贔屓にして戴いております。御所出入りの舗として、後光明天皇より、禁裏御菓子匠の白い暖簾を賜り創業から360年の今日に至って居ります。正式名称は「紫野味噌松風」。確かに白い暖簾だった。
大徳寺ファンの大徳寺歴代住持によると、大徳寺57世は 天釋禪彌(てんしゃくぜんみ)で、一休宗純(1394-1481)が47世。室町時代の禅僧のよう。後光明(1633-54)は江戸時代前期の天皇。
京都御苑に宗像神社と厳島神社←
関連項目久しぶりに松屋常盤の味噌松風松屋常盤 味噌松風
参考サイト大徳寺ファンの大徳寺歴代住持
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今や京都は神社仏閣などの観光地だけでなく、四条通、河原町通そして錦小路は観光客が犇めき合って、通るのも困難なところとなってしまったが、寺町通は、車はどんどん走り抜けていくが、人でごった返すことのない、静かな通である。お店も入れ替わりはあるのだが、繁華街へ行くのに普通に通っていたもう40年以上も前の寺町通と風情の変わらない、私や友人たちにとって貴重な通でもある。松屋常盤を出ると、その友人たちとの待ち合わせ時刻が迫っていたので、あちこちの細い通を散策する余裕がなくなってしまった。
そうなればやはり寺町通を歩いてみたいので、竹屋町通をひたすら東進。どんつきは天台宗革堂(こうどう)行願寺。東側に渡って振り返ると、今までは気にしなかったが、ここも昔からある八百屋さん。
進々堂の本店も昔からあった。
夷川通の交差点で西側に渡ると、歩道の端に細工した石が3つ、それぞれ高さが違っている。歩き疲れた人のための椅子?これは初めて見た。
斜め向かいに懐かしい一保堂。享保2年(1617)創業の老舗。抹茶は買う時に量って包んでもらえます。待っている間に店内の雰囲気を楽しみ、最後に熱湯で瞬時に入れた玉露を戴きました。紙の包み方は独特。開いてみると唐時代に陸羽が記した『茶経』を明時代の鄭煾名が編集したもの?かな。
一保堂の南側の紙司柿本。建物は現代的だが、享保年間創業のお店「かみし」だと思っていたが「かみじ」と読むらしい。羊のストラップを買い足した。3つあって、逆三角形の部分の色や柄がそれぞれ違っていたので、年相応に一番おとなしいものを選んだ。一見笑った黄色い目と茶色い鼻と逆三角形の口のようだが、黄色いのは角、茶色の部分が顔。では逆三角形は何だろう?その下に付けてある小さなトンボ玉も可愛い。
三月書房はまだシャッターが降りているのは営業が12時からだから。そのホームページに古本屋ではありません、新本屋ですとある。以前にも記事にしたが、学生時代はお店の左のショーウインドーに飾られていた『木村伊兵衛写真集 パリ』を、通る度に眺めたものだ。
時間がなくなってしまったので通り過ぎてしまったが、少し南の二条通の弧を描く交差点の北側にあった山中履物店はシャッターが降りていたと、学生時代はここの下駄を履いていた友人が言っていた。藤野正弘の京都まち暮らしに閉店・山中履物店の記事があった。2017年の末に閉店されたらしい。ちゃんとお店全体を撮った写真がないのが残念だ。ついでに以前の写真を。ショーウインドーと 鼻緒を調節する店主。
下がっていって西側に Cafe Restaurant Nouvelle Vague。ここに私の好きなタルト・タタンがあるのを友人が見つけてくれていた。私も通ったが気付かなかった。ヌーヴェル・ヴァーグというお店に記憶はない。いつ頃できたのだろう。お店の上には「蚊帳真綿布團商」の看板が!記憶にはないが以前は布団屋さんだったみたい。食後のデザートはこちらで。タルト・タタンにはヨーグルトが掛けてあるので、さっぱりといただけました。Excellent(エクセラン)!タルト・タタンを焼くお鍋が並んでいた。
もう少し南に下がると御池通。南西の角は御池煎餅の亀屋良永。北側には昔から古い花入に茶花が挿してあった。今回は朝鮮唐津の俵壺に、蕾の付いた枝(不明)とヒメリュウキンカの花が入っている。
何件か南の昔と変わらない古本屋。その名も佐々木竹苞書楼。店前の台に並んでいる本は手に取ったことはむあるが、高い本が多くて手が出なかった。なんとなく目が合った店主がよそ見した隙にパチリ。かつて毎日のようにこの古本屋に通っていた人の記事です。東京雑写さんの京都 本能寺門前 竹苞書楼
もう少し下がると仏教書専門の其中堂。両脇のショーウインドーの奥に入口があって、入るのに勇気がいるお店。その上を見て驚いた。法隆寺の金堂のような人字形割束と卍崩し高欄がある。勇気を出して入った人の記事で、内部の様子と店主が判明。ネコのミモロのJAPAN TRAVELさんの寺町通の明治創業の仏教書専門店「書林 其中堂」。昭和初期のレトロな建物の中で探す仏教書その画像のなかに仏教美術展の図録もあったので、次回は是非中に入ろう。
今回は京都御苑から堺町通そして寺町通と、観光客で溢れている京都では、珍しく人通りの少ない、静かな京都を楽しむことができた。
松屋常盤の紫野味噌松風と切れ端←
関連項目寺町通り 一保堂寺町通り 三月書房
参考サイト藤野正弘の京都まち暮らしさんの閉店・山中履物店東京雑写さんの京都 本能寺門前 竹苞書楼ネコのミモロのJAPAN TRAVELさんの寺町通の明治創業の仏教書専門店「書林 其中堂」。昭和初期のレトロな建物の中で探す仏教書
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近くの里山は山桜が多く、まだ落葉樹の葉が出ない頃に満開を迎える。しばらくすると、残りの木々が芽吹いてくる。その新芽の色が黄緑だったり、赤いものだったりと、樹木の種類によって様々で、里山は一番華やいで、にぎわいのある時期となる。それが私が春爛漫を感じる景色である。ところが、そんな里山を眺めるのはいつも運転している時のため、それを写すことができなくて残念に思う。今年こそはとカメラを準備していたが、やはり果たせなかった。
知り合いの家に背の高い山桜の木がある。その木は30年程前に、以前に住んでいた家の樋に発芽したものだそうで、それが今では家の中にいると咲いているに気付かないくらい高く育ってしまったのだそうだ。気付くのは花びらが風で舞い落ちる頃なのだとか。今年も例年に漏れず、散り始めて気がついた。庭に落ちていた花をたまたま出ていた盃に入れてみた。花びらではなく、こんなふうに複数の花が落ちるのは珍しい。東京のどこかの桜の名所では、ソメイヨシノの花が落とされる被害が近年目立つようになったという。くちばしが細長い小鳥が花の中にくちばしを差し込んで蜜を吸うのを見て、甘い蜜があることを知った雀が犯人だった。雀はくちばしが短く花の中に入れられないので、外から蜜のある場所をついばみ、花を落としてしまうのだとか。でもこれは茎がちぎれて落ちたものだ。強風で茎ごと散ることもあるのだろうか。
床の間にはイカリソウが白い花入に。これで4枚の花弁の花(ピンボケ)
キバナイカリソウの花が咲かなくなってしまったと聞いて庭?へ。葉は立派なのに・・・しゃがみこんで花を発見。これ以上かがめないので、イカリらしい花の形は撮影できなかったが、花が咲いていたことは確認できた。
日陰を好むホウチャクソウはたくさん咲いていた。
シラユキゲシもちらほらと。この種類には、いい塩梅の日陰かも。やっとピントが合った。
ちょっといじけたヒトリシズカ。日陰過ぎると不満がたまっているのかも・・・
そしてスミレ。山の斜面のイノシシがタケノコを食べるために掘った穴だらけのところには、赤紫のスミレが咲くが、やはりスミレは紫のものが好き。
上を見上げるとムシカリが驚くほどたくさん花を付けていた。花も良いが、葉が出る時は、まるで枯れたような感じなのも面白い。
垣根には背の高いバイモが咲いていた。斜面に出ているバイモは今年は花を付けていないという。山の木々で光が遮られて咲かなくなってしまったらしい。日陰で咲く花も、あまりにも日が当たらないとダメらしい。
で、私の目当てはタケノコ。毎年掘りにきているが、イノシシに先を越されている。今年もイノシシの掘った穴があったが、これは小さなタケノコだったみたい。その近くに大きなタケノコが2つ並んでいた。今年の春は雨が少ないので、まだ出ていないだろうと予想していたが、こんなに立派なタケノコが出ているとは。この山はタケノコを採るために、土を盛ったりはしていない、ただの裏山なので、石だらけである。この2本のタケノコの周りも石だらけ。根っこを好むイノシシは、土なら深く掘るが、石の間から顔を出したタケノコは敬遠したのだろう。シーズン初めで鍬を使うコツが蘇らないので、石を取り除きながら悪戦苦闘。そして収穫。地盤が固いため、表面で芽を出すここのタケノコは、見た目よりは柔らかい。では何故根まで掘って採るのかというと、竹かタケノコかというほど硬いタケノコが好みだから。ごりごり美味しく戴きました。残りは天ぷらに。亭主は柔らかくなったと喜んでいましたが。
おまけはピンボケ気味ですが、ナナフシの子供。妙な虫が鹿除けの網の上を動いているなと見つめると、珍しいナナフシだった。
そしてこの記事を作成した時にはすでに山桜の花は終わり、新緑の山はふわふわと膨らんでいる。
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以前に大阪市立東洋陶磁美術館のミュージアムショップで購入したハンカチ。地が緑色のと赤とがあったが、梅の花だと思ったので、赤い方にした。「乾山」の銘の右に小さな鳥のような文様があるのを「乾山にはこんな印はない」という人がいた。これはハンカチを製作している工房のサインではないかな。大阪市立東洋陶磁美術館の日本陶磁室では、乾山の向付が五客並んでいた。ハンカチのデザインのオリジナルである。
色絵 椿文 輪花向付 江戸時代・18世紀 尾形乾山(乾山焼)説明は、仁清から陶法を学んだ尾形乾山(1663-1743)は、元禄12年(1699)洛西鳴滝に開窯しました。正徳3年(1712)、市中の二条丁子屋町に移ると、意匠性に優れた乾山のやきものは新興町人層の人気を得ました。文様と器形を椿花のモチーフで統一した乾山らしいセンス溢れる作品です。底部に見られる白化粧上に銹釉による「乾山」銘は、書体から三つのタイプに分けられ、こうした「乾山」銘が乾山工房のブランド名のようなものであったことをうかがわせますという。何故か梅の花だと思って使っていたこの花の正体は、椿だった。よく見ると五弁でもなかった。見込みには前中央の向付にだけ椿文が描かれているように見えるのだが、ほかの器にも描かれているのかどうか、背が低いのでこれ以上見えない。花びら描かれた椿は八弁で、向付も八弁の切れ込みがある。八弁の白花の椿。筒咲きの花を真上から見た斬新なデザイン。探してみると、椿は種類が多く、五弁という少ないものさえもある。乾山がこの器を制作した時代には、今ほど椿の種類は多くはなかっただろう。斜め上からのぞき込んで、見込に椿文が描かれているのは1客だけだとわかった。
説明パネルの写真で内側が判明。この1客だけ、中央に一つ、周囲に6つの椿を描いて七曜文になっている。高台には「乾山」の大きなサイン。
緑色のハンカチもほしいとミュージアムショップで探したが、もう置いていなかった。
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以前に大阪市立東洋陶磁美術館で購入した赤いハンカチは梅文だと思っていたが、それは四角い容器の絵から採ったデザインだと思っていた。ところが、今回同館の常設展示にあったものは緑地に椿文を散らした向付で、確かにこの文様が元になっていることは分かった。それはMIHO MUSEUMで2016年に開催された「うましうるはし 乾山 四季彩菜展」で見た向付の文様と同じだった。
色絵椿文向付 5客 18世紀 MIHO MUSEUM蔵同展図録は、蓋付の食器は、いわゆる蓋付碗と呼ばれるものがほとんどで、その原型は漆器の塗碗に求めることができ、乾山はそれをやきものに写したといえます。一方、白化粧の下地を白い椿花とし緑の上絵付けを施す意匠は、輪花向付や四方鉢、手付鉢など乾山焼の製品にしばしば見られるものです。蕊は黄で描き込んでいます。これは染織技法の応用で、すでに梅波図蓋物に梅文を施す手法で見せていますという。大阪市立東洋陶磁美術館のものは口縁部が8つの輪花となって向付らしい形だが、こちらは蓋付きで汁椀のよう。この解説にあるように、何時か何処かで椿文の四方鉢を見ていたかも知れないなどと思ったりする。
銹絵染付梅波文蓋物 1合 MIHO MUSEUM蔵同展図録は、本作は蓋表と身の外側に型紙を使って白泥で梅花を散らし、その上から銹絵と染付で梅花を重ね摺りして絵付けしています。全体に透明釉が掛けられ、高火度焼成されていますが、口縁と底は土見せとなっています。乾山の蓋物は、竹や籐などで編んだ蓋物にその原型があるといわれていますという。この四方鉢の文様を緑の椿文と勘違いしていたのかも。内側には全面白化粧の下地を施した上に染付で流水文を描いています。蓋を開けた時に意表をつく意匠配置はここにも見出され、これぞまさに玉手箱といえるでしょうという。流水文にも見えるが、玉手箱から出てきた煙にも見える。
おまけ
色絵阿蘭陀写市松文様猪口 10口 MIHO MUSEUM蔵同展図録は、薄い粘土板を貼り合わせて成形し、白泥と藍彩で碁盤目状に交互に塗り分けた、いわゆる市松文様と呼ばれる意匠が施されています。単純ですが普遍的な図柄で、古さを微塵も感じさせません。しかも見込みは碁盤目を45度傾けて施文しているデザイン力はさすがで、単純なパターンに変化をもたせ、意外性を呼び起こす効果をもたせています。外側には口縁際に黄の線を一条巡らし、全面白化粧下地の底には銹絵で乾山銘と爾印花押が記されています。箱蓋表には「延享2年」と書かれており、延享2年(1745)は、乾山が歿して2年経た年にあたります。底に記された爾印花押の乾山銘は猪八のものと似通うことから、乾山江戸下向後の京都で引き続き猪八によって操業されていたであろう聖護院窯で焼かれた製品と考えられます。いずれにしろ、細部にまで神経を使って繊細かつ丁寧に仕上げられたこの猪口は、目に鮮やかなデルフト・ブルーと呼ばれる青色が美しく、しかも口縁部の黄色い線描が全体を引き締めている市松文の小粋なデザインは、いつまでも新しさを失わない、乾山永遠の作といえるのではないでしょうかという。乾山工房の作だったが、乾山のデザインした作品、あるいはデザイン帳にあったのかも。 その上、この藍色釉の特色なのか、輪郭が滲んでいる。それが、あるお宅の絣の市松文様に似ているのに気付いて驚いたものだが、今回猪口の滲みに気付いて二度びっくり。
同展図録は、この文様を小粋なデザインとしているが、そんな猪口にそれぞれの料理を盛り付けるなんて、もっと洒落ている。こんな料理を京都の美しい庭を見ながら食べることができたら、それはもう至福としかいいようがないだろう。
参考文献「うましうるはし 乾山 四季彩菜展図録」 2016年 MIHO MUSEUM
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話は前後するが、大阪市立東洋陶磁美術館には開館35周年記念「唐代胡人俑展」見に行った。長らくご無沙汰していたせいか、何と特別展も平常陳列も撮影可になっていた。
「唐代胡人俑展」は、同展図録によると、2001年に甘粛省慶城県で唐代の游撃将軍穆泰(660-729、730年埋葬)の墓が発見され、その中から彩色鮮やかで、写実的な造形の胡人俑などが出土して大きな話題となりました。穆泰墓出土の胡人俑は、ソグド人などの胡人の姿を生き生きと表現していて、胡人俑の中でも最高傑作といわれていますという。墓室は横穴式
同展図録は、穆泰墓は緊急発掘であったため、すでにかなりの破壊や盗掘を受けており、俑をはじめとした副葬品の本来の配置状況などはほとんど分からない状況であるという。 これらは会場のパネルを写したもの。
せっかくなので、幾つかの俑を撮影した。
加彩胡人俑 唐開元18年(730) 高44.2㎝ 慶城県博物館蔵同展図録は、躍動感あふれる劇的な表現となっており、その姿態は駱駝を牽く胡人俑に通じるものがあることから、これも牽駝俑と考えてよいだろう。もみあげと一体になった口ひげやあごひげは波打ちながらシャベル状となっており、太鼓腹を露出した胡人俑など穆泰墓出土の胡人俑の特徴的な表現となっている。円領で窄袖(筒袖)の黄色の胡服(長袍)を着ており、白地に朱や黒で宝相華のような半円形の花文があしらわれた縁取り装飾が見られる。腰にはベルトを巻き、右腰部分には黒色で円形のポシェットのような袋状のものを付けており、これは『旧唐書』にも記載のある「鞶嚢」と思われる。下には細身のズボンを穿いており、その模様から虎皮製であろうという。この腰のベルトに提げたり取り付けて持ち歩く鞶嚢と呼ばれる小物入れについては以前に取り上げた。それについては関連項目で この胡人の履いている虎皮製というズボンは金彩されているように見えた。
加彩胡人俑・加彩駱駝 唐開元18年(730) 高 俑53.0駱駝77.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵同展図録は、この胡人俑と駱駝の組み合わせも当初のものであるかは不明であるが、その大きさや姿態のバランスを見る限り極めて自然といえる。胡人俑は、彫りの深い顔立ちで、目は大きく、鼻はかなり高く、立派な口ひげとあごひげをたくわえた典型的な中央アジア方面のイラン系胡人の特徴を見せている。袷部分には朱と白の半円形の花文の縁取りが見られる。下には赤褐色の虎皮のズボンを穿いており、足には先のとがった黒いブーツを履く。右手(欠損のため修復)を高く上げ、顔は右手先を仰ぎ見るようにし、左手は左腰脇で固く握り締め、まさに手綱を牽いている姿を劇的に表現している。一方、駱駝はフタコブラクダで、やや白い胎土に黄色の彩色が施されており、首周り、コブ、脚の付け根、尻尾等の部分には黒色による毛並みの表現が見られるという。駱駝は肢を揃えて立ち止まっている。手綱を引っ張られ、牽かれて歩き出す前の瞬間を表しているのだろう。前肢の膝上の鰭状のものが気になる。胡人のあごひげの表現と同じく、鰭状に表しているのかな。その目が飛び出しそうなくらいで迫力がある。動くのが嫌そうだ。副葬した時には手綱で繋がれていたかも知れない。駱駝俑と言えば唐三彩では?
駱駝及び牽駝男子 唐、8世紀前半 三彩 駱駝:高89.0長68.0幅27.0㎝ 男子:高60.0幅21.0奥行20.0㎝ 河南省洛陽市関林120号墓出土 洛陽博物館蔵『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、駱駝とそれを牽く男子の一対の俑。現在、手綱は失われているが、両手を引き絞り、腰をひねり、力を込めて掛け声を発するかのように開口した人物の姿には、首をもたげて嘶く駱駝を御そうとする瞬間の様子が、ありありと捉えられている。唐代(618-907年)の写実的な作風が如実に示された一例といえようという。しかしながら、穆泰墓出土の駱駝の表情や、手綱を引っ張って駱駝を動かそうとする胡人の手の位置ほどの迫力は感じられない。
加彩馬 唐開元18年(730) 高64.0長55.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵『唐代胡人俑展図録』は、穆泰墓から出土した3点の加彩馬のうち、本作は最もサイズが大きなもの。剥落は激しいものの、全体に淡い黄色の加彩が見られる。馬体の肉付きは均整がとれており、四肢は細長くしなやかでエレガントである。首を左にひねり顔を左方に向け、口を開けて歯を剥き出し、いななく様を表している。鬣は両側にそって刻線を入れ、加彩の線と点で毛並みを表している。他の2点とは異なり、鞍を置かない「裸馬」となっている。躍動感を内に秘めたような芸術性の高い迫真的造形は胡人俑にも通じるものがある。当時、国営の馬の牧場が現在の甘粛省一体に多数あり、多くの軍馬が放牧されていたという。体の表現は素晴らしいが、胴体に比べて頭部が小さ過ぎるように感じたのは、顔を遠くに、胴体を近くに写したからだろうか。加彩馬 唐開元18年(730) 高48.8長34.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵同展図録は、この馬だけは唯一全体に赤い加彩が施された、いわゆる「赤馬」である。筋骨隆々の引き締まった馬体を見せ、首を伸ばして頭をやや左下方に垂れ、鼻息を荒くし、いなないている。唐代には加彩や三彩などにより様々な馬の模型がつくられたが、精悍な馬の躍動感を迫真的に表現したその造形力において、本作は名品の一つに数えられようという。顔が極端に小さいのが、穆泰墓出土の馬俑の特徴の一つではないだろうか。騎馬狩猟人物 唐、8世紀前半 灰陶加彩 高35.9長32.0幅13.6㎝ 陝西省西安市東郊豁口唐墓出土 西安市文物保護考古所蔵『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、騎馬人物俑の一群中のうち。それぞれ、馬上や手に、犬、鷹、豹などの動物が表されていることから、狩猟を意味するものと考えられる。人物や動物の表情や肢体にみられるように、各種の形姿が活写され、躍動感あふれる唐時代の造形力の高さをよくうかがうことができるという。馬上の人物は深目高鼻の胡人で、縮れたあごひげの表現がリアル。右腕にネコ科の動物を抱えているが、頭部などが欠失していて詳細は不明。穆泰墓出土の馬俑の方が頭部が小さいように感じるのは、顔の向きのせいだろうか。
騎馬笠帽女子俑 唐、麟徳元年(664)頃 黄釉、加彩、貼金 高37.0長26.4奥行10.8㎝ 陝西省礼泉県鄭仁墓出土 陝西歴史博物館蔵『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、唐の太宗の陪塚から出土した。短衣(衫)のうえに半袖の上着(半臂)をつけ、裙をはいて馬にまたがる。右手は体側に垂れ、左手は手綱をつかむような仕草をする。頭巾様のかぶりものを付けた上に笠状の帽子をかぶる姿は、類例を見ず、斬新な形制である。馬は、前肢を突っ張り、下を向いて口を開け、その背には、雲文の飾られた鞍を負う。馬に乗る女性の姿には、時代の気風が端的に示されていよう。淡い黄色の釉薬をほどこした上に、白・黒・緑・朱で彩色するという、新出の技法をいち早く採用し、一部に金箔も用いて、やや大味な造形を上手におぎなっているという。女子は細身に表され、服装は中国の伝統的なものである。馬も筋肉を誇張してはいない。その割に頭部が大きい。馬俑の頭部を年代順にみてみると、時代が遡るほど頭部が大きく造形されていることがわかった。山西省大同市宋紹祖墓出土の伎楽騎馬俑(北魏、太和元年、477)の馬は農耕馬のようにがっしりとして、頭部も大きい。河北省磁県茹茹公主墓出土の馬に乗った文官の俑(東魏、武定8年、550)の馬は細身でその頭部も小さい。山西省太原市賀抜昌墓出土の騎馬俑(北斉、天保4年、553)は肉付きの良い体だが頭部は小さい。寧夏回族自治区固原県李賢墓出土の甲騎具装俑(北周、天和4年、569)の馬の頭部は小さいが、全体に他の俑よりも稚拙なつくりで、地方作ということばで表現して良いのかな。でも、山西省太原市斛律徹墓出土の騎馬俑(隋、開皇17年、597)の馬にはやや筋肉の表現が見られるが、首が短く、その分頭部が大きく見える。あまり頭部の大きさにこだわることもないのかも。
それよりも金箔はどこに。馬のたてがみは加彩が剥がれて白く見えるだけで、金箔ではない。女子の衣装にも、鞍敷の雲文にも金箔は見られない。そんな風に見ていって、面繋や尻繋の黒い紐に金箔が残っていることに気付いた。穆泰墓にも金箔で装飾された俑がある。
加彩女俑 唐、開元18年(730) 高46.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵『唐代胡人俑展図録』は、頭に黒の幞頭をかぶり、額の部分には薄地の網目状の絹のような織物で覆われており、ふくよかな顔立ちで、眉は太めで凜々しく、鼻筋は通り、目は切れ長で細く、黒目は小さい。口は小さめで、朱の塗られた厚みのある唇は柔らかさを感じさせる。口の両側の頬には小さな黒い点が見られるが、これは「靨鈿」(ようでん、あるいは「廠靨」と呼ばれる一種の化粧法)であり、さらに両側から上瞼にかけてはピンクがかった化粧の彩色も見られることから、女性であることがわかる。目に鮮やかな朱色の円領(丸襟)のゆったりとした胡服(長袍)をまとい、朱地には中央が丸く抜けた白色の菱形状の文様があしらわれているという。胡人ではなく胡服を着た唐人、しかも女性を表しているのだった。『図説中国文明史6』は、唐代は開放的な社会であり、婦女は自由な境遇のもと、他の時代のような復古的な礼教の束縛を受けることはありませんでした。李氏唐王室は、もともと隴西(甘粛)の少数民族の出身で、礼教のタブーが少なかったのですという。上の初唐期の女性と比べると、かなりふっくらとした体型である。 『唐代胡人俑展図録』は、胸前を大きく開き、襟を大きく折り返して翻領(折り襟)として、折り返された部分には花文とともに金彩(貼金)による豪華な装飾が施されている。長袍の衣紋は深い刻線で流麗に表され、衣の柔らかい質感が伝わってくるという。貼金で植物文様を象っているようにも見えるし、植物文様の地に貼られているようでもある。
加彩女俑 唐、開元18年(730) 高43.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵同展図録は、唐代には各時期に様々な髪型が流行したことが知られているが、この俑は中央で環形状に結った髪を額前に垂下させており、両耳やうなじ部分は髪に隠れ、全体にボリューム感のある髪型となっている。かなりふっくらとした顔立ちで、目は細く切れ長で鼻筋が通り、口は小さめで、口元にかすかに笑みを浮かべている。奈良の正倉院伝来の「鳥毛立女屏風」に描かれた唐風天平美人像の源流ともいえる唐美人の気品を感じさせる優品といえるという。胡服もいろんな着方をして楽しんでいたのだ。腹前で合わせた袖口は左右対称で様式化されているものの、裙の左上から右下へと斜めに通る衣文線は体の微妙なねじりを表し、体に沿う柔らかな胡服の質感まで、非常に丁寧に表現している。鳥毛立女屏風についてはこちら後ろ姿(説明板より)外にはおった円領の胡服は、折り返した襟の内側に金彩による飾りが施されており、豪華な仕上がりとなっている。当時、こうした円領の胡服は女性たちが着用することも多く、こうした金の縁飾りは女性用の一種のおしゃれであったかもしれないという。金箔は彩色された花文の地に貼り付けられているようだ。
加彩胡人俑 唐、開元18年(730) 高43.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵同展図録は、厚くたくましい眉毛と切れ長の目、そして鼻筋が通り、ややふっくらとした頬で小ぶりの愛らしい唇をもった精悍な美男子の趣を見せている。黒目の中央部分は丸く彫り込んで立体感を与えており、これは穆泰墓出土の他の俑にもみられる手法である。頭には幞頭をかぶり、円領の胡服を着る。胡服は胸前で右衽(右前)としており、中には朱色の内衣がうかがえる。前の裾の部分はたくし上げて、左右それぞれ背中の部分のベルトに挟み込んでおり、より動きやすい機能的な着方といえる。右肘を突き出すように「く」の字状にまげ、左手も上げ、両手を握り締めて綱のようなものを牽く姿をしており、これも牽馬俑の類と考えられる。その優しげな表情と柔らかな顔立ちから、あるいは女性なのかもしれないという。この俑も男性だと思って見ていた。そして深目高鼻の胡人には見えないと。胡服は茶褐色のような色合いで、白色の六弁の花柄文様があしらわれており、一際目を引くという。この六弁の花文という文様はあまり見たことがないような。クチナシかテッセン(鉄線)の花をデザイン化したのかも。
加彩女俑 唐、開元18年(730) 高41.2㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵同展図録は、頭には黒い幞頭をかぶり、黒いベルトを締めた服装などから、一見男性のようにも見えるが、額には朱の「花鈿」が見られることから、女性であると考えられる。服装の着こなし方はやや複雑であり、重ね着と折り返しなどを巧みに駆使している。一番外側には黒色の円領の胡服を着るが、左肩を脱いでおり、中に着た黒地に朱と白の円形文様が施された服をのぞかせている。そして、胸前に挙げた左腕には朱色で深いドレープを効果的に見せた袖口の大きな寛袖を垂らしており、これは円形文様のある上衣の内側に着た服の袖のようであるという。そのドレープの規則的な襞は、丸みを帯びず鋭角なのが意外。鏝(こて)でしっかりとプリーツを付けているのだろう。左脚も裾をたくし上げて、それぞれ異なる文様の重ね着を少しずつ見せるという凝りよう。その後ろ姿(説明板より)。胡服の左袖を脱いでいることが、線刻で表現されている。穆泰は、夫人にいろんなおしゃれをさせて、それを描かせていた。それを元にそれぞれの俑をつくらせたのかも。俑は人物や荷役の動物に留まらない。
何故穆泰の墓と特定できたかというと、中国では墓誌を副葬するからだ。
穆泰墓誌 唐、開元18年(730) 高10.0幅36.0奥行36.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵同展図録は、灰陶質の方形の蓋と身からなる盒子状の墓誌で、それぞれ角が面取されている。蓋表には白の加彩(白粉)により大きな宝相華のような花文が一つ描かれており、蓋と身の側面にも花文のようなものが描かれているという。
墓誌銘(パネルより)は蓋の内面に、刻線によって仕切られた縦15行にわたってやはり白い加彩により記されている。第1行目には「唐故游撃将軍上柱國前霊州河潤府左果毅穆君墓誌銘」とあり、墓誌銘からは、穆泰は隴西天水(現在の甘粛省天水市)の人で、唐開元17年(729)に70歳でなくなり、翌開元18年に慶州城北5里(約2.5㎞)のところに埋葬されたことが分かる。穆泰の家系については、北魏時期に改姓した鮮卑貴族(漢化した鮮卑人)ではないかとの説もある。穆泰の身分階級は游撃将軍で従五品下となり、決して高くはない。しかし、出土した胡人俑などの加彩俑は、唐代の数ある陶俑の中でも極めて優れた出来栄えと芸術性を見せており、穆泰の名を一層高めることになったという。木簡が並んでいるようだった。
この特別展は、穆泰墓出土に特化しているため、出品数としては60という限られたものだが、その図録は大きさも図版も凄い!
表紙はインド系胡人俑裏表紙彼は豹皮のズボンを穿き、左腰に黒い鞶嚢を提げている。鞶嚢は右だったりするが、像としてのバランスで左右を決めるのか、それとも利き腕によって左に提げる人、右に提げる人がいたことを示しているのだろうか。図録のあるページには、このインド系胡人の顔が大写しになっていたり、いろんな方向から写した図版がこれでもかというほどに収まっている。もちろん、他の胡人俑も大画面で。それほどまでに、穆泰墓出土の俑は、一つひとつが個性的で、表情も細かく描写されているのだった。 東洋陶磁美術館 乾山の向付は椿だった←
関連項目第66回正倉院展3 鳥毛立女屏風には坐像もある唐では袋物の形で身分を表した唐では丸い袋を腰から下げるのが流行か帯に下げる小物入れは中国や新羅にも騎馬時の服装は鐙と鉄騎 何故か戦闘に引き込まれて
参考文献「唐代胡人俑 シルクロードを駆けた夢展図録」 2018年 大阪市東洋陶磁美術館「宮廷の栄華 唐の女帝・則天武后とその時代展図録」 1998年 東京国立博物館・NHK「大唐王朝 女性の美展図録」 2004年 中日新聞社「図説中国文明史6 隋唐 開かれた文明」 稲畑耕一郎監修 劉煒編 2006年 創元社
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大阪の東洋陶磁美術館で穆泰墓出土の『唐代胡人俑展』が開かれている時、常設室でも館蔵の俑が展示されていた。説明は、墓に副葬される明器のうち人物像については俑と呼び習わされています。その歴史は春秋戦国時代までさかのぼります。つづく秦の始皇帝陵の「兵馬俑」はよく知られています。軍隊から身の回りの世話をする侍者や奴婢にいたるまで多種多様な俑が見られ、当時の生活ぶりを知る貴重な資料となっていますという。穆泰墓出土の俑は開元18年(730)年、盛唐期につくられているので、まずは同時代の俑から(後ろ姿は説明板に載っていた写真を撮影した)。
加彩侍女俑 盛唐期・8世紀 高33.6幅9.8奥行7.7㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵唐時代には様々な趣向をこらした髪型が流行しました。左右の鬢髪をやや前に張り出し、頭上に双髻を結っています。切れ長の目と小さくしまった口元、そしてふっくらとした頬が印象的で、盛唐期の女性の美しさをよく表しています。男性の服装を着けている、いわゆる「男装の麗人」で、袖の中の両手は胸前で組む拱手をしています。唐時代、婦人たちの間では男装や騎馬が流行しました。こうした俑は基本的には型でつくられ、頭と体は別々につくられてから接合されています。全体に白化粧が施された上に、本来は鮮やかな彩色が見られましたがほとんど剥落してしまっていますという。拱手する手は胸前の高い位置にある。以下の2品よりも全身がずんぐりしているようで、盛唐期でも少し後の制作ではないだろうか。
加彩騎馬女俑 唐時代・8世紀 高37.0長30.4幅16.6㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
唐時代、都長安(現在の西安市)の繁栄は隆盛を極め、世界各地から人やモノが集まる一大国際都市でした。そのため西アジアをはじめとしたいわゆる「胡風」の影響などから、盛唐期には女性が胡服を着たり、男装をしたり、騎馬することが流行しました。本作は騎馬女俑の優品の一つです。西安で発見された開元12年(724)の金郷県主墓出土の作例と類似しており、本作もほぼ同時期のものと考えられます。「開元の治」と呼ばれた玄宗皇帝の繁栄した治世のものです。岩崎家旧蔵品という。髪型は穆泰墓出土の加彩俑の1点とよく似ているが、もっとボリュームがある。顔はますますふっくらとしているが、則天武后に続く時期では、体型はさほど豊満ではない。
加彩騎馬鷹匠俑 唐時代・8世紀 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 高37.0長31.0幅15.8㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵騎馬女俑と同一の作風で、一括品の可能性が高いものです。鷹冠をかぶり、右手には鷹がとまった鷹匠です・への字に結んだ口に緊張感がうかがえます。ふっくらした顔立ちは先の騎馬女俑に通じるものがあり、盛唐開元年間(713-741)の成熟した人物造形をうかがわせます。服装の一部に貼金(金彩)の痕跡が見られ、本来鮮やかな彩色が施されていたことが分かります。岩崎家旧蔵品ですという。貼金は、穆泰墓出土女性俑と同様に、襟の部分の装飾に使われている。これは鷹匠に扮した女性の俑だと思っていたが男性だった。上の騎馬女俑と比べると、頬はひらたく、下顎の肉付きが良い。右目を閉じて左目で遠くのものを鋭く見据えている。
三彩侍女俑 唐時代・8世紀初頭 高26.3幅6.3奥行5.4㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵唐三彩は褐釉や緑釉、白釉(透明釉)など複数の低火度鉛釉が掛け合わされた器物や俑に対する総称です。色釉の組み合わせや白斑などを効果的に用いられた華やかさが特徴です。唐三彩は女帝則天武后の治世(690-705)に都洛陽を中心に全国的に流行し、鞏義窯はその代表的な生産地でした。長いショール(披帛)をかけたこのタイプの侍女俑は8世紀初頭の洛陽地区でしばしば出土しています。カオリン質の白い胎土などから、この俑も鞏義窯の製品と考えられます。顔には三彩釉が施されていないのは、繊細な表情の描写にはやはり加彩が適していたからでしょうという。顔はふっくらとしているが、体型はほっそりしている。唐三彩が誕生して間もない初唐末期では、まだ細身の体型が好まれたのだろう。顔の描写は加彩とはいえ、胎土の目鼻立ちは盛唐期ほどしっかりとは行われていない。
黄釉加彩侍女俑 初唐期・7世紀中頃 高21.2幅5.7奥行6.2㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵白いカオリン質の胎土に低火度鉛釉の淡い黄釉を掛け、その上に彩色を施した黄釉加彩俑は、唐三彩出現以前の初唐期、とくに7世紀の40-60年代に見られます。公主をはじめ高い身分の墓にも見られることから、特別につくられた付加価値の高いものであったと考えられます。産地は不明ですが、洛陽地区の出土例も多いことから、鞏義窯が有力な候補といえます。淡い黄白色の釉色が独特の質感を見せ、頭髪や眉、目などに黒、帯に朱の彩色が施されています。黄釉と加彩の組み合わせによる黄釉加彩俑は、複数の釉の組み合わせによる唐三彩が出現する以前の一時期に花開いた技法でしたという。全体に黄釉を掛けて焼成し、髪や顔などに加彩している。 髪型としては下の宮女俑に似ている。
黄釉加彩騎馬女俑 初唐期・7世紀 高36.4幅28.8奥行10.8㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵帷帽と呼ばれる笠に似た帽子をかぶった騎馬姿の女性俑です。左手は手綱を握り締める格好をしています。唐時代、女性の間でも乗馬が流行しました。頭から首にかけては布をまきつけており、帷帽とともに、風砂を避けるためのものでした。すっきりとした目鼻立ち、そして背筋をピンと伸ばし、颯爽と馬を駆る姿が凜々しく、黄釉加彩俑の優品の一つといえます。類例が陝西省礼泉県の昭陵に陪葬された張士貴墓(657年)と鄭仁泰墓(664年)という2人の大将軍の墓から出土しています。こうした騎馬女俑は貴人の外出(出行)にお供をする侍女であったと考えられますという。黄釉を掛けて焼成後に加彩している。 驚くほど似ている俑がある。
騎馬笠帽女子俑 唐、麟徳元年(664)頃 黄釉、加彩、貼金 高37.0長26.4奥行10.8㎝ 陝西省礼泉県鄭仁墓出土 陝西歴史博物館蔵『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、唐の太宗の陪塚から出土した。淡い黄色の釉薬をほどこした上に、白・黒・緑・朱で彩色するという、新出の技法をいち早く採用し、一部に金箔も用いて、やや大味な造形を上手におぎなっているという。こちらも黄釉加彩の俑で、その彩色がよく残っている。同范と考えてよいのでは。馬俑の頭部を年代順にみてみると、時代が遡るほど頭部が大きく造形されていることがわかった。
加彩宮女俑 唐時代・7世紀 貼金 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵東洋陶磁美術館の説明は、極端なまでにスリムなプロポーションは、唐時代の理想的な女性像を反映したものです。高く結い上げた髪型も唐時代の流行です。華麗な衣裳や装身具には色とりどりの彩色や貼金が施されています。両手の所作は不明ですが、気品ある面持ちは、宮中の高貴な女性を思わせます。類例が陝西省の張臣合墓(665年)から出土しているという。何よりも彩色がよく残っている。 極端な細身だが、顔はふっくらして目鼻立ちはしっかりとつくられている。上の三彩侍女俑の顔に加彩がはっきり残っていたとしても、こんな顔にはならないだろう。金箔もよく残っている。結い上げた髪を金彩の布帛で覆っていたことを表しているのだろうか。 金製の2連の腕輪、長い袖口にも金彩。
説明パネルにあった内部の写真。
似た服装の俑がある。
双環髻女子 唐・7世紀 白陶加彩 高36.5幅14.3奥行10.2㎝ 陝西省長武県棗園郷郭出土 陝西歴史博物館蔵『則天武后とその時代展図録』は、袖が長く垂れた短衣(衫)の上に、胸元が大きく開き、肩先が張り出す形の上着をまとう。腰には、裾をひきずるほど丈の長いスカート状の裙を着けて、鰭状の飾りのついた前垂れをかけ、ベルトを巻き付けて留める。足には先端が雲形にかたどられた靴(雲頭履)をはく。型作りではなく、手びねりで成形し、盛り上げや削りなどによって整えた痕が随所に見える。直立して動きが少なく、肢体が細作りになることなど、隋(581-618年)の作風を継承する点が見られるものの、ふっくらと張りのある顔形や可憐な目鼻立ちには、唐ならではの造形が示されている。朱・藍・淡緑などの彩色痕と、なお輝きをもつ金箔片から、当初の華麗な姿を想像することができようという。髪型と表情、そして衣裳の色以外はほぼ同じで、完成度の高い作品だ。首飾り、腕輪などに金箔が貼られていたようだ。 唐時代の俑は、馬や駱駝を牽く人物俑はあったが、女性は華やかで、高貴な人々やそのお付きの者たちを表すものが多かった。ところが、それ以前の時代には、高貴な人物はあまり俑にはされなかったようだ。
緑釉加彩楽女俑 隋時代(581-618年) 高24.6幅7.8奥行6.0㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵西アジアあるいはインド起源といわれる琵琶を弾く女性の楽人俑です。左手側の海老尾と呼ばれる部分を下向きにして演奏する方法は現在とは逆になります。細身の体型でハイウエストのスカート(長裙)をはいたこうした女性のスタイルは、隋から初唐にかけて流行しました。全体に白化粧を施してから、スカート部分には低火度鉛釉の緑釉が施されており、ドレープ(襞)の美しさを際立たせています。細く繊細な眉や目の描写や頬・唇の朱彩は、俑全体に独特の生気を与えています。赤みを帯びた胎土は都長安一帯によく見られるもので、本作も西安地区でつくられたものと推測できますという。初唐期から微かに遡った隋時代では、一転古拙な俑となる。初唐期の黄釉加彩俑以前に、白化粧の上に緑釉を掛けて焼成した俑があった。もっとも、緑釉は前漢あるいは後漢あたりから釉薬として焼き物に使われている。
加彩侍女俑 北魏時代・6世紀前半 高15.0幅4.8奥行5.0㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵この侍女俑は北魏洛陽遷都(493-494)後の6世紀前半のもので、こぶりで笑みをたたえた愛らしいものです。左手を腰まで上げ、体をやや右に傾け、右手には何かを持って作業しているようです。何気ない動作の一瞬を見事にとらえていますという。北魏時代の俑も細身である。加彩持箕侍女俑 北魏時代・6世紀前半 高15.0幅4.8奥行5.0㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵一括品と考えられます。大きな箕を両手に持っている侍女を表したもので、洛陽地区の北魏墓でしばしば見られます。髪を双髻に結い、袖口の広い上衣を左前に着て、長いスカート(長裙)をはいて、腰には帯を巻いています。朱などの彩色が一部残っています。型づくりを基本とした成形で、素焼きした後、全体に白化粧を施し下地とした上に彩色が施されていたと考えられます。当時、墓には被葬者である主人のためにこうした日常生活の作業をする様々な侍者を表した俑の一群が副葬されていましたという。北魏時代では、釉薬は使わず素焼きだった。死後も同じような快適な生活ができるように様々な使用人を侍らせていたのだろう。加彩楽女俑 北魏時代・6世紀前半 高10.6幅6.6奥行8.0㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵こちらも一括品と考えられます。両手を胸前に挙げ坐す双髻の女性です。袖口の広い上衣に長いスカートをはいています。彩色はほとんど剥落しています。洛陽地区の北魏墓出土の類例から、本来は楽器を持って演奏していた楽人であったと考えられます。当時の墓にはこうした楽人俑がセットで副葬される場合があり、墓の中をにぎやかに演出しています。ややうつむき加減で温和な笑みをたたえていますという。日常生活の用事をさせる人々だけでなく、音楽を楽しむための俑も必要だった。
こんな風に時代を遡って俑を見ていると、春秋戦国時代のものも知りたくなってきた。
東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展←
関連項目唐では袋物の形で身分を表した唐では丸い袋を腰から下げるのが流行か帯に下げる小物入れは中国や新羅にも騎馬時の服装は鐙と鉄騎 何故か戦闘に引き込まれて東洋陶磁美術館 乾山の向付は椿だった
参考文献「唐代胡人俑 シルクロードを駆けた夢展図録」 2018年 大阪市東洋陶磁美術館「宮廷の栄華 唐の女帝・則天武后とその時代展図録」 1998年 東京国立博物館・NHK 「大唐王朝 女性の美展図録」 2004年 中日新聞社
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大阪の東洋陶磁美術館の平常陳列の解説で俑は春秋戦国時代からあるということを知った。『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、俑とは、陶、木、石、金属などで作られた人形のことで、死後の世界で墓の主人に奉仕するために墓室の中または墓の周辺に埋納された。皇帝や王侯の墳墓に陶製や木製の俑からなる軍団を副葬するという葬制は、秦始皇帝陵ではじまった。秦による全国統一以前にも東方の斉国や南方の楚国などでは王侯の墓に木製や陶製の俑が副葬されることが少なくなかったが、それらの俑は、侍臣や侍女、楽人など主人の身近で仕える役割のものが大部分という。主人に仕える俑を春秋戦国時代まで遡ってみると、
舞踏俑 北斉(550-577年) 加彩陶 高28㎝ 河北省磁県湾漳墓出土 中国社会科学院考古研究所蔵『中国★美の十字路展図録』は、一つの墓から多数の舞踏俑が出土する例はほとんど無いが、磁県湾漳墓からは16体もの舞踏俑が出土した。そのうち、8体は本例のように頭に籠冠をかぶり、残りの8体は頭に小冠(平巾幘)をかぶる。広口袖の褶を右合わせて着用し、足先まですっぽり隠れる長裙をはいている。袖を前後にたなびかせるように舞う姿は北魏平城期の舞踏俑と共通するが、本例の柔らかくしならせた腕や、軽く曲げた左脚などを見ると、より細部に注意した造形であるといえようという。長い袖の先を人体に着けてバランスさせている。
侍従俑 南朝(420-589年)・6世紀 灰陶 高19㎝ 陝西省安康県出土 陝西歴史博物館蔵 『中国★美の十字路展図録』は、頭には幅広縁で中央部が細長く延び、その先端部が折りたたまれている帽子を被っている。頭部と手を別々に作り、焼成後に組み合わされたのであろう。陝西省南部では、南朝墓の様式を持ちながら、動きの見られる俑が多数出土している。やや高い位置で帯を締める合わせ襟の上衣で、袖は広く広がっている。膝から下が締まっているズボンをはいている。台座はない。揚げられた左手には何か楽器か旗を持っていたのであろうか。傾けた首とやや開いた口の様子から、何か唱っているのかもしれないという。安康県は長安と長江の中間に位置する。手先は欠失しているが、左腕の仕草が気になる。そして首をかしげて遠くを見つめるような目も。綱で牽いて連れる牛の歩みが遅いので、立ち止まって牛の方を振り返っているようにも思える。
女子立俑 南朝(420-589年) 灰陶 高37.5㎝ 江蘇省南京市西善橋南朝墓出土 南京博物院蔵『中国★美の十字路展図録』は、静かで柔和な顔つきをした侍女俑で、5-6世紀頃の南朝期の人物に特有の穏やかな表情をしている。南朝の俑は北朝での大量の俑に比べて、出土例は少ない。この俑は「竹林七賢、栄啓期図」の磚室で著名な墓室の正面に置かれていたもので、他に5体の俑が置かれていた。顔の部分と胴部は型で成形されている。ヘアスタイルは特に異彩を放っているという。髪型も異様だが、首が長過ぎるように感じる。細身の女性だが、南朝の服装なのか、俑を安定させるためか、裾が広がっている。
武士俑 東晋時代(317-420年) 灰陶 高32㎝ 江蘇省南京市石門坎東晋墓出土 南京博物院蔵『中国★美の十字路展図録』は、右手に小さな盾を持つ武士の俑である。左手には武器らしきものを持っていたようで、投げた直後なのであろう。頭はやや上を見上げ、相手を窺っている瞬間をとらえた造形で、写実的である。合わせ襟の丈の短い上衣をまとい。下半身は長い裙を付けている。大きな目と目立つ鼻は外国人であることを示す特徴であり、墓室内でのこのような造形の俑は、西晋が崩壊したあと、江南へ避難してきた東晋時代に独特のものであるという。南朝の女子立俑と同じく、衣裳の裾を広げて安定を図っている。
深衣を着た俑 前漢時代 木製 高79㎝ 湖南省長沙馬王堆1号墓出土 湖南省博物館蔵『図説中国文明史4』は、貴族の家中にあって比較的身分の高い家臣の姿。家臣は規範や儀礼を重んじる職業である。深衣を着ているが、曲裾はすでに簡略化されており、体に一周巻きつけただけであるという。木製の俑に布帛の衣裳を着せている。
踊る女性の俑 前漢時代 陶製 高53㎝ 長安城宮殿遺跡出土 陝西歴史博物館蔵『図説中国文明史4』は、秦が天下を統一する戦争の過程で、始皇帝は数万人もの各国の後宮の美女や、音楽と舞踏を演じる妓女を首都・咸陽に連れて来た。その結果、全国各地の歌舞のエキスパートが首都に集まり、漢の宮廷のために優秀な人材をたくわえるひとになった。この舞俑は陝西省西安市の漢の長安城宮殿遺跡から出土したもので、前漢の宮廷の雅楽舞踏をあらわしているという。細長い袖を翻しながら踊る。動きのある上半身に比べて、下半身はやや膝を曲げてバランスを取っているだけで、舞い自体は静かなものだったことを思わせる。
塑衣式女立俑 前漢時代(前2世紀) 加彩灰陶 高58幅24㎝ 咸陽市陽陵陪葬墓M130号墓出土 咸陽考古陳列館蔵『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、頭髪は漢代に流行した堕馬髺と呼ばれる髪型で、長い髪を肩の後ろで束ねて折り返し、一部をさらにそこから下に垂らしている。衣服は深衣と呼ばれる長衣。本品が出土した陪葬墓からは「周応」という人名が刻された印が見つかっており、景帝の時代に鄲侯と繩侯に封じられたふたりの周応のどちらかの墓と考えられるという。陽陵は第6代景帝(在位前157-141年)の墓廟。上の踊る女性の俑の長い袖を手首にまとめるとこんな風になるのだろうか。顔は丸みを帯びるが、非常に細身の俑である。
侍女俑 前漢時代 陶俑 高41㎝ 陝西漢高祖長陵出土 陝西歴史博物館蔵高祖は漢の建国者劉邦。その孫で第6代景帝の墓廟の陪葬墓から出土した侍女俑よりもずんぐりしている。膝を軽く曲げているせいかも知れない。
侍女俑 秦帝国末期(前2世紀末) 陝西省西安南郊、茅坡郵電学院秦墓出土『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、戦国時代の秦国では俑を副葬する習慣はあまり見られず、咸陽北郊出土の騎兵俑のほかに数例が知られているだけであるが、最近、戦国・秦から秦帝国にかけて小形の俑の副葬が細々とではあるが、おこなわれていたことがわかってきた。始皇帝陵兵馬俑が生み出された背景には、このような小形俑副葬の習慣があったと思われるという。大きさは明記されていないが、非常に小さな俑のよう。それでも頭髪、目鼻、衣裳の襟の盛り上がり、長い裾から沓の先だけが見える様子が浮彫で表されている。唇や襟、袖に赤い彩色が残っている。
『図説中国文明史3』は、春秋戦国時代、殉葬という習俗はだんだんと廃止され、俑を副葬するように改められました。これは人物彫塑作品の発展を促しました。副葬された俑は、主に生前の身分の高かった墓主に仕えるためのものでした。このため、ほとんどが召し使い・料理人・踊り子などとしてつくられていますという。
彩色の玉を佩びた木俑 戦国時代中期 木製 高66.7㎝ 江陵紀城楚墓出土 湖北省博物館蔵『図説中国文明史3春秋戦国』は、木俑は白と黒を交えた方裙(裾が足首の上で止まったもの)を着て、彩色の玉璧と玉璜をつないだ組飾りを2本身につけているという。玉の組飾りを着けることができるのは、よほど身分の高い人物だったことをうかがわせる。前漢時代の俑よりも高い、胸元の位置で帯で着衣を締め、身にびったりとそう狭い袖口から出た手は、やはり拱手している。それにしても他の俑とは全く異なる、独特の人物表現である。
鋳型 戦国時代 陶製 山西省侯馬市出土 中国国家博物館蔵『図説中国文明史3』は、直立した人をつくる陶製の鋳型という。金属の俑の鋳型。両手の先には爪が表され、手の甲が見えるように挙げているのはどんな意味があるのだろう。何かを担いでいたのだろうか。胴部で紐で締めた短い上衣には文様がある。しかも、戦国時代の銅鏡の文様に似ている。『中国の古鏡展図録』は、山字文鏡は前3世紀を中心に大量に製作され、中国の広い範囲で用いられた。幅広の凹面帯であらわされた山字形文は単なる漢字を表したものではなく、鉤連雷文など青銅祭器の文様モチーフの一部を転用したものであろうという。それは当時の従者の衣裳の文様を再現したのではなく、青銅器の文様だったようだ。
侍従俑 戦国時代 陶製『図説中国文明史3』は、斉魯地方の貴族墓に副葬されていた陶製の人形で、侍従の姿をしている。儒家の発祥の地であった斉魯地域では、儒家が殷・周以来行われていた残虐な殉葬制度の廃止を主張していた。このため、この地域では人の代わりとなる陶製の人形が最初に登場し、急速に伝播していった。漢朝になると、皇帝や貴族の副葬品の主要なものとなった。殉葬制度は戦国時代にはすでにほとんど見られなくなったという。左の俑は女性で、長い袖で手先を隠し拱手している。とすると、半袖の服を着た右の俑は男性だろうか。共に鼻だけが表された顔と、片方に結った髷で、男女差はなさそう。
春秋時代の俑は見つけられなかった。
東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史←
関連項目東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展中国の古鏡展2 「山」の字形
参考文献「中国★美の十字路展図録」 監修曽布川寛・出川哲朗 2005年 大広「陶器が語る来世の理想郷 中国古代の暮らしと夢-建築・人・動物展図録」 編集愛知県陶磁資料館・町田市立博物館 2005年 愛知県陶磁資料館・町田市立博物館・岡山市立オリエント美術館他「図説中国文明史3 春秋戦国 争覇する文明」 監修稲畑耕一郎 2007年 創元社 「図説中国文明史4 秦漢 雄偉なる文明」 監修稲畑耕一郎 2005年「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 監修稲畑耕一郎・鶴間和幸 2006年 TBSテレビ・博報堂
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俑の中には集団のものがある。
楽舞俑内楽人俑群 唐時代・大足元年(701) 土製彩色 高19.5㎝程度 河南省孟津県送荘西山頭村岑氏墓出土 洛陽博物館蔵『誕生!中国文明展図録』は、発見時には墓主の棺近くに舞踏俑が置かれ、それと相対するように6人の坐楽俑が前後2列に並んでいた。坐楽俑が手にしていた楽器はすでに失われているものの、手の仕草と同時代の俑や敦煌莫高窟壁画などを参考に類推することができる。すなわち縦笛、琵琶、琴、排簫、笙などの管楽器や弦楽器を手にしていたと推測されるという。初唐期のものなので、顔はふっくらしているが、体は細身。上衣は長袖の襦に半臂を重ねるが、半臂の左から細長いストール状のものを出し、首へ回して前に長く垂らす。長裙の裾は花びらのように体の縁を巡る。楽舞俑内舞踏俑群 高28.7㎝程度同展図録は、舞踏俑の衣はいずれも袖が長い。腕をふったり体を回すたびに、袖がたなびいたことだろう。当墓からは多くの俑が出土したが、宦官や男子俑の多くは墓室外に置かれ、墓室内は大型の鎮墓俑のほかは、男装する女性俑を含め、いずれも女性俑だった。出土した墓誌によれば、墓主は女性であり、当時女性主人が近侍者として多くの女性を従えていたことがうかがえるという。後列の女性は双髻、半臂の上に幅広のストールを両肩から広げて垂らす。右手の長い袖は広げずに左手で持っている。前列の女性は双環で、胡服を着て胸元で帯で締め、長い袖を広げている。
雑技俑 北魏(386-534年) 加彩釉陶 高25.3-27.4㎝ 山西省大同市燕北師院北魏墓出土 大同市考古研究所蔵『中国★美の十字路展図録』は、雑技は貴人の宴席や市中で好んで興された。なかでも異国情緒あふれる踊りや歌は人気があり、多くの文献や壁画に記録をとどめている。彼らもその面貌から西域の一団と思われる。丸襟の上衣と縁布のある下衣とは中央アジアのペンジケントの壁画にも見出される西域の服装であり、これは雑技専用の衣裳ではなく、普段着として用いられるものであった。ある者は手に楽器を持ち、ある者は口笛を鳴らす。楽器はすでに失われているものの、軽快なリズムが聞こえるようである。中央には額に竿を立てた人物がおり、その上では軽やかな曲芸が繰り広げられるという。どうやらこれはソグド人らしい。ソグド人がかつて暮らした中央アジアの壁画では見たことのない、楽しい場面だ。
伎楽俑 北魏(386-534年) 加彩陶 高20幅10㎝ 山西省大同市燕北師院北魏墓出土 大同市考古研究所蔵『中国★美の十字路展図録』は、8体の伎楽俑が持っていた楽器は、今は失われている。手の形からみれば、それは琴、鼓、横笛、縦笛などである。上衣には、表面に花模様をあしらう様がよく見て取れる。彼女らが着ている筒袖の服、十字の縫い合わせがある帽子などは、典型的な鮮卑族のよそおいであるが、本例のように装飾性に富んだものは珍しい。この時期の伎楽俑には、本例のような女性による坐像と、男性による馬上楽とがあった。前者は貴人の邸宅で、後者は貴人の出行の際に登場するという。柔らかな表情の女性たちは体型もふくよか。
牛車と従者 東晋時代(317-420年) 灰陶 俑:高23.5-31.5㎝ 江蘇省南京市象山7号墓王氏墓出土 南京博物館蔵『中国★美の十字路展図録』は、胡人は鼻が高く、髭を蓄えている。まだズボンを着用している。胡人が都市部にはかなり移住していたのであろう。これは東晋時代の貴族の出行の情景と考えられるという。漢人の貴族に胡人(おそらくソグド)の従者たちが多数いたことを示している。
『図説中国文明史4』は、奴隷は荘園内で地位がもっとも低い人たちでした。彼らは土地を失っただけでなく、人身の自由も失っており、荘園主の私的な財産でした。奴隷の売買は、すでに戦国時代のはじめにはなくなっていたにもかかわらず、後漢になって再び見られるようになりました。荘園における奴隷の仕事は直接的な生産とそうでないもののふたつに分かれた。直接的な生産にたずさわる奴隷はおもに手工業と農作業に従事した。そのほかに家のなかの仕事に従事する奴婢や歌妓・舞妓などがいたという。
最後解牛・解猪 後漢時代(25-220年) 緑褐釉陶 高9.5-11.5㎝ 『中国古代の暮らしと夢展図録』は、牛や豚は漢代の代表的な家畜であり、これらを屠殺する場面は画像石などにもみられる。手びねりで形成し、褐色と緑色の釉を掛け分けて焼成している。動物の造形のリアルさに対して、人物の表現は極めてシンプルであるが、緊張感のみなぎる一瞬の動きが見事に捉えられているという。死後も豊かな食生活を送ることができるようにという願いだろうか。
童子 後漢時代 加彩 高20.0・14.0㎝ 『中国古代の暮らしと夢展図録』は、頭に一つ髷を結い、短い上衣に朱色の帯を締め、筒状のズボンを穿いた2人の童子は、手びねりで形成した後に、ヘラで削り、黒く、硬く焼成している。扁平な丸い顔に、黒で目や眉毛を描き、黒で目や眉毛を描き、鼻梁をわずかに隆起させて、窪ませた口に朱を差している。極めてデフォルメされた人体表現の中に、不思議な迫力が感じられるという。質素な服装は荘園の子息たちではなく、奴婢の子供たち。荘園内で働く子供達が休憩しているらしい。
幼児の入浴 漢代 陶製 高11.7㎝ 陝西省西安出土 陝西省文物考古研究所蔵『図説中国文明史4』は、農家の幼児が簡略な洗濯たらいで入浴し、楽しんでいるという。荘園の一角で暮らす農家の日常風景さえ死後の生活の一部にしている。
食事を運ぶ俑 漢代 陶製 高37㎝ 四川省忠県出土 四川省博物館蔵花飾りを付けた女性は坏と食べ物を盛った盆を持ち、帽子を被った男性は肉料理をのせた大きな台を膝の上に置き、右手でそれを説明しているようだ。どちらも口元には笑みを浮かべている。中国でも当時は床に座して食事をしていたようで、2人とも正座している。
彩絵木管弦楽隊 前漢時代 木製 高32.5-38㎝ 湖南省長沙馬王堆1号墓出土 湖南省博物館蔵『図説中国文明史4』は、漢代、民間にもっとも広く伝わったのは相和歌でした。それゆえ、これに伴奏する管弦楽もさかんになりました。貴族が擁していた私有楽隊。典型的な小規模の管弦楽隊であり、2人の竽(大型の笙)の奏者と3人の瑟(大きな琴)の奏者からなるという。粘土のように自由な造形とはいかなかったようだ。一定の太さの木材という制限の中で楽人を彫りあげている。
踏鼓舞踏俑 漢代 陶製 高さ14.9-16.3㎝ 河南省洛陽漢墓出土 洛陽博物館蔵『図説中国文明史4』は、民間における歌舞の光景。漢代にたいへん評判の高かった「盤鼓舞」が披露されているところ。前列中央の女性は、地面に置かれた7つの盤鼓の上で跳ね踊りながら、リズム感のある音を鳴らしている。動作は難度が高く、舞妓の技と力が示される。盤鼓舞は雑技の技法を吸収して、舞踏の動作と結合し、独特の舞踏形式として漢代に流行していた。①排簫を吹く伴奏者 ②盤鼓舞を踊る踊り手 ③歌を歌う楽人 ④伴奏に合わせて踊る踊り手という。楽器も土で作っているので残っている。全体にざっくりと作られているが、前列右の俑が片足立ちでバランスしているのはすごい。漢族の舞踏だったようで、女性の袖が長く翻っている。
漢代は前漢を指しているものと思われます。
俑を遡る1 従者編←
関連項目東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展
参考文献「中国★美の十字路展図録」 監修曽布川寛・出川哲朗 2005年 大広「陶器が語る来世の理想郷 中国古代の暮らしと夢-建築・人・動物展図録」 編集愛知県陶磁資料館・町田市立博物館 2005年 愛知県陶磁資料館・町田市立博物館・岡山市立オリエント美術館他
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唐時代の俑と言えばまず唐三彩が思い浮かぶが、大阪の東洋陶磁美術館に展示されていたのは、『唐代胡人俑展』も常設展示の作品も、ほとんどが加彩俑で、三彩俑はわずか2点(撮影した作品の数)だけ。同館の説明は、唐三彩は褐釉や緑釉、白釉(透明釉)など複数の低火度鉛釉が掛け合わされた器物や俑に対する総称です。色釉の組み合わせや白斑などを効果的に用いられた華やかさが特徴です。唐三彩は女帝則天武后の治世(690-705)に都洛陽を中心に全国的に流行し、鞏義窯はその代表的な生産地でしたという。
三彩胡人俑 唐時代・7世紀 高30.8幅8.7奥行6.9㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵胡人とは、中国の北方や西方の異民族の人々を指す総称です。唐時代の胡人俑には、シルクロードを通じて活発な商業活動に従事した中央アジアのイラン系のソグド人が多く見られます。この胡人俑も彫りの深い顔で、鼻が高く、あごひげや口ひげをたくわえた特徴からソグド人かもしれません。右手を胸前で握り、左手は腰のベルトをつかんでいるようで、馬や駱駝の馭者かもしれません。都長安や洛陽をはじめ唐の領域に定住した胡人も多くいたようで、異国情緒あふれる胡人の文化は唐でも流行しましたという。7世紀というと、三彩誕生後間もない頃につくられた作品。そういうと、色釉の掛け方が、衣裳は褐釉、襟と裾付だけが緑釉と単純である。
三彩侍女俑 唐時代・8世紀初頭 高26.3幅6.3奥行5.4㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵長いショール(披帛)をかけたこのタイプの侍女俑は8世紀初頭の洛陽地区でしばしば出土しています。カオリン質の白い胎土などから、この俑も鞏義窯の製品と考えられます。顔には三彩釉が施されていないのは、繊細な表情の描写にはやはり加彩が適していたからでしょう唐三彩の初期の作品だが、色釉が流れたり、まだらに混じり合ったりする唐三彩の特徴がすでに現れている。
このような俑ばかり見ていたので、昔は唐三彩といえば副葬品だと思っていた。しかし、副葬品という用途に限られると、日本に将来されることはなく、奈良三彩などが作られることもなかったはずである。唐三彩をまねて日本で奈良三彩が作られただけでなく、唐時代以降も中国では作られたし、西方でも作られた。
緑釉帯の壺 初唐期(618-712年) 高34.0口径11.5胴径23.0㎝ 洛陽龍門出土 洛陽博物館蔵『大三彩展図録』は、穀物の種を入れ来世にとどける明器であったので、俗に万年壺とよばれた。緑を地色とし黄と藍色の線に連なる白い点々の線をたて縞とし、緑の帯文様をはば広く器身を飾り水瓜に似せた壺である。また胴の下部に釉をかけず素胎のままとし、上半の装飾をきわだてているという。副葬品は避けたつもりなのに、これも副葬品として作られたものだった。
真珠文の獣足壺 盛唐期(712-765年) 高19.5口径15.0胴径23.0㎝ 洛陽井溝朱家湾出土 洛陽博物館蔵『大三彩展図録』は、散りばめられた黄色と緑色が鮮やかな真珠文様を飾る唐三彩壺の珍品。胴底に蹄のある三足の獣足がつく。壺全身を緑色の地でおおい、黄と白色を不規則に点文様とした真珠文をつくる。肩に小さな三輪の蓮華文のメダイヨンを貼り付けている。唐三彩には貼り付け装飾が多く、三色の釉とあいまって華麗さを生んでいるという。 真珠文がそのまま焼成される場合もあるが、釉薬が流れてそれが別の表情を作ることもある。それが唐三彩の特徴でもある。鞏義地区の黃冶窯でも真珠文の容器が出土している。
三彩洗 黄冶窯第3期(唐代中期、684-840年) 河南省鞏義市小黄冶窯跡Ⅱ・Ⅲ区出土 真珠文はもっと小さく密に施されている。『まぼろしの唐代精華展図録』では点彩と呼んでいる。
牡丹文の枕 宋時代(北宋:960-1127年、南宋:1127-1279年) 高10.6長32.5厚11.0㎝ 洛陽出土 洛陽博物館蔵『大三彩展図録』は、宋朝は北方に起った遼朝におされ、ついで興った金朝に破れ、首府を開封から華中の杭州に移し南宋となる(1138年)。宋代は中国陶磁が本格的に開花した時期である。唐三彩は宋三彩として継がれた。枕の正面には刻花の褐色大牡丹とそれをとりまく緑色の葉を飾る。彫りと色彩の濃淡で立体感をもたせた見事な花文様である。実用枕であったが、唐三彩とくらべると落ち着いた色彩であるという。
波と蓮文の三彩花皿 遼時代(契丹族、916-125年) 高2.7口径13.7底径8.8㎝ 遼寧省博物館蔵『大三彩展図録』は、このような円形花皿のもとはキッタン人の用いていた木器であった。八弁の花びら形である。器形も文様も型を用いて作っている。底は平たく口は外に開く。いずれもうすい赤の胎土に化粧がけをほどこす。細い水波文を地文にして、その中心に満開の蓮の花一輪がゆったりと浮かぶ。内壁のまわりを八朶のつぼみで飾る。皿の内側を黄、緑、白色で色どり、外側には白色釉をほどこしているが、その釉色は実にあっさりとして美しいという。
蓮文の三彩小皿 金(女真族、1115-1234年)-元(1271-1368)時代 高2.4口径13.2底径8.5㎝ 遼寧省博物館蔵『大三彩展図録』は、文様はまさに北方の民族のキッタン、女真あるいはモンゴルの人々がもっとも好んだ図柄。蓮は高貴さを象徴している。あきらかに遼三彩とは異なり、小皿ながら一種の落着いた雰囲気をたたえている。そして小さな皿の中にデザイン的にも洗練された文様を飾るところに、遼三彩を継ぎつつも、前代を越える作品を生む努力が見てとれる。丸い口で口縁を外側に折ってやや上に巻く。この口縁づくりに遼三彩と区別される特長を見出す見解もあるという。
牡丹と蓮文の三彩花鉢 元(モンゴル族、1271-1368年) 高15.1口径10.2胴径12.5底径7.4㎝ 遼寧省博物館蔵『大三彩展図録』は、花鉢は筒形に近い。底に圏足がつき、足壁は厚い。足の内側に等距離で三角形に並べた円形の排水孔があく。胴に突起した弦文を貼り付けて一周し、その上部に枝をまとう牡丹と蓮花を彫り、圏足の上に仰ぐ蓮の花びらを彫る文様はまことに簡素で、たいへんおおらかな元代的風格を具える鉢である。元代の陶磁は、大ぶりで厚みがあり、文様もあっさりとし、極めて野趣的な雰囲気である。広大なモンゴル草原に生きた人々の好んだ風格であろうという。排水孔があるので、植木鉢として作られたものだろうが、それが15㎝ほどのものということになると、かなり小さな花しか植えられなかったのではないだろうか。
中国から将来された三彩容器は、各地で模倣された。
三彩有蓋短頸壺 奈良時代(8世紀) 陶製 総高21.3口径13.6㎝ 伝岡山県津山市出土 岡山県倉敷考古館蔵『大遣唐使展図録』は、奈良三彩は、中国の唐三彩の影響を受け、日本で作られた三彩陶器である。坏や盤、鉢、壺など様々な器種があり、主に寺院における法会、神への奉納など非日常的な場所で使われることが多かった。奈良中期頃の須恵器壺にも一般的に見られる姿である。唐三彩にこのような器形はなく、この製作には明らかに伝統的な日本の須恵器工人が関わっていることか分かる。釉薬は緑釉を基調としながら、褐釉と白釉を寄り添えた斑文を、胴部におよそ4段、上下で互い違いになるように点じているという。点彩は大まかだが、釉薬が流れる唐三彩の特色が出て、当時施釉という技術のなかった日本では、完成度の高い作品だ。しかしながら、用途が限られていたためか、後の時代には伝えられなかったのだった。
西方でも三彩は模倣された。しかし、好まれたのは、釉の色彩と、それが器体を流れる点だったようだ。
白地三彩流れ文把手つき水さし 9-10世紀 高26.3口径19.5㎝ イラン、ニーシャープール出土 ペルシア・ニッポン・カンパニー蔵ペルシャ三彩陶器というが、把手側を下にして窯に入れたので、釉薬が横に流れてできあがった。陶工の意図したものだったのかな。
三彩釉刻線獣文鉢 9-10世紀 高11.8口径28.0㎝ シリア出土 岡山市立オリエント美術館蔵ビザンティン陶器という。刻線と三彩釉の組み合わせは唐時代から行われているが、伏せて焼成したために見込から口縁部へと流れる色釉が、走るウサギの躍動感に相乗効果をもたらしている。
三彩釉刻線流文大鉢 10-11世紀 高14.0口径44.0㎝ イラン、ニーシャープール出土 岡山市立オリエント美術館蔵刻線で植物文様らしきものが表され、その上に掛けた三彩釉が、見込から口縁部へと流れている。その間には地の白い色が垣間見える。
関連項目唐三彩から青花へ
参考文献「大三彩 唐三彩・遼三彩・ペルシャ三彩・奈良三彩 展図録」 監修江上波夫 1989年 汎亜細亜文化交流センター・第一企画株式会社 「まぼろしの唐代精華-黄冶唐三彩窯の考古新発見展-図録」 2008年 飛鳥資料館「平城遷都1300年祭記念 大遣唐使展図録」 2010年 奈良国立博物館他
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コアガラス作家の田上惠美子氏から、久々に個展の案内をいただいた。岡山の天満屋で2018年5月23日から29日までとのこと。岡山市というのは珍しいのではないかな。岡山市立オリエント美術館の講座や講演会を聴きによく出かけた街だが、駅と美術館の往復路しか知らないので、天満屋がどこにあるのかわからない・・・
田上氏の作品を見る度に、私と変わらない年齢なのに、よくこんな細かい細工を続けられるものだと感心する。外れたボタンを縫い付ける糸を通すのにも難儀している私にとっては、それだけで尊敬に値する作業である。
一番上の帯留めに鏤められた、サクラの花弁形の箔は、これまでとはまた違ったテイストで、その小ささに驚く。それがまた曇りガラスの中にあるので、遙か彼方の天の川を蜻蛉玉に閉じ込めたような奥行き感がある。
左より蜻蛉玉源氏物語三十四帖若菜に似ているが、幅広に甲高の形で帯留めの形だろう。次のは春の野シリーズかな。その上のプチプチの付いたかわゆい玉、次の手鞠のような玉、そしてレースガラスを駆使した透明な玉、それぞれ素晴らしい。それだけでなく、蜻蛉玉の取り合わせや、それを付けるものとの配置など、このはがきそれだけで一つの作品である。などと見ていて気がついた。この葉書は縦に見るのだったのだ。
ところで、田上惠美子氏は今年、第47回日本伝統工芸近畿展に入選されたという。実は「蜻蛉玉源氏物語」で何か受賞されるだろうとは思っていたのだが、それが日本伝統工芸展とは!でも、去年ではなく今年というのも驚きだ。その「蜻蛉玉源氏物語」五十四帖の写真も同封していただいて、感謝!
斜めに撮った「蜻蛉玉源氏物語」の写真と、正面から撮った写真。二十二帖玉鬘の置き方が違っているけど、甲乙付けがたい良い写真。
それぞれの裏面賑わいを感じる配色。それぞれのものが成長し出す5月かな。そしてもう1枚の裏こんな風に涼しげな玉が並んでいるのを見ていると、茹だる夏もしのげるかも。写真計画さんの図録が段々と厚くなっていく。また送って下さいませ~(←厚かましい)
きのわさんに田上惠美子氏の蜻蛉玉展を見に←
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大阪市立東洋陶磁美術館には定窯白磁の素晴らしい鉢があり、これまでにも記事にしてきたが、今回は撮影可ということなので、自分の写真を添付したので😊
白磁刻花蓮花文洗 北宋時代(11-12世紀) 定窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵説明パネルは、器の内外に表された蓮花文は、定窯特有の牙白色(アイボリー・ホワイト)の白磁の中に浮かび上がっています。光を通すほど極めて薄くつくられており、ゆがみがなく焼成するために上下逆にして焼かれました。定窯白磁は宋・金時代に宮廷内でも用いられましたが、本作は宋代定窯白磁の優品の一つです。釉のかかっていない口縁部には銀製の覆輪がはめられていますという。定窯の白磁らしい牙白色には写せなかった。見込には大きく蓮華が表されるが、葉は蓮ではなく蔓草のよう。花弁はヘラ彫りで浮き出して彫られているが、その片側にだけ細い線が入り、花弁の中にも細い櫛掻きで葉脈表される。外にも大きな蓮華が巡る。縦の蓮華は4つかな。そして、内側にはないが、器の胴部から下に向かって縦に浅い凹みが認められる。一つの蓮華に凹みが2つあるらしい。
朝鮮半島でも白磁はつくられ、同館で常設展示されている。
白磁陰刻牡丹蓮花文瓶 高麗時代(12世紀) 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵説明パネルは、高麗白磁は青磁と同じ窯で焼かれ、形や文様の共通性も多く、高級品でした。本作は、頸が細く長く、胴がたっぷりとふくらんで、高麗の優美な造形感覚を示しています。胴面に陰刻された牡丹文と蓮花文にも、細緻で優雅な文様表現を見ることができます。全羅北道扶安郡柳川里窯址から同様の陶片が出土していますという。『美の求道者・安宅英一の眼展図録』には、安宅氏が高麗陶磁の中で、もっともその取扱いに慎重を期していたもの。筆者も修行時代のかなりの長期にわたって、直接手を触れることが許されなかった。それは口から頸にかけて大きな修理があり、また釉薬が剥がれ易かったことに一因がある。しかし、安宅氏のこの作品に対する思いが、それだけ深かったことにもよるだろう。高麗陶磁に宿る美神を、この一点の中に見ておられたように思われるという文が添えられている。おそらく同展開催当時の館長伊藤郁太郎氏の文と思われる。高麗で制作された白磁は牙白色ではない。牡丹側を正面にして展示されていた。蓮華文はどんなだっただろう。線刻による牡丹文は、頂点は大きな花ではなく、開きかけた蕾になっていて、高麗の花に対する美意識が現れている。ただ、器体には細かい嵌入が見られ、完全な磁器ではない。そのためか、左下部や右側面にはシミが出ているが、これは雨漏とは呼ばない?できあがった時点ではこのようなシミはなく、酒器などに使っている間に出てきたのだろう。高麗ではそのような景色を楽しんだのかな。それともそのような趣向は日本独自のものなのだろうか。高台内にも釉薬がかかっている(説明パネルの写真より)。
白磁壺 朝鮮時代(16世紀) 高23.0㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵説明パネルは、朝鮮半島における白磁生産は高麗時代に端を発しますが、15世紀後半には京幾道広州市に官窯が設置され、本格的に白磁が生産されました。この壺は玉縁状の口、楕円状の胴体が横へ膨らんだ造形にあたたか味があり、その魅力を増しているようですという。『美の求道者・安宅英一の眼展図録』は、「稀代の目利き」、とも称せられた青山二郎氏と、安宅コレクションとの関係を示す、ただ一点の作品。箱の蓋裏に、青山氏が墨書した銘「白袴」と、「青山二郎」の角印を押したラベルが貼られている。この銘は、この壺の本質を見事についたもので、この壺に対する青山氏の眼の確かさを証明するという。
ずんぐりとした壺である。嵌入が入るその釉の色は青みを帯びている。玉縁状の口縁が特徴的。膨らんだ胴の割に口は小さく、高台とほぼ同じ大きさに見える。高台内も釉が薄く掛かる。もっとも、こんな大きな壺の高台に釉がかからないように掛ける方が難しいだろう。
白磁壺 朝鮮時代(18世紀) 新藤晋海氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵説明パネルは、胴の曲線のゆがみやひずみが、かえって表情を豊かにしている白磁の大壺です。落着いた乳白色の美しい釉色が厚くかかっています。こうした大壺は数少なく、韓国では「満月壺(タルハンアリ)」とも呼ばれ、朝鮮白磁の粋として珍重されていますという。「白袴」とは似つかない形だが、口縁部が共通する。これは安宅コレクションではなかった。本作は志賀直哉から東大寺元管長・上司海雲師に贈られ、東大寺の観音院に飾られていましたが、1995年に泥棒が地面に叩きつけ、粉々になりました。その破片が、すぐれた技術による修復を経て、以前と変わらない姿でよみがえりましたという。一見表面が傷だらけに見えるが、とても粉々になったものを修復したとは思えない。それほど技術と作品への思い入れの成果だろう。
私が大学生の頃安宅産業が倒産した。その後安宅コレクションは住友グループが買い取ったため散逸を免れた。住友グループは全て大阪市に寄贈し、大阪市立東洋陶磁美術館が開館したのが1982年のことだった。家族で鑑賞に出かけたが、その時の図録よりも、2007年に開催された『美の求道者・安宅英一の眼展』の図録の方が解説が細かいので、その図録で白磁をもう少し見てみると、
白磁角杯 高9.5㎝ 李氏朝鮮時代(15世紀) 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵同展図録は、リュトンとも呼ばれる角杯はもともと遊牧民族が酒などを飲むのに使っていた容器です。中央アジアでは金属器のリュトンがあり、これらの造型が朝鮮半島にも伝わったのかもしれません。リュトンは三国も高麗時代にも制作されています。-朝鮮時代の初期、15世紀には、白磁は国王の御器として専用されていた。雪白色に輝くような焼き上がりを見せるものがあるが、この角杯は、少し焼成温度が低かったためか、つやや輝きはない。それがかえって潤いを与え、成形も丹念に厳粛に作られ、いかにも国王の器に適わしいという。韓半島角の形のリュトンは見たことがあるが、三韓時代の硬質土器だった。その形がずっと半島で残り、王の威信材として伝わっていたのだった。角形リュトンというのは、ずっと以前にまとめていたと思っていたが、探しても出てこない。そんなことはよくあるので、この機会に後日まとめます。
白磁象嵌「楽」銘碗 李氏朝鮮時代(15世紀後半) 径12.8㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵同展図録は、朝鮮陶磁の神様と呼ばれた浅川伯教氏(1884-1964)は、この碗が「詩」「書」「禮」という銘を黒色で象嵌した白磁盃3点とともに出土したと記しています。柔らかい質の白磁で、慶尚南道・西部地方の製品と見られます。-朝鮮時代の前期、15世紀のある時期、短い期間、この技法が現れた。遺例は決して多くなく、とくに「楽」字銘をともなうものは、ほかにはないという。この器が定窯白磁の牙白色に似ているかな。白磁祭器 李氏朝鮮時代(16世紀) 高20.0㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵 同展図録は、「簋(き)」と呼ばれる祭器で、本来あるべき複雑な装飾を省略し、かえって造形の力強さを増しています。15世紀後半-16世紀にかけて慶尚南道西部地域で焼かれた柔らかい質の白磁ですという。焼成時に胎土から気体が出たピンホールが目立つ。器壁のおおざっぱな削り方や柔らかい雰囲気は、白磁というよりも、粉引のよう。
白磁面取壺 李氏朝鮮時代(18世紀後半) 高21.9㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵同展図録は、全体を8面に面取した壺で、口作りの様子から本来は蓋を伴っていたと思われます。かすかに黄みを帯びた釉色が穏やかな印象を与え、胴裾の貫入より生じた染みが景色となっていますという。面取しても角がそれほど目立たず、牙白色の優美な壺だ。「白袴」の外に捻った口縁部とは異なり、上に立ち上がっているのも器体によく合っている。高麗時代(12世紀)の磁陰刻牡丹蓮花文瓶と同じくシミが見られるのも、日本人好みかも。
東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史←
関連項目東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展東洋陶磁美術館 乾山の向付は椿だった
参考文献「美の求道者・安宅英一の眼-安宅コレクション展図録」 大阪市立東洋陶磁美術館編集 2007年 読売新聞大阪本社
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旧安宅コレクションをもう少し。
鉄砂虎鷺文壺 朝鮮時代(17世紀後半) 高30.1㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵説明パネルは、前足をふんばり、首をもたげて目を開く虎の姿は、長いまつげとむき出した牙のために戯画風になっています。しかし周囲の霊芝雲や、蓮花をはさんで立つ二羽の鷺には、霊的空気さえただよいます。胴のもう一面には三本の竹が力強い筆勢で一気に描かれています。朝鮮時代陶磁屈指の名品として、古くから評価の高い壺ですという。『美の求道者・安宅英一の眼展図録』は、第二次世界大戦以前の韓国陶磁の大コレクターの一人に、赤星五郎氏がいた。その赤星コレクションのやきものは、ほとんど安宅コレクションに帰した。虎の絵は、過去の著作ではすべて戯画と見て、無邪気、滑稽、愛嬌などと評されているが、これは裏面にある仏画のような鷺図と対比して考えるべきで、実はきわめて厳粛な図である、と筆者は見ている。安宅氏がどう考えていたかは聞き洩らしたが、時に鷺図の方を正面に出しての陳列を指示したことがヒントになるかも知れないという。口縁部と器体が「満月壺(タルハンアリ)」に似ていて、同工房で作られたのかと思うほど。複数回見ているこの思わず笑いたくなる壺だが、鷺図は一度も見たことがない。大阪市立東洋陶磁美術館の収蔵品検索で現れた鷺図は、この虎図を描いた人物とは別人の筆になるのではないかと思うほどに細い線で軽やかに描かれている。しかも、大きな蓮華に乗る二羽の鷺は、中央に延びる茎と蕾を挟んで、互いにそっぽを向いているという興味深い図柄なのに。
粉青という類いの陶器が李朝期に現れる。同展図録は、15-16世紀の朝鮮陶磁は、粉青と白磁という二重構造のなかで展開する。中国・明朝は朝貢する藩国に対してその礼制に従うように求めたが、朝鮮王朝でも太宗年間(1400-1418)には洪武礼制に従うことが求められ、その後、本格的な祀典にもとづいた祭祀が行われた。これらの祭祀には、当然のこととして明の祭器に倣う器、すなわち白磁が必要とされた。しかし15世紀当初の朝鮮王朝では白磁を大量に焼造する技術が整わず、まずは高麗時代からつづく青磁生産の秩序を図ることが課題とされた。こうした動きとともに、いわゆる「粉青(韓国では粉青沙器、日本では三島)」という「新しい様式の青磁」が登場する。粉青というとまったく新しい陶磁器のようであるが、その釉胎は青磁とほとんど変わることはなく、ただ表現の内容が高麗青磁とは異なって白土による装飾が様々にほどこされる。さて1468年頃に京畿道において王家や官庁用の白磁が本格的に焼造されはじめると、粉青はその供給先を地方官吏などに変えていった。当時の粉青は元・明磁の文様を自由に変えた、あるいは独自の発想によるものが多く、王室の美術にはみられない破格の美意識を今に伝える。こうした美意識はその後の朝鮮美術のひとつの根幹を形成していき、安宅コレクションにはとりわけ名品が多い時代でもあるという。
粉青鉄絵蓮池鳥魚文俵壺 李氏朝鮮時代(15世紀後半-16世紀前半) 高14.4㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵同展図録は、筒型にロクロ成形した本体を横にして、胴にあたる部分に、別作りした口を取り付けたものです。酒などの液体を入れた容器です。蓮池にカワセミ、魚、鷺の寓話的な組み合わせが、不思議な構図で描かれています。-鶏龍山の俵壺として比類ない逸品であるが、朝鮮時代のやきもの全体を見渡しても、十指のうちに入るだろうという。同館の収蔵品検索で見ると、裏面に、同じく2本の蓮華の間にサギが描かれていた。その表情がなんとも面白い。李朝の鉄絵の作品は楽しいものが多い。
粉青白地象嵌条線文祭器 李氏朝鮮時代(15世紀後半-16世紀前半) 高16.2㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵同展図録は、中国古代の青銅器の方彝(ほうい)と呼ばれる器形を模したもので、儒教の祭器の一つです。側面には白象嵌で雷文が表されています。また、側面に施されている白泥も力強さを感じさせます。-ここには、器をきれいに見せようという意識は、一切ない。ただあるのは、むき出しに迫ってくる祭器としての荘重さと、威厳に満ちた存在感だけである。これこそが、当時の陶工が、狙っていたやきもののかたちであった。安宅氏の美意識の一つの側面を、この祭器に典型的なかたちで見出すことができるという。確かに彫三島のように白い象嵌の線が縦横に通っている。
粉青粉引祭器 李氏朝鮮時代(16世紀) 高13.6㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵同展図録は、白土を溶いた液に器を浸して白色とする粉引は、16世紀に白磁の代用品として流行しました。本品は祭器の複雑な装飾を省略して大胆な造形とし、安宅コレクションの粉青を代表する作例の一つとなっていますという。王族や貴族以外の人々も白い器へのあこがれがあったのだろう。肌に暖かみの感じられる、日本人好みのやきものである。
粉青絵粉引草花文瓶 李氏朝鮮時代(16世紀) 高17.5㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 同展図録は、ロクロで瓶をひきあげた後、両面から押して胴を平らに作る形を扁壺と呼びます。白土を溶かした液に器を浸して白一色とし、鉄絵具で簡略な草花を描くもので、全羅南道高興郡雲垈里窯址などで焼かれました。-昭和26年度にはじまる陶磁器蔵品台帳の、最初に記載されている作品で、現存する安宅コレクションの第1号である。粉引の中でも、鉄絵のあるものはとくに珍重され、最初の購入品として適わしいという。柔らかい質感には、ぼんやりと描いた植物がよく似合う。
粉青粉引瓶 李氏朝鮮時代(16世紀) 高18.1㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵『美の求道者・安宅英一の眼展図録』は、白土液に器を浸して白色とする粉引は、日本では茶道具として好まれました。本品は加賀・前田家に伝わり、お預け徳利としても使われたといいます。注ぎやすいように、小さな注口をつくり、胴の両面を軽く押さえていますという。柔らかな肌にシミが加わって時代がついたこのようなやきものを好む日本人の美意識。ただし、NHKの『美の壺』で「心なごむ白い器 粉引」によると、本国では儒教のため真っ白でないことが嫌われ、製作は短期間に終わったとか。李朝期に作られたのに、高麗茶碗と呼ばれる器にもこのような景色のあるものが多く伝世している。いつかゆったりとした時間ができたら、じっくりと見ていきたいものである。
鉄砂蟹文祭器 李氏朝鮮時代(17世紀後半) 高13.4㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵同展図録は、蓋を伴う祭器で、身の側面に蟹らしき文様が描かれています。元来、祭器は青銅器の器形を模したものであり、四隅の突帯がその名残りを示しています。蓋が本来のものかどうかは不明ですという。祭器として用いられた器には、シミなどは出ておらず、新品のよう。
おまけ李朝期の俵壺と、前漢時代の繭形壺、形は似ているが時代が違いすぎると思っていたら、新羅で繭形壺に似た土器が作られていた。
有蓋横瓶(よこべ) 新羅(6世紀) 高11.3、14.7口径5.7、8.2㎝ 慶州天馬塚出土 韓国国立慶州博物館蔵『黄金の国・新羅展図録』は、横瓶とは、水や酒などのような液体を入れて移動するときに用いる容器である。形態は、円筒形を横に寝かせた胴部と胴部上半の中央につき狭く外反する口縁部とからなる。形態は胴部の一方が扁平で、もう一方は半球形である。底部は平面に固定できるようやや扁平な状態であるという。
東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白磁←
関連項目始皇帝と大兵馬俑展7 繭形壺東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展東洋陶磁美術館 乾山の向付は椿だった
参考文献「美の求道者・安宅英一の眼-安宅コレクション展図録」 大阪市立東洋陶磁美術館編集 2007年 読売新聞大阪本社「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 2004年 奈良国立博物館NHKの『美の壺』「心なごむ白い器 粉引」
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リュトンはこれまでに様々な場所から出土したものを見てきたし、形も多様であった。リュトンには下方の先端部に穴が開いていて、指でその穴を塞いでいないと漏れてしまうため、酒を注がれると、飲み干すまでは置くことができないという風な説明を受けたことがある。
『聖なる酒器 リュトン』は、注ぐ器としてのリュトンの起源は、新石器時代の獣形容器と角形容器に遡ります。古くから獣形容器は呪術性をもった容器であり、角形の器は一つの原型でした。4000年近く前の地中海域では、末端に穴を開けた角型のリュトンは主にワインのフィルターとして使われ、獣頭形のリュトンは献酒などの儀式に使われていたようです。この角形容器の先端に獣形をつけた杯が作られるようになったのは、3千数百年前の小アジアであり、使用時に獣形が正立する杯の形が出現したのは、2600年前の前アケメネス朝時代、メディア王国の時代でした。そして、この曲がった角の先端に付けられた獣形に注口が開けられたリュトンが誕生したのは、古代オリエント世界を統一したアケメネス朝ペルシアの時代だったのですという。
リュトンという言葉の起源について同書は、リュトン(ギリシア語 ρυτον、rhyton」は、儀式で灌奠を行うための器でした。灌奠とは酒、香水、蜂蜜、油、乳といった高価な液体を、地や他の器などに注いで神に捧げるもので、犠牲を捧げることに通じていました。リュトンという名前は、「流れる ρεω、rheo」という言葉に由来します。その器は正に注ぎ出す、流出の器だったのです。さらに古くは、リュトンはケラス(κερος、keras:角)とも呼ばれた、角形の器でした。その角形の器には、しばしば動物の形が付けられましたという。
『黄金の国・新羅展図録』は、角杯は、牛や犀などの動物の角を切断して酒のような飲料を注いで飲んだ風習に由来する容器であるという。祭祀に用いた角杯は、東漸するうちにその用途がなくなっていった。
白磁角杯 高9.5㎝ 李氏朝鮮時代(15世紀) 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵同展図録は、リュトンとも呼ばれる角杯はもともと遊牧民族が酒などを飲むのに使っていた容器です。中央アジアでは金属器のリュトンがあり、これらの造型が朝鮮半島にも伝わったのかもしれません。リュトンは三国も高麗時代にも制作されています。-朝鮮時代の初期、15世紀には、白磁は国王の御器として専用されていた。雪白色に輝くような焼き上がりを見せるものがあるが、この角杯は、少し焼成温度が低かったためか、つやや輝きはない。それがかえって潤いを与え、成形も丹念に厳粛に作られ、いかにも国王の器に適わしいという。角杯が白磁で、しかも李朝期というかなり時代の下がった時期に作られていることに驚いた。
韓半島の角形のリュトンは見たことがあるが、三韓時代の硬質土器だった。その形がずっと半島で残り、王の威信材として伝わっていたということなのだろう。
騎馬人物形土器 伽耶(5世紀) 高23.0㎝ 伝慶尚南道金海出土 国立慶州博物館蔵『世界美術大全集東洋編10』は、高杯と同じ形態の脚の上に長方形板を載せて、その上に武装した馬が載る。菱形の小さい透孔が上下2段に1列に開き、櫛歯文を刻んだ脚は、伽耶地域の土器の特徴を示し、5世紀中葉の製作と考えられる。板の上に載る騎馬人物は、馬・馬甲・人物・角杯の各部分に別々に作り、お互いを組み合わせた後に焼成している。臀部に載る角杯は左右に高く立ち上がり、寄生(馬の臀部に立つ装飾物)の役割を果たしている。日本でも奈良県南山4号墳から、角杯の底部がつく馬の臀部破片と台脚部が出土した。本品と同類であり、金海地域からの搬入と考えられているという。馬具の寄生を検索していて、日本では蛇行状鉄器がそれに当たることがわかった。西方浄土筑紫嶋の蛇行状鉄器に、蛇のように細長く曲がりくねった管が何点か、そして馬の鞍後部に旗竿としてそれを取り付けている図等が紹介されていた。この土器の場合は、2本の角は旗を立てるものではなく、騎馬人物の身分を表していたか、人物を護ることを願ったものではないだろうか。
角杯・角杯台 新羅(5-6世紀) 高22.5台高11.0㎝ 慶州地域出土 角杯:韓国国立中央博物館蔵 台:韓国国立慶州博物館蔵『黄金の国・新羅展図録』は、朝鮮半島で一般的な角杯が登場するのは三国時代で、天馬塚からも20本の牛角と漆器製と金銅製の角形容器が共に出土している。角杯は自立しないためこれを受ける台が必要である。角杯台は、二段透孔の台脚に円形の皿を取り付け、その上に上部が開口した円筒を接合し、その側面に孔をあけて角杯の端が外部に出るよう製作しているという。20本もの角杯が出土しているということは、王族の酒を飲む容器だったのだろう。
角杯・角杯台 新羅(5-6世紀) 高17.0㎝ 慶州味鄒王陵C地区7号墳出土 国立慶州博物館蔵『ユーラシアの風新羅へ展図録』は、簡素で実物の角のような現実味があり、ユーラシアステップの遊牧民が盟約など重要な儀式に使った実物の角の杯を彷彿させる。角杯の台には当時流行した器脚の様式をそのまま応用し新羅様式を作り出しているという。転がらないために、いろんな工夫をしていたのだ。
角杯 新羅(5-6世紀) 長27.8㎝ 浦頂冷水里古墳出土 国立慶州博物館蔵同展図録は、角杯の口縁周辺には三角模様と円形模様が刻まれている。全体の形状に強い様式化が感じられるという。今まで見た角杯と比べると、かなり反り返っているのは自立させるため?これでバランスしているのかな?
角杯 日本古墳時代(6世紀前半) 残高22.5最大径9.5㎝ 兵庫県明石市赤根川・金ヶ崎窯跡出土 明石市教育委員会蔵『ユーラシアの風新羅へ展図録』は、粘土紐を巻き上げて成形され、外面は篦ナデによって調整されている。多数出土している須恵器から本窯の操業時期は6世紀前半に比定できるという。硬質土器の焼成法と共に器の形も半島から伝わって須恵器ができたが、角杯という形までも将来されていたのだった。
いつものように角形リュトンを遡ってみると、『ユーラシアの風新羅へ展図録』は、スキタイ系遊牧民は、前5世紀頃動物形注口をつけたペルシア型のリュトンも受容したが、儀式用には変わらず角杯が使われたようである。角という壊滅しやすい材質のため、今に伝わるものは多くない。東アジアで発見された青銅、玉、陶漆製の角杯は、スキタイ系角杯の伝統を汲む草原地帯の遊牧民との接触を示しており、当時の激動する国際情勢や文化交流を物語るものであろうという。
獣頭付角杯形土器 伽耶(5世紀) 所蔵不明草食獣の頭部がリュトンの末端に付くが、ここに孔があったかは不明。足つきで自立する。
角形玉杯 前漢前期(前2世紀) 長18.4口径5.8-6.7㎝ 広東省広州市南越王墓出土 西漢南越王墓博物館蔵『世界美術大全集東洋編2』は、玉材を丸彫りし、獣角の形を作り出している。中国内地の骨董界では早くからこれに酷似する玉杯の存在が知られていたが、「リュトン杯」と呼ばれる西方系の金銀器との連想から、長いあいだ唐代以後の様式と考えられ続けてきた。南越王墓からの発見によって、そうした従来の年代観は1000年以上も引き上げられることになったのであるという。一見羊の頭部を表したように見えるが、よく見ると、2つに分かれたものは角ではなく、底部に羊の鼻も表していない。
青銅製兕觥(じこう) 周末期(前4-3世紀) 華南出土 所蔵不明兕觥は羊など動物の形をした蓋付きの容器だと思っていたが、角杯も兕觥の一種だった。蓋もあったと思われる。
角杯 前8-前1世紀 新疆ウイグル自治区且末(チャルチャン)出土 所蔵不明これは動物の角を杯にしたものだろう。
青銅製兕觥 商晩期(前11世紀) 河南省安陽出土 所蔵不明先端が失われているようだが、この形は中国では周末期まで、ほとんど変わらずに伝わっていったようだ。
角形容器 前5千年紀 ブルガリア、スタラ・ザゴラ鉱泉出土これが一番古い角形容器。把手がついているものは他にはなかった。ブルガリア地域に住んでいたトラキア人が使っていたものだろう。
動物の角はどの地域でも見られるものなので、角杯に地域や時代による形の変化がほとんどみられなかった。
参考サイト西方浄土筑紫嶋の蛇行状鉄器
参考文献
「聖なる酒器 リュトン 語りかける いにしえの器たち」 2008年 MIHO MUSEUM
「ユーラシアの風 新羅(しんら)へ」 MIHO MUSEUM・岡山市立オリエント美術館・古代オリエント博物館編 2009年 山川出版社
「世界美術大全集東洋編10 高句麗・百済・新羅・高麗」 編集菊竹淳一・吉田宏志 1998年 小学館
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」 1998年 小学館
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 2004年 奈良国立博物館
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松江や日御碕に行ったのはもう30年ほど前のことになる。近年「足立美術館が日本一」という報道をよく耳にするが、その頃はまだ足立美術館を知らなかった。自分の地図には足立美術館がなく、いったいどのあたりにあるのだろうと亭主に尋ねたのが、今回の旅行のきっかけだった。足立美術館は島根県安来市、中海の南方にあることがやっとわかった。google earthより米子道を走っていて、まだ全体に白っぽい大山が見えたので、蒜山高原サービスエリアにて撮影ストップ。大山は南方から見ると横長の山だが、西方から見ると三角形の山に見え、伯耆富士とも呼ばれている。とはいえ、西側からはっきりと見えることは少なく、この日もあるトンネルを過ぎるとガスがに隠れてしまった。米子道から山陰道に入り安来インターから一般道へ。広大な駐車場のほどよい位置に駐めることができ、その前が美術館かと思ったら、土産物屋の入った建物だった。その間を抜けて美術館へ。館内図(足立美術館のリーフレットより)受付から真っ直ぐ進むと、早速庭が見えた。よく手入れされている。池に大きな島があり、そこには十三重塔が松の幹に見え隠れしている。ちょっと進むと島と池の全体が姿を現す。これが「苔庭」の一部。リーフレットは、苔を主体とした京都の雅な庭園です。ゆるやかな曲線を描いた苔の緑と、白砂の白との対比が美しく、秋には紅葉の赤が一層の彩りを添えていますという。③ロビーからは横に拡がる庭を見るが、ここからは奥へと続く広大な庭を眺められる。
角を曲がると広い窓があって、その端からは地図で③ロビーと記されている建物との間の「苔庭」となり、石板を2枚渡した橋があった。「苔庭」にも小さな仕掛けがいろいろと。向こうの2枚の石橋の手前には、低い灯籠が可愛いし、飛び石の手前にも石橋があるし。「苔庭」を歩きながら眺められる大きな窓が続く。
角を曲がったところで、③ロビーへ行く通路との反対側にも別の庭があるのだった。苔と羊歯に覆われた手水鉢。その周りは白砂ではなく、こぶし大の石が廃されていた。松林の庭松の植わった地面には、炭が敷き詰められている。瓦を縦に埋めて砂地の道と白砂の枯山水の庭その向こうには、これも下半に石をさりげなく凝って並べた塀と、見所がたっぷり。その塀はE:茶室寿立庵のものだった。門の後先で通路のデザインを変えている。
本館へと戻る左手に、水の流れる音が聞こえると思ったら小さな流れがあった。
本館で次に現れたのは「苔庭」を眺める大きな窓。足立美術館には海外からの見学者も多く、この隅で静かに眺め続ける人がいた。写真を撮ることに気を取られ、じっくり鑑賞するのを忘れていることを反省。ちらほらと咲くツツジの花が良いアクセントになっている。石橋から飛び石が点々と並んで、この2枚の石橋へと続いているのだった。向こうの建物の角で庭師が作業をしている。確かに庭師の手入れしている松は色が良くない。苔を剥がしているが、別の松を植え替えるだろうか。足立美術館は、庭園の松と同じ形に代替の松を育てていると、あるテレビ番組で紹介していた。
島の十三重塔はここからも見えるのだが、松の幹に阻まれて全体像はわからない。左方には太鼓橋や家屋も見えてきた。
いよいよ③ロビーへ。最初に見えた島の十三重塔は姿を現しているだが、光が窓ガラスに反射して、頂部がよくわからない。それでも何とか撮れた。微妙なバランスで積み重なっているような・・・その左の枯山水庭。リーフレットは、自然の調和が美しい足立美術館の主庭です。中央の立石は険しい山をイメージし、そこから流れる滝水がやがて大河となる。雄大な庭を表していますという。その奥の借景の山が霞んで幽玄な雰囲気を醸し出している。青空も良いが、こんな天候で庭園を見るのも格別だ。大画面を別の場所から眺めると、遠景の山から滝が落ちていた。庭の流れはこの滝から取り込まれているみたい。
③ロビーから喫茶室際の通路を進んで行くと、④生の額絵とされる窓があった。リーフレットは、館内の窓がそのまま額縁に。まるで琳派の絵を見ているかのように、大小の木や石がバランスよく配置され、芝生の稜線が美しい、自然による絵画ですという。
ちょっと移動すると⑤鶴亀の庭ここからも枯山水庭と滝のある山が見える。滝を囲む木々に隙間があるのも「景色」となっている。この滝の説明パネルは、右後方に高さ15mの「亀鶴の滝」が流れています。横山大観「那智之滝」をイメージし、昭和53年に開瀑した人口の滝ですという。
続いて「中庭」へ。ここの手水鉢は四面石仏では。
次に現れたのは⑥池庭。説明パネルは、石橋から右の部分は、当館で一番古く、昭和43年頃から作庭されたものです。昭和45年の開館時にはこちらが美術館入口でしたが、昭和59年4月の「横山大観特別展示館」増築に合わせて、池を中心とした庭園へと生まれ変わりました。池の水は地下水を使っており、冬場でも鯉は冬眠することなく泳いでいますという。中央の石は佐治石という鳥取県産出の名石なのだそう。ここはもう少し庭を進むことができる。これが最初期の入口だった門。順路にあるこの建物は仏壇脇の床の間が開かれていて、向こうが見えている。⑦生の掛軸である。向こうは建物の外で庭を拝見できるらしく、来館者が常に画面に入る。その隣の部屋の壁もガラス張りになっていて、向こうの庭が見えるのだが、やはり庭園に魅入る人たちの頭が入ってしまう。その右向こうの赤い灯籠が珍しい。
また「中庭」の通路を通って、⑧白砂青松庭へ。説明パネルは、横山大観の名作、「白砂青松」のもつ雰囲気を日本庭園で表現すべく、当館の創設者足立全康が作庭しました。白砂の上に点在する大小の松が見所です。また水の流れを中心として、右側は黒松を使った力強い庭園で、左側は対照的に赤松を使った優しい雰囲気の庭園ですという。この庭にも佐治石(鳥取県産出の名石)や青石(四国産出の名石)がふんだんに使われているらしい。赤い灯籠に使われた石についてはわからないが、これを見て気づいた。我々も建物の反対側から見ている人たちの邪魔になっているのだと。ここからも滝はよく見え、左手の簡素な門の向こうにも建物がありそう。飛び石を踏んで近づいてみたいが、池泉回遊式庭園ではないので、眺めるだけでした。
その後建物に入ると、木炭で枯山水の庭を表したものがあった。
ここから2階に行くと近代の日本画の並ぶ大展示室や横山大観特別展示室となる。
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中海の大根島には、日本で最も低い火山があるという。その名は大塚山で、標高は42mほどらしい。これまでは萩の笠山が一番低いと思っていたが、その標高は112mもあるから、大塚山の方がかなり低い。Google Earthより安来の足立美術館を見学して優雅な雰囲気を味わった後は、せっかく近くまで来ているので見に行くことになったが、見学地としては第2溶岩洞窟の竜渓洞が面白そうだ。
中海を隔てる道路へ。まっすぐに延びる道の向こうに2つほど丘のようなものが。あれが大塚山かなもっと平たく浮かんでいるようなものは京島で、龍宮神の鳥居があるらしい。京島がちょうど正面向きに見える辺りで右折。大塚山を素通りして、第2溶岩洞窟の竜渓洞へ。事前に予約していたが、思ったよりも早く到着したので、島根県自然観察指導員の門脇さんに連絡すると、間もなく来ていただいた(リーフレットの写真より)。これが第2溶岩洞窟、竜渓洞の入口で、近場に転がっていた石を積んで造ったのだという。気泡の出た穴だらけの溶岩で、六角形に整ってはいないが玄武岩の柱状節理なのだという。見学前の注意を受ける。この動物はわかりますか?エビですか?たいていの人はそう言うんだけどね。この触角はカブトムシに似ているんだよ水の中に極小のイワタメクラチビゴミムシ(学名)や、キョウトメクラヨコエビ(学名)が棲息しているので、水の中には踏み込まないようにとのことだった。
外に竜渓洞の平面図があったが、編集してやっとこれだけ見えるようになった。隣の説明パネルは、この溶岩隧道は昭和8年道路工事の際に発見されたもので、入口は別に取り付け、昭和10年6月国指定天然記念物に指定されたという。それで、いただいたリーフレットの図と説明を添付。洞窟の中で火口の様子が確認できる、世界的にも稀な溶岩洞窟です。洞窟は火口から約100m延びています。棚状のくぼみになっている「みけの棚」や「千畳敷」、最奥部の小部屋は竜神様がお生まれになった「産屋」で、竜神様の寝床「天台」もあります。「産屋」の天井には無数のつらら石。このつらら石は、溶岩洞窟いっぱいに溶岩が充満したあとに流れさり、天井に付着した溶岩がしたたり落ちてできたものです。内壁には溶岩が流れた跡やガスの抜け穴なども確認できますという。さて、いよいよ洞窟へ。まず用意されている長靴に履き替え、懐中電灯を持って階段を降りていくと、両側に保護のカバーがついていた。非常にもろいので、上から岩が落ちて来たときのためにどこかの省庁が取り付けたものという。そして、危険なため、この入口付近しか実際には見学できなかった。入口付近入口右手は「神溜まり(かんだまり)」と呼ばれる円形状の空間。これが火口です。地下にある火口から溶岩が流れた跡がこの洞窟です実際はほぼ真っ暗で、懐中電灯で照らして撮影。編集してこの明るさに。もっと拡大リーフレットは、溶岩の表面に、半円状に繩状の模様ができている溶岩は「パホイホイ溶岩」と呼ばれ、大根島が陸上噴火でできた証でもありますという。済州島の万丈窟(マンジョングル)でもパホイホイ溶岩を見ていた。が、遠くの火口付近のパホイホイ溶岩は分かりにくい・・・
洞窟の肌は崩落を繰り返しているので、表面の溶岩の流れは下部にしか残っていない。リーフレットの図と説明。溶岩流の表面は固まり、熱の逃げにくい内部では溶岩がとうとうと流れ、天然のトンネルができますという。徐々に溶岩の流出が減り、洞窟の天井から固まっていく。
水たまりには、外で巨大に拡大した小さな生き物がいる可能性があります水たまりで特別天然記念物のムシを探すがいない。白っぽいものはヨコエビではなかった。左手の方は「みけの棚」まで。パホイホイ溶岩の上を歩く。かなり低いトンネルになって、行き止まり。この付近のパホイホイ溶岩そして天井。これは何だと思いますか?ニュージーランドの洞窟に棲息するツチボタル?いや、地上に生える植物の根っこだった。ではこれは?石灰岩がないので鍾乳石でもなさそうだし・・・これがつらら石ですよではこの表面の白っぽいものはカビ?30分ほどで見学終了。短かったが、伝えたい熱意のある人に説明してもらえて良かった。この植え込みの下が地下の火口だそう。今年は春が暖かかったから、GWの前に牡丹の花が終わってしまいそうですせっかくなので、大塚山にも行ってみたい。行っても何もないよ。円墳みたいですねまあ塚っていうくらいだからね。行くんだったら由志園がお勧め!古墳と思われていた時期もあったのかな?
ということで、次回は由志園へ
足立美術館の日本庭園←
関連項目8日目-1 万丈窟(マンジョングル)へ
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竜渓洞から南下すると由志園がある。駐車場には「まちの駅」とも書かれていた。Google Earthより門は武家屋敷か本陣風。リーフレットは、江戸時代から続く雲州人蔘の産地。神々が集う出雲の地は、別名「雲州」と呼ばれそこで収穫された高麗人蔘は雲州人蔘として親しまれています。茶人大名として有名な松江藩7代藩主・松平治郷(不昧公)が財政を再建するため始めた高麗人蔘の栽培も今や世界の一級品として高く評価されています。由志園では200年の歴史ある伝統的な栽培風景の保全も行っていますという。島の名の大根とは高麗人参のことだったのか。建物から出ると、足立美術館のような庭がひろがっていた。リーフレットは、ここは出雲の國の箱庭。由志園は、出雲地方の豊かな地形を凝縮した箱庭の様に、八岐大蛇伝説が息づく奥出雲の大渓谷や斐伊川、そして宍道湖や中海、日本海の美しい水景までも感じることのできる池水回遊式庭園ですという。
紅葉橋から見た景色。中海を模した池泉という。
気泡のある溶岩が庭石に使われている。島根県自然観察指導員の門脇さんにいただいたリーフレットのB面は「由志園の熔岩探検」だった。島石には、地中から掘り起こされる「山石(陸石)」と海中から採取される「海石」の2種類があります。山石は、火山灰などの土が付着し赤茶色をしていますが、海石は玄武岩本来の黒っぽい色をしています。また、島石には、上・下があります。マグマ中に含まれていた水などが、熔岩が冷えるにつれて火山性のガスとなって上の方に移動し、抜け出たものです。ですから、穴のあいている面が上部になりますという。上面を上にして置かれているのだった。
庭に配された石に気泡のある石が多いのが、他の庭園にない特徴かも。もっとも火山の大根島には、外から持ち込まなければ溶岩しかないか。「由志園の熔岩探検」は日本庭園の中程に入ると、表面に無数の穴があいた自然石の石組や捨石に迎え入れられます。この石は島石と呼ばれています。ザラザラとした手触り。見た目は柔らかそうですが、松江城の石垣や家屋の基礎石、墓石などに使われるなど、実はとても頑丈な石なのです。現在も、土を掘れば地表から2mほどの場所に島石が眠っていますという。
中海と宍道湖の間くらい。島石と低く刈り込んだ緑とがよく見通せる場所だ。
梅恵橋より。向こうの小さな灯籠は溶岩ではなさそう。
宍道湖を模した池泉には朱橋が架かる。朱橋より。ここも島石を両岸に積んで水の流れをつくっている。水中は藻がよく繁茂している。この水はどこから採っているのだろう。
大山を模した溶岩の築山は、近すぎて全体が写せなかった。
枯山水の庭。「由志園の溶岩探検」は、大根島の海岸沿いに車を走らせると、波静かな海面から顔をのぞかせる岩肌を目にします。これは熔岩が波に浸食されてできた波蝕台で、林立した中世の姿が見られます。枯山水庭は、こうした大根島の海岸を模していますという。
足立美術館と違って、庭園を巡ることができて楽しい。中海方面が見えているが、大根島はわからない。
通路の両側が高い石垣になった。上の面が苔むして不思議な世界。
と思っていたら、「由志園の熔岩探検」の真ん中に載っている写真のところに出た。同リーフレットは、チュラムスが見られる。表面が固まった熔岩が、地下からの圧力で突き上げられ、円錐状に隆起した地形。大根島の海岸にある弁天島はチュラムスですという。同リーフレットは、由志園では、ふだんお目にかかれない地中の様子を知ってもらおうと、園内の一角を掘り、土の中から姿を現した岩盤を「熔岩庭園」と名付け公開しています。大小無数のパホイホイ熔岩、チューブや饅頭型の熔岩など、実に多彩な熔岩の素顔に出合えます。そしてパホイホイ熔岩の存在こそ、大根島が陸上噴火によってできた島であることの確たる証拠です。熔岩庭園は、大根島の誕生の様子がうかがえる、貴重な庭園でもあるのですという。チューブ状熔岩は、現在では途中で割れて落ちていた。
ここで庭園は終わり。館内の喫茶「一望」で休憩。中海を模した池の州浜の向こうに大根島とされる島があった。高麗人蔘入りソフトクリームをいただいた。
館内には中海と大根島のジオラマがあり、由志園の前に見学した第2熔岩トンネルが、島の北端に近いことを知った。そして、大根島に淡水の池や水があるのは、淡水レンズと呼ばれる、地下に真水のたまった層があるからだということも知った。「由志園の熔岩探検」は、由志園の真ん中に配された大きな池。実はこの池の水は、すべて地下水でまかなっています。中海で囲まれ川もない大根島に、なぜ真水の地下水があるのかと不思議に思うかもしれません。中海は、真水と海水が混じる汽水湖です。けれど、風が吹かない地下では真水と汽水は二層に分離し、混ざることはありません。大根島に降った雨はゆっくりと地下にしみこみ、やがて熔岩と熔岩とのすきまに貯留されます。汽水は真水に比べて比重が大きいため、地下では汽水の上に真水が浮かんでいる状態になっています。真水が溜まったこの大きな水瓶は、「淡水レンズ」と呼ばれていますという。
最後に見たのは、朝鮮人参の伝統的な架構法だった。説明パネルは、大根島で伝統的に行われてきた人蔘架構を継承しています。ムカルナス時の破れ防止に手作り包帯を巻きます。そして蒸篭に並べ、釜戸で1時間蒸し、さらに余熱で2時間蒸らしますという。蒸し上げた人蔘を籠に並べ、約20日間かけゆっくりと乾燥させます。仕上がりの状態を見ながら籠の位置を入れ替えていきます。白色の人蔘が飴色になると完成ですという。牡丹だけでなく、熔岩に朝鮮人参朝鮮人参についても学べた由志園だった。
大根島 日本で最も低い火山は大塚山←
参考文献由志園のリーフレット「由志園の溶岩探検」というリーフレット
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今回田上惠美子氏からいただいた案内は、これまでに二度うかがったことのある箕面の天善堂で開催される「源氏物語 光のうたかた展」だった。
尾崎尚子氏が手描きされた着物地は平面なのに、まるで金魚が泳いでいるような錯覚をしてしまうのは、対角には着物地をうねらせて、水が流れるように立体的に置かれているところに、田上氏の蜻蛉玉を見え隠れさせながら、みごとに配置されているからだろう。
尾崎氏の着物の文様にも「源氏物語」らしく、源氏香の匂宮の図が描かれている。尾崎氏の着物は手描きというだけでなく、地紋もそれぞれに美しい。
田上氏の作品は源氏物語五十四帖のタイトルをそれぞれイメージして作られたもので、今年日本伝統工芸近畿展に入賞された中から、8点が載せられている。左上から、四十七帖総角、五十四帖夢浮橋、三十三帖藤裏葉、三十四帖若菜、三十九帖御法、二帖帚木?、五帖若紫、二十八帖野分?かな?源氏香の図の右下は、形と色が二帖帚木に似ているが、金箔の文様が以前にみたものと違うような・・・
田上氏の2018.5.23.岡山天満屋さんガラスジュエリー特集のそぞろごとによると、岡山天満屋での個展には、あの松島巌ご夫妻も来られたとか。松島夫妻と田上氏の3ショット写真では、それぞれに年を重ねられたアーティストの深みのある顔が並んでいる。小さな画像では、田上氏が横長の枠に蜻蛉玉を嵌め込んだ、新たな輪っかを付けておられる。田上氏の蜻蛉玉だけでなく、蜻蛉玉を付ける輪っかも新たに出現するので、それも楽しみだ。しかし大画像で見ると、それは細い鎖にぶら下がった蜻蛉玉が老眼鏡のレンズの間に入り込んでいるだけなのだった。
それにしても松島氏の目力のすごいこと👀松島氏といえば、20年近く前に岡山市立オリエント美術館で開催された古代ガラス展でのシンポジウムで、岡山弁で穏やかに、しかし力強く持論を述べられる姿を思い出す。奥様と田上氏の服も素敵🙆
個展の続きの画像が後楽園の写真だった。しかも、ただ庭を眺めるだけの私の写真とは違って、高大な庭園のとんなところに目を留め、それをどんな風に写すか、とても参考になる。さすがに美を追究する人は、目の付け所が違います🙌かと言って、今後自分の写真が変わるとも思えないが💦
6月20日(水)から24日(日)と短い。しかも23日(土)は語り会があるらしい。
その裏面は23日の語り会、「京ことば 源氏物語」の案内だった。田上氏の漫ろ事やFacebookで、ときどき山下智子氏の「京ことば 源氏物語」の記事を拝見しているが、その美しい京ことばと山下氏の声が聞こえて来そう👂いつか山下氏の語り会にも行ってみたいものだ。その声が上の方に描かれているのかと目を凝らすと、それは墨絵のふくら雀のようで・・・!山下氏のバックが尾崎氏の手描き友禅だった。天善堂は関西でも奥まった箕面にあり、交通の便が良いとはいえませんが、とても雰囲気の良いギャラリーです。
岡山天満屋で田上惠美子特集←
関連項目田上惠美子氏の蜻蛉玉源氏物語展1箕面で田上惠美子ガラス展1
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宍道湖では雨でもシジミ漁の船が行き交い、それぞれに陣取っては長い竿でバランスしながらシジミをとっていた。中には船から下りている人もいた。カルガモではなさそうだが、アカツクシガモではもっとなさそう。
宍道湖を左手に、一畑電鉄の線路を右手に見ながら日御碕へ向かう。30年ほど昔にこの道を通ったのはGWの頃で、天気も良かったので、宍道湖に浮かぶ水鳥もよく見えた。特にキンクロハジロ(目が金、体が黒、羽根が白)を初めてみたのをよく覚えている。この日も季節が同じなので、キンクロハジロが見られるのを期待していたが、あいにくこの日は大雨で、窓ガラスに叩きつける雨粒のためよくは見えなかった。それでもキンクロハジロやウミアイサ(頭頂部の毛が逆立っている)がいるらしい程度には見えた。
その途中に、出雲大社の東隣に島根県立古代出雲歴史博物館がある。最近の美術館博物館でときどきみられる現象だが、同館も禁止マークのないものは撮影可だった。
中央ロビーの真ん中にどんと展示されているのは、
宇豆柱(うずばしら) 鎌倉時代(1248年) スギ材 直径平均約130㎝ 年輪の鄒最大195年 出雲大社境内遺跡出土説明パネルは、国譲り神話では「大国主神が治めてきた葦原中国(あしはらのなかくに、地上の世界)の統治権を高天原(天上の世界)の神々に譲る代償として、壮大な神の宮を造営」したとされる。千家国造家に伝わる「金輪御造営差図」には、3本を一つに束ねた柱の直径1丈(約3m)、昇殿する階段の長さ1町(約109m)と記されている。古代には本殿の高さが奈良の大仏殿より高い16丈(約48m)あったという伝承もある。2000年に出雲大社境内で行われた発掘調査において、地表から1.4m掘り下げたところから、径約1.4mのスギ材が3本かたまって出土した。想像を絶するこの巨大な柱はどのような神殿を支えていたのだろうかという。このような巨木を束ねた柱が出土したことは知っていたが、もっと古いものだと思っていた。柱の一つ。
三瓶山の噴火でうまった縄文スギ 縄文時代(3600年前) 三瓶小豆原埋没林 輪切り標本 島根県立三瓶自然館蔵宇豆柱と変わらないくらい大きな木の標本だった。
弥生土器にも高い建物が線刻されていた。
出雲大社の復元模型も、こんな風に高床!?に長い階段がついているらしいが、弥生時代にすでにそんな神殿?があったとは。
常設展示室に入ると、まず「出雲大社と神々の国のまつり」のコーナー。
1998年から2002年にかけて行われた出雲大社境内遺跡の発掘調査では、古墳時代から江戸時代にかけての祭祀のあり方や社殿建築の歴史的な変遷を知るうえで重要な数々の発見がありました。図は、現在の本殿と拝殿の間にある調査区周辺で検出されたおもな遺構を表したものですという。巨大柱の顕現。2000年から2001年にかけて、出雲大社境内から13世紀前半の巨大な柱が3か所で発見されましたという。出土状況心御柱と宇豆柱は同じくらいの直径。
巨大本殿の設計図 金輪御造営差図複製 鎌倉-室町時代(13-16世紀) 千家尊祐氏造昔の本殿の平面図と伝えられる。巨木3本を束ねて1本柱とし、階段の長さを1町(約109)とする。2000年から翌年にかけて、同じ構造の巨大柱が境内から出土したという。柱の配置や構造は、いにしえの巨大本殿設計図とされる「金輪御造営差図」に描かれたものとよく似ています。柱を埋めた大きな穴には、ひとかかえもあるような大きな石がぎっしりとつめてありました。このような掘立柱の地下構造は、史上最大で世界に例をみないものですという。巨大本殿を描いた絵図 出雲大社并并神郷図 鎌倉時代(13-14世紀) 複製 出雲大社蔵朱塗り柱の本殿は現在の本殿よりも床がとても高く、ほかの建物よりもひときわ大きく描かれていますという。
さていよいよ巨大な神殿の復元模型、とコーナーを曲がると、そこには小さな復元模型が5つ並んでいた。
ここに並ぶ建築模型は、現代を代表する建築学者が発掘成果をもとに限られた文献や絵画史料を駆使し、建築学のあらゆる知識を総合して上屋構造を推定復元したた研究成果です。現在の学問の到達点を物語る貴重な学術資料です。みなさんはどう考えますか?という。すべて鎌倉時代・13世紀の復元模型(縮尺1/50) 左より1 三浦正幸博士の復元案 復元寸法 全長37.385m 最大幅22.141m 総高27.272m 垣高2.424m 階段角度45° 檜皮葺き
2 浅川滋男博士の復元案 復元寸法 全長42.064m 最大幅23.336m 総高41.814m 基壇高2.121m 階段角度55° 檜皮葺き
3 黒田龍二博士の復元案復元寸法 全長49.601m 最大幅24.95m 総高43.765m 基壇高3.636m 階段角度45° 檜皮葺き
4 宮本長二郎博士の復元案復元寸法 全長12.73m 最大幅23m 総高47.9m 基壇高1.2m 階段角度17° 茅葺き
5 藤澤彰博士の復元案 全高は平安時代の復元模型と同じ復元寸法 全長129.59m 最大幅20m 総高48m 基壇高3m 階段角度16°檜皮葺き
で、見たいと思っていた復元模型はその左、展示室の中央にあった。
出土した3本を束ねた柱(鎌倉時代)よりも古い平安時代の本殿だった。縮尺1/10 全高16丈(約48m) 心御柱:直径1丈2尺(約3.6m)高12丈(約36m) 宇豆柱:直径1丈(約3m)高14丈(約42m)10世紀 出雲大社蔵 福山敏男監修、大林組プロジェクトチームによる1989年公表の設計案に基づく復元模型10世紀に、「雲太」とも呼ばれる高さ16丈(約48m)という日本一高大な本殿があったという学説に基づく模型です。見上げると八雲立つ出雲を象徴する美しい雲と光のうつろい、耳を澄ませば境内で聞こえたであろう様々な音の情景・・・という。大社造で宇豆柱が正面中央にあるため、階段はその左側に造られている。巨大柱が支えた鎌倉時代前半(1248年造営)の神殿はどのような姿だったのでしょうか。出雲大社本殿建築の復元研究とその高さをめぐる論争は、すでに100年におよびます。平安時代の復元模型の階段の上り口 段差は板の厚み程度階段を登っていく2人の神主の身長は170㎝として縮尺している。階段の壮大さがうかがえる。この高さ!説明パネルに柱の断面構造図があった(はっきりとピンボケ)。木材3本を中心にし、その間に補助材を組み合わせて円柱にしているという。補助材は扇形で、中心となるの木材も、補助材に密着するように削られている。計6本の木材を集合材にし、金輪で束ねている。
その奥には巨大な千木と勝男木。出雲大社の屋根にあった千木と勝男木 明治14年(1881)遷宮の御用材 スギ千木:長830幅62厚24㎝ 勝男木:長545最大径67㎝重700㎏こんな巨大な千木と勝男木がのっていたのだった。
雲太、和仁、京三の比較図平安時代中頃(970年)に書かれた貴族子弟の教科書『口遊』には、当時の大きな建物として「雲太」「和仁」「京三」が挙げられています。それぞれ、出雲の大社、大和の大仏殿、京の大極殿を指します。当時、大仏殿の高さは15丈(約45m)あったとされます。出雲大社はそれ以上の高さをほこったのでしょうか?伝承では、かつては16丈(約48m)の高さがあったともいい、古代に高層神殿が存在した根拠の1つとされていますという。法隆寺五重塔(708-715年再建)の高さが32.5mなので、柱の長さが技術でカバーできれば、造立できない建物ではないのでは。
大根島 由志園の熔岩探検←
参考にしたもの島根県立古代出雲歴史博物館の説明パネル
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