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元明の青花(染付)

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イランのアルダビールに所在するシェイフ・サフィー・ユッディーン廟ではアルダビール・コレクションと呼ばれる中国磁器が所蔵展示されている。アルダビールは、サファヴィー朝発祥の地であるが、それよりも以前の元時代(14世紀)の染付もそのコレクションに入っていた。おそらくサファヴィー教団が所蔵していたものだろう。

『元の染付展図録』は、白磁胎で形を作った後、酸化コバルトを顔料として筆を用いて絵付けをし、透明釉をかけて、高火度で焼成した磁器を、中国では「青花」(花とは文様の意)と呼ぶ。わが国ではその藍色に呈色した文様が染織の藍染の色彩に似ているところから「染付」という名称が使われ、今日にいたっているが、この呼称はすでに南北朝末期にあたる14世紀末の『迎陽記』という文献に、「ちゃわんそめつけ」という記述が残るが、一般化するのはやはり有田で染付が焼成されるようになった江戸時代のことらしい。
この染付が技術的に完成したのが、元時代の後期頃の景徳鎮においてであった。その文様にみられる精巧な描線や文様構成の高さに、器形の雄大さも加わった力強い作品が、この技法の技術的完成を如実に示しており、以後の陶磁界に影響を与えたことも加味されて、今では元染付が中国の染付のジャンルだけにとどまらず、中国陶磁全体のなかでも非常に高い評価を受けるにいたっているという。
前回は、アルダビール・コレクションを日本の古い文献の図版で見てきたが、英語でblue and whiteと呼ばれるものがモノクロームなのは寂しかった。そこで、今回は、そのコレクションを離れて、書庫からカラー図版を探してみた。

青花蓮池魚藻文壺 元時代(14世紀) 景徳鎮窯 高28.2㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
『東洋陶磁の展開図録』は、元時代に入って作られるようになった大振りの壺。器表をいくつかの文様帯に区切り、胴部中央に蓮池を泳ぐ鱖魚、草魚などを描いている。魚藻文は元時代の青花にしばしば見られるテーマであり、当時の江南地方で流行した民間絵画との類似性が指摘されている。また、魚の中国語音が「余」に通じ、財産が余るという吉祥の意味をもつともいわれている。裾部にはラマ式蓮弁を廻らし、内部に犀角、法螺貝、珊瑚などの6つの宝文が火焔宝珠と交互に描かれているという。
アルダビール・コレクションの中にも魚藻文の盤(29.43 元時代)があり、見込みに大きく魚が描かれ、水流になびく藻や、浮き草などが描かれている。
違いは本作品には、蓮が大きく力強く描かれていることで、葉は表面が見えるもの、側面から見たものなど。蓮華は花びらが落ち、果托が育っている。

青花鳳凰花卉草虫文八角瓢形瓶 元時代(14世紀) 景徳鎮窯 高59.8口径8.3底径17.3㎝ イスタンブル、トプカプ宮殿博物館蔵
『世界美術大全集東洋編7』は、瓢形の大瓶をさらに八角に面取りした、成形に熟練を要する作品である。わずかに高台がつき、底裏は露胎である。さまざまな文様が器面いっぱいに描き詰められているが、この八角の面取りという器形をうまく文様構成に利用して、煩瑣に陥ることを避けている。まず、菱繋ぎの帯文様とラマ式蓮弁によって胴の上下を区切り、さらに八角に応じて器面分割することによって、繁雑になりがちな文様を整然と配しているるここには、元青花に用いられるあらゆる文様が描かれており、まるで絵手本といってもよいほどである。図柄が異なるが、八角の瓢形瓶はトプカプ宮殿にもう1点と、掬粋巧芸館に1点、完器ではないがイランのアルデビル廟に1点所蔵されているという。

青花八宝文稜花盤 元時代(14世紀) 景徳鎮窯 高7.8口径45.7底径26.4㎝ イスタンブル、トプカプ宮殿博物館蔵
『世界美術大全集東洋編7』は、盤の中央に置かれた6弁のラマ式蓮弁とそれを囲む6つの大きな如意頭枠、そしてそのあいだを空間忌避的に埋め尽くす唐草文がこの盤にイスラーム風な印象を与えている。空白を余すところなく文様を描き詰めるのは元青花の大きな特徴の一つで、彩絵という新しい装飾表現手段を得て可能となったものであり、この盤はそうした元青花の魅力あふれた作品である。イスラームの工芸品にもしばしば見られる、ミヒラーブを思わせるような如意頭形の枠取りや、ラマ式蓮弁を囲むその構成など、全体的には伝統的な中国様式というよりイスラームの意匠に借りているところが大きいように感じられるが、八宝文や青海波、唐草文など、枠組みの内側を埋める個々の文様は、すべて中国独自のものであるという。
唐草文は葉が段々と簡略されて描かれるようになり、蛸唐草と呼ばれるような文様になると聞いたことがあるが、それは日本の染付の話だと思っていた。青花の草創期のような元時代に、すでにそれに似た描き方がされていたとは。如意頭枠には青海波文が整然と描き込まれているというのに。

青花牡丹唐草文盤 元時代(14世紀) 景徳鎮窯 径44.5㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
『東洋陶磁の展開展図録』は、元青花の大形盤においては、見込み中央の平面に、絵画的な文様を描くか、幾何学的な図案を同心円状に描くものが多い。そうした中でこの盤では、主文様に四輪の牡丹文を取り上げ、それも上面、側面、裏面からと描き分けている点が珍しい。主文様の外周には宝相華唐草文を配している。この宝相華唐草文は、外側面にも同じように廻らされている。文様表現が大胆かつ新鮮な上に、青花の発色が格別に鮮麗なことから、元青花の大盤の代表作の一つとして名高いという。
側面はこの画像では上下2箇所あるが、それぞれを違う描き方をするという念入りな作品なのに、牡丹の萼は5枚なのに6枚描いている。「完璧なものは嫉妬されるので、一つだけ不完全にしておく」という風習はイスラーム圏、あるいは西アジアから中央アジアにかけて広く存在しているようだが、そういう好みを採り入れた作品かも。

青花蓮池水禽文鉢 元時代(14世紀) 景徳鎮窯 径29.7㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
『世界美術大全集東洋編7元』は、典型的な元様式の青花磁器である。口縁は端反りになり、底部が厚く作られた枢府タイプの白磁に類する器形である。内面には一対の鴛鴦を中心に、蓮池図が左右対称に描かれている。この蓮池水禽図は元青花磁器にもっとも普遍的に見られる意匠であるが、そのなかでこの作品はコバルトがじつに美しく発色しているという。
アルダビール・コレクションの蓮池水禽文盤(29.38 元時代)の文様とよく似ている。
水禽はオシドリ。

青花牡丹唐草文双耳壺 元時代(14世紀) 景徳鎮窯 高38.7㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
『東洋陶磁の展開展図録』は、本来、蓋をともなったものであるが、共蓋の遺例は3点しか知られていない。上から7層の文様帯に分かれ、中央の2層には雲をともなう龍文と、牡丹唐草文が廻らされている。とくに牡丹の花びらと葉には、絵付けの前にあらかじめ陰刻がほどこされ、強い効果をあげている。両肩には、だみ染めされた獣面の耳がつき、環を通すための孔があるという。
よく似た双耳壺が江西省高安市博物館に所蔵されており、それには蓋が付いている。

青花雲龍文双耳壺 元時代(14世紀) 景徳鎮窯 通高47.0口径14.6㎝ 江西省高安市窖蔵出土 高安市博物館蔵
『世界美術大全集東洋編7』は、この獣環耳壺は龍文から見れば典型的な至正タイプの青花磁器である。胴の中央には三爪の龍を2体配し、両端には銅環のついた獅子形の耳をつけている。肩には八宝文、裾には牡丹唐草文を描いている。青花の発色はトプカプ宮殿博物館の同形の元青花磁器などに比べると、やや鈍い。概して高安市窖蔵出土の青花磁器群は中近東にある鮮やかな発色の青花磁器の一群に比べてやや下手な印象を与えるものである。
銅環が残っていることからわかるように、日常に生活器として使用されていたものであるという。
至正年間は1341-70年で元末期。
色の違いは図版で比べただけでは分からない場合もあるが、この2点ではそれが明瞭に比較できる。輸出品の方が明らかに濃いコバルト色である。
青花龍文壺 元時代(1271-1368年) 高11.2㎝ 1998年景徳鎮市珠山北麓風景路出土
『皇帝の磁器展図録』は、ふくらんだ胴に蓋をともなう。器底は輪高台に作られ、露胎である。蓋と身は、あわせ口作りとなっている。青花で、外壁には珠を追う龍二体が描かれる。内壁にも施釉している。この器の造形は陝西省耀州窯の北宋青磁刻花碁石入れに類似する。双角五爪が器面装飾に用いられているということは、『元史』と『元典章』によると、この器が元代皇帝専用の磁器であることを示しているという。

『世界美術大全集東洋編7』は、青花磁器はイスラーム世界だけでなく、元大都でも新生の磁器として受け入れられたのであり、陶磁器において元時代は中国とイスラーム世界の嗜好が近似していた時代なのであるという。
至正年間の1368年、皇帝恵宗が北走し、江南に誕生した明朝が中国を統一した。

青花雲龍文瓶 明時代永楽年間(1403-24年) 高26.9㎝ 1984年景徳鎮市珠山明御器廠址出土
『皇帝の磁器展図録』は、口縁部は外反し、頸は細く長い。腹部は豊かにふくらんでおり、高台がつく。器内と高台内は全面施釉されている。外壁には五爪龍五体が描かれる。胴部裾に波濤が、高台には雲文が廻らされる。この器は永楽後期の作品で、1994年に出土した永楽早期の玉壺春瓶とはかなり相違がある。早期の製品は高台がやや高く、器腹は細く長い。造形はむしろ元代のものに近似しているという。
やはり五爪は皇帝専用の器だった。それがペルシア北西部に起こったサファヴィー教団に将来されたのは、どういういきさつだろう。
現在でもアルダビール・コレクションとしてシェイフ・サフィー・ユッディーン廟に所蔵されている。

青花龍波濤文扁壺 明時代永楽年間(1403-24年) 景徳鎮窯 高45.0㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
『鑑蔵品選集』は、永楽年間には西方との交易が再開され、陶磁器においてもその影響が見られる。イスラム的な器形が多様化したことや、中近東産のコバルト顔料が再び輸入され始め、青花の発色が以前にも増して鮮やかになったことなどである。この種の扁壺もこの時期に現れた器形のうちのひとつである。トルコのトプカプ宮殿には16世紀の銀製の蓋が付いた同形品が伝世している。本器では、龍の姿を白抜きで大きく表し、眼にコバルト顔料を点じ細部に陰刻を加える。周囲を埋め尽くした波濤文は濃い藍色に発色し、永楽期に特有のにじみが見られる。景徳鎮市珠山より類品が出土しているという。
アルダビール・コレクションにも似た龍波濤文瓶がある 。

青花牡丹文盤 明時代永楽年間(1403-24年) 景徳鎮窯 径44.7㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
『鑑蔵品選集』は、盤の中央には二重円圏内に2輪の牡丹が蔓草のような枝で軽快につなぎ合わされて描かれている。盤の周辺部には茘枝、石榴、桜桃、枇杷、葡萄など数種の果樹を折枝文様風に9箇所配置している。高台内は露胎となっていて、胎土は精緻である。永楽様式の青花の典型的な盤であるという。
アルダビール・コレクションにも2つの牡丹の花が描かれた盤があるが、この図では下の方で蔓が分かれるのに対し、その作品では1本の枝が弧を描いて、枝の中程と先の近くにそれぞれ牡丹が咲いている。

青花龍唐草文碗 明時代弘治年間(1488-1505年) 径15.0㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
『鑑蔵品選集』は、成化年間に現れた薄作りで小形の碗の延長線上にあると思われるが、文様表現は一転して繁縟さを増している。外側には宝相華唐草をともなう一対の龍の姿を、内側は側面に蔓唐草文を、底部に蓮池文を描く。文様は細い描線で余白をあまり残さず緻密に描かれている。一方で龍の肢体や唐草の蔓の動き、葉や花弁の形などには図式化の傾向が見られる。また、口縁部や内底に見られる細かい装飾には、次の嘉靖万暦期の文様との関連がうかがえるという。
描かれた龍は五爪。
アルダビール・コレクションの中で、高台の銘だけ写した作品が弘治年間のものだった。

関連項目
アルダビールのシェイフ・サフィー・ユッディーン廟 中国磁器のコレクション

参考文献
「開館3周年記念 元の染付展 14世紀の景徳鎮窯 図録」 1985年 大阪市立東洋陶磁美術館
「大阪市立東洋陶磁美術館 鑑蔵品選集 東洋陶磁の展開 図録」 1999年 大阪市立東洋陶磁美術館
「世界美術大全集東洋編7 元」 1999年 小学館
「皇帝の磁器 新発見の景徳鎮官窯 展図録」 1995年 大阪市美術振興協会・出光美術館・MOA美術館


ギーラーン1 コブウシ

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『ギーラーン緑なすもう一つのイラン』(以下『ギーラーン』)は、ペルシア語で「白い川」を意味するセフィードルード川は、ギズィルウズン川(赤く長い川)とシャーフルード川(王の川)の水を集め、ギーラーンに豊かな恵みをもたらしながら、カスピ海に注ぐ。同時に、この川の渓谷は、イラン高原とカスピ海を繋ぐ回廊、つまり、ギーラーン(ギール人の地)への入口となっているという。
Google Earthより

同書は、ギーラーンの低地は、セフィードルード川によって生み出された大きな扇状地である。カスピ海に向かって海抜0m以下の低地帯が続き、海岸線にはモルダーブと呼ばれる湿地帯が広がっている。低地帯の農村部を旅すると、イラン高原とはまったく異なった光景に出くわす。まず、広々とした水田や茶畑、そして、藁葺きの家やネズミ返しを備えた高床式の米倉である。家々は水田の中に点在しているが、都市部や高原部の住居とは異なり、他人の目を遮る高い塀や外壁がなく、外に向かって開放的な構造になっている点が特徴であるという。
ギーラーンもまた、いつか訪れてみたいところだった。その一つがこのようなネズミ返しのある高床式の米倉や、
板壁のある家屋を見たかったからだった。しかしながら、民家はどんどん建て直しされ、残っていたのは瓦くらいのものだった。

同書は、イラン高原の風景に欠かせない要素である羊と山羊の群はすっかり影を潜め、道ばたでゆったりと草を食むコブ牛の姿があちらこちらで見られる。古くからこの地でコブ牛が重要であったことは、コブ牛をかたどった形象土器がギーラーンの多くの遺跡から出土していることからも明らかであるという。 
コブウシはアスタラで見かけたが、突然走り出したのでぶれてしまった。

中エラム時代(前13世紀前半)に作られたコブウシがチョガ・ザンビールのジッグラト北東面階段前から出土している。実物と比べると肢が長くコブが小さいが、コブウシも地域によって種類が違うという。

ペルセポリスのアパダーナ東階段の浮彫(前5世紀前半)では、カブールのガンダーラ人の使節団がコブウシを連れていた。コブが後方にある。
しかし、それより以前にコブウシの像がこの地で作られていた。

コブウシ型リュトン 前1千年紀 タブリーズ、アゼルバイジャン博物館蔵
コブが強調されている分背中をえぐり、長く伸びて腰を大きく表す。酒杯としては大きすぎる。持ち上げるのは困難なので、台の上に置いて傾けてリュトンに酒を注ぐ容器として、口は細長い溝状に出し、肢を短く作っているのだろう。
小さな耳には穴があり、ピアスを付けていたらしい。
こぶ牛形象土器 前1千年紀 長31.3高25.6㎝ 中近東文化センター蔵
小さく丸い目が型押しされているが、耳はない。首の周りに列点文が巡り、特別な牛を表したものかも知れない。
やはり胴がえぐれている。それはデザインというよりも、酒を満たして重いこの容器を抱えるために必要なくぼみだったのかも。
同展図録の、コブウシ型リュトンがまとまって出土している下の写真が印象的だった。富や権力の象徴だったのかな。

マールリーク遺跡第18号墓におけるコブウシ形象土器の出土状況
『ギーラーン』は、遺跡出土の瘤ウシ形象土器は、一対の角と誇張された瘤とがこの動物の力強さを表していると同時に、器面を丹念に磨いた丁寧な造り具合、耳に付いた金の環、そして5点一緒に埋葬されたことなどは、当時の人々の瘤ウシに対する特別の思い入れを推察させる。瘤ウシ形象土器は代表的「アムラシュ土器」のひとつではあるが、その出土状況が正規の発掘調査で確認された事例は、今もってマールリーク遺跡のみであるという。
正面から見と、頭部には顔がなく、角と注ぎ口と空洞だけ。
ぶ牛形土器 前1500-800年 研磨土器 長26.0高19.5㎝ ギーラーン州マールリーク出土 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、顔の部分が容器の注口になっており、液体を入れてリュトンのように使われたのだろう。53基の古墓が発見されたマールリーク遺跡の18号墓から出土した5点のこぶ牛形土器の一つという。
上図では4つしか写っていないが、おそらく右端の作品だろう。左耳に金のピアスが残っているのに目はない。
コブウシ形象土器としては瘤が突き出しておらず、胴もえぐれていない。従って持ち運ぶための造形ではなかったのだ。
注ぎ口の下にはヒレ状の突起がある。
こぶ牛形土器 前1500-800年 研磨土器 長28.2高23.1㎝ ギーラーン州マールリーク出土 イラン国立博物館蔵
背中がえぐれていないタイプ。やはり注ぎ口の下にはヒレ状の突起がある。
耳には大きな金製ピアスがぶら下がっている。その傍にあるくぼみは小さな目?
こぶ牛形土器 前1500-800年 研磨土器 長20.0高15.7㎝ ギーラーン州マールリーク出土 イラン国立博物館蔵
背中は小さく、瘤が巨大なタイプ。目は円形の道具を押しただけ。
注のヒレ状の突起も立派。
こぶ牛形土器 前1500-800年 研磨土器 長48.5高33.5㎝ ギーラーン州マールリーク出土 イラン国立博物館蔵
同展の出品の中では最も大きな作品。全体に柔らかな曲面で構成されている
角の付け根に小さな目、角から離れた下の方に耳がある。
こぶ牛形土器 前1500-800年 研磨土器 長39.0高34.0㎝ ギーラーン州マールリーク出土 イラン国立博物館蔵
ヒトコブラクダのような瘤があり、長めの肢には車輪が取り付けてある。酒宴の席で、他のコブウシ形容器のように置いて使われたのではなく、コロコロと転がして楽しんだのだろう。
耳と注ぎ口の下には金のピアスが付いている。
イラン国立博物館では、マールリークから出土したコブウシ形象土器が他にも展示されていた。
写す位置が悪いのか、頭部とコブが大きすぎて、文字通り尻すぼまりのようなコブウシ像も。
左前のコブウシ像は、マールリーク遺跡第18号墓出土の写真の左端のものに似ている。

『ギーラーン』は、マールリーク遺跡はルードバールからギーラーン州都ラシュトに至る道程なかほど、セフィードルード川東岸に、現況周囲をオリーヴ林と水田に囲まれて位置する。ネギャバーンの報告によれば、「マールリーク・テペ」と呼称されるものの、いわゆる「遺丘」ではなく、径145X80m、高さ10余m規模の自然丘である。紀元前2千年紀末から1千年紀初め頃に年代付けられる群集墓遺跡であることが判明した。53基にのぼる古墓の殆どは、石を積み上げて墓室を構築したものであり、積石の一部破壊が明らかに大地震に因ると観察されるものもあった。
それぞれの墓は、当時きっと貴重品であったに違いない様々の副葬品を豊かに伴っていた。千点もの青銅製鏃、剣、棍棒、甲冑などの武具やヒョウ、オオカミ、イノシシ、シカさらには頸木と鋤をつけたウシなどをかたどった形象土器青銅像や金製容器や装身具等々の副葬品を持つこれらの墓は、かつてこの地に栄華を極めた王侯、武人階級のものであろうと、発掘者ネギャバーンは推察しているという。
コブウシを表したものは青銅でも作られていて、土器よりもかなり小さい。

こぶ牛小像 前1千年紀 青銅 長6.9高4.6㎝ 中近東文化センター蔵
肢は形象土器よりも長く、コブはずんぐりしている。
『ギーラーン』は、ギーラーン州出土と伝わるこの「青銅製瘤ウシ小像」には、平織りの麻布片(材質:亜麻)が5片付着していた。「死者を埋葬する際に織物に包んで副葬した」とみなされたという。
こぶ牛小像 前1千年紀 青銅 長7.9高5.8㎝ 中近東文化センター蔵
コブは後方に鋭く突き出ていて、その根元から環が出ている。ぶら下げて護符のように使ったのだろうか。
『ギーラーン』は、デイラマーン調査団員のひとりであった増田精一は、ガレクティ遺跡A-V号墓より検出のウシ、シカの獣骨を犠牲獣の証拠とみなし、動物形象土器の副葬を当時の過剰な動物犠牲を戒めた思想の産物であると説いている。動物像が副葬される状況はかならずしも珍しいことではないが、その考古資料的判読の好機は意外と少ないのであるという。


参考文献
「ギーラーン 緑なすもう一つのイラン」 1998年 中近東文化センター
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝 図録」 2006年 朝日新聞社・東映事業推進部

ギーラーン2 土偶と金製品、装身具

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殊に思い入れのあるギーラーンでの出土品は円形切子碗だ。
(写真はタブリーズのアゼルバイジャン博物館にて)

『ギーラーン』は、故深井晋司先生が1959年ノウルーズの頃テヘラーンに滞在中、とある骨董屋の店に置かれていた正倉院の円形切子装飾瑠璃碗とよく似たカットグラス碗を見付けたことがきっかけとなっている。当時テヘラーンの骨董屋の間にアムラシュ出土と称されるおびただしい古物が流れこみ、興味をもった先生がそれらを見て歩いていてこのガラス碗に出会ったとのことであった。
その年の7月、調査団のうち4人がアムラシュに調査にでかけたのである。
その結果アムラシュはテヘラーンにあふれている古物の集散地にすぎず、出土地はここから谷ぞいに山深く分け入ったデイラマーン地方であるということが判明した。
一行はラバの背にゆられて2日がかりで現地に到着、ここが先史時代からパルティア・サーサーン朝時代にまでわたる種々な形式の古墓群が密集する地域であり、また村人により徹底的な盗掘が行われていることを調査確認したのであった。
集落の側に古代の墓域が存在するという。
『ギーラーン』は、デイラマーン盆地は西から東に流れるチャークルード川によって刻まれたゆるやかな谷から形成されている。谷の斜面はチャークルード川に流れ込む何本もの支流によって削られた多くの舌状台地が形成され、そこに無数の古墓が営まれていて、この地域が古くから多くの人々の生活の場であったことを物語っている。デイラマーンへは今こそ便利な自動車の通れる道があるが、かつてはラヒーマーバードからチャークルード川、アムラシュからはサールマーンルード川、スィヤーキャルからスィームルード川をそれぞれ徒歩あるいはラバの背で遡るしかなかった。したがってこの盆地は外界から隔絶した独自の文化を有した別世界であったという。
ギーラーン、特にデイラマーンについてこのようなことを知って、一度は訪れたいところの一つとなった。しかし、今では「隔絶した世界」へも道路ができているとはいえ、ホテルから往復する時間はとてもない。それに出土地はすでに埋め戻されてしまっているし。
円形切子碗については、すでに記事にしたことがある。それは天理参考館は、所蔵する切子碗の分析調査で、ローマ製ガラスに特有の成分を確認した。ササン朝ではなく東ローマ帝国で造られた可能性があるということで、成分分析の結果、円形切子碗の中には、地中海域で植物灰の代わりに使用されたナトロン・ガラスのものがあったということだ。
それについてはこちら
こんな僻地でサーサーン朝の当時の高価なガラス器が入っていたことも驚きだが、東ローマ帝国からはるばる将来されたガラス器までも入手していたとは。
しかしながら、デイラマーンでは、現在に至るまで墓しか発見されていない。ひょっとすると、もっと交通の便の良いカスピ海南岸の平野部に拠点を置いて、交易で財をなした人々が、盗掘を避けて、奥山に分け入って墓域を築いたことが想像される。

円形切子碗についは以上で、今回は他のギーラーン州出土品について。

『ギーラーン』は、セフィードルード川流域に展開する古代遺跡のうち、革命前イランの考古当局が調査した重要遺跡のひとつにキャルラーズ遺跡がある。それはラシュトの南55㎞、マールリーク遺跡の対岸に位置し、1967、68、69年の夏の3シーズンの発掘調査によって、前8-6世紀、および前3世紀に年代付けられる古代墓が見出された。発掘者ハーキャミーの報告によれば、岩盤を抉った楕円形墓と石造の矩形墓があるいう。

『ギーラーン』は、発掘時の出土状況について詳細な報告がないのは残念だが、キャルラーズ遺跡出土の「古拙なつくりの女性像」と呼ばれる副葬土製品は「アムラシュ土偶」の名で今日多く流伝している同製品の形象土器の、あるいは唯一確たる出土事例かも知れないという。
三重の同心円状のものは目だけにとどまらず、肩、膝、臍などにもある。手は重ねることなく、上下にして胸に付けている。碗釧も刻まれていて、金属の耳飾りまで付けている。頭上のものは髪だと思っていたが、冠か帽子かも。
タブリーズのアゼルバイジャン博物館にも似た女性像が展示されていた。

女性像 テラコッタ 前1千年紀 ギーラーン州ロスタマバード(Rostamabad)出土 
渦巻形の目に見えたが、キャルラーズ出土の古拙なつくりの女性像と同じく三重の同心円文だった。他にも3箇所に同心円文がある。
やはり手は上下にし、碗釧や耳飾り、そして冠のようなものを付けている。

土偶 前1千年紀 高45.0幅15.1㎝ 中近東文化センター蔵
目と他に5箇所に二重の同心円文。
顔はフクロウのようなつくり。耳は見えない。

土偶 前1千年紀 高42.4幅14.0㎝ 中近東文化センター蔵
三重の目は他の同心円文よりも大きい。大きな耳には飾りはついていない。
腕はややずれているが上下に置いている。
同じ時代、同じ地方なのに、作風の異なった女性像もあった。

土偶 前1千年紀 高13.0幅7.5㎝ 中近東文化センター蔵
小像だが、腰がもっと強調されている。腕はなくフクロウ形の顔は鳥形と言えるほど幅がない。頭上には冠らしきものはのせている。

土偶 前1千年紀 高34.8幅16.7㎝ 中近東文化センター蔵
顔には目だけでなく、鼻梁の下には穴と口、更に顎が表される。腕も少し出ている。

土偶 前9-8世紀 高18.3幅7.8㎝ 中近東文化センター蔵
小像で耳と口に穴があいている。頸は異様に長い。

金製容器 キャルラーズ出土
『ギーラーン』は、金製、金銀製容器はその形状、あるいは装飾にマールリーク遺跡出土の金製容器との類似が注目される資料であったという。
下部には大角鹿が器表をめぐり、その上にはガゼルを倒したライオンのような肉食獣などが表されている。

動物装飾杯 前1000年頃 エレクトラム 高17.5径13.0㎝重225.4g ギーラーン州マールリーク出土 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、金と銀の天然合金であるエレクトラム製のゴブレット。口縁部と底部に組紐文様を配置し、胴部の2段の文様帯にそれぞれ四足獣の行進する姿が描かれている。引き締まった体軀、すらりとした頸や足から、一見すると馬のようにもみえるが、尾などみる限り牛を表した図像にもみえるという。
マールリークはコブウシ形象土器が発掘によって出土している遺跡である。ギーラーン州のアスタラでは、牛の群が通り過ぎるのを傍で見ていたが、コブのない牛に混じってコブウシもいたが、どちらかというと少数派だった。だからコブのない牛を表すのは不思議なことではない。
金製ガゼル装飾杯 前1000年頃 金 高20.0径13.7㎝重229.0g ギーラーン州マールリーク出土 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、胴部にガゼルの生涯を4段構成で表した金杯。最下段から、母ガゼルの乳房にすがる子ガゼル、立ち上がって生命の樹をはむ若ガゼル、ガゼルの敵である猪、猛禽についばまれるガゼルの死体、と4つの情景が浮彫と繊細な線刻で表現される。マールリーク遺跡からは15点にのぼる金杯が出土しているが、本作は当時の死生観や精神性をうかがうことのできる点で貴重であるという。
高杯 ギーラーン出土 金製 前1千年紀前半 高8.9㎝ 中近東文化センター蔵
『古代イラン秘宝展』は、主なモチーフとなっている組み紐文は古代オリエントで頻繁に使用された文様であり、マルリーク出土品にも類例が見られる。ただ、組み紐文のみが主要なモチーフとされているものは存在しない。また脚部を有する小金杯は比較的珍しいという。

かなり以前に組紐文についてまとめた時に取り上げた作品。

耳飾り:前1千年紀 装身具:前7世紀-紀元前後 金 出土地不明 中近東文化センター蔵
金冠は、葉形と壺形に切ったものを帯に取り付けてある。
これまで見てきた歩揺冠(1世紀第2四半期 ティリヤ・テペ6号墓出土)とも異なるし、アレクサンドロス大王の父フィリポス2世が被っていたかも知れないマケドニアの花冠(前4世紀後半 ヴェルギナ第2墳墓出土)とも違う。この地の独自の文化の賜物かも。

首飾り 前1千年紀 金 重45.0g キャルラーズ出土 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、円筒形56珠、卍形3珠、球形31珠のビーズを綴った首飾り。ギーラーンでは金製品の出土が数多く報告されるという。
薄板に打ち出しで粒状の列を作った円筒形の珠、そして粒金で菱形文や輪郭を象った卍形の珠という、細密な技法を駆使した装身具である。
残念だが、実物は同館見学時には展示されていなかった。
首飾り 前1千年紀 瑪瑙、ガラス ネスフィ出土 イラン国立博物館蔵
トルコ石の代替として使われたのはファイアンスではなくガラスだった。結び目近くの目玉が目立つ。
緑色のものは透明ガラスのようだ。透明ガラスは、西アジアでは前8世紀中頃たら製作が始まった(『MIHO MUSEUM 古代ガラス展図録』より)ということで、それ以降の作品だろう。
首飾り 前1千年紀 瑪瑙・ガラス・土製品 ネスフィ出土 イラン国立博物館蔵
途中から2連になり、しかもその間に梯子のような仕切りがある。どう見ても左右対称ではない上に、大きなペンダントトップは施釉の土製品に見える。

    ギーラーン1 コブウシ

関連項目
新沢千塚出土カットガラス碗は白瑠璃碗のコピー?
正倉院の白瑠璃碗はササンかローマか
黄金のアフガニスタン展2 ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠
組紐文の起源はシリア

参考文献
「ギーラーン 緑なすもう一つのイラン」 1998年 中近東文化センター
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝 図録」 2006年 朝日新聞社・東映事業推進部
「古代イラン秘宝展-山岳に華開いた金属器文化-」 2002年 岡山市オリエント美術館
「MIHO MUSEUM 古代ガラス展図録」 2001年 MIHO MUSEUM 

イラン国立博物館 クロライト製品

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クロライトは青銅器時代の前3千年紀頃にその製品が流通していた。
『ペルシャ文明展図録』は、『シュメル王名表』の記事によれば、原エラムの首都スーサは、キシュの王によって軍事侵略されたという。
ここでスーサが廃墟と化したとするのは早計である。イラン側が支配権を失い、メソポタミアの影響力が強まったかも知れないが、イラン高原全域をカバーするあのネットワークは温存されたと見るべきであろう。事実東方の物資のメソポタミアへの供給は依然続いていた。
この頃、イラン高原の東南部で新商品が開発され、ネットに載せられて、イランからメソポタミア、シリア、あるいはインダス河流域にまで達した。それはケルマーン産の緑色の石、クロライト(緑泥岩)を加工した容器で、主たる工房はケルマーンのテペ・ヤヒヤにあった。テペ・ヤヒヤはかつての原エラム都市の一つで、全層を通じてクロライト製品が出土するが、ⅣB2層(前2800-前2600年頃)で増加し、続くⅣB1層(前2600-前2500年頃)でピークを迎える。そしてⅣA層(前2400-1800年頃)には減少する。テペ・ヤヒヤ自身はそれほど大きな遺跡ではなく、クロライト製品の生産は、たぶんその上位都市の指示によって行われていた。
その都市とは、同じケルマーンにあって、テペ・ヤヒヤⅣB層とほぼ同時期に急速に巨大都市化したシャハダードではないかと思われる。シャハダードには、この時代のイラン高原の物流ネットを支配する中心的都市がおかれ、自前の新製品として、テペ・ヤヒヤのクロライト製容器を広い領域に送り出したのである。かつての原エラムの首都スーサがメソポタミアの勢力に奪われた後、ネットの中心はシャハダードに移転し、新商品を含む東方の物資をメソポタミアに供給し続けた。この新たなネットワークは「トランス・エラム文明」と呼ばれるという。

クロライト製品としては、浮彫のある容器を最初に出会い、その後婦人坐像や分銅なども知って興味を持っていたので、その容器をまとめて見ることができたのは幸いだった。

砂時計(鼓)形容器 石象嵌 動物たちの戦い
上段では絡み合う蛇の片方を鷲掴みする猛禽、下段も同じモティーフで、文様を上下そろえずにずらしている。
婦人坐像の頭部や手足には石灰岩が使われているので、このような容器にも石灰岩を象嵌しているのかも。蛇も猛禽も象嵌された石はフットボール形。
展開図

円筒形容器 石象嵌
蛇にはフットボール形の石、獣には円形の石が象嵌されている。
展開図
ここでも蛇が獣に捕まれた場面が展開する。

容器 石象嵌 半人
この作品でも蛇が登場する。有角の人物または神が両腕にそれぞれ蛇を抱えている。
蛇は農耕に有害なネズミを退治するため、崇められていたはずなのに、どの作品でも捕まれているのだった。
やはり蛇にはフットボール形の石、人物または神の衣装には円形の石がはめ込まれている。
展開図

壺 石象嵌
このような形に中を刳り貫くのは大変だったのでは、と観察すると、胴部で切れている。頸部は溝なのか切れているのか不明。こんな風に接いでも液体は漏れるだろう。飾り壺だったのだろう。
上段は三角に切った石を嵌め込んで入れ子の三角形文様をつくり、下段は花弁形の石を嵌め込んで花文にしている。

容器 前3千年紀 ケルマン州シャハダード出土
象嵌のない容器。
うねった水流のような文様が器体を埋め尽くす。数本の束になった筋がくるりと回転して上下になり、立体感を出す。


容器 前3千年紀 
一見たてがみがあるのでライオンかと思ったが、筋のある大きな角も表されているので、山羊か羊の種類だろう。向かい合う山羊の表情は穏やかで、その間にはチューリップのような葉の植物か水路の先の四角い水場が表されている。
展開図では、チューリップのような葉ではなく動物が鎖で杭に繋がれているのだった。

容器 前3千年紀 シャハダード出土
やはりたてがみと大きな角、そして長いあごひげがある。ヤクかも。背景には高い山々。
展開図には想像もしていなかった人物が登場していた。 
説明は動物の支配者という。山を支える支配者の持つ川の流れ?は、コブウシの間で卍形に交わっている。

ハンドバッグ形 クロライト製
説明は神殿のような建物を装飾モティーフにしているという。奥には同じ浮彫で小型のものも置かれていて、セットとして使用されたのだろう。
この形のものは分銅で、タブリーズのアゼルバイジャン博物館でも数点展示されていた。それについてはこちら






関連項目
イラン国立博物館1 青銅器から鉄器時代
タブリーズ アゼルバイジャン博物館
マルグシュ遺跡の出土物5 女神像

参考サイト
世界史の歴史地図へのお誘いというサイトの特集 トランス・エラム文明

参考文献
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝 展図録」 2006年 朝日新聞社・東映

イラン国立博物館 印章

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円筒印章はコインと同様に小さいので、限られた時間でじっくり鑑賞することが困難だが、そこに刻まれている文様や場面は興味深い。
『オリエントの印章』は、円筒印章は粘土板やその封筒、あるいは壺、容器、扉等を封印する大型の粘土塊を広く印で覆うのに適しているという。

円筒印章 前3千年紀 石製 スーサ出土
7は複数の人物が登場する何かの場面、10は長い角のある動物を大きく表したもの

スタンプ印章・円筒印章 前3千年紀(9は中期、2・8は後半) 石製、8のみ石膏 スーサ出土
2は椅子に座る神に礼拝する3人、8はジグザグ文様だけで構成されている。⑨は立ち上がった動物が背中合わせとなり、それぞれ人と闘っている。

スタンプ印章 前3千年紀 石製 スーサ出土
1はライオン頭部形の印章で、その印影もライオン頭部
2-4も動物を表しているらしいが、3の蛇以外はわからない。4は羊の群かも

円筒印章 前2千年紀 石製(5はビチューメン=瀝青) スーサ出土
人物や神の場面、総てではないかも知れないが楔形文字の文もある
1・3・6には椅子に座る神が登場する。

円筒印章 前2千年紀 ファイアンス製(5はヘマタイト=赤鉄鉱) 1はスーサ出土、2-4はチョガ・ザンビール出土、5はルリスターン出土
④を除いて人物の登場する図と文で構成されている。
『ペルシャ文明展図録』に記載されているものを古い順に見ていくと、

円筒印章:舟の上の神 前2200-2000年 ハマダーン州出土 黒石 高3.1径1.8㎝
『ペルシャ文明展図録』は、両先端が反り返った葦舟に乗り、左に縦襞の長衣を身につけた人物(神)が天を仰ぐように座る。船上の右にはもう一人の小柄な人物がおり、先端の丸い櫂で舟を漕いでいるという。
円筒形の石だけ見ると、とても印影のようなものが表されているようには思えない。 

円筒印章:謁見の場面(集合写真⑤) 前1800-1600年 高2.2径1.5㎝ 赤鉄鉱 ルリスタン州出土
『ペルシャ文明展図録』は、楔形文字で所有者が刻まれ、「ワラド・ネルガル。ワラド・イリーの息子、ナラーム・スィーンのしもべ」とある。右に縦ひだの長衣を着て角飾りのついた冠をかぶった女神が、うやうやしく両手をあげている。左で礼拝を受けているのは、膝までの服を身に着け、肘を曲げて棍棒をもつ独特のポーズの男性、低位の神の礼拝を受け、権威の象徴である棍棒を持つ人物は王と思われる。この2人の向き合う図は古バビロニア時代のメソポタミアでは典型的なモチーフ。あらかじめ図柄を彫っておき、注文により銘文を刻むのである。メソポタミアで作られた印章であろうという。
銘文が短いので印影に隙間ができている。
ナラム・シーンはアッカド王朝時代の王(在位前2254-18年頃)で、その戦勝記念碑はエラムの王(在位1185-55年頃)によって略奪され、スーサに運ばれている。ということは、この円筒印章は、アッカド王朝滅亡後にメソポタミアで造られたものということになるのかな。

円筒印章:宴会の場面(集合写真①) 前1300年頃 ファイアンス 高4.4径1.3㎝ フーゼスターン州スーサ出土
『ペルシャ文明展図録』は、銘文の内容は「生は神のもとに、救いは王のもとに(ある)。私の神よ、私は貴方を求める」。椅子に座る人物は何かを飲食しており、その前に立つ人物は手をかかげて礼拝のボーズを示している。上には菱形モティーフとうずくまる草食獣が表されるという。
この円筒印章の持ち主が立っている人物で、崇拝している神に供え物をしたい気持ちを表しているのだろう。

円筒印章:宴会の場面 前1300年頃 高4.9径1.6㎝ ファイアンス チョガー・ザンビール出土
『ペルシャ文明展図録』は、前作品とほとんど同じ内容の楔形文字の銘文がある。椅子に座る人物は右手の小壺から酒を飲んでいる。人物の前の脚付きの卓には魚が載せられ、その上には星がある。上段には角のある動物2頭が表されているという。
こちらでは持ち主は描かれていない。 

円筒印章:宴会の場面(集合写真③) 前1300年頃 高5.3径1.5㎝ ファイアンス チョガー・ザンビール出土
『ペルシャ文明展図録』は、「(この)印章を携える者を(自由に)宮殿に出入りさせるように」と記されている。立った人物は右手に酒壺を持っている。人物の前の脚付きの卓には魚が載せられている。蝿のようなモチーフも見られる。円筒の両端にくびれが作り出された珍しい形で、何かが巻き付けられていたのかもしれないという。
王あるいは雇い主、神官などから与えられた円筒印章だろう。

円筒印章:水神(集合写真④) 前1100-800年 高4.1径1.5㎝ ファイアンス チョガー・ザンビール出土
『ペルシャ文明展図録』は、角飾りのついた冠をかぶった人物(神)が2人、立て膝をついて座っている。頭上にはそれぞれ蝿、太陽がある。2人の人物の間には上下2つずつの壺があり、2人の人物及びその他の方向に水が流れ出している。壺から流れ出る水はメソポタミアの水神に関わるモチーフという。
どのような人物が所持していたのかわかりにくいモティーフだ。水神を祀る神殿の神官かな。

円筒印章:動物文 前1100-800年 高5.2径1.9㎝ 練りラピスラズリ 西アーザルバーイジャーン州ハサンルー出土
『ペルシャ文明展図録』は、古代オリエントで強い動物とされる牛とライオンが向き合って人間のように立ち上がっている。両者の間にサソリ、蛇、太陽、月、三日月、鳥がある。楔を組み合わせた星、交差する蛇、意味不明のモチーフなど、きわめてユニークな図柄も見られる。上下端部に斜線装飾帯が入るという。
こんなに楽しい場面を円筒印章にするとは、一体どんな人物だったのだろう。

円筒印章:祭祀の場面 前700年頃 高4.2径1.9㎝ 瑪瑙・青銅 ギーラーン州アマルルー出土
『ペルシャ文明展図録』は、聖樹を中心にイナンナ女神と王侯が向き合い、アッシュル神のいる有翼円盤から延びる光を握っている。王侯の後ろには学問の神ナブーが蛇形ドラゴンに乗っている。背後にナブー神のシンボルである楔と上に7つ星(星座スバル)と三日月がある。この作品はメソポタミアからイランに持ち込まれた新アッシリア時代の印章の優品で、上部に青銅の金具がついており、垂直に吊していたことがわかるという。

円筒印章:動物を捕らえる王侯 アケメネス朝(前550-330年) 緑泥岩? 高3.0径1.4㎝ ファールス州出土
『ペルシャ文明展図録』は、翼のある山羊を両手で取り押さえるアケメネス朝ペルシャの王侯。このような架空の動物を、王侯が退治する場面がしばしば描かれた。瑪瑙や玉髄製の印章もある中で、あまり高価でない石材を使用しているのは、アケメネス朝本流の作品ではないからかもしれないという。

円筒印章:ライオンと闘う王侯 アケメネス朝 緑泥岩? 高2.7径1.3㎝ ファールス州パサルガダエ出土
『ペルシャ文明展図録』は、王侯が倒立したライオンと戦っている。上には三日月、その隣上方には、4枚の翼のあるアケメネス朝の祖先神あるいはゾロアスター教の善神アフラ・マズダー神が描かれている。その下には8本スポークの車輪がある。大英博物館蔵の戦車に乗ってライオンを狩るダレイオス1世の円筒印章が知られているが、本作品と何らかの関係があるのかもしれない。印章の質と間遠な配置から地方作と思われるという。

円筒印章:動物を捕らえる王侯 アケメネス朝 玉髄・金 高3.3径1.3㎝ 伝ギーラーン州ルードバール出土
『ペルシャ文明展図録』は、この印章には特に翼が長い有翼円盤がある。その下では、倒立したライオンの後ろ足を、王侯が捕らえている。脇には(同じ?)王侯が右手に短剣を持ち、有翼人頭山羊の角を捉えている。この作品には細粒金細工による三角文で飾られた金のキャップが上下端に付く。紐を通す環がキャップ側面に付き、首飾りのように身に付けていたことがわかる。印章というよりも装身具の一部であったかもしれないという。

これらの印章を見る限り、有翼円盤がペルシアで登場するのは前700年の作品で、アッシュル神のいる有翼円盤と解説されている。その後アケメネス朝になると翼の長い有翼円盤が表されるが、『ペルシャ文明展図録』は、アケメネス朝の初期にはアフラ・マズダーの像は描かれなかったとするする考えもあり、先祖霊フラワフルである可能性も指摘されているという。
ペルセポリスなどで見た有翼円盤はアフラ・マズダー神だと思い込んでいた。

      イラン国立博物館 クロライト製品

関連項目
円筒印章に取り付けられているもの
円筒印章の転がし方

参考文献
「ペルシャ文明 煌めく7000年の至宝 図録」 2006年 朝日新聞社・東映
「大英博物館双書 古代を解き明かす4 オリエントの印章」 ドミニク・コロン 1998年 學藝書林

イラン国立博物館 チョガー・ミシュ(Choga Mish)という遺跡

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チョガー・ミシュという遺跡があることをこの博物館で知った。それは原エラム時代から存在した町のようだった。
東海大学文学部アジア文明学科の春田晴郎氏の非公式ブログチョガー・ミーシュ遺跡という記事に遺跡の写真が掲載されており、遺跡の現在の様子を知ることができた。
Google Earthより

チョガー・ミシュの展示ケース
『古代オリエント事典』は、前7-4千年紀にイラン南西部フーゼスターン地方のスシアナ平原に展開した文化。同平原にはメソポタミア南部と同様の沖積平野が広がり、西部はスーサ周辺、東部はチョガー・ミーシュが編年基準。チョガー・ミーシュではウバイド1-3期併行のスシアナ前-中期に集落が拡大し、中期後半に最大となり、次いでしだいに縮小するという。
斜めの縁の鉢 前4千年紀後半
この時代にはすでに薄手の彩文土器が作られているというのに、比べものにならないくらいの無骨な器だ。 
杯 前4千年紀 彩文土器 高24.3径12.7㎝ フーゼスターン州スーサ出土 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、上部がわずかに開く背丈の高い円筒形の杯。鈍黄色の化粧土の上に施された茶色の彩文。動物の意匠をもつ彩文土器はイランの先史時代を通じて数多く製作されたという。
こんなに薄作りの成形はろくろによると思われるが、展示されていた上の鉢は、回転台を使っていたのだろうかと思うほどのものだ。

斜めの縁の鉢の発掘 前4千年紀後半 チョガー・ミシュ遺跡
同じ形のものが大量に出土している。
斜めの縁の鉢が伏せて並べられた状態で出土した様子
容器としてではなく、伏せて並べて壁体または壁の土台に使っていたように見える。

他に1点あったがピンボケ気味の土の玉だけだった。

土の玉 原エラム時代(前4千年紀) フーゼスターン州チョガー・ミシュ出土 
そこにはこんな絵が刻まれているらしい。
何かに腰掛けている大きな人物は女神らしく、右手に槍、左手には蛇らしきものを掴んでいる。その周囲には人々の日常生活が表されている。

『ペルシャ文明展図録』にはチョガー・ミシュの出土品が1点だけ記載されている。

山羊形把手付き筒形杯 前2千年紀 瀝青 高16.8長15.5㎝ フーゼスターン州チョガーミシュ出土
同展図録は、立ち上がった山羊をかたどった大きな把手をもつ円筒形の杯。材料の瀝青とは天然アスファルトのことで、フーゼスターン州でも産出する。古来より接着剤やレンガ建築の目地、籠や土器の防水加工など、幅広い目的に利用された。紀元前2千年紀世紀前半の古エラム期には、装飾性に富んだ瀝青容器が数多く製作されたという。
ルーヴル美術館の子山羊を象った三足付鉢の説明は、スーサ以外で発見された瀝青に彫刻された唯一の容器という。
スーサで出土した彫刻のある瀝青容器についてはこちら

azianokazeさんのイラン2017・・・(9)テヘラン 定番「考古学博物館」にお洒落な「ガラス・陶器博物館」 旅の終わりは「大バザール」には、前3500年頃のチョガー・ミシュの町の想像復元図などの写真があって、かなりの規模の都市のようだった。
そのようなものを見逃していたのが残念だが、どういうわけか、個々の建物のパネルだけは写していた。
扉は左端にあるので、窓のようなものが4つ並び、それぞれ上部に円形の開口部もある。
前4千年紀にドームがあったのかな。
ジッグラト?それとも三階建ての集合住宅?
神殿の想像復元図 前4千年紀
このような建物がひしめき合う町が、スーサの近辺にもっと眠っているかも知れない。

イラン国立博物館 印章

関連項目


参考サイト
ルーヴル美術館の子山羊を象った三足付鉢
azianokazeさんのイラン2017・・・(9)テヘラン 定番「考古学博物館」にお洒落な「ガラス・陶器博物館」 旅の終わりは「大バザール」
東海大学文学部アジア文明学科の春田晴郎氏の非公式ブログチョガー・ミーシュ遺跡

参考文献
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝 図録」 2006年 朝日新聞社・東映事業推進部
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店

イラン国立博物館 彩釉レンガの変遷

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彩釉レンガ 
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、ブーカーンはイランの北西部、西アーザルバーイジャーン州に位置する遺跡で、山岳地帯に侵入してきたイラン人の一部族であるマンナイ人が建てたマンナイ王国の都と推定されており、発掘調査によって神殿址の存在が知られるようになった。黒色の線で縁取りした後、青や黄色、白の釉薬で埋めて文様を描き出している。図柄そのもの及び筋肉表現などにアッシリア美術の影響が強く認められる。
施釉煉瓦の胎土は、後にスーサで製作された施釉煉瓦の石英質の胎土とは異なり、ごく普通の煉瓦の胎土が選ばれている。そのため釉薬が胎土とあまりなじまず、釉薬のほとんどが剥落してしまっているという。
ブーカーンといえばマンナイ(マンナエ)国の町。日本にもこの地から出土した彩釉レンガが幾つか所蔵されていて、アッシリア的だという(『世界美術大全集東洋編16』より)。
それについてはこちら
テヘランのイラン国立博物館でも2点展示されていたが、ほぼ平らに置かれていたので、写しにくかった。

植物文様の彩釉レンガ 前1千年紀 西アゼルバイジャン州ブーカーン出土
黒い輪郭線が目立つが、釉薬よりも盛り上がってはいない。
四面に向かってロータス文、四隅に向かってその蕾が描かれているようだ。今では白っぽい花と蕾の間には、トルコブルーの釉がかけられている。
花の付け根まで黒色で細かく描かれているが、焼成中に温度を上げすぎたのか、釉薬が泡を吹いたようになってしまい、剥離に拍車をかけてしまった。

彩釉レンガ 前1千年紀 ブーカーン出土
よく似た図柄の左右反転したレンガ(前8世紀)がブーカーンから出土して、シルクロード研究所に所蔵されている。
この作品は釉薬が薄くかけられているためか、気泡は少ない。
輪郭線に肥瘦があり、東洋の書道のような獣毛の筆で描いたように見える。顔面などは特に入念に表されている。
黒い線は細部の描写だけでなく、色の異なる釉薬が混ざらないためのものでもある。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、色釉が混じらないように黒の輪郭線を施す技法は、この時代のアッシリアからイランにかけて広く見られるものであり、アケメネス朝ペルシアの彩釉レンガの技法の原点となるものであるという。
釉薬の現在の色は、白・黄・緑(トルコブルー)の3色。

アケメネス朝時代の彩釉レンガ スーサ出土
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、灰白色の石英質の胎土に釉を施したもので、図柄の輪郭線を描いて焼成した後、その間にさまざまな色彩の釉を施して焼き上げたものであるという。
マンナイ人の彩釉レンガよりも釉薬の色が豊富だ。
植物文様と三角が目立つ。
上部にはロゼッタ文
マンナイ人の彩釉レンガよりも、輪郭線の盛り上がりが顕著。
主文様は、ペルセポリスのアパダーナトリピュロンなどの階段に浮彫されていたナツメヤシのモティーフ(『GUIDE』より)で、当初のものから変色してしまっているかも知れないが、ペルセポリスの石彫もこのように彩色されていたのだろう。
下段の多彩色の同心円文
アケメネス朝時代の彩釉レンガの輪郭線は、黒ではなく青っぽい。そして盛り上がっている。
スーサでは、スフィンクスや衛兵を表した彩釉レンガも出土しているが、それはスーサの遺跡に併設された博物館に展示されている。


イラン国立博物館 チョガー・ミシュという遺跡

関連項目
クエルダ・セカは紀元前にも?
彩釉煉瓦の黒い輪郭線
マンナイ人の彩釉レンガ
イラン国立博物館 クロライト製品
イラン国立博物館 印章

参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市オリエント美術館
「THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis」 ALIREZA 
「世界美術大全集東洋編 16西アジア」 2000年 小学館

イラン国立博物館 サーサーン朝のストゥッコ装飾

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イラン国立博物館ではサーサーン朝の浮彫ストゥッコが多く展示されていた。

壁面装飾 ストゥッコ ダムガーン、テペ・ヒッサール出土
八角形と小さな正方形との組み合わせの区画の中に植物文様が浮彫されている。やや曲面の壁面を飾っていたらしい。
壁面装飾板 ストゥッコ 
上の長い装飾板とモティーフが共通するので、同じ遺跡から出土したのではないかと思われる。
というか、そう思い込んで、説明の写真を取り損なうことがしばしばある。
壁の装飾浮彫 ストゥッコ 高41.0幅40.0㎝ テペ・ヒッサール出土
『ペルシャ文明展図録』は、ササン朝期の重要な建築物の壁は、このような飾り板でほとんどすきまなく装飾されていた。ササン朝期の特徴的な文様である連珠文を巡らせた円環の中に、ゾロアスター教に関わる吉祥文のシンボルが表現されている。このシンボルはパフラヴィー語が図案化されたもので、正確な意味は不明。おそらく新年(春分の日がゾロアスター教の元旦)を祝う内容と考えられるという。
壁の装飾浮彫 ストゥッコ サーサーン朝後期(6世紀) 高38.0幅38.0㎝ テペ・ヒッサール出土
『ペルシャ文明展図録』は、型造りによる。穴あき連珠文の中に猪の頭部側面が表現されている。猪はササン朝の帝王による狩猟図でしばしば描かれる獲物の一つという。
上のよううな突起状の連珠文もあれば、このような輪っかが並んだ連珠文もある。
壁面装飾板 ストゥッコ 出土地不明
穴あき連珠文が矩形の外枠と中央の円に見られる。その中にパルメット状の植物モティーフが組み込まれている。
壁面装飾 テペ・ヒッサール出土

円形壁面装飾板 出土地不明
正方形の枠に円形の文様というものだったが、この装飾板は円形。正方形のものは壁面に並んでいたのだろうが、このような円形のものは、別の場所にあったと思われる。中央に穴があるし。

牛の浮彫漆喰
まだ角はなく、仔牛のようで、組紐のようなものを食んでいるのだが、胴部以外は修復されたもの。
鹿の漆喰装飾
その右には成獣の鹿。やはり組紐のようなものを食んでいる。

ストゥッコ装飾断片 テペ・ヒッサール出土
葉綱装飾とパルメット文という西方由来のモティーフ
かなり厚みがあり、下側にも文様があるので、開口部上部を飾っていたのだろう。

城壁文にパルメット風の葉が左右対称に伸びている。
建物の上部にあったと思われる。

曲面の壁面装飾 ストゥッコ テペ・ヒッサール出土
2本の円柱が支えるアーチの中に向かい合わせのパルメット文が入り、それが互い違いに重ねられている。
太い円柱の付け柱を覆っていたのだろうか。
曲面の壁面装飾 ストゥッコ テペ・ヒッサール出土
こちらは渦巻文様で埋め尽くされている。

曲面の壁面装飾 ストゥッコ レイ、チャール・タルカーン(エシュハバード)出土
その拡大
二重の突線で十字形をくつり、その中にパルメット文を嵌め込んでいる。
壁面装飾 ストゥッコ レイ、チャール・タルカーン(エシュハバード)出土
上段には花文、下には連珠円文の中に猪頭が入ったものが並んでいる。


ストゥッコ 女性胸像 出土地不明
四隅には力強いパルメット文がある。女性の頭部は高浮彫

鳥像 ストゥッコ ファールス州ハジアバード出土
猛禽の高浮彫
ライオン頭部 ストゥッコ ハジアバード出土
大粒の連珠円文の中に正面向きのライオンが高浮彫されている。

王侯胸像 ストゥッコ 高32.7幅37.0㎝ ハジアバード出土
『ペルシャ文明展図録』は、縁に連珠文を巡らせた尖帽をかぶり、ボリュームのある頭髪を顔の両側に垂らしている。このような髪型は豊かな顎ひげと共にササン朝時代の王侯像の特徴という。
冠ではなく尖帽を被っているのは王ではないからかな。

シャープール2世胸像 4世紀 ストゥッコ 高50.0幅38.0㎝ ハジアバード出土
『ペルシャ文明展図録』は、ササン朝ペルシャ王の正面観をストゥッコで表した胸像。戴いた冠の形状から、これは歴代王のなかで最長の在位年数を誇り、その東方遠征に大きな業績を遺したシャープール2世(在位309-79年)であることがわかるという。
それなのに、何故部屋の片隅の、しかも床に置かれているのか・・・ 


イラン国立博物館 彩釉レンガの変遷

関連項目
イラン国立博物館 印章
イラン国立博物館 クロライト製品


イランガラス陶器博物館でラスター彩の制作年代を遡ると

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ガラス陶器博物館2階にはラージュヴァルディーナと名付けられた展示室が2つあって、どちらにもラスター彩陶器が多数置かれていた。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、ラスター彩陶器は、白色不透明釉の上に酸化銀または酸化銅を含む絵具で着彩したもので、上絵付のための2度目の焼成には酸素を著しく減少させた特別な環境を作り出す窯が用いられ、酸化金属を還元させることによって焼き上がった図柄が金属的な輝きを示す陶器である。「ラスター」とはこの金属的な「輝き」を指す英語で、現代の美術用語であり、当時は「2度焼きされるエナメル」と呼ばれていた。イランでは12世紀後半から生産され、14世紀半ばまで続けられた。ラスター彩の技法は特定の陶工集団が独占していたようで、広く普及することはなく、陶工集団が移住した地で一定の期間だけ隆盛を誇るという傾向にあった。この時代のイラン・ラスター彩陶器では多くの場合、白釉に中絵付が施されており、ラスター彩の色彩だけでなく、ターコイズ色や藍色のハイライトを帯びているという。
タブリーズのアゼルバイジャン博物館では12世紀のラスター彩陶器を多く見たが、テヘランのガラス陶器博物館で最も多いのは13世紀の作品だった。
製作時期、器形、出土地で分けて見ていくと、

13世紀の作品

鉢 カーシャーン出土
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、錫白釉の地に酸化銀、酸化銅などを主体とした複雑な呈色材料で絵付を行ってから低火度で還元焼成させるという。このように赤っぽい発色は酸化銅だろう。
渦巻あるいは蔓草文様の他にはアラビア文字、そして横向きのカモのような鳥が描かれている。カモは飛べるのかなと思うほど重そう。
コバルトブルーの線が映えるが、その釉は器壁と見込みの境目でにじみがある。

鉢 カーシャーン出土
見込みには人面の鳥が二羽、背を向けて顔だけ合わせている。器壁には人物とアラビア文字が描かれるが、大きなメダイヨンのある広い区画に描かれているものは不明。
この人面鳥はギリシア神話のハルピュイアだろう。
『世界美術大全集東洋編17』は、頭部の後ろの円光は、セルジューク朝美術の人物像表現の常套手段であったが、特別の意味はなく、背後から頭部を際立たせるためにつけられたという
側面(ピンボケ)
おそらく、内側を描いた陶工ほど技量のない者が描いたのだろう。

鉢 カーシャーン出土
小さな見込みには二人の人物、器壁にはクーフィー体の文字のようなものの間に蔓草が描かれる。
見込み描かれているのは女性だろうか。大抵は座った姿で表されるのに、どうも立ち姿のようだ。

碗形鉢 カーシャーン出土
左向きの騎馬人物を中心に、5名の騎馬人物がやはり左向きで描かれる。その枠となる樹木(またはナツメヤシ)が石畳文様に表されるのも面白い。
イランでラスター彩が製作された時期は、イランが異民族に征服されていたセルジューク朝~イルハン朝の時代だった(『砂漠にもえたつ色彩展図録』より)が、それ以前の東イランでつくられた黄白地多彩陶器(9世紀)に既に騎馬人物は描かれている。
その頃の人物は顔も丸くなく、盾や剣を振りかざして戦闘場面のようだが、ラスター彩に描かれるのは、顔は丸く(支配者がテュルク系やモンゴル系だった)、武器も持たない平和な暮らしが描写されている。

鉢 型成形 カーシャーン出土 
広い見込みいっぱいに草花が描かれている。口縁には幅広にコバルト釉が掛けられた、厚手の作品。

碗形鉢 ソルタナバード出土
2種類の蔓草文様が青い線12に区画された中に交互に描かれる。青い線も、コバルトブルーとトルコブルーの色があり、それを交互にひいている。

盤 カーシャーン出土
大きな見込みに3人物が大きく描かれている。丁寧に描かれているが、衣装の蔓草文様なのか、人物の手足の膨らみを表しているのか分からないところもある。

盤 カーシャーン出土
こちらも意匠や間地の文様などを細密に描いている。
凹凸のある小さな見込みを避けるように、器壁に3人物が描かれている。右の人物は髭があるので男性、左の二人は女性とわかる。すると上の作品は3人の女性かな。今まで男性か女性かよく分からないでいた。

盤 ゴルガーン出土
石畳文様の樹木と横向きの坐した女性が交互に描かれ、現在でも見られる木陰に憩う場面である。小さな見込みには騎馬人物が描かれる。
上の2作品に比べるとかなりラフな描き方で、ずっと上で紹介したカーシャーン出土の碗形鉢の描き方によく似ていて、同一工房で製作されたことを思わせる。

盤 サヴェーフ(テヘランから南西にある町)出土
これまでの作品は赤っぽい発色で酸化銅によるものだろうが、この作品は薄い発色で酸化銀が使われたものらしく、描かれたものが見えにくい。
樹木(ナツメヤシのような生命の樹)を中央に、左右に右向きの騎馬人物が配されている。

把手と注口付き水差し ゴルガーン出土
アゼルバイジャン博物館蔵のラスター彩水差しと形はよく似て頸部が太いが、細い注ぎ口が肩部から出ている。共蓋が残っているのは貴重。
肩部もよく張って、座った人や騎乗の人物が描かれている。
動物形水差し 型成形 カーシャーン出土
頭部は虎面を描き、頸から下には座る人物や騎馬人物が蔓草の間に描かれている。人物は他の作品と比べてかなり省略されて描かれている。

把手付き嘴形水差し 型成形 カーシャーン出土
あちこちが凹面になった器。型成形とはいえ、どんな風に製作したのだろう。轆轤でひいて、柔らかいうちに幾つかに分かれる型を当てたのだろうか。
注ぎ口が上を向いている方が、器体を深く傾けずに注げるのかも。

把手付き水差し 出土地不明
同じようなくぼみのある器。上の作品は鳥のような注ぎ口だが、本作品ははっきりと鶏を象っている。おそらく上の作品と同じ工房で製作されたものだろう。
鶏冠部分で容器は閉じられているように見えるのだが、短い嘴の穴から液体を出すとしても、どこからその液体を入れるのだろう。実用品ではなく飾り壺だったのかも。
高台にはコバルトブルーのアラビア文字が巡る。

水差し カーシャーン出土
チューリップのように開いた口縁に人面が4つほど並ぶ。頸部は細く、胴部は膨らみ坐した女が向かい合わせで描かれる。
轆轤成形の3つの部品を接合して造っているのだろう。
瓢形水差し 轆轤成形 ゴルガーン出土
頸部の小さな膨らみには七曜文が散らされ、大きな胴部には人物とその間に水差しや高坏形の鉢などが描かれ、宴の場面を表している。
高台にはコバルトブルーが掛かっている。
水差し 出土地不明
注ぎ口は一つなのに、水を貯める部分は6つの角筒に分かれている。特注品なのか、陶工の遊び心なのか・・・
その中央に小さな器状のものもあって、そこに炭を置くか火を点して暖めていたのかな。
水差しの形は多彩で、驚くような形のものもあった。13世紀を通してカーシャーン出土の作品が多く、カーシャーンは製作地であると共に大消費地でもあったのだ。

13世紀初頭の作品

鉢 酸化銀 カーシャーン出土
十字に区切る白い帯にはアラビア文字が、その間には女性がすわっていて、背景のはずの植物文様が女性の胸元で、前に描かれている。いや、女性ではない。人面の動物が、後ろ肢の上に前肢を置いて坐しているのだ。文様からすると豹ということになる。

鉢 ゴルガーン出土
上下逆に置かれているが、見込みには座った女性が一人、器壁には横並びに座った3人や、上下で合計3人となるなど、空間にうまく女性を配置している。

鉢 ゴルガーン出土
口縁部と見込みの間の白い帯にはアラビア文字の銘文が、葉文(樹木)の間に描かれる。
見込み
人物の衣装の文様や地文様がそれぞれ入念に描かれている。

12-13世紀の作品

混合用容器 ゴルガーン出土
料理と共に各種のスパイスやハーブを入れて出したか、ナッツやドライフルーツなどをお茶請けに出したのか。
一つ一つのくぼみに2人の女性が描かれる。全員が水玉模様の衣装を着けているというよりも、それぞれの文様を省略して豹柄のようになったのだろう。

盤 カーシャーンまたはゴルガーン出土
器壁には二人が座る場面が8つコバルトブルーの円の中に描かれる。

拡大
見込みには珍しく3人が登場する。子供を中央に置いた家族の行楽図だろうか、下方には絨毯の端が表され、その下には魚が4匹泳いでいる。

鉢 タロム出土?
ラスター彩で女性を描いた4場面とコバルトブルーで塗りつぶした区画を交互に配した大胆な作品である。
しかも、よく見るとコバルトブルーの下には太い筆による文様らしきものがありそうだ。
蔓草と共に描かれた女性の頭上には、人面の太陽のようなものが部分的に顔をのぞかせている。

水差し 型成形 レイ出土?
チューリップ形の口縁部を持つ水差しは13世紀にも作られているが、本作品はコバルトブルーの器体にラスター彩の女性像が埋め込まれるようなできあがりだ。

12世紀の作品
イランでラスター彩の生産が始まるのは12世紀後半ということだった(『砂漠にもえたつ色彩展図録』より)。

水甕 カーシャーン出土
太い頸部にはアラビア文字と渦巻く蔓草が描かれている。
紫に近い発色。向かい合って座る2人の女性という平穏な場面が器壁に繰り返されているのだろう。
下部には中心に点のある円文を簡略に描いていて、上部の主場面とは陶工が違うよう。

鉢 ゴルガーン出土
馬上の人物は足が見えず、正座しているみたい。女性を描いているのだろうか。
器壁には何を表したのかわからない文様が描かれる。

イランでラスター彩の生産が始まる以前の作品も出土している。アッバース朝で製作されたものが将来されたのだろうか。

容器 10-13世紀 ゴルガーン出土
文様は太い筆で描いている。
制作時期に幅がありすぎる。後半ならイランで作られたものになるし。

鉢 10世紀 ニーシャープール出土
くっきりと発色したラスター彩である。
下から映えた植物の枝が分かれる様子を描いてそれが器面を五等分する。左右の区画には同じ植物文様を左右対称に描き、頂部の区画には蔓草が伸びる様子をほぼ左右対称に整えている。

鉢 10世紀 レイ出土?
右手を上げ、左手は体に沿わせて座る人物が、鳥と共に、内面いっぱいに大きく表されている。
その顔はラスター彩に特徴的な丸顔ではない。

鉢 9-10世紀 出土地不明
器面いっぱいに大きな旗を持って走る人物が描かれる。旗にはわ2羽の鳥が横向きに描かれ、前方には別の種類の鳥が大きく描かれている。
大きな目と通った鼻筋の人物は、体は横向きなのに顔は正面向き。いったいどんな場面を表しているのだろう。

次回は初期ラスター彩陶器について

イラン国立博物館 サーサーン朝のストゥッコ装飾

関連項目
イランガラス陶器博物館 2階
アゼルバイジャン博物館 ラスター彩
ラスター彩の起源はガラス
ペルシアの彩画陶器は人物文も面白い

参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館

初期のラスター彩陶器はアッバース朝とファーティマ朝

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イランでラスター彩陶器の生産が始まるのは12世紀後半という(『砂漠にもえたつ色彩展図録』より)が、イランからはそれ以前のラスター彩陶器が出土している。
『世界美術大全集東洋編17』は、ラスター彩陶器は、9世紀頃からイラクやエジプトで制作され始めた。鉛釉に酸化錫を加えて造られた錫白釉の技法が確立したことによって、ラスター彩の技法も発展した。ラスター彩は、白釉陶器の上に、銀や銅の酸化物あるいは硫化物で絵付けをして、再度低火度の還元炎で焼成する彩画技法で、表面に金属的な光沢をもった被膜ができることによって、金属的な輝きを発する。金属的な発色は黄色に近い金色から、銅褐色の茶色までさまざまである。また初期ラスター彩には金、黄、茶などの複数のラスター彩が一緒に用いられた多色ラスター彩と、金または銅褐色1色を用いた単色ラスター彩があるという。
同書には12世紀第4四半期とされるイランで制作された作品が載っている。

人物文壺 セルジューク朝(12世紀第4四半期) 高34㎝ 製作地イラン 大英博物館蔵
同書は、アッバース朝時代にイラク、イランとその周辺で盛んになった陶器の制作は、イラン・セルジューク朝に受け継がれた。さらに新たな器形、技法、装飾が加わり、著しい発展を見せたセルジューク朝の陶器は、イスラーム陶器史上重要な位置を占めているという。
座って左手だけを衣装から出す女性が蔓草文様の帯の間に描かれる。顔も衣装の文様も似通っている。

同書には初期のラスター彩陶器が幾つか紹介されているが、12世紀前半のものはなく、11世紀の作品は、ファーティマ朝時代のもので、10世紀以前のものがアッバース朝時代のものだった。
同書は、赤みがかったやや粗い胎土に白釉をかけ、その上に黄色みを帯びたラスター彩で絵付けを施した典型的なファーティマ朝ラスター彩陶器である。
ファーティマ朝のラスター彩陶器には帝王主題のほかに、格闘図や闘鶏図のように従来とは異なった側面、つまり日常生活からとられたテーマが数多く選ばれているのである。また、人物像ばかりではなく、兎などの鳥獣類も非常に好まれたモティーフである。斬新なテーマに加えて、様式面でも写実性豊かで動勢に富んだ表現が多いことも、この時代の特色に数えられるという。


チーター使い図鉢 ファーティマ朝(11世紀初期) 径20.4㎝ 製作地エジプト アテネ ベナキ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編17』は、補修がかなり加えられている。この作品には、跪くようなポーズをとる老人と豹に似たチーターが向き合って表現され、背景を充塡するように表された樹木やパルメット唐草もともに白抜きで表現されている。両手を前に出してチーターを宥めるような仕草を見せているチーター使いの顔には補筆の跡がうかがわれるものの、真剣そのものの表情がうまくとらえられている。アーモンド形の大きく見開いた眼は、ファーティマ朝時代の図像表現の特徴である。
中東イスラーム世界の王侯貴族に好まれた狩猟のなかで、カモシカ猟にはチーターが使われ、狩猟図に表されている事例がいくつか知られている。裏面には伝統的な円文が白地にラスター彩で表されているという。
地面から生えてチーターの背後を通って延びる大柄な蔓草は、枝分かれすることなく、葉や巻きヒゲを出しながら、器体に広がる。人物の背後にも繋がらない葉が描かれる。 
あまり光沢の感じられない焼き上がりとなっている。
鷹狩り図皿 ファーティマ朝(11世紀) 製作地エジプト スイス リッギベルク アベック財団蔵
犬を連れ、渦巻で鷹狩りに向かう人物の素手の左手に鷹が留まっている。鷹狩りを見たことのない陶工が描いたのだろうか。
ここでも蔓草が各所に描かれる。口縁部の白い輪は轆轤を回さずに描いたのか、幅が一定しない。

饗宴図皿断片 ファーティマ朝(11世紀) 制作地エジプト カイロ、イスラーム美術館蔵
ラスター彩に白抜きという作品が多いなか、この作品は白地にラスター彩で文様を描く。
衣装や髪型などを細かく描写している。コップや水差しは液体が透けて見えるので、ガラス製である。

饗宴図皿断片 ファーティマ朝(11世紀) 最大径39.2㎝ 制作地エジプト アテネ、ベナキ美術館蔵
白抜きで、中央に生命の樹(ナツメヤシには見えない)、その左右に楽人とガラス製の水差しからコップに液体を注ぐ人物が描かれている。楽人の外側には蓮の蕾を2輪挿した把手付き水差しが置かれて、優雅なひとときを表している。

やっとアッバース朝期のものが出てきた。

鳥文壺 アッバース朝(10世紀) 製作地イラク 高28.2径23.2㎝ ワシントンD.C.フリーア・ギャラリー蔵
白地にラスター彩で描かれた文様は大きめ。
頭と嘴に飾りをつけた鳩が2段に描かれる。鳩小屋の描写かも。縦枠の中の文様はパルメット文でもない。肩部には、葡萄の実というよりも目玉のような文様が横並びに描かれている。

鉢 10世紀 レイ出土? テヘラン、ガラス陶器博物館蔵
右手を上げ、左手は体に沿わせて座る人物が、鳥と共に、内面いっぱいに大きく表されている。これは鷹匠を描いたものだろうか。

鉢 10世紀 ニーシャープール出土 テヘラン、ガラス陶器博物館蔵
くっきりと発色したラスター彩なので、新しいものかと思った。文様も斬新で、完成度が高い。
下から映えた植物の枝が分かれる様子を描いてそれが器面を五等分する。左右の区画には同じ植物文様を左右対称に描き、頂部の区画には蔓草が伸びる様子をほぼ左右対称に整えている。

鉢 9-10世紀 出土地不明 テヘラン、ガラス陶器博物館蔵
器面いっぱいに大きな旗を持って走る人物が描かれる。人物の体は横向きなのに顔は正面向き。開いた足の下はその人物の影?
旗には2羽の鳥が横向きに描かれる。その旗の先端も鳥の目と嘴が表されているらしい。前方に大きく描かれている鳥は鷹だろうか。ひょっとしたら、鷹狩り大会で最も多くの鳥を仕留めた鷹が表彰される場面かも。

パルメット文鉢 アッバース朝(9世紀) 多色ラスター彩 径29㎝ 制作地イラク クウェート国立博物館蔵
同書は、このパルメット文鉢は多色ラスター彩で、銅褐色と金が効果的なコントラストを形成している。
主要文様は、見込み部に十字に大胆に配された大きな四つの半パルメット文である。パルメットの小葉は、金色のラスター彩で輪郭がとられ、その中は銅褐色のラスター彩で充塡されている。残ったわずかな空白部と口縁部は、銅褐色を基調としたラスター彩と金色の不規則な葉文で充塡されているという。
初期にはさまざまなラスター釉の掛け方が試みられたのだ。
大きな半パルメット文や小さな葉文の隙間にはより薄い色の地があり、そこにも文様が線刻されていて、それがパルメットの葉の曲線を強調して、まるで4枚羽根が旋回してるような躍動感さえ感じる。
どんなものでも草創期の作品は興味深く、味わいもあるが、その後ラスター彩はどのようになっていくのだろう。

双耳壺(アルハンブラの壺) ナスル朝(14世紀初期) 高117㎝ 制作地スペイン エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編17』は、翼形の把手のついたラスター彩の大壺は、その大きさと器形はラスター彩陶器としては比類がない。その名称の起源は18㎝にこの種の陶器がグラナダのアルハンブラ宮殿で発見されたことに基づいている。頸部は面取り状になり、特徴ある翼のような陶器には、象徴的な「ファーティマの手」が表されている。
器面は、アラベスク、組紐文のほか、「祝福」「健康」「悦楽」などを内容とするクーフィー体のアラビア文字の銘文で飾られている。ラスター彩は濃い黄色を呈しているが、イランやエジプトのラスター彩に比較して虹色の光彩が顕著に見られる。
ラスター彩陶器は、13世紀初期からマラガで焼かれたとされている。確証はないが、ナスル朝におけるラスター彩陶器の起源は、おそらくファーティマ朝が1171年に滅亡した後に、移住してきたエジプトの陶工にあると考えられるという。
でも、宮殿にはラスター彩タイルは使われていなかったと記憶している。
ラスター彩がスペインに伝わっていることは、世界のタイル博物館で下の作品を見て知ってはいたが、こんなに早い時期だとは思わなかった。

ラスター・コバルト彩タイル クエンカ技法 16世紀 413X413 世界のタイル博物館蔵
そしてこの色彩と文様。ラスター彩の金属的な光沢の組紐がコバルト色の輪っかをつなぎ、間地にコバルト色の花十字がある。輪っかの中には双方を組み合わせた花文が配される。
『聖なる青 イスラームのタイル』は、光の角度によって玉虫色のように微妙な輝きをみせるラスター彩は9世紀から13世紀の間に中近東地域でのみ生産された。幻の名陶である。
一見、金彩のように見えるが釉薬や顔料の金属酸化物が表面に皮膜をつくって虹のような光彩をつくりだしているという。

イランガラス陶器博物館でラスター彩の制作年代を遡ると

参考文献
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「世界史リブレット76  イスラームの美術工芸」 真道洋子 2000年 山川出版
「聖なる青 イスラームのタイル」 INAXBOOKLET 山本正之監修 1992年 INAX出版

ファーティマ朝のラスター彩陶器

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初期ラスター彩をまとめ終えて、イランやイスラーム美術関連の書物を本棚に戻していた時、黒い背表紙の『Schätze der Kalifen Islamische Kunst zur Fatimidenzeit』という図録に気付いた。
両親がウイーン美術史美術館で見つけて買ってきてくれたもので、当時イスラーム美術に惹かれていた私にはありがたいものだったが、タイトルが『カリフの宝物 ファーティマ朝のイスラーム芸術』いうことくらいは分かっても、文が総てドイツ語で書かれているため、なので全く読めずに図版を見るだけに終わっていたものだった。
それを20年近くたって開いてみると、ラスター彩陶器がたくさん載っているので、その中から、古い時期で、面白い図柄のものを少し取り上げてみた。

『世界史リブレット76イスラームの美術工芸』は、イスラーム・ガラスのなかでも一際目を引くラスター装飾は、陶器に先駆けてガラスにほどこされた。
このあと、ラスター・ステインの技法は、9世紀にイラクに伝わり、多彩ラスターを生み、さらに、陶器にも応用され、イスラーム陶器でもっとも華やかなラスター彩陶器を登場させたという。
『世界美術大全集東洋編17』は、ラスター彩陶器は、9世紀頃からイラクやエジプトで制作され始めた。鉛釉に酸化錫を加えて造られた錫白釉の技法が確立したことによって、ラスター彩の技法も発展した。ラスター彩は、白釉陶器の上に、銀や銅の酸化物あるいは硫化物で絵付けをして、再度低火度の還元炎で焼成する彩画技法で、表面に金属的な光沢をもった被膜ができることによって、金属的な輝きを発する。金属的な発色は黄色に近い金色から、銅褐色の茶色までさまざまである。また初期ラスター彩には金、黄、茶などの複数のラスター彩が一緒に用いられた多色ラスター彩と、金または銅褐色1色を用いた単色ラスター彩があるという。
おそらくアッバース朝が衰えて、分立したファーティマ朝がラスター彩の陶工たちを首都カイロに呼び寄せて、エジプトでラスター彩陶器の制作を再開したのだろう。

ラスター彩陶器 10世紀 高8.8径28.2㎝ エジプト、アル・バフナサ制作 カイロ、イスラーム美術館蔵
船が見込みいっぱいに描かれている。漕ぐたくさんの櫂が船の下に出て、泳ぐ魚が上から見た構図で描かれている。

ラスター彩陶器 10世紀 高7.8径23.5㎝ エジプト制作 クウェート国立博物館蔵アル・サバーフコレクション
画面を三分割しているのはクーフィー体の同じ文で、その間に描かれているのは蕾だろうか。中心に三つ葉状のものがあるので、そこから伸びた植物を表しているのだろう。

ラスター彩キリン文皿 10世紀末-11世紀初 径24㎝ エジプト制作 アテネ、ベナキ美術館蔵
キリンは綱で繋がれ、綱を引く人も描かれているが、ラクダや馬のように荷役に適していると思えない。珍しい動物として飼われていたのだろう。その背後に樹木が描かれているのは、キリンが木よりも高いことを表しているのかな。 

ラスター彩皿 11世紀初 高6.5径21㎝ 
「ムスリム イブン アル・ダッハーン」の銘がこの文字のどこかにあるらしい。 
平面に描かれているのでメビウスの輪のように裏返っては見えないが、上下に交差して一筆書きの5点星のような帯を作っている。その中にはほぼ正五角形ができている。イスラームらしい文様である。

ラスター彩グリフィン文皿 11世紀 高6.8径29㎝ エジプト制作 カイロ、イスラーム美術館蔵
同じく「ムスリム イブン アル・ダッハーン」という陶工の署名があるというが、文字はグリフィンの前に書かれているだけなので、分かり易い。
グリフィンは鳥頭ライオン身で、嘴から何かが出ている。
くっきりとした発色と丁寧な描き方で、ガラス陶器博物館にあったニーシャープール出土のラスター彩鉢(10世紀)を思わせる。

ラスター彩陶皿断片 11世紀  径28㎝ エジプト制作 アテネ、ベナキ美術館蔵
口縁部には蔓草の巻きヒゲの中に、鳥が一羽ずつ、留まったり、啄んだりとそれぞれ異なる動きを見せる鳥が描かれて楽しい。見込みには細い区画に明確ではないさまざまな文様が置かれているらしい。

ラスター彩人面鳥文皿 11世紀 高7.5径27.2㎝ エジプト制作 カイロ、イスラーム美術館蔵
仏教の迦陵頻伽とは全然違う人面の鳥が、尾を交差させて振り向いている。何故しかめっ面をしているのだろう。その間から伸びているのはやっぱり生命の樹かな。

ラスター彩皿 11世紀 高6.3径20.5㎝ エジプト制作 クウェート国立博物館蔵アル・サバーフコレクション
4枚の蓮弁を中央に十字形ができるように配置して描かれている。蓮弁の葉脈は縦に通らず、小さな蓮弁を幾つか描き込んだように感じる。

ラスター彩陶器断片 11-12世紀 高7.2幅11.3㎝ エジプト制作 カイロ、イスラーム美術館蔵
エジプトでは古くに分離したキリスト教の一派、コプト教徒が暮らしているので、明らかにキリストとわかる正面向きの人物像が描かれたラスター彩陶器も作られたようだ。

6点星文のラスター彩皿 12世紀 高7径28㎝ エジプト制作 カイロ、イスラーム美術館蔵
見込みには6点星の中に鳥と蔓草が描かれる。幅広の口縁部には、アラビア文字と蔓草が丁寧に描かれている。コーランの章句だろうか。


ファーティマ朝(909-1171)が衰えた後、12世紀後半からラスター彩陶器の制作が始まるのがペルシアのセルジューク朝なのだった。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、カーシャーンの陶工一族の祖先は、ラスター彩技法を独占してイスラーム地域内を移住していた陶工たちであったと考えられ、彼らは12世紀の70年代頃、ファーティマ朝エジプトからカーシャーンに至ったらしい。その移住の原因の一つにファーティマ朝末期の政治不安があったようであるという。
また、『世界美術大全集東洋編17』は、西方イスラーム世界のスペインでは13世紀初期からマラガで焼かれたとされている。確証はないが、ナスル朝におけるラスター彩陶器の起源は、おそらくファーティマ朝が1171年に滅亡した後に、移住してきたエジプトの陶工にあると考えられるということで、14世紀初期のアルハンブラの壺の図版をあげている。
ラスター彩の陶工には、エジプトから東に向かってペルシアに至った者たちと、西に向かってスペインに至った者たちの2つの集団があったのだ。


初期のラスター彩陶器はアッバース朝とファーティマ朝

関連項目
イランガラス陶器博物館でラスター彩の制作年代を遡ると
日本の迦陵頻伽

参考文献
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「世界史リブレット76  イスラームの美術工芸」 真道洋子 2000年 山川出版
「Schätze der Kalifen Islamische Kunst zur Fatimidenzeit(カリフの宝物 ファーティマ朝のイスラーム芸術)展図録」 1999年 ウイーン美術史美術館

ラスター・ステイン装飾ガラス

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ラスター彩の起源はガラスだった。
『世界史リブレット76イスラームの美術工芸』は、後期ローマ・ガラスとサーサーン・ガラスの伝統を引き継いだイスラーム・ガラスであるが、8世紀後半ころから新しい発展が始まった。その最初を飾るのが、ラスター・ステイン装飾ガラスである。イスラーム・ガラスのなかでも一際目を引くラスター装飾は、陶器に先駆けてガラスにほどこされた。ラスター彩とは、金属化合物の顔料で彩画した装飾のことであるが、ガラスでは、陶器と異なり、顔料がガラスのなかに染み込んだステインと呼ばれる状態になるので、ラスター彩ではなく、ラスター・ステインと呼ぶ。
ラスター・ステイン装飾ガラスのもっとも古い例の一つは、カイロのイスラーム芸術博物館にある碗で、アラビア文字で「ミスルのフィヤラ工房で163年製作」と書かれている。エジプトでミスルとはフスタートのことを指し、コプト数字で記された(ヒジュラ暦)163年は、西暦になおすと779年であり、これは、製造地と製造年を示す貴重な史料であるという。

ラスター・ステイン装飾ガラス碗 アッバース朝、8世紀 高13.5径9.5㎝ 制作地エジプト カイロ、イスラーム美術館蔵
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、このガラス碗の主要文様は、胴部のパルメット文であるが、小葉が深くくびれているなどイスラーム以前の古典的なパルメット文の形態を強くとどめている。銘文の下の帯文にも、古典的な蔓草文が見られる。見込みの部分の花文は、金属器の凹凸のある花形見込みを写したものと考えられるという。
一色に濃淡があり、深みのある文様となっている。
ラスター・ステイン装飾ガラスはこれ一点しか知らなかったが、先日掘り出した『カリフの宝物展図録』に3点載っていた。

ラスター・ステイン装飾ガラス碗 8-9世紀 ニューヨーク、コーニングガラス博物館蔵
『イスラームの美術工芸』は、このあと、ラスター・ステインの技法は、9世紀にイラクに伝わり、多彩ラスターを生み、さらに、陶器にも応用され、イスラーム陶器でもっとも華やかなラスター彩陶器を登場させたという。

ラスター彩陶器出現直前のラスター・ステイン装飾ガラスかも。
ナツメヤシの葉を表したような横線の多い縦線がジグザグに配し、その間の三角の空間には葡萄の房と思われる文様が描かれる。
線は濃い色で、葡萄の粒は薄い色で表され、2色の顔料が使われている。

ラスター・ステイン装飾ガラスリュトン 9-10世紀 ニューヨークコーニングガラス博物館蔵
すでにラスター彩陶器が作られるようになっても、ガラス器も作られていたようだ。
口縁部と把手は薄い黄色のガラスが使われ、白の器体にラスター・ステインで植物文様らしきものが描かれている。ぼんやりした文様に見えるが、細い線はしっかりと描かれている。
テヘランのガラス陶器博物館に展示されていたゴルガーン出土のラスター彩容器(10-13世紀)の文様に似ている。

ラスター・ステイン装飾ガラス碗 11世紀 ベルリン美術館内イスラーム美術館蔵
形もゆがみ、文様も粗雑になってしまった。ラスター彩陶器の方が高級感があるので、ガラスの方には力が注がれなくなっていったことを示すような作品だ。ラスター・ステインが使われた最後期のガラス器かも。


ファーティマ朝のラスター彩陶器

関連項目
イランガラス陶器博物館でラスター彩の制作年代を遡ると

参考文献
「Schätze der Kalifen Islamische Kunst zur Fatimidenzeit(カリフの宝物 ファーティマ朝のイスラーム芸術)展図録」 1999年 ウイーン美術史美術館
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「世界史リブレット76  イスラームの美術工芸」 真道洋子 2000年 山川出版

イスラームの粒金細工

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タブリーズのバザールを通っていると、粒金細工をしている人がいた。
粒金細工は伝統工芸としては伝わっていない技術だと思っていたが、少なくともタブリーズのバザールでは受け継がれているようだ。
粒金の作り方について、『THE GOLD OF MACEDON』は、この装飾技術は前7-6世紀にはかなり人気があった。金の粒が作品の表面に置かれ、ハンダ付けされることによって、装飾モティーフは生まれる。どのように金の粒がつくられたかは定かではないが、最も納得できるのが、熔けた金を水中に落とすというものだ。制作過程の2番目は、表面に金粒を鑞付けすることだ。1933年にH.A.P.リトルデイルが金と銅の合金が熔ける温度(890℃)がそれぞれの金属を別々に溶かす(金の溶融点は1063℃)よりも低いことを実験で確認した。これによって、彼は古代の職人が有機接着剤で金と銅の水酸化合物を混ぜたものを使ったと仮定した。表面を覆うこの粘着性の混合物が粒金を定位置に付けた。作品を熱すると、水酸化銅は金を周囲に纏って合金となり、接合部を鑞付けした。リトルデイルはこの技術を「粒状のしっかりした鑞付け」と呼んだという(専門知識もないので、ええ加減な訳です)。
何かのテレビ番組で、金箔屑のようなものと粒金を熱して、土台に鑞付けしているのを見たことがあるのだが、バザールを移動中にゆっくりと鑞付け場面を見ることはできなかった。

中国では、唐時代(8世紀)の貼金緑松石象嵌花唐草文鏡に細かな粒金が鏤められているが、これが知る限り粒金細工の最も時代の下がる作品だったが、『Schätze der Kalifen Islamische Kunst zur Fatimidenzeit』という、1999年にウイーン美術史美術館で開かれた特別展の図録には、それよりも後の時代に、イスラーム圏で粒金細工による装身具が制作されていたことを知った。
せっかくなので、『カリフの宝物 ファーティマ朝期のイスラーム芸術展図録』から数点紹介。

ベルト部分 10世紀 サマッラで制作? 粒金と金の撚線 アテネ、ベナキ美術館蔵 
金の撚線は、大きな半球状の突起を作っている。
やや大きめの金の粒が鑞付けされている。

三日月形耳飾り 11世紀 高3.2幅3.2㎝ シリア制作? 粒金・透かし細工 クウェート国立博物館蔵アル・サバーフコレクション
上のベルトでは撚線を使って簡略化した方法で作った半球を、本作品では小さな粒金を積み上げて作っている。
粒金の大きさも、鑞付けする文様によって変え、一番外の枠や透かし細工のS字形渦巻の隙間に付けられた大きな粒金は、ややへしゃがり気味である。

耳飾り 11世紀 高3.3幅2.5㎝ 粒金・撚線・透かし細工 エジプト制作 ベルリン博物館内イスラーム美術館蔵
上の耳飾りと比べると、撚線を使ったり、S字形渦巻を8の字形で済ませたりと、かなりの省略が認められる作品だが、耳に取り付ける金具が残っているのが参考になる。

指輪 11世紀 最大径2.3㎝ エジプト制作 粒金・透かし細工 ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵
指輪なら、輪っかの部分や枠に粒金で飾っても、四角い枠の中には貴石を嵌め込むのが一般的(例えば貴石象嵌金製指輪、4-6世紀)、というよりも貴石の方が重要なのだが、本作品では、それがなくて、矩形の枠内も透かし細工と粒金が占めている。一番内側はアラビア文字のよう。

4連結真珠飾り 11世紀 全体の高2長3.5㎝ エジプトまたはシリア制作 粒金・透かし細工 アテネ、ベナキ美術館蔵
上下に交差する蔓状のものに粒金が日本並んでいる。

ペンダントトップ 11世紀 高5㎝ 粒金・透かし細工 エジプトまたはシリアで制作 アテネ、ベナキ美術館蔵
8の字形は細く小さいが透かしではなく、線状のものが取り付けられている細かな粒金は文様を構成することなく、枠線として使われている。外側にはコイル状の透かし細工が等間隔で並べられていて、ここに紐か鎖を通していたのかなとも思われる。

輪 11-12世紀 径7.3㎝ 粒金・トルコ石 シリア制作 メトロポリタン美術館蔵
大きな半球は打ち出しの中空かも。他の粒金は大きさが揃っているが、頂部がやや扁平になっているものもある。トルコ石を象嵌した外側にはもっと小さい粒金を並べている。 

イスラーム圏では、粒金細工というものが連綿と続けられていたのだろうか。
『ペルシアの伝統技術』は、様々な職人の技術を詳細に記述しているが、粒金細工職人については書かれていない。



関連項目
中国の古鏡展1 唐時代にみごとな粒金細工の鏡
古代マケドニア6 粒金細工・金線細工

参考文献
「Schätze der Kalifen Islamische Kunst zur Fatimidenzeit(カリフの宝物 ファーティマ朝のイスラーム芸術)展図録」 1999年 ウイーン美術史美術館
「THE GOLD OF MACEDON」 EVANGELIA KYPRAIOU 2010年 

イランに残るレンガ建築

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イランでは多くのレンガ建築を見学した。タブリーズのアゼルバイジャン博物館で『IRAN THE ANCIENT LAND』という巨大な本を見つけた。重くてスーツケースの重量に響くとは思ったが、思い切って買ったのは、そこには今まで知らなかったレンガや石材で造られた建造物が沢山載っているからだった。ただ残念なのは、その建立時期他の詳しい説明がないことだ。

水車場? 時代不明 ラザヴィー・ホラサーン州ホスローヴジェルド
焼成レンガで幾何学文様を描いていて、古そうなミナレットに見える。モスクが崩壊してミナレットだけが残り、水車場に転用されたのでは?

ゴンバデ・カーブース ズィーヤール朝(1006年) 高72m ゴレスターン州(カスピ海東部)の同名の町
世界遺産オンラインガイドは、ゴンバデ・カーブースは、焼きレンガで製作されていますが、世界で最も高い完全レンガ造りの塔として、知られています。ちなみに高さは、土台部分の高さを含めると約72mもあります。
この塔があるのは、ズィヤール朝の首都、ジョルジャーンの古代都市の北方3kmにあたります。土台部分には、碑文から、1006年、当時の君主であったカーブース・ブン・ワシュムギールの命により建造されたことがわかります。
塔の形は、土台部分は、十角形、先端部分が円錐形とユニークな形になっています。内部の装飾は、ムカルナス様式の初期のものとされています。設計には、黄金比Φの近似値である1.618の比率も用いられているのだそうで、高い水準の土木技術があったことがわかります
という。

『イスラーム建築の世界史』は、そびえる建築-墓塔の中で、1006年建設のゴンバディ・カーブースは、時代の画期を象徴する塔状の高い墓建築(墓塔)で、以後中央アジアからアナトリアにかけてたくさんの墓塔が建設される。
高さ55mにも達する塔で、円錐状の屋根を戴く。塔身の部分を垂直に走る鰭状のフリンジが分節し、塔身の下部と上部だけにインスクリプション(銘文)が入り、シンプルで現代的造形に近いという。
同書は、室内は円形だが、外側に10本のフリンジを設けているため、壁面は十点星となる。
ゴンバディ・カーブース以後の墓塔の建設は、トルコ系遊牧民王朝の広がりと重なる。墓塔の誕生と浸透には、トルコ系遊牧民が故地において多神教を奉じた時のトーテム・ポールのような柱への信仰、あるいは彼らが住んでいたテントの造形が影響を及ぼしたともいわれる。十点星のフリンジは、太陽や彗星の光芒を象徴したとされる。武力を重んじるダイラム人、ゾロアスター教に根ざす太陽信仰、トルコ王家から嫁いだ妻など、いろいろな要因が重なって、この塔の造形が選ばれたと推察されるという。

チェヘル・ドゥフタラン塔とジャファール聖人廟 セルジューク朝(11世紀) セムナーン州ダムガーン
コトバンクのピール・イ・アーラムダールの解説(『世界大百科事典第2版』(平凡社)の抜粋)は、後代に再建されたマスジド・イ・ジャーミーはイラン最古のミナレット(1006)を擁する。また,近郊にはセルジューク朝の円筒形墓塔ピール・イ・アーラムダール(1026)とチヒール・ドゥフタラーン(1054-55)があるという。
こちらがチェヘル・ドゥフタラン塔
焼成レンガを嵌め込んだアラビア文字の銘文や幾何学文様の装飾がある。

円塔 イルハーン朝? セムナーン州シャールード(エマームルード)近郊メフマンドウスト
網籠のようなレンガ積みの円塔の上部に、レンガの小片だけで幾何学文様やアラビア文字の銘文を構成している。ダムガーンの墓塔よりも以前に建造されたものかも。

ゴンバデ・アラヴィヤーン セルジューク朝(1038-1308年) ハマダーン州(イラン北西部)ハマダーン
アラヴィー家の墓廟。
レンガ積みで表面に浮彫漆喰で幾何学文様などの装飾を施している。

トゥグリル・ベク廟 セルジューク朝(在位1038-63年) テヘラン近郊レイ
『イスラーム建築の世界史』は、煉瓦造で20前後で縦条(フリンジ)で分節されるという。
すっきりとした円筒の上部には簡素なムカルナスの装飾がつく。

ハラカン(Kharaqan)の墓廟群 セルジューク朝(1067・1093年) カズウィーン近郊
レンガの小片を組み合わせた幾何学文様などの装飾が廟の表面を覆う。どちらも二重殻ドームの外側が崩落し、内側のドームが見えているのだろう。
大きい方の廟 高15径4m 
8面で角に付け柱があるが、円柱とドームはどのように繋がっていたのだろう。
レンガで作った幾何学文様が剥がれているのは惜しまれるが、レンガ積みが見えるという利点もある。
トルクメニスタンのメルヴにあったムハンマド・イブン・ザイド廟(12世紀)内部のレンガ装飾に似ているような。

赤いドーム 11世紀 東アーザルバーイジャーン州(イラン北西部)マラーゲ
PARS TODAY化粧タイルは、ターコイズブルーのレンガの上に書かれた最も古いクーフィック体の例は、イランの考古学博物館に収蔵されており、11世紀のものです。その中にターコイズブルーのタイルが使用された古い宗教的な建物には、イスファハーンのセイイェドモスク、マラーゲの赤いドーム、ゴナーバードのジャーメモスクがありますという。
正方形から八角形に移行しているが、ドームは見えない。四隅のムカルナスが見える建物としてはヤズドのダヴァズター・イマーム廟(1037年)と共通するが、こちらは付け柱が巡ったり、空色タイルが嵌め込まれたりと装飾性の高い墓廟である。

フラグの母の廟 イルハーン朝(13世紀) マラーゲ
焼成レンガと空色タイルの組み合わせのように見えるが、薄過ぎるので浮彫漆喰かも。
石材で建て、焼成レンガと空色タイルで装飾している。

金曜モスク(マスジェデ・ジャーメ) 13世紀後半 西アーザルバーイジャーン州オルーミーイェ
下部は石材、上部は焼成レンガ。この造りからすると、表面には浮彫漆喰かタイルで装飾されていたのだろう。
入口イーワーン
タイル装飾も残っている。
ミフラーブには透彫の漆喰装飾(1277年)があるのだが、この図版からは想像できない。

マスジェデ・ジャーメ 1307-08年 ナタンズ
後方は八角形平面のシェイフ・アブドルサマド廟で、大きな八角錐の屋根が載る。
その手前に見えているのが金曜モスク。空色タイルが嵌め込まれたミナレットは1本。

ジャバリエ・ドーム 時代不明(14世紀?) ケルマーン州(イラン南東部)ケルマーン
『ペルシア湾北岸遺跡と採集陶磁器』は、ゴンバディ・ジャバリエ。墓か、ゾロアスター教の建物か不明。平面8角形の石製建築で、天井はドーム建築。内部には何もないという。
切石積みではなく、小さな石を積み上げている。
八角形の墓廟としては、スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ、1313年完成)があり、似ている。ジャバリエ・ドームは八角形の各角が面取りされている分、時代が下がるように感じる。

ハムドッラー・モストウフィー廟 14世紀 カズウィーン州(イラン北西部)カズウィーン
Wikipediaは、イルハン朝の歴史家、著述家(1281-1344)。「撰史」(ターリーヘ・ゴズィーデ)、「ネズハトルゴルーブ」、「ザファル・ナーメ」などがある。廟は青緑色の円錐ドームをもち、銘はスルス体でモストウフィー家の家系と作品が記されており、ガズヴィーンの建築の中でもひときわ目立つという。
円錐形の屋根はクニャ・ウルゲンチのスルタン・テケシュ廟(1200年没)に似ている。

エステルとモルデカイの廟 時代不明(14世紀?) ハマダーン
Wikipediaは、ペルシア王にユダヤ人のエステルと称する王妃と、モルデカイという宰相がいたことは、史実にもとる、とされている。
ユダヤ教の後の解釈では、モルデカイとエステルは夫婦ということになっている。2人の墓とされるものが、イランのハマダン(エクバタナ)にある。ここも重要なユダヤ人コミュニティーの1つだった
という。

極端な二重殻ドームで空色タイルのシンプルな文様が嵌め込まれる。建物の角には付け柱が付く。

シェイフ・ジェブライル廟 14世紀 アルダビール州(イラン北西部)アルダビール
シェイフ・ジェブライルについて『IRAN THE ANCIENT LAND』は、シェイフ・サフィー・ユッディーンの父という。
二重殻ドームで、その形がイスファハーンのスルタン・バフト・アガー廟(1356年)に似ているので、14世紀の建物とした。
所々に素朴な空色タイルが嵌め込まれている。

シャイフ・ハイダール廟 時代不明 アルダビール州メシュキン・シャフル
円形の墓廟
入口付近にはモザイクタイルの装飾が残っているが、上部の絵付けタイルの帯は修復によるものかも。

金曜モスク(マスジェデ・ジャーメ) 14世紀? セムナーン州バスターム
外観は不明。
内部は美しい浮彫漆喰で覆われる。
ミフラーブ
ミフラーブの上部
2種類のアラビア文字の銘文と植物文様の組み合わせ。
ミフラーブの壁龕
尖頭アーチ内の浮彫漆喰は、イスファハーンのマスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)西翼小礼拝室にあるオルジェイトゥのミフラーブ(イルハーン朝、1310年)の装飾をもう少し平面的にしたよう。ちょっと時代が下がるのかも。
以前のオルジェイトゥ廟のタイル装飾を受け継いだ廟という記事で、同じバスタームで近隣に建立されたシェイフ・バヤズィド廟(1313年)のタイル装飾について記したが、それとよく似た空色タイルと浮彫タイルの組み合わせが、この金曜モスクのどこかに残っているらしい。
ということは、同じタイル職人が金曜モスクの装飾も手がけたとみられるので、14世紀前半の建立なのだろう。

カスハーネ(カシャーネ?Kashaneh)塔 イルハーン朝(1256-1335年) バスターム
Google Earthで見ると、バスタームの金曜モスクの傍に立っている。
20を越えそうなフリンジの上部には焼成レンガと空色タイルによる装飾がある。

金曜モスク イルハーン朝(14世紀) ファルマード
浮彫漆喰によるアラビア文字の銘文が尖頭アーチの枠を装飾し、薄いアーチ内の壁面には、組紐で区切られた幾何学形の区画の中に植物文様の漆喰が嵌め込まれている。
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(1307-13年)の2階の天井では、もっと幅の広い組紐の中にさまざまな植物文様(イスリーミー)の浮彫漆喰の埋め木が嵌め込まれている。オルジェイトゥ廟で天井のそれぞれに趣向を凝らした装飾を見上げた時は、唯一無二のものだと思ったが、それは、このように受け継がれていたのだった。

リバート(イスラーム神秘主義の施設)時代不明 ホラサーン州サング・バスト

以降は省略。ずっと時代は下がって、

太陽の城 アフシャール朝(1736-96年) ラザヴィー・ホラーサーン州マシャド
アフシャール朝の首都だったマシャド(マシュハド)にあるという石造の建物。
沢山のフリンジのあるバスタームのカスハーネ塔などの塔を模したような短い円塔が、おそらく八角形の建物の中央から出ている。

アヴィセンナ廟 1954年 ハマダーン
まるで、ゴンバデ・カーブース(1006年)のフリンジと円錐ドームだけを残して内部が見えるように造られたような建物で面白いのでここにあげた。



関連項目
マスジェデ・ジャーメ オルジェイトゥのミフラーブ
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ)
オルジェイトゥ廟の漆喰装飾3 華麗なるドーミカル・ヴォールト
クニャ・ウルゲンチ3 スルタン・テケシュ廟
ムハンマド・イブン・ザイド廟の焼成レンガ装飾
オルジェイトゥ廟のタイル装飾を受け継いだ廟

参考サイト
「ペルシア湾北岸遺跡と採集陶磁器」 金沢大学考古学紀要26 2002,27-47. 佐々木花江・佐々木達夫
世界遺産オンラインガイドゴンバデ・カーブース
PARS TODAY化粧タイル
コトバンクのピール・イ・アーラムダールの解説(『世界大百科事典第2版』(平凡社)の抜粋)

参考文献
「IRAN THE ANCIENT LAND」 ペルシア語のため出版社他は不明
「岩波セミナーブックスS11 イスラーム建築の世界史」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「イスラーム建築の見かた」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版

アレクサンドロスの向かった道1 スーサからペルセポリス

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今回のイランの旅で、スーサからやって来たアレクサンドロスが、ここを通ってペルセポリスへと向かったとイランでは思われている場所が見えるところで写真ストップした。それはシーラーズ山脈からビーシャープールへと向かってザグロス山脈に入り、アボルハヤートという町へ出る前の切り通しのような地点だった。
Google Earthより

アケメネス朝ペルシアでは広大な版図に「王の道」が張り巡らされていたのは知ってはいたが、移動中はザグロス山脈の景観、中でも古代テチス海の鮮烈な色彩に目を奪われて、王の道が実際にどこを通っていたかまでに思いを馳せることができなかった。
『ペルシア帝国』は、ザグロス山脈南方の小地方、ペルシアから出発して、キュロスとカンビュセス各王の軍隊は、広大な領土を席巻した。ダレイオスの時代に版図は、バルカン半島からインダス河渓谷、サマルカンドからナイル河第一瀑布にいたるまで拡張した。帝国中心部の3首都ペルセポリス、スーサ、エクバタナの各王宮から、国道(「王の道」)が延びて、交通を可能にしたという。
『古代オリエント事典』は、20-30㎞間隔で宿駅が、行政区の境界地点や渡河地点など要衝の地には関所や衛兵所が設置され、交通の便と安全がはかられたという。
スーサからペルセポリスまでのルートは、この地図を見てもアボルハヤート辺りは通っていないようだ。

ある新聞の書評欄で『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』という本が紹介されていたので、早速購入した。
同書は、スーサからペルセポリスへ至るには、ザグロス山脈を越える「王の道」をたどらねばならない。その道は具体的にどこを通っていたのだろう。それを知りたくて文献を調べていくうちに、米国の古代史研究誌に発表されたスペックという研究者の論文がこの問題を扱っていることがわかった。
スペック説の当否を検証するため、私自身がイランで実地調査を行うことにした。
アレクサンドロスは前331年12月下旬にペルシア帝国の都スーサを出発し、前330年1月末にペルセポリスへ到着した。この間の経路については、ローマ時代に書かれて現存する5篇の大王伝のうち、アリアノス、クルティウス、ディオドロスの三人が比較的詳しく記述している。それによると、アレクサンドロスはスーサ進発後、山岳部族のウクシオイ人と戦ってこれを制圧し、それから副将パルメニオンに輜重部隊を委ねて平坦な道を進ませた。彼自身はペルシア門と呼ばれる隘路でペルシス州総督アリオバルザネスの軍隊を破り、ペルセポリスを占領した。しかし3篇の記述には多くの食い違いがあり、具体的な経路も極めて曖昧である。
スペックは、ザグロス山中で実地調査に基づいて、まったく異なる結論に到達した。
スペック説は単なる遠征経路の復元にとどまらず、アカイメネス朝時代の「王の道」に対する根本的な見直しを含んでいる。詳細な実地調査をふまえた彼の新説は、近年アレクサンドロス研究における最も注目すべき成果であるという。
アレクサンドロスはスーサからペルセポリスまでは「王の道」を辿り、その道はザグロス山脈の中を通っていたのだった。
『ペルシア建築』は、スーサからペルセポリスまでと、スーサからエクバターナまでのルートは舗装さえしてあった。これらはすべてローマ帝国の道路網の先駆をなすものと言えるという。
北西から南東方向に数本に分かれるこのザグロス山脈の中を、舗装された「王の道」が通っていたとは。道路は険しい山中は避けて、できるだけ平たい場所に造ったのかと思っていた。
『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』は、アカイメネス朝時代、スーサ~ペルセポリス間の「王の道」には、夏のルートと冬のルートがあったと考えられる。夏のフーゼスタン平野は猛烈な暑さだが、ザグロス山中のカールーン川沿いはそれほど暑くなく、冬には積雪がある。ディオドロスの記述によると、スーサの東の渓谷を抜けた先にペルセポリスへ通じる快適な山の道があり、これが夏のルートを指すと思われる。一方、平地のベフバハーンを経て、ファーリアンないしヌーラーバードを通る経路は冬のルートであったろうという。
確かに、旅した5月でも、フーゼスタンの土地が一番暑かった。午後には40度を超え、50度近くに達するところもあったほどだ。
Google Earthより(スーサ~ペルセポリス間は直線距離だけで500㎞を超える)
ザグロス山脈はGoogle Earthでこの程度の縮尺では幾筋かの波のように並んでいるが、もっとズームしていくと、夥しい数の峰があり、更にそれを横断して浸食された渓谷もあり、かなり複雑である。その中を著者の森谷公俊氏はスペック説が正しいかを実際に走破し、あるいは危険な山岳地帯に登り、時にはスペック説にも間違いがあることを確かめた。
今回のイランの旅はペルセポリスにもスーサにも行ったし、ヌーラーバードでは昼食もしたので、ザグロス山脈にも平地もあれば集落があることもいくらかは見てはいたのだが、山脈が幾筋もあって、その谷筋の水の流れる土地には今も人々の暮らす集落や町が点在することなどは、この本に出会わなければ知らずに終わっていただろう。
ところが、その後森谷公俊氏が『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』より以前に『図説アレクサンドロス大王』を出版されていることを知り、入手すると、この間の「王の道」の風景写真の多くがカラーで載っていた。前者は丁寧に地図が提示されていたが、写真は小さく白黒だったので、合わせて見ていくとザグロス山脈の表情が豊かに伝わってくる。
また、そのザグロス山中は、ただ通過したのではなく、ペルシス州総督アリオバルザネス率いるペルシア軍を打ち破りながらの行軍だった。それが実際にどこで行われたのかを森谷氏たちは実地調査したのだが、アレクサンドロスほどではないものの、そこにはさまざまな困難が待ち受けていたことが『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』で活写されている。

『図説アレクサンドロス大王』は、すでに真冬であった。だが12月末、アレクサンドロスはスーサを出発し、帝国の首都ペルセポリスへ向かった。冬のザグロス山脈では積雪が2mを越える。なぜわざわざ厳冬のザグロス山脈を踏破してペルセポリス占領を急いだのか。
現存する大王伝は直接語ってはいないが、兵士達の略奪欲である。古代の戦争において、敗者から略奪するのは勝利者の権利であった。マケドニア兵士にとって、征服したペルシア帝国の諸都市で思う存分に略奪することは当然の権利であり、また夢でもあったろう。ところがバビロンもスーサも平和裏に占領されたため、略奪は許されず、兵士の不満が募ったに違いない。アレクサンドロスは兵士らの不穏な空気を察知し、彼らの不満を解消する必要に迫られた。それゆえ彼は春の訪れを待つことなく、早期ペルセポリス占領を果たそうとしたのではないかという。
逃亡中のダリウス3世はエクバタナにいる。
『図説アレクサンドロス大王』は、マケドニア軍のペルセポリス滞在は4ヵ月の長きに及んだ。これも補給上の理由による。冬の間、ペルセポリスからザグロス山脈の東側を通って現イスファハンに至る道は氷に閉ざされる。それゆえダレイオス追撃には春の終わりを待たねばならなかったのだ。
5月末、出発を前にしてアレクサンドロスは宮殿に火を放った。ペルセポリス炎上、それは東方遠征における最も劇的にして最も謎めいた事件である。
アレクサンドロスはあらかじめ宮殿から金銀の塊や重要な貴金属製品を接収し、エクバタナへ運ぶ準備をした。そして5月末、兵士達に一日だけ宮殿の略奪を許した。翌日、アパダーナと玉座の間の大広間に可燃物を敷き詰めて火を放ち、大広間を支える柱の大半を破壊した。こうして宝蔵と後宮を含む4つの建物が炎上した。それから直ちにマケドニア軍はペルセポリスを発ち、ダレイオス3世に向かって進軍を開始したのであるという。

こんな風にアケメネス朝は滅亡した。それと共に、彩釉レンガという壁面装飾も消えてしまう。
下の2点はスーサ博物館に所蔵されているものだが、スーサはマケドニア軍の略奪を受けなかったにもかかわらず、このような美しい壁面装飾は後の世に受け継がれなかった。
以前はアレクサンドロスが破壊したために彩釉レンガが絶えてしまったと思っていたが、破壊には関係なく、このような壁面装飾を求める王族や貴族がいなくなってしまったために、職人が伝え続けることができなかったのだと考えるに至った。
その後施釉タイルが再び壁面を装飾するようになるのは紀元後9世紀のことである。
そして、このような一枚のタイルに多色釉で絵付けするハフト・ランギーは、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群のなかのウスト・アリ・ネセフィ廟(1360-70年)が初現であるという(『砂漠にもえたつ色彩展図録』より)。
 


参考文献
「アレクサンドロス大王東征路の謎を解く」 森谷公俊 2017年11月30日 河出書房新社
「図説アレクサンドロス大王」ふくろうの本 森谷公俊著・鈴木革写真 2013年 河出書房新社  
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
「ペルシア帝国」 知の再発見双書57 ピエール・ブリアン 小川秀雄監修 1996年 創元社
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店
「砂漠にもえたつ色彩展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館
 

麩嘉(ふうか)の春限定さくら麩饅頭

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ものすごく久しぶりに和菓子の記事です。

麩嘉の錦店の楽しいホームページを見ていて、さくら麩饅頭が限定販売されていることを知った。大阪の東洋陶磁美術館に行ったついでに京阪電車で四条駅までおけいはん。

鴨川を渡って、
観光客で埋まった四条を西進、寺町通で錦小路へ。錦小路の東側には錦天満宮。
狭い錦小路は四条通よりも人で埋まっていた。
たまに通ると、それまで見たことのない店舗が目に付くが、今回もまた串に刺したテンプラなど、京都らしからぬお店が増えていて、それらを買い求める人、数人が団子になって通の脇で食べる人たち、食べながら歩く人などで、なかなか麩嘉には近づけないのだった(人を避けて写した)。
やっとお店を堺町北角に見つけた時には、写真を撮るのも忘れていた。

そしてお目当てのさくら麩饅頭は付き3月13日からとのこと(4月15日まで)。またフライングしてしまった。結局は他の生麩や利休麩と一緒に送ってもらうことにした。、お店の人に、ホームページからは購入できないのでと言うと、電話でなら注文できるのだそう。

届いたさくら麩饅頭はこんな箱入り(5つ)。


どんな皿に盛り付けたら似合うだろう。

総織部の青葉の皿
同じく総織部の笹の葉

でも新緑には早すぎるので、糸巻きの皿がよいかも。
桜の葉で巻いてあるので、口に含むと桜餅の香りが広がるが、桜餅のつぶつぶ感ではなく、生麩のつるんと逃げそうだがもっちりとした食感と、その中から漉し餡の淡い甘みが出てくる。
まだ咲かない桜を、目と口で先取り。
そしてものすごい大服の薄茶を点ててしまったので、
笹の葉に包まれた定番の麩饅頭も続けて頂きました。

生麩は冷凍もできるので、じっくり料理を考えながら使いたい

いつも伊勢丹京都駅店で麩嘉の麩饅頭や飛龍頭、そして生麩をいろいろ買って帰るが、利休麩は扱っていないのが残念だったので、今回は利休麩も。
利休麩は薄切りにして少しの出汁で暖め、同じく電子レンジで温めた大根おろしと、細切りにした青じそをのせて頂きました(写真取り忘れ)。
そのままスライスして食べると、意外と濃い味だった記憶があるのだが、こうして食べると、利休麩の面白い歯ごたえと、噛むほどに出てくる味とが楽しめました。

参考サイト
麩嘉の錦店のホームページ

アレクサンドロスの向かった道2 ペルセポリスから

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『図説アレクサンドロス大王』は、ペルセポリスから北東へ直線距離で43㎞の地点に、パサルガダイの都がある。アレクサンドロスはここも接収した。慣例に従って女達一人ひとりに金貨を与えた。またキュロスの墓に大きな感銘を受けた。6年後にインドから帰還して再びここを通過した時、キュロスの墓が荒らされているのを発見し、部下に修理を命じているという。
パサルガダエは現在現地ではパサルガードと呼ばれていて、今回のイラン旅行でも見学した。
キュロスの墓についてはこちら

『図説アレクサンドロス大王』は、エクバタナまであと3日の地点(現アラク)で、かつての王アルタクセルクセス3世の息子ビスタネスと出会った。彼によれば、ダレイオスは騎兵3000と歩兵6000を率いて4日前に逃走した。
アラクを出発して11日目にラガイ(現シャフレ・レイ)に着いた。アラクからラガイまで約300㎞つる途中には「塩の砂漠」の西端にあたる荒れ地があり、細く流れる水は雨季でも塩分が多いため飲み水には適さない。この時ダレイオスは、ラガイの先の南カスピア門と呼ばれる隘路を通り過ぎていたという。
アルタクセルクセス3世(在位前359-38年)はペルセポリスのラフマット山中腹にアケメネス朝式の摩崖墓を築き、そこに埋葬されている。

同書は、大王はラガイに5日間留まり、軍勢を休ませた。それから追撃を再開し、東へ向かってパルティア地方へ入った。1日目は現アイヴァネケフの川のそばに宿営し、2日目に南カスピア門を通過した。2日目は現アラダンに宿営した。
そこへダレイオス陣営から離脱したペルシア人貴族2人が出頭してきた。バクトリア総督ベッソスや騎兵指揮官のナバルザネスといった高官が、すでにダレイオスの身柄を拘束したという。まぎれもないクーデターだ。アレクサンドロスは直ちに出発した。途中で休んだ地点は現アブドルアッバードと思われる。次の明け方にはダレイオスが拘束されたという宿営地(現ラスジェルド)に着いた。
ここで新しい情報を手に入れた。ダレイオスは箱馬車で護送されている。ベッソスはダレイオスを黄金の鎖で縛り、外から見えないよう馬車を獣皮で覆っていた。
その夜から翌日の昼まで駆け抜けてとある村にやって来た。そこはダレイオス一行が前日に宿営した場所だという。現セムナンあたりと思われる。
出発したのは午後も遅い時間だった。夜明けごろ、現ダムガンあたりで遂に追いついた。ベッソスらは何とかダレイオスを連行しようとした。しかし相手がすぐ後ろに迫ったため、仲間の二人がダレイオスに剣で切りつけ置き去りにして逃げ去った。アレクサンドロスが到着した時、ダレイオスはすでに息絶えていた。前330年7月、享年約50歳だった。大王は遺体をマントで覆い、ペルセポリスへ運んで埋葬するように命じた。
ダムガンはダレイオス死亡地点の第一候補地、シャールードは第二候補地という。
同書の「ダレイオス3世追撃行の調査」という図を参考に、Google Earthでそれぞれの地点を調べてみた。

『図説アレクサンドロス大王』は、ダレイオス追撃行を終えたアレクサンドロスは、ヘカトンピュロスという町に戻って後続部隊の到着を待ち、軍を再結集した。ヘカトンピュロスは「百の門」という意味で、カスピ海沿岸地方と中央アジアを結ぶ交通の要衝である。東寺の名称は不明だが、のちにセレウコス1世がこれを拡張し、ヘカトンピュロスと改名した。
クルティウスの大王伝によれば、次のように兵士達に語った。遠征はまだ終わっていない。ペルシア人はまだ我々の支配に馴染んでおらず、王に背いたベッソスはバクトリアの地から我々を脅かしている。どんな小さな火種でも、残しては大火になろう。反逆者を倒せば最高の栄誉が得られるのだ。
兵士達は熱烈な歓呼の声で応え、どこへでも望みのところへ連れて行ってくれと叫んだ。アレクサンドロスの目ははるか東へ向けられていた。ここからはいかなる大義名分にもとらわれない彼自身の遠征が始まるのだ。
ヘカトンピュロスを発ったアレクサンドロスは、エルブルズ山脈を越えてカスピ海南岸に至り、属州ヒュルカニアを平定した。そこでベッソスがバクトリアで王位を名のっているとの知らせが入った。アレクサンドロスもこれに対抗してペルシア風の衣装や宮廷儀礼を採用し、旧王族を側近に取り立てる。今やアケメネス朝の後継者としての正統性を争う立場になったのである。
遠征軍は酷寒のヒンドゥークシュ山脈に入り、翌年春にはバクトリアへ達し、炎熱の砂漠を越えてオクソス川(現アムダリア川)に到達した。ベッソスは仲間の裏切りにあって大王に引き渡された。アレクサンドロスは彼を王に対する反逆罪に問い、エクバタナ送って処刑させたという。
メルヴのエルク・カラは広大な遺跡をバスで走り抜けて辿り着いた、丘のような遺構だった。
トルクメニスタンの現地のガイドさんは、アケメネス朝期に栄えていたマルグッシュが、マルガブ(Murgab)川の流れが変わって衰退したため、場所を変えて建設されたのがメルヴ。メルヴのエルク・カラにアケメネス朝の都城が造られた。
周りに川があるという地の利を活かし、防衛のため高い城壁を築いた。当時は登り口の近くに橋があったらしい。
前4世紀末にアレクサンドロスが遠征してアケメネス朝が滅ぶ。アレクサンドロスはエルク・カラにアレクサンドリア・マルギアナという町を築いたと言っていたが、この文によるとメルヴには行っていない。
『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展図録』の「アレクサンドロス大王の東征ルートとシルクロード」の地図では、中央アジアではある地点からシルクロードと東征ルートが重なっているが、このシルクロードはアレクサンドロス大王以前からあった交易路を指すのだろう。当時あった道路を通るのは、目的地への最短で楽なルートだったはず。
やはりこの地図でもメルヴはアレクサンドロスのルートから外れている。

南ウズベキスタン、テルメズ郊外のオクサス河畔に位置するカンプル・テパ遺跡もアレクサンドロスと関係があるようだ。
『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、15世紀のペルシャの著述家ハーフィズ・アブルーは、アムダリヤの渡し場のリストの中に、タルミズ(テルメズ)より西方におけるさらにもう一つの渡し場を挙げた。
それには次のように述べられている『<ブルダグイ>はテルメズに近いジェイフン河岸の土地である。そこはテルメズよりもずっと以前に存在し、アレクサンドロス大王によって築かれたと言われている。<ブルダグイ>とはアレクサンドロス大王の時代にあたえられたギリシャ名称であり、<客をもてなす家>という意味であった。』という。

Google Earthで見てみると、アレクサンドロスが名付けたオクサス川(アムダリヤ)の港町ブルダグイからマラカンダ(サマルカンドのアフラシアブの丘にあった町)へ、次いでイスタラフシャンでロクサーヌと結婚してホジャンド(アレクサンドリア・エスハータ)へと進軍していった道のりが概観できる。

後のアラブ軍はマラカンダからザラフシャン川に沿ってペンジケントを破壊して東進したが、アレクサンドロスは山岳地帯を避けてマラカンダへと向かっことになる。
サマルカンドのアフラシアブの丘は、モンゴルの破壊で廃墟と化した町の遺跡だが、それ以前にも度々破壊と再建を繰り返してきた。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、紀元前4世紀後半、アジア大陸の西側からアレクサンダー大王を先頭にギリシア・マケドニア軍が侵入してくる。それにより、アケメネス朝ペルシア大国は粉砕されてしまう。
アレキサンダー大王は一時的にマラカンダに野営し、懲罰などは自身で直接指導していた。周知のように、彼は街の近くの帝国のバシスタ自然公園で、ライオン狩りを楽しんでいた。
戦友であり、ソグディアナの支配者に任命されたアレキサンダーの乳兄弟のクリットは、大王に「この国は、以前にも反乱を起こした。そして、征服されたことはないし、これからも征服されることはないはずだ」と述べた。その後、マラカンダの宴会で、アレキサンダー大王は怒りクリットを殺す。そして、反乱が鎮圧され、スピタメンも戦死した後、アレキサンダー大王はマラカンダの全てを滅ぼしてしまった。
この当時、12万人のソグド人が死亡し、繁栄していたソグディアナは破壊された。しかし、サラブキー時代にはこの地域は復興され、ヘレニズム文化の東の前進的な中心地となったという。当時はマラカンダと呼ばれていたのだ。

『図説アレクサンドロス大王』は、このあとマケドニア軍は、当時アジアの果てと見なされていたヤクサルテス川(現シルダリア川)に至り、アレクサンドロスはその河畔に「最果てのアレクサンドリア」を建てた。ところがペルシア人貴族スピタメネスの指導下にバクトリア・ソグディアナ地方の住民が一斉に蜂起し、大王は丸2年に及ぶ困難な平定戦を強いられるという。
タジキスタンのホジャンド(ソ連時代はコージェント)こそが、アレクサンドロスが「アレクサンドリア・エスハータ(最果てのアレクサンドリア)」という名に変えた町で、ソグド人に囲まれていたために6㎞に及ぶ城壁を築いたという。今ではほとんど土の塊のようになってはいるが、その一部が町の中に残っている。
ホジャンドから南西にあるイスタラフシャンという町は、アレクサンドロスがこの町のロクサーヌと結婚して、町を出て行く時に、人々が「ロクサーヌを連れて行かないで」と言った言葉が、なまって現在の町の名前になったのだという。町の北にあるムグ・テパという遺跡は、アケメネス朝のキュロス大王が砦を築き、アレクサンドロスが破壊したのだそう。
こんな風に自分の旅してきた土地が、ピンポイントではなく、アレクサンドロスの東征ルートということばで繋がって線となった。

           →アレクサンドロスの向かった道1 スーサからペルセポリス

関連項目
パサルガダエ(Pasargadae)3 キュロス2世の墓
カンプル(カンプィル)・テパ遺跡1
イスタラフシャン1 ムグ・テパ遺跡
ソグド州博物館1 ホジャンドにアレクサンドロス大王が
ペンジケント(パンジケント)遺跡1 2、3階建ての建物跡
アフラシアブの丘を歩く
メルヴ1 エルク・カラ

参考文献
「図説アレクサンドロス大王」ふくろうの本 森谷公俊著・鈴木革写真 2013年 河出書房新社  
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社 

エラム中王国のライオン像

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テヘランのイラン国立博物館に展示されていたライオン像(スーサ出土)は、エラム古王国から中王国時代(前2千年紀)のものとされているが、何故か蹲踞する狛犬を想像させる。門前で守護するために本来は一対で置かれていたものかも。
でも、側面から見ると狛犬よりも身を立てている。それは前肢が長すぎるからだろう。

門前の守護獣といえば、ペルセポリスの万国の門入口の牡牛像や出口の人面有翼牡牛像(前5世紀)、アッシリアはニムルドのラマッス(前9世紀)などがあるが、いずれもライオンではない。後期ヒッタイト時代(前10-9世紀)では、城門の守護獣はライオンだが、どれも門に組み込まれていて、このライオンのように独立してはいない。
ヒッタイト時代の門にもライオン像がある。

『世界美術大全集東洋編16』は、ヒッタイトの首都ハットゥシャ(現在名ボアズキョイ)は、前13世紀ころハットゥシュリ3世(在位前1263-1245)とトゥトゥハリヤ4世(在位前1244-1220)の時代に大きな変貌を遂げる。市域は南方に大きく拡張され、それに伴いライオン門、スフィンクス門、「王の門」を含む長大な城壁が築かれたという。

ライオン門 前13世紀 石灰岩 像高約213㎝ トルコ、ボアズキョイ西側の門の外側
『世界美術大全集東洋編16』は、前脚をそろえて立つライオンが、左右対称に門の両側に刻まれる。口を大きく開けて咆哮し、舌は外に垂れている。舌を出すライオン像は、のちの新ヒッタイト時代の門を守護するライオン像に同様の表現が認められる。目はくぼみとしてしか残っていないが、もともとは別の物質で象嵌されていたものと考えられている。耳は円形に近い形となっているという。
スーサ出土のライオンは、舌は垂らさず、歯や牙がしっかりと造形されている。
同書は、ライオンの胴部には、太い刻文と細い刻文を組み合わせて軽くカールするたてがみが詳細に表現されている。前脚の付け根の外側には、半球形状の突起が表現され、そこも放射状に同様の刻文による装飾が見て取れる。これがいわゆる「獅子のたてがみ毛渦」を表現したものであるという。
確かにたてがみが線刻されてはいるが、先のとがった房は様式化されていない。残念ながら、その毛渦までは写っていない。

『獅子』は、アッシリアの勢力が去ったあとのアナトリアは、ヒッタイトの支配するところとなった。かれらはボアズカレやアラジャホユックなどの大都市を次々に建設し、そこにライオン像を置いた。アッシリアから伝えられた王権の象徴ライオンは、あらたに王城や門を守護する番神となったのである。
ところで、ヒッタイト人にとって勇敢な百獣の王は、ライオンよりむしろヒョウのほうであった。したがってかれらの太陽神であるヘパトはヒョウを遣いとして随えることが多く、ライオンは門を護る獣に役割交代していったようである。大都ボアズカレの城門には、よく知られた「獅子門」があり、兵士の出征する大門の両脇を獅子像が護っている。このように、城門に置かれた一対のライオン像は、西はギリシアのミュケナイにまで広まり、東はインド、中国を経て、日本にも伝わった。狛犬はその実例であるという。
舌は出ていなくても、スーサのライオン像の祖先とみてよいのだろう。

立ち上がったライオンに守られる墓 フリギア時代、前8世紀 アンカラの西方、アスラン・タシュ
『獅子』は、フリギア王国はゴルディオンを都とし、前8世紀頃、中央アナトリアで権勢を誇った(前695年滅亡)。墓の主は王か、貴族か不明という。
岩山で立ち上がるライオンが一対で中央の柱状のものに前肢で寄りかかっている。
これはスーサのライオン像よりも後の時代のものだ。 

このような造形は、ミケーネのライオン門(前13世紀)にあった。
『古代ギリシア遺跡事典』は、2つ並んだ祭壇を覆う板に前足をかけて伸び上がる、向かい合った2頭のライオンと、その間におかれた円柱である。円柱は、宮殿の象徴と考えられているという。
一対のライオンは、ミケーネへの城門の上に掲げられている。

もっと古い例がある。

獅子文様壺 前3千年紀初頭-中期 緑泥片岩(クロライト)・トルコ石 高20.0底径14.2-14.4厚0.75-0.9㎝ 東イランか MIHO MUSEUM蔵
『MIHO MUSEUM南館図録』は、各対のライオンは、湾曲した左右対称の枝をもつ単純な木を挟んで配置されている。どのライオンも同じ姿勢をとっており、主として輪郭線で表現された平板なスタイルもほぼ同じであるが、びっしりと毛で覆われた前半身を表現した文様は異なっている。一方のライオンの毛房の文様は籠細工に似ているが、それと向き合ったライオンには、水平に配置された杉綾文様が描かれている。かつては、それぞれのライオンの大きくて丸い目には象嵌が施され、何枚かの木の葉にはまだ象嵌石が残っているという。
木を挟んで鹿のような草食獣が表されたり、木の両側から草食獣が葉を食べようと前肢で幹に寄りかかっている場面などもあるが、このように生命の樹を守護するようにライオンを登場させることもあった。
左の方はたてがみが網代文様に、右の方は杉綾文様(ヘリンボーン)にしているのは楽しい。


このライオンの表現は、エラム古王国時代からの伝統ということになりそうだ。

ナルンディ女神像 エラム古王国時代、前2100年頃 イラン、スーサ出土 石灰岩 高さ109㎝ ルーヴル博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、椅子に座す女神で、右手には杯、左手には棗椰子と思われる木の枝を握っている。石の左右には座ったライオン、後部には儀仗を持って立ち上がったライオンが2頭描かれている。台座正面にはパルメット文を中心に2頭のライオンが横になっている。ライオンを聖獣として従える女神という。

丸彫りではなく浮彫りだが、前肢が長いことが共通している。
また、側面なので分かりにくいが、舌は出さず、口を大きく開いているのも、この地の伝統のよう。


『獅子と狛犬展図録』は、アナトリア前6000年紀の遺跡チャタル・フユック出土の有名な、過度に豊満な地母神像は、雌ライオンあるいは豹を両脇につけた玉座に鎮座している。これは残存するこの猛獣玉座の最古例であると言うことができる。こうした護る者としてのネコ科科の猛獣意匠は、古代オリエント、東地中海域の守護聖獣の基本的な心象であって、各時代地域の神々、仏・菩薩、尊者、王などの玉座、神殿・寺院、城塞都市、墓所などの前面・入口に据えられたという。
門に組み入れられたライオン像も、聖樹の両側のライオンも、アナトリアの地母神像の玉座から派生したものということになるようだが、エラム中王国時代のライオン像は、丸彫りで独立しているという点で特異なものと言えるだろう。

関連項目
獅子座を遡る
仏像台座の獅子3 古式金銅仏篇
仏像台座の獅子2 中国の石窟篇
仏像台座の獅子1 中国篇

参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「獅子 王権と魔除けりシンボル」 文荒俣宏 写真大村次郎 2000年 集英社
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「MIHO MUSEUM南館図録」 杉村棟監修 1997年 MIHO MUSEUM
「獅子と狛犬 神獣が来たはるかな道展図録」 MIHO MUSEUM編 2014年 MIHO MUSEUM

獅子から狛犬へ

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テヘランのイラン国立博物館にあった一頭のライオン像(エラム古王国から中王国時代、前2千年紀)が日本の狛犬を思わせるのは蹲踞しているからだ。
ただし、ライオンの独立像はその後ペルシアの地では確認できない。
自分が旅してライオン像は見なかったなあと思いつつ、探してみると、東トルコのネムルート山で出会っていた。

ライオン像 コンマゲネ王国時代(前1世紀後半) 石造 現トルコ、ネムルート山頂上西のテラス
山頂にアンティオコス1世が前62年に造った墓とされていて、東西にテラスが設けられ、それぞれに神像や鷲そしてライオン像などが安置されていたようだが、地震のため、現在では諸像は元の位置にはない。
諸像の造形について『世界美術大全集4』は、ヘレニズム文化が浸透した地域における東西文化の融合の実態を示す典型的な例であるという。
蹲踞するライオン像は、口を開き、歯列は表されるが牙は目立たず、舌を出している。
西のテラスの配置復元図(カール・フーマンによる、『コンマゲネ王国ネムルート』より)によると、大きな神像や国王像5体の左右には、大きな鷲とライオンの像が配置され、小さな王と神の浮彫像などの左右には小さな鷲とライオン像の像が置かれている。
このライオンは小さな像の方で、一対で諸像を守護する蹲踞するライオンという形式がこの時にはすでに成立していたのだった。
表現は確かにヘレニズム風だが、蹲踞するライオンはエラムのライオン像に起源があるのだろうか、それともギリシアにもあるのかな?

日刊ギリシャ檸檬の森 古代都市を行くタイムトラベラー古代カイロネイアに、マケドニア軍とアテナイ・テーバイ軍の戦い(前338年)で戦死したテーバイの兵士たちの墓石として蹲踞するライオン像が安置されている。ライオンは正面を向き、口は閉じているが、唇は開き、噛み締めた上下の歯がぎっしりと並んでいる。
また同ブログの紀元前4世紀ライオン像 ニコポリスでは、前330年の墓碑として蹲踞するライオン像が紹介されている。こちらのライオン像は右を向いていて、口は開いているが、歯や舌は表されていない。
蹲踞するライオン像は後期クラシック期に見られ、墓碑のような役目があったらしく、一対で置かれるものではなかった。一対で置かれるのは西アジアの伝統のだったのだ。

その後一対のライオン像は、仏教美術に採り入れられた。

ライオン像 クシャーン朝(2-3世紀) 灰色片岩 高33.0 49.0 長37.0 41.0㎝ ガンダーラ 平山シルクロード美術館蔵
『獅子と狛犬展図録』は、この一対のライオン像は、仏塔の守護像として造られたと考えられている。スマートな体に、胸を覆い隠すほど豊かで美しい毛並みのたてがみが、高貴な印象を与える。前脚の肩の部分には、西アジア由来のつむじ様の毛並み表現がみえる。
ギリシアや西アジアの神々をも取り込んだガンダーラ彫刻では、ライオンが守護者として、また、仏陀の威光を表す獅子座などとして造像された。これらはやがて、仏教と共に日本にももたらされることになるという。
獅子座については以前にまとめた。そして、その最古が前6千年紀前半の地母神坐像(アナトリア、チャタル・フユック出土)の両脇に表された肉食獣であることを知った。そのライオンともヒョウとも言われている動物は、双方とも口を閉じている。
これらの記事は下部の関連項目に。
また、舌を出したライオンは、やはりアナトリアの後期ヒッタイト時代(前9世紀)のライオン像にも見られるものである。
このようなライオン像は、どのようなところに置かれていたのだろう。
というのも、クシャーン朝時代の獅子座は、概ね如来坐像の下の台の両端に浮彫されているからだ。
それについてはこちら

そして中国に伝わると、古式金銅仏や石造の仏像では仏坐像の台座に浮彫された獅子だが、石窟内では立体像となる。その最古の例は敦煌莫高窟275窟(北涼時代、397-439年)で、交脚弥勒像の両脇に丸彫りの獅子が現れるが、蹲踞するのではなく胴と前半身が、弥勒の坐す台の脇から出現するように取り付けられている(獅子はコピー窟)。

また、石窟以外では、南朝の梁時代(502-557年)、成都市西安路出土の釈迦如来諸尊立像(中大通2年、530)に台座から外れて、二天と主尊の間に獅子が一対登場する。
厳密にいうと、丸彫ではなく高浮彫である。

もう少し後になると、北朝で立体像の獅子がみられる。

獅子 北斉時代(550-577年) 銅製鍍金 右:高5.1長4.2㎝左:高4.9長4.0㎝
『獅子と狛犬展図録』は、頸筋から胸にかけてたてがみを線刻しているものの、大きなたてがみを造らないことから犬のような印象を与える。口を閉じ、両脚を地につけ、蹲っている獅子の姿は北魏後期から多く見られるが、逞しい体つきや脚の下半に節のような段をつける特色は、隋から初唐頃にもよく見られるという。
これらも仏菩薩像守護獣として造られたものなのかな。
両像とも肩に渦巻が刻まれているのは、ヒッタイトから西アジアへと受け継がれたライオンの特徴が、ガンダーラを経由して、シルクロードを通って東アジアにも伝播している。

獅子 隋時代(581-618年) 銅製鍍金 右:高5.5長5.7左:高5.4長6.7㎝
同書は、一方は開口して舌を出し、前脚を上げ、もう一方は歯を見せるが閉口し、四肢を地につけて蹲踞している。いずれも強く胸を張る。たてがみは頸の周辺から胸にかけて先端が渦状になった毛筋を伴う房を豊かに表し、後頭部は一つの三角状の房としている。大きな尾は三筋に分かれてS字状になびく。このように反り返るように胸を張り、一方が片脚をあげ、一方があげずに蹲るなど、左右の表現を変えて一対になすることは、双方が片脚をあげるものと双方ともあげずに蹲るものとを折衷するように、北斉末頃からよく見られるようになったという。
たてがみの渦巻くたてがみや3つに分かれる尾など、北斉時代から少し経ただけなのに、装飾的な表現になっている。

仏教美術とはいえないが、咸陽郊外に則天武后が造立した母の墓、順陵(7世紀後半)の獅子も蹲踞して肩に毛渦がある。
これは後漢の鎮墓獣の系統ではなく、仏教の守護獣ではないだろうか。則天武后は高宗かせ開鑿した龍門石窟に寄進するなど、仏教に帰依していたので、伝統的な麒麟や天禄などの石獣と共に、南北の門に一対ずつ蹲踞する獅子を登場させたのかも。


『獅子と狛犬展図録』で伊東史朗氏は、平成22~23年に催された「誕生!中国文明」展に出陳された銅造獅子を見て、驚愕した。河南省妙楽寺塔の最上層に置かれていた四体のうちで、頭部小さく、胸を張り、背を丸めて蹲踞するその姿は、わが国平安時代後期の獅子狛犬における和様の成立を考える際、かならず想起されるだろうという。

獅子 五代(10世紀) 青銅鍍金 高55.6長50幅29.5㎝ 武陟県妙楽寺塔 武陟県博物館蔵
『誕生!中国文明展図録』は、武陟県城の西約8㎞に位置する妙楽寺には、方形13層、高さ約30mの磚塔のみが現存する。『武陟県志』によると、この塔は五代時代の顕徳2年(955)の建立という。本像は、最上層の屋根の四隅に安置されていた獅子のうちの1軀。同塔建立当初の製作と目され、銅鋳造製で、内部は中空としている。眉根を寄せて両眼を大きく見開き、閉口して上下の歯列をみせ、胸にはベルトを巻く。簡にして要を得た造形で筋骨の隆起が的確にとらえられ、前脚をわずかに外に開いて地面に突っ張り、蹲踞する姿が非常に精悍な印象を与える。やや細身の引き締まった体型、全体の姿勢の取り方などが、平安時代後期の日本で製作された獅子・狛犬に通ずる特徴を示しており、その源流を考える上でも注目に値するという。
順陵の獅子とは別系統の頭部の小さな獅子で、たてがみもほとんどわからない。頭巾のようなものが背中に密着している。

日本では、獅子が狛犬となるのだが、狛犬は阿吽の違いだけで同じ表現だと思っていたので、獅子と狛犬という組み合わせで一対になっていることを同展会場で知り、新鮮な思いで鑑賞していった。

獅子・狛犬 平安時代 木造彩色 像高 獅子41.8狛犬42.8㎝ 東寺旧蔵
『獅子と狛犬展図録』は、両耳を立て、目を見開いて開口して左斜め前方をみる阿形像と、角を表して両耳を伏せ、目を閉じがちにして閉口し、右斜め前を睨む吽形像の一対である。ともに、面相やたてがみなどを深く彫り表し、背中を丸め、前脚と後脚の間隔を狭めて蹲踞している。構造の詳細は不明ながら、基本的に一木造とし、前後に割矧ぐ可能性が説かれている。現存する最古の獅子・狛犬像であるという。
獅子・狛犬とは、片方が獅子、もう一方が狛犬の組み合わせということのようだ。
同書は、獅子狛犬の出発点ががこれかと思われる像の残っていたのは、まさに奇跡的としかいいようがない。何を措いても注目しなければならないのは、無角と有角からなる一対の守護獣が初めて出現したことであり、もうひとつは、以前からあった非対称形の守護獣一対の造形の名残りが認められることである。開口無角が獅子、閉口有角が狛犬であるという。
1本の角のあるのが最古の狛犬だった。尾は3つに分かれているが、隋時代の獅子よりも頭部が小さく、かっこいい。
妙楽寺塔の獅子とは造形がかなり異なってはいるが、頭部が小さいのは、このような五代期の様式が将来されたものと言われれば納得できる。
二頭で同じものを睨んでいるみたい。

ところで、狛犬はいつ頃できた言葉だろう。
同書は、正倉院には、複数の獅子頭が伝えられている。8世紀から9世紀に記録された寺院の資材帳には、「高麗犬」や「狛犬」などの資材が載せられており、これは舞楽の仮面、即ち獅子頭を表しているが、ここに「狛犬」の名称が現れる。その一部の標記には、角を持っていたと推定されるものがあり、この後、獅子とともに一対として安置される角を持つ狛犬が登場するに至る。このような狛犬角を持つ狛犬の古例として、春日大社の若宮社に奉納された古神宝の中に残されている鋳銅製の狛犬が注目されよう。一対として奉納されたのか、その用途がどのようなものであったかは検討を要するが、由緒ある大社の古神宝に残されている意義は極めて大きいという。

狛犬 平安時代 鋳銅鍍銀 像高18.0㎝ 奈良春日大社蔵
同書は、鋳銅製で頭上に角をもって閉口する吽形像で、背を反らし気味にして、前脚を伸ばして蹲踞する。簡略な表現になるが、その全体感絶妙のバランスによっており、鋳造技術の優秀さとともに完成度は極めて高いという。 
図版で見るのと、展覧会場で現物を見るのとの違いは、図版では大きさが実感できないことだ。現物を見ていても、時を経ると忘れてしまうこともある。
妙楽寺塔の獅子を思わせる胸の張りと前肢の踏ん張りに、東寺旧蔵の狛犬のような顔と角が付いている。たてがみは、妙楽寺塔本の頭巾状のものを少し立体的にしたようだ。

狛犬 平安時代、寛治元年(1087年)か 木造彩色 像高 阿形52.2吽形52.1㎝ 奈良薬師寺蔵
同書は、南都薬師寺鎮守の八幡宮に伝来した獅子一対の古例で、平安後期の優雅な表現になるものとして知られている。吽形像に角やその痕跡がない、獅子一対の一具像と考えられるが、阿形像が原則として一材製とするのに対して、吽形像は頭部の後方を矧ぎ目として前後二材製とするようである。阿形像州浜座の底面に墨書があり、現存する狛犬の中で最古の在銘像と思われる。穏やかな彫法による典雅な表現は、阿吽両像によって技法が異なるという過渡的な性格からしても、11世紀の第4四半期を造像期とすることに矛盾はないという。
二頭ともに狛犬?どちらにも角はないが。
東寺旧蔵の獅子・狛犬のようにたてがみの先端が巻いていないが、踏ん張る前肢は妙楽寺塔の獅子に似ている。
吽形像はよくわからないが、阿形像の脇には肋骨が表されている。

獅子 平安時代 木造彩色 像高 阿形26.8吽形27.1㎝ 岡山県津山市高野神社蔵
同書は、針葉樹材の一材を前後に割矧ぐ一対。像は獅子像として造像されたもので、阿吽の一対として、顔を体と同じ向きの正面を睨み、前脚を直線状に表して蹲踞している。頭部から胸を丸々と表して背中から後脚にかけてアールをまろやかに描く姿は、御上神社や厳島神社の平安造像例に極めて近いという。
妙楽寺塔の獅子とは別の系統の獅子像を手本としているようだ。

獅子・狛犬 平安時代以降 木造彩色 像高 獅子51.4狛犬60.3㎝ ロサンジェルス郡美術館(LACMA)蔵
同書は、近年に見出された一対で、極めて注目される一作である。構造の詳細等は不詳ながら、その形姿からして、シンプルな構造が想定される。阿形像は大きく口を開けて怒号するような表情をとって、斜め左下を睨みつけ、吽形像は瞋目閉口して、威圧するかのごとくに右前を凝視する。いずれも、痩身で、前足を直線的に立ち上げて踏ん張りながら蹲踞する。表情は、いずれも端的にいって獰猛であり、異様な迫力を感じさせる。その形姿からすると、古様な趣に満ちているが、極めて類例の乏しい形式であり、独自性の強い作風になるという。
頭部が小さいので妙楽寺塔系の獅子。狛犬の角は枝分かれしている。
幾つかに枝分かれする尾は日本では定番になっているようである。それにしても、現代に造られたのかと思うくらい特異な表現のたてがみだ。前肢に蕨手状の毛の房が、下から上に伸びている。
阿形の脇腹にはうっすらと肋骨を浮き出させているが、吽形は背中にまで肋骨をはっきりと刻んでいる。
長い前肢を真っ直ぐ下ろしているところなど、エラムのライオン像を思い起こさせるが、胴部は45度くらい前傾している。

狛犬 平安時代~鎌倉時代(12世紀) 木造彩色 像高 阿形88.0 吽形93.0㎝ 奈良市手向山八幡宮蔵
同書は、東大寺に隣接する手向山八幡宮は、奈良時代に大仏造像の支援をするために、八幡神が九州の宇佐から東上し、この地に鎮座した天平勝宝元年(749)に始まる。像は、大きく別材を寄せる寄木造になり、内刳りされている。古作になるのは吽形像で、頂上に角を表し、頭部を右真横に向け、目を大きく見開き、閉口して右前を凝視する。前脚はやや前に進めて揃え、後脚を前に寄せ気味にして蹲踞する。頭部は面長に表し、目鼻の彫り込みは深く立体的で、その表情も個性的である。全体として細身の体躯で、筋肉質となる。これらはやはり新しい様式への移行が窺えるもので、大宝神社像など、鎌倉時代の作例の先駆的な性格が顕著である。治承4年(1180)の南都焼き討ちによる被災の復興過程での造像とみられ、12世紀第4四半期を代表する狛犬像である。なお対になる阿形像、即ち獅子は後世の補作とされているという。
これも妙楽寺塔系の獅子、いや狛犬か。狛犬の角は、正面向きなので分かりにくいが、先が切れたものが2本、おそらく枝分かれした1本の角だろう。
たてがみの先は巻いているが、控えめな造形で、共に肋骨が浮き出ている。
前肢上部に巻き毛が付き、しゃがんだ後肢にも巻き毛が表されているようだ。尾は2つに分かれている。

獅子・狛犬 鎌倉時代初 木造彩色 像高 阿形51.5吽形55.7㎝ 滋賀県大津市神田神社蔵
同書は、ともに原則としてケヤキの一材製として内刳りしない、ほぼ丸彫りになっている。現状は、近年の修理もあって当初の像容と異なっているが、獅子はやや左前を向き、狛犬は別材製の角を表してやや右前を向いている。その瞋怒相は、激しいものではなく、胸筋を大きく膨らませる古様さを残している。バランスのよい典雅な様からして、鎌倉時代も早い頃の作と推定されようという。
やはり尾は複数に分かれている。狛犬の角は小さく、枝分かれしていない。
たてがみは誇張や巻きはないが、髭のようなものが顎を巡っている。

狛犬 鎌倉時代 木造彩色 像高 阿形83.1吽形91.7㎝ 和歌山県かつらぎ町丹生都比売神社蔵
同書は、丹生都日売神は、地域における丹生という水銀や水分の女神であったとみられるが、空海の高野山開創に際して、その鎮守神の一人となり、高野山の発展とともに信仰も盛んになってゆく。この高野山麓に鎮座する丹生都日売神神社には、古作として4対の獅子・狛犬像が伝えられている。そのうちの一対で80㎝を超える大きさの堂々とした作例である。両像ともに正面を凝視し、吽形像は角を持つ狛犬として表される。獅子は、大きく口を耳の下まで裂けるが如くに開けて咆哮するようで、対して狛犬は大きな口を力強く結び威圧する。いずれも、筋肉表現を大掴みに表し、像の大きさもあって重量感に富んでいる。しかし、細部の表現には堅さも認められ、僅かに時代の下降を感じさせるという。
豊かなたてがみだけでなく、頭部が大きく表されるが、その割に狛犬の枝分かれする角は小さい。
前肢・後肢には房毛が3筋、尾は何本かの房毛が広がっているみたい。

獅子・狛犬 鎌倉時代(13世紀初) 木造彩色 像高 阿形78.0吽形75.5㎝ 滋賀県長浜市菅山寺蔵
同書は、広葉樹の前後矧ぎになり、獅子は大きく開口するために鼻から上顎部を割矧ぐようである。上半身の堂々とした瞋怒相や筋肉表現に対して、下半身は細身であり、背筋などを表す様は、安貞元年(1227)在銘とされる近在の白鬚神社像に近い。その威圧的な迫力は、白鬚神社像より古様を表すともみられ、13世紀も早い頃の作とみられるという。
狛犬はあまり目立たない角をつけ、阿吽の他は獅子と大差ない造形である。体にまとわりつくような長い房状のものと、顎髭のようなものの、二重のたてがみは、大津市の神田神社本に共通する。

狛犬 鎌倉時代、元亨年間(1321-24年) 木造彩色 像高 阿形87.8吽形90.0㎝ 滋賀県栗東市大宝神社蔵
同書は、本殿に安置されて聖なる領域を守護していた一対で、玉眼を嵌入し、いずれも前後二材矧ぎとして、適宜に割矧ぎも施して大きく内刳りしている。阿形像は、大きく開口して歯列や牙、舌などを表し、たてがみは巻き毛とする。吽形は、頭上に一角を頂き(後補)閉口して牙を表し、たてがみは房状に垂下させる。やや右斜め前を睨みつけ、四肢を踏ん張って蹲踞する。吽形頭部内面に記される後世の修理墨書に「元亨年/中営作」などとあり、14世紀前半に造像された可能性を示唆している。その量感に溢れた表現などからして、元亨年間頃の作としてよかろう。やや形式化した表情などに時代の趨勢が窺えるが、筋肉質な表現などは的確な立体表現として評価できる。守護獣としての威圧感を感じさせる、堅実な作例であるという。
狛犬の角は段々小さくなっていくのかと思っていたら、大きなものが現れた。そして、二重のたてがみは立体的に表される。
目力を感じるが、玉眼でなくても良さそう。

獅子・狛犬 鎌倉時代-南北朝時代 木造彩色 像高 阿形92.0吽形92.0㎝ 岡山市吉備津神社蔵
同書は、本殿は南北朝時代の観応2年(1351)に焼失、応永32年(1425)に再建された。その本殿の内陣逗子両脇に安置されるのが、この注目すべき獅子・狛犬像である。寄木造として内刳りし、矧ぎ面には丁寧な布張りを施し、錆地として、獅子には金箔を、狛犬には黒化しているが銀箔を施して、髪などを彩色して仕上げている。獅子は、髪を大きく垂らし、目を見開いて開口し、ほぼ左横を向いて右前足を前に大きく出して、後脚の間に左前足を入れて蹲踞する。顔から体にかけての筋肉表現は、強調が過ぎるほどに秀逸で、獅子の動的な姿勢に対する狛犬の静的な姿勢と、阿吽の対比をものの見事に表している。この獅子・狛犬は、観応時の被災に際して、消火に努めたという伝承が真実みを持つほど、その迫力が的確に表現されている。あるいは、重源が請来した宋様の作風を基礎としながら、鎌倉時代通有の姿形に整えたかの想定も出来ようという。
宋風の獅子がどのようなものかわからないが、顔も小さく、たてがみも鎌倉時代のものとは違っている。 

仏像と同様に、獅子も狛犬もそれぞれの時代に中国から将来された様式が日本で変容して、日本的な造形になっていく。

エラム中王国のライオン像

関連項目
石造の鎮墓獣は後漢からあった
仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足
仏像台座の獅子3 古式金銅仏篇
仏像台座の獅子2 中国の石窟篇
仏像台座の獅子1 中国篇
獅子座を遡る

参考サイト
日刊ギリシャ檸檬の森 古代都市を行くタイムトラベラー古代カイロネイア紀元前4世紀ライオン像 ニコポリス

参考文献
「獅子と狛犬 神獣が来たはるかな道展図録」 MIHO MUSEUM編 2014年 青幻社
「世界美術大全集4 ギリシアクラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「コンマゲネ王国ネムルート」 2010年 A Tourism Yayinlari
「誕生!中国文明展図録」 編集東京国立博物館・読売新聞 2010年 読売新聞社・大広

中国にも11-12世紀の粒金細工

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タブリーズのバザールで粒金細工をしている人を見かけたことは、今回の旅行の収穫の一つだった。現代ではよみがえった粒金細工の技法は、古代に絶えてしまったものと思っていたからだった。
それをきっかけに久しく手に取ることのなかった、ウイーン美術史美術館で1999年に開催されたカリフの宝物 ファーティマ朝のイスラーム芸術展の図録を開き、イスラーム時代の11-12世紀までは粒金細工という技術が残っていたことを知った。
それについてはこちら

そして今回、『誕生!中国文明展図録』で妙楽寺塔の屋根の上に安置されていた獅子を調べていて、北宋時代の装身具に粒金細工を見つけた。どこかで唐時代以降の粒金細工を見た記憶はあったのだが、発見できて幸いだった。

金製アクセサリー 北宋時代(11-12世紀) 金・貴石 縦6.5横7.2厚0.3㎝ 重22.4g 洛陽市邙山宋墓出土 洛陽博物館蔵
『誕生!中国文明展図録』は、金の針金で枠をかたどった後、その内側に、極細の金の針金をよじった細線を複雑に絡み合わせて紋様を形作り、さらに枠の金線上に微少な金の粒を一つ一つ溶接するという、驚くべき高度な技法が駆使された一品である。中心の雨粒形のところとその四方の小円形には、トルコ石などの貴石が嵌め込まれ、贅を尽くした仕立てとなっているという。
金線による蔓草文様がメインだが、その間にロゼッタ文様が4カ所に配されている。
粒金は輪郭に沿って並んでいるほか、ロゼッタ文の蕊のところには部分粒金が盛り上げてある。
金製耳飾り 北宋時代(11-12世紀) 長4.2㎝重2.04g 洛陽市邙山宋墓出土 洛陽博物館蔵
同展図録は、細い金線や極小の金粒を用いた作りは同様で、繊細で手の込んだ技法には目を見張るものがある。萼のついた花の中心に蝶がとまるという、なんとも粋なデザインとなっており、そこには宋時代の奇抜で斬新な造形感覚をうかがうことができよう。花びらや蝶の胴にあたるへこみには、もとは貴石の類が嵌め込まれていたものと考えられる。
耳飾りとしてはかなり大ぶりで豪華な仕立てとなっており、貴婦人などがつけるにふさわしいという。
こちらは半分に表されたロゼッタ文の蕊に、ぎっしりと粒金が熔着されているのだが、ピンボケである。図版自体がピンボケなのだった。

同書は、上の2点のほかに金製の簪、腕飾り、銀製の箸や匙、瓶など、10数点の金銀製品とともに、北宋時代の貴族墓から発見された。細部にまでおろそかにしない丹念で精緻な作りには、当時、この種の物作りの技量がいかに高まりをみせていたか、その実態を垣間見ることができようという。
ひょっとすると、シルクロードあるいは海の道によってイスラーム世界から将来された宝飾品ではないかと思ったが、ファーティマ朝の粒金細工と比べると、宋墓出土のものの方が細工が繊細である。中国では、唐時代以降も絶えることなく粒金細工が受け継がれ、ますますその技術が向上していったのだろう。

また、金線も非常に細かな細工である。これらの作品を見ていて、ふとイスファハーンのバザールなどで見かけた銀の透彫のような製品が、ひょっとすると銀線細工ではないかと思った。
確かに透彫ではなく、銀線で作り出していた。
記憶は不確かだが、金色のものもあったような・・・

       イスラームの粒金細工

関連項目
中国の古鏡展1 唐時代にみごとな粒金細工の鏡
タブリーズ バザール

参考文献
Fatimidenzeit(カリフの宝物 ファーティマ朝のイスラーム芸術)展図録」 1999年 ウイーン美術史美術館
「誕生!中国文明展図録」 2010年 東京国立博物館・読売新聞社

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