続いて『出雲国風土記』が書かれた奈良時代の人々の暮らしのコーナー。
須恵器を焼く様子説明パネルは、この模型は今から焼く1300年前、奈良時代の須恵器の登窯を再現したものです。現在の松江市東部に位置する朝酌郷大井地区では古墳時代から平安時代までの約400年にわたって、須恵器が生産されていました。ここでは、瓦や硯をはじめとする製品の他、土馬などの「神まつり」の道具も作られていました。『出雲国風土記』より大井浜。即ち海鼠(こ)・海松(みる)あり。又、陶器(すえもの)を造れりという。須恵器は半地下式の窖窯(あながま)で焼成されていたとかなり以前に聞いたことがあるが、登窯もすでにあったのだ。屋根の架かったところで容器を作り、乾燥させて窯に詰めていく様子がジオラマで紹介されていて興味深い。更に、左下には不良品を捨てた物原までがある。
磚 古墳時代(7世紀) 須恵器 松江市教育委員会蔵古代の陶製レンガという。湾曲して平らではないが、寺院などの床に敷き詰めたものだろうか。 鴟尾 奈良時代(8世紀) 須恵器 松江市教育委員会蔵寺院の屋根を飾る瓦という。不良品(杯・托) 奈良時代(8世紀) 松江市池ノ奥窯跡出土 松江市教育委員会蔵高温の窯内でゆがんだ須恵器という。
次のコーナーはもっと時代を遡る。弥生式土器や農具に混じって、銅製の剣や鐸(レプリカ)も。輝く銅鐸、銅戈、銅矛、銅剣は、出雲地方で見つかった青銅器をモデルに2000年前の作られた直後の姿に再現したものですという。銅鐸その裏側にも23号銅鐸 弥生時代(前2-1世紀) 雲南市加茂岩倉遺跡出土 文化庁蔵この銅鐸には、シカや四足獣、四頭渦文などの文様が描かれています。他地域出土の銅鐸にはない文様を持つことから、出雲周辺で作られたものとも考えられていますという。29号銅鐸吊り手(鈕)には顔面が描かれています。眉、瞳のない目、鼻、口が描かれ、頬には入れ墨と思われる弧線が鋳出されていますという。 銅鐸 加茂岩倉遺跡出土加茂岩倉銅鐸には、吊り手に「X」が刻まれた銅鐸が14箇あります。すべて吊り手にタガネのような鋭い工具で打ち込まれています。「X」は、荒神谷遺跡の344本の銅剣でも見つかっていますという。吊り手の穴の真上にX印があるが、よく写せなかった。様々な大きさの銅鐸
そして大きな壁面にずらりと並んだ358本の銅剣。これが出雲大社の復元模型の次に見てみたかったのだが、あまりにもたくさんで、一つ一つを見る余裕はなかった。出土した銅剣、すべてです。1本の長さは50㎝前後とそれほど大きなものではありませんが、こうしてみると、その量がいかに膨大であるかがよくわかります。壁を飾る黄金色の銅剣は、出土銅剣をもとに2000年前作られた当時の色や輝き、形を再現したものですという。銅剣 弥生時代(前2-後1世紀) 斐川町荒神谷遺跡出土 文化庁蔵大量埋納のなぞ荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡にみられるように、青銅器のほとんどは意図的にうめられたと考えられています。これらの青銅器は弥生時代の社会において重要な役割を果たしていたにもかかわらず、どうして地中にうめられてしまったのでしょうかという。荒神谷遺跡では、358本もの銅剣が斜面に作られたテラスに整然と並べられていました。また、7mほど離れた別のテラスには、銅鐸と銅矛がまとめてうめられていました。銅鐸と銅矛が同じ遺跡から見つかったのは全国でも初めてのことですという。刃を立てて、丁重に並べられている。銅剣と銅矛は刃を立てた状態、銅鐸はひれ(側面のうすい張り出し)を立てた状態で、すき間なく並べられていることがわかりますという。青銅器のうめ方をみてみると、刃やひれを意図的に立ててうめている例が多くあります。そしてこのうめ方は、山陰地域に限らず各地で採用されています。つまり、青銅器は地域をこえた共通の決まり事にしたがってうめられた可能性があるのですという。日本では青銅器時代の次に鉄器時代になったのではなく、ほぼ同時期に青銅器も鉄器ももたらされている。そんな時代に、武器としては青銅器よりも鉄器の方が優れているため、青銅器を使用するのをやめて鉄器にしようということで、大切な青銅器の品々を地中に埋めたのかも。もちろん、何の根拠もありません。
さて、総合展示室の「島根の人々の生活と交流」には古墳が幾つか紹介されていた。
岩屋後古墳模型 縮尺1/10 松江市大草町 6世紀後半出雲東部を中心として活躍した豪族が葬られた古墳です。石室は、加工した一枚石を用いて壁や天井を造ったもので、石棺式石室と呼ばれています。出雲東部の有力者の古墳では石棺式石室が採用され、さらにこれをまねた石室や横穴墓が数多く造られました。出雲東部の有力者の古墳では、ほかにも土器(子持壺)や形象埴輪も共通する特徴をもつことが知られていますという。玄室と外界をつなぐ羨道も板石を並べ、石室の天井は屋根のように傾斜がある。上塩冶(かみえんや)築山古墳模型 縮尺1/10 6世紀後半石室は細長い平面形をもち、切石を丁寧に積み上げた横穴式石室です。これは、先行する今市大念寺古墳の石室の形態を引き継いで、切石を用いてより精美なものになっています。出雲西部では今市大念寺古墳や上塩冶築山古墳の石室をまねた、小規模の横穴式石室が多く造られましたという。石室の中に家形石棺が2つ安置されている。石室自体を家形にする出雲東部と、石室の中に家形石棺を埋納する出雲西部、異なった勢力圏があったのだろう。
波来浜遺跡A区2号墓模型 縮尺1/25 弥生時代(前1世紀) 方形貼石墓 江津市四隅突出型墳丘墓の誕生直前の方形貼石墓です。弥生時代の中頃には日本海沿岸で、西は益田市から東は京都府の丹後半島までこのような方形貼石墓が造られました。まだ、四隅が突出せず、長方形の墳丘であることが共通していますという。一つの墳丘に2つの穴がある。
島根県邑南町瑞穂の順庵原1号墳 縮尺1/25 弥生時代(後1世紀)
最初に発掘された四隅突出型墳丘墓。1968-69年にかけて発掘されまたもので、発掘当時は地方色豊かな「古墳」と考えられていました。後に同じような墳墓が山陰各地で発見されたことから、「四隅突出型墳丘墓」の第1号の発見例として著名になった墳丘墓です。発掘当時の様子を関係者の記憶や写真、調査日誌などから再現しましたという。穴は3つその復元模型いつの間にか弥生時代に入っていた。
島根県立古代出雲歴史博物館 出雲大社の模型←
参考にしたもの島根県立古代出雲歴史博物館の説明パネル
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博物館では「隠岐の黒曜石」という企画展が開催されていた(3月23日-5月16日)。
まず、隠岐の島で黒曜石が産出されるに至る地球規模での歴史から、パネルで分かり易く紹介されていた。① 隠岐は日本列島とともにユーラシア大陸の縁辺にありました。② 日本列島が大陸から離れ、日本海が形成されはじめた時代です。隠岐の位置は、まだ湖や海の底にありました。③ 各地で大規模な火山活動が起きました。この時、島後で噴出したマグマによって黒曜石が誕生しました。④ 半島から孤島へ変わった時代で、隠岐にヒトが登場しました。旧石器時代には海面が低下して一旦は本土と陸続きになりましたが、その後、徐々に温暖化が進み、縄文時代には再び島へと戻っていきました。
そして、黒曜石が火山活動によってできた岩石であることも。黒曜石は、高温のマグマが火道(マグマの通り道)の壁や地表面などで急速に冷やされることで生まれ、火砕流や熔岩の噴出などによって地上に露出したものです。それがのちに先史人たちの目にとまることとなりました。隠岐の黒曜石は、ステージ③の火山活動によって、約550万年前に誕生したと考えられています。
隠岐産黒曜石の石器 旧石器時代-弥生時代 島根県西川津遺跡・原田遺跡・畑ノ前遺跡・宮尾遺跡・鳥取県坂長第8遺跡・岡山県東遺跡出土隠岐の黒曜石は漆黒色で、表面に縞模様が入るものが多く見られます。主に槍先(台形様石器、ナイフ形石器、尖頭器)や弓矢のやじり(石鏃)にどに利用されましたという。
漆黒の黒曜石 Obsidian黒曜石の表面は凹凸のある礫面に覆われており、礫面を剥ぐと、内側から黒色でガラス質の部分が現れます。石器の素材には、このガラス質の部分を薄く剥いだ薄片が使われていましたという。
隠岐諸島の主な黒曜石産地噴火は島後の複数の場所で起こっており、そのため黒曜石も島の広い範囲で認められます。黒曜石は、島後の西側から南側に分布する重栖層の中に含まれていて、現在までに20ヶ所以上の地点で見つかっています。これらの地点は、分布や元素組成から大きく久見地域、加茂地域、津井地域の3ヶ所に区分することができますという。
隠岐で最も古い資料は、旧石器時代前半期に使われた黒曜石製の台形様石器です。この頃は、日本列島に初めてヒトが出現、定着した時期にあたり、列島最古の段階から、すでに隠岐の黒曜石が利用されていたことが分かります。続く縄文時代の遺跡からは、大量の黒曜石を利用した石器群が見つかっています。いずれの遺跡からも、とても一つの集落では使い切れないほどの量が出土し、まだ使えそうな黒曜石の石核や剥片が、無造作に捨てられていることもあります。このように隠岐では、豊富な黒曜石に支えられた原産地ならではの文化が花開いていましたという。
旧石器時代は、日本列島に最初にヒトが現れた時代です。今から約20万年前、アフリカで誕生したヒトは、偉大なる旅路の果てに、約38.000年前に日本列島へ到着しました。当時、日本列島と大陸は海によって隔てられており、彼らは海を越えてやってきた航海者だったと考えられています。旧石器時代の人々の生活は、木の枝や皮などに覆われた簡易テントに住み、動物や石材を求めて一定の領域を移動しながら暮らす「遊動」と呼ばれる生活スタイルでした。旧石器人たちは、黒曜石などの石材資源を携えて移動し、各地に点々と遺跡を残していきましたという。
黒曜石の原産地と植民集団の移動推測ルート隠岐から運ばれてきた黒曜石は、狩りや加工用の道具として利用されました。そして、人から人へと伝えられながら中国地方の各地へ広がっていきました。狩りの風景は、旧石器時代と縄文・弥生時代で大きく異なります。旧石器時代は、主に槍を使ってナウマンゾウやオオツノヒツジなどの大型動物を狩りましたという。狩猟の道具植民集団の細石刃石器群 旧石器時代終末期 島根県面白谷遺跡・正源寺遺跡、鳥取県上神51号墳、岡山県恩原1遺跡・恩原2遺跡出土 島根県埋蔵文化財調査センター・倉吉博物館・岡山大学考古学研究室蔵東北地方から到来した集団が残した細石刃石器群です。細石刃の製作技術である湧別技法は世界でも広く知られた技術で、典型的な手順は以下のとおりです。① 尖頭器状の両面調整素材を製作② スキー状削片を剥がして石核を作り出し③ 小口面より細石刃を剥がす
縄文時代になると、多角的な生業が行われるようになり、イノシシやシカなどの動物資源の他に、トチやドングリといった植物資源や魚介類などの水産資源も積極的に利用されました。それに伴い、石器の種類が増え、土器の利用も始まりました。また、長い移動生活が終わり、堅牢な竪穴住居に定住する生活が始まりました。定住といっても、一年を通じて同じ場所に住み続ける通年定住と、季節によって住む場所を移動させる季節的定住などがあり、環境や社会の状況に応じて使い分けにれていたと考えられています。定住生活を基本とする縄文時代には、黒曜石は集落から集落へと交換や分配されることで流通しました。今回の研究で、縄文時代の黒曜石流通は大きく3つの時期に分けられることが分かりましたという。黒曜石の鏃大型動物が絶滅すると、シカやイノシシといった中型・小型の動物を狙うようになりました。縄文時代に登場する弓矢は、森の中で逃げ回る中小動物を射止めるため開発されたと考えています。
縄文時代の終わり頃になると、黒曜石の利用が大幅に減少し、かわりに香川県の金山産のサヌカイトが持ち込まれるようになります。そして、地域ごとの石材利用に個性が現れはじめ、山陰地方全域に細かな「地域性」が形成されます。黒曜石は、隠岐から中海・大山付近にかけて多く利用されました。また、それぞれの地域では、石材利用に加えて石鏃や石錐の形にも違いが認められます。このことは、地域ごとに独自の石器作りの伝統を持った集団がいたことを示しています。弥生時代になると、大陸・朝鮮半島から水田耕作が伝わり、人々の生業は狩猟採集から米作りへと変化しました。より多くの労働力の集約が行われ、地域の中心となる大規模な拠点集落は、濠で囲まれ長期間存続しました。また、様々な道具や装飾品が生産され、他地域との交流も行われました。水田耕作が伝わるのに伴い、農耕具として石包丁や石鎌などの磨製石器が日本列島にもたらされました。この頃の黒曜石は、石鏃や石錐、削器といった鋭さを活かした道具に加工され、磨研石器とともに利用されました。一方で、青銅や鉄で作られる金属器も使用されるようになりますという。
鉄鏃とヤリガンナ 弥生時代後期 島根県塩津山遺跡・上野Ⅱ遺跡出土 島根県埋蔵文化財調査センター蔵銅鏃 弥生時代後期 島根県波来浜遺跡出土 江津市教育委員会蔵青銅器や鉄器などの金属器は、弥生時代前期に大陸・朝鮮半島からもたらされました。しかし、青銅器はしだいに祭祀具に変化し、また鉄器は素材が乏しかったことから、素材の転換には至らず、引き続き石器が利用されました。その後、弥生時代中期後半から後期にかけて大陸から鉄素材の流入が増えると、状況が大きく変化します。山陰地方では、鉄器の増加と歩調を合わせるように石器が減少しました。隠岐の黒曜石も例外ではなく、石鏃削器は比較的少量の鉄素材で容易に製作できることから、本格的な製鉄が始まる以前に素材が鉄に変わったと考えられます。こうして、約3万年にわたって利用された黒曜石は、弥生時代後期にはそのほとんどが金属器に移り変わっていきましたという。こんな風に、日本では黒曜石が利用されなくなっていったのだった。
この黒曜石については、東トルコの旅の後半に、カルスからエルズルムへと向かっているて、道路工事現場の崖に、赤い黒曜石と黒い黒曜石が縦縞のようになって露出しているところがあった。そこで赤いのと黒いのを記念に?持ち帰ったことを思い出す。
島根県立古代出雲歴史博物館 大量の銅鐸と銅剣←
関連項目島根県立古代出雲歴史博物館 出雲大社の模型
参考・引用したもの「隠岐の黒曜石」展での説明パネル
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出雲大社を過ぎて海岸線の道へ。こんな風に写るとは😅途中で下の方に立派な神社が見えた。日御碕神社だった。
こんな雨の中を灯台まで行くなんてと思っていたが、駐車場に着いてみるとすぐそこに見えていた。これなら行けるやん。
しかし、そのまま直進するのではなく、道はかなり左から迂回して、集落のT字路に当たった。それで思い出した。かなり歩いた記憶は、灯台ではなく経島にウミネコを見に行ったものだった。その時、経島近くの海岸でウミネコが抱卵していて、イタチなどに狙われないかと心配になったのと、あまりにも警戒心のなさに呆れたことも蘇ってきた。
集落が途切れ、灯台への道のりの途中で咲いていたこの黄色い花。最初はタンポポだろうと思ったが、海辺に全然ちがう、よくわからない花だった。
そして日御碕灯台へ(何故か全体を写した写真がなかったので、灯台の中にあった古い写真を写したものです)。説明パネルは、建設当時は、職員が家族で生活するため石造りの職員宿舎(美保関灯台と同型)やレンガ造りの倉庫等がありましたが、1974年に有線監視方式による無人管理とした際に取り壊しましたという。
出雲日御碕灯台の構造についてという説明パネルは、この灯台の構造は、「組積造りによる二重殻複合構造」と言われているもので、外壁は石造り、内壁はレンガ造りになっており、掲示している断面図のようになっています。石やレンガによる組積造りによる灯台の建築技術は、明治初期にイギリスやフランスにより導入されましたが、外壁と内壁の間に空間を設けた二重殻構造の灯台は、これ等諸外国には見られず、地震国日本における地震対策として独自に開発された技術ではないかと言われていますという。使われている石材は、凝灰質砂岩と言われているもので、島根半島北端にあります美保関町森山で採取されましたという。地上からは43.65mで日本一背の高い灯台らしい。これらの構造を直接観察できるように透明板を取付けましたので見学してくださいという。レンガがところどころないのだけど。
急な螺旋階段を上っていくと、2-5階の壁面には他の灯台の写真などが飾られていて、
今日は雨なので6階までしか行くことができなかった。壁にこんな古びたガラス窓がかけてあって、危険、このガラスは、灯台の一番高い部屋(7階)の「はり板」ガラスが、台風などでこわれた時に使用する非常用の「はり板」ガラスです。落ちると危険ですので、さわらないようお願いしますと書かれていた。電球の替えも。7階への階段はもっと急。
隙間から上を見上げると、光を遠くまで届けるレンズが不思議な重なりで見える。館内の説明パネルは、高原の一等レンズ(フランス製、直径2.59m)は、全国で6箇所しかない貴重なものです。光の強さ 48万カンデラ光の届く距離 21海里(約39㎞)地上から灯台頂部 43.65m日本一水面から灯火 63.30m 電球も2つ見える。
6階の窓から切り立った断崖や遊歩道が見える。
下階に下りると、灯台と海岸の航空写真があって、そこには遊歩道がすでにあるのだった。
雨だったが、灯台から見た場所を確かめようと、遊歩道を歩いてみることに。説明パネルは、日御碕一帯には標高20-30m程度のやや平坦な面がひろがっています。これは、海岸段丘とよばれるもので海面がこの高さまで上昇していた時期があったことを意味し、波による激しい浸食作用で当時の海岸付近につくられた平坦面の名残です。これは約数万年前の出来事です。現在は、これらが風化した10-15m程度の表土におおわれていますが、このあたりのように季節風による波しぶきを受けやすい西側では表土がけずりとられ、その下にある硬い岩盤がやや平坦な面をなして地表に顔を出していますという。探すまでもなく、この突き出した崖だった。それよりも、近く岩が小さな柱状節理になっていることで雨が気にならなくなっていた。柱状節理が大好きなので。この海岸は全てが柱状節理の玄武岩で、この先にも続いているみたい。物好きは我々だけではない。転がっている岩も、風化して崩れているところも、かさぶたのようなものが残っているところも、剥がれているところも、流れ出た熔岩が固まって止まったようなところも、何かわからない塔へと続く斜面も、全てが風化した柱状節理なのだった。
灯台だけを写していては気がつかなかったかも。
上の方は熔岩流がここまで流れて動きを止め、その下から熔岩が出てきたたような。下の方の岩は黒っぽいけど、玄武岩は本来黒いので、やっぱり玄武岩かな?可憐な花は柱状節理の割れ目から生えている。先ほどの黄色い花といい、日御碕に咲く花の名称はわからない。フタバウンランでもなさそう。ほかのところとは色が違うし、風化の仕方も違うが、これも柱状節理。
柱状節理に目を奪われていたが、植物もいろいろとあるのだった。これはホウチャクソウではない。ナルコユリ?いや、アマドコロだろう。 『日本の野草』は、ユリ科。和名は地下茎がトコロ(ヤマノイモ科)に似て、甘味があることによるという。名称がハシリドコロに似ているので、毒草かと思っていた。
椿のような艶のある葉の灌木に梅のような花が咲いていた。オートで撮るので、どうしてもくっきりした葉にピントが合ってしまう。
松林の中に四阿があるらしい。左手にはいつか転がり出しそうな岩が。風化してバラバラになってしまうのと、転がるのと、どっちが早いだろう。
また別のところには、柱状節理の柱状のところが鋭く現れている。岩にまとわりつく蔓状の植物は、野生のアスパラガスのよう。
海岸に目を向けると、岩礁が続いているようだ。出雲松島だった。説明パネルは、眼下に浮かぶ大小20余りの島々を総称して「出雲松島」と呼んでいます。いずれも流紋岩からできており、それが激しい波の浸食作用や海面の昇降運動によって次第に美しい形に仕上げられたもので、中には海食洞の発達した島も見られます。また、岩礁域にはホンダワラ類・アラメ・クロメ等が着生し、みごとな海中林を形成しており、メバル・カサゴ等の寝付魚が多く生育していますという。火山岩は玄武岩だけでなく、流紋岩もあるのだった。岩礁や下の方の岩は流紋岩だったのだ。右前方にちらちら見えるのは海鳥の群だった。おそらくウミネコだろう。これが灯台とその敷地の全景。
島根県立古代出雲歴史博物館 隠岐の黒曜石←
参考文献「山渓カラー名鑑 日本の野草」 1983年 山と渓谷社
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島根の大根島が日本一低い火山だと種類までは、萩の笠山が一番低いだと思っていた。大根島の大塚山の標高が42mほどで、萩の笠山は112mもある。Google Earthより車で火口まで簡単に行くける火口である。Google Earthより笠山だけでなく、萩の海には無数の島がある。説明パネルは、笠山は北長門海岸国定公園の中心部に位置し、高さ112mで、頂上には口径30mの小さな噴火口跡がある。海抜60m付近までが数万年前の噴火活動でつくられた溶岩台地で、その上に、約1万年前の噴火で、つり鐘状スコリア丘の単成火山がつくられた。周囲には、溶岩のすき間から海水や風が出入りする池や穴(風穴)が多く存在し、暖・寒地性の植物も多く見られ、コウライタチバナの自生地でもある。笠山という名は、遠くから眺めた姿が、女性のかぶっていた市女笠に似ていることから、こう呼ばれるようになったという。残念ながら、遠くから眺めていなかった。
頂上の火口一回りして写したが、草木が生えているために、火口の様子はよく分からなかった。見渡すと、地図の通りたくさん島があるが、どれも平たい。NHKの『ブラタモリ』#106萩では、萩沖に浮かぶ平たい縞模様全て火山だと言っていた。萩城のある岬は写していた。これもやっぱり火山だろう。
頂上から下りて島の西側の道路から笠山。形は整っていないが、柱状節理風の岩壁やそれが崩れた海岸、
笠山椿群生林へ。エビ池にはもっと小さなかけらが散らばっていた。椿が林立する中を遊歩道を通っていく。ちょっと変わった植物黒い玄武岩だが、水中では白い。軽石のように穴だらけの石も。
島の東側の明神池へ。いろんな種類の海の魚がいるらしい。笠山側
日本海の水平線や小さな島を見ながら須佐方面へ。
出雲日御碕は灯台だけではなかった←
関連項目大根島 日本で最も低い火山は大塚山
参考にしたものNHKの『ブラタモリ』 #106萩
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現在では萩市となっている須佐ホルンフェルスへ。Google Earthより
191号線から狭い道へ入る。
車を降りるとこの景色。向こうの岩はホルンフェルスではなく、手前のこの突き出た箇所だけがホルンフェルスが露出している。
その前に海の幸で腹ごしらえ。
そしていよいよ崖へ。途中のにも頁岩?の地層が泥板岩の表情もさまざまこんな風に突き出ていたりして。そんな崖が続いて、水平線が見えてきた頃に、向こうの海岸がよく見えた。あれはホルンフェルス海岸ではないの?こんな花発見。崖の様子が変わってきた。崖下
この坂を下りていく。最後はこうなっている。いろんな厚さの白っぽい層と灰色の層が積み重なり、しかも、それが面によって違っていたりする。planetscope岩石鉱物詳解図鑑のホルンフェルスの項目で、須佐のホルンフェルスについて、山口県萩市(旧須佐町)の須佐湾奥から北に5キロメートルほど進むと海岸沿いに見られる海食崖には「須佐ホルンフェルス大断崖」と呼ばれる景勝地がある。 この須佐ホルンフェルス大断崖は、2007年に日本の地質百選に選定された。 須佐ホルンフェルス大断崖では灰色と黒色の縞模様が見られ、灰色の部分は石英の多い砂岩、黒色の部分は石英よりも粘土鉱物や有機物を多く含有する泥岩を源岩としたホルンフェルスである。 須佐ホルンフェルスの変成は1400万年前に斑れい岩マグマ貫入の熱によって生じた。白い部分が砂岩起源のホルンフェルス、黒い部分が泥岩起源のホルンフェルスという。結構隙間やひびがある。オーバーハングしているところはちょっとこわい。ひび割れの続きには断崖の続きが。ヒトの歩いている岩。
何処まで行けるのかこの先は海に沈んでいる。海から顔を出した岩礁はどんな岩だろう?
層の拡大白い部分が砂岩起源のホルンフェルス、黒い部分が泥岩起源のホルンフェルスというが。海蝕の進んだ面海蝕を受けない層も。
それにしても気になる向こうの海岸。黒っぽい岩や白っぽい岩が見えるが、島にはなっていない。
戻ってくると西側への遊歩道があったので行ってみることに。黒っぽい岩越しにホルンフェルスを振り返る。縦横に高山斑糲岩の貫入が見られ、ここもすごい。一部に縞模様も。貫入した箇所がなくなつたようにも見える。やがては下の岩も風化して壊れていくのだろう。
海岸へと下りていく。こちらの岩石は丸みがある。
ホルンフェルスの上は須佐高山(こうやま、532.8m)。その続きと小さな島々。何故かここの岩は大きな穴があいているのだった。穴が崩れたところも。
高山山頂にあった説明パネル。須佐層群が堆積したあと、その中に高温の火成岩体(高山斑れい岩)が貫入しました(中新世中期)。その熱の影響を受けて、この斑糲岩に接触する部分の須佐層群がホルンフェルス化しました。高温の火成岩体が貫入すると、まわりの岩石はその熱を受けて再結晶します。火成岩体と接触する部分の変成岩は割ると角ばった破面で割れることから角石の意味としてホルンフェルス(horn fels)といわれます。今から約1500万年~500万年前にできたと考えられますという。高山山頂から見下ろした須佐の町と湾。
今年、ブラタモリ「#102 京都・東山」で、花崗岩が貫入してホルンフェルス化した硬い層が大文字山(如意ヶ嶽、標高472m)と比叡山(848m)として残り、その間の花崗岩が風化して間が低くなった。風化した花崗岩は白川砂として庭園に利用されているというような解説があったので、以前に行った須佐ホルンフェルスを思い出し、この機会にまとめることにしました。須佐では花崗岩ではなく斑糲岩の貫入によってホルンフェルス化したという違いと、須佐層群が白と黒の層になっているという違いはあります。
萩の笠山←
参考サイトplanetscope岩石鉱物詳解図鑑のホルンフェルス
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須佐ホルンフェルスに続いて、畳ヶ淵へ。
説明パネルは、両岸には六角柱の玄武岩柱状節理が整然と並び、河床は亀甲状の柱頭が展開して上流、下流それぞれ約2㎞にわたっているが、岩窟はこの位置で断層によって深い淵を形成している。岩質は結晶体を包含し、地質学的にも特異な存在であるという。淵へと下りていく途中でも。河床の様子がうかがえた。実は柱状節理が大好きな私。済州島の大浦海岸柱状節理帯で海岸の断崖の上から柱状節理を見下ろした時、六角形に並んだところを踏みしめてみたかった。水の流れが硬い玄武岩をも浸食している。下流側は曲面になってうねっているところもある。上流側は柱状節理がよく残っている。それにしても水流の力はすごい。硬い玄武岩をもこんな曲面に浸食してしまった。
六角形を探すが、川の中にはなく、出ているところでも、五角形のものがあった。
波打つような床の向こうには階段状に残る柱状節理が。そして、その向こうの立てに亀裂の通った崖。このあたりが断層なのだ。目立たない場所にあるが、火山活動と後の地殻変動が見られるすごいところだった。
水の流れは、細くなってその先には淵が。断層辺りは樹木で隠れている。振り返ると、なるほど畳を敷いたよう。
須佐のホルンフェルス(hornfels)←
関連項目済州島の大浦海岸柱状節理帯
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山陰海岸ユネスコ世界ジオパークというものがある。『日本のユネスコ世界ジオパーク』は、山陰海岸ジオパークでは、日本がユーラシア大陸の一部だった時代から、その東縁部が割れ、大陸から離れて現在の日本列島となるまでの、特に日本海の成り立ちに関係した様々な地質や地形が見られます。東西に延びた海岸線の中央部は複雑に入り組んだリアス海岸で、荒々しい海食崖や海食洞などが続きます。ここでは主に日本海ができる頃の地層が見られます。中にはゾウやシカなどの足跡が見つかることがあり、当時の環境を知ることができます。また入り江には北前船の風待ち港として栄えた集落があり、船の係留跡なども残されていますという。Google Earthより浜坂港から但馬海岸遊覧船に乗って海岸線を見学。ずっと以前から山陰海岸を船から眺めたいと思って出かけても、雨、天気は良いが波が高いなどでなかなか果たせなかった。数年前に来たとき、今日は天気も良いし風もないのでやっと乗れるとワクワクしながら乗り場(今回とは違っていた)に着くと、何と臨時休業だった。その理由が消火活動。そう言えば、途中で家が燃えているのが遠くから見えたが、まさかそれが原因で船が出ないとは思いもしなかった。で、やっと船に乗ることができたのは昨年のことだった。コースの地図は但馬海岸遊覧船のコースのページを参考にしました。Google Earthより
12時30分出航
まずは浜坂礫岩層に近づいて、沿って進んで行く。その最後にあるのが鬼門岬。説明は、鬼門岬は約600年前に芦屋城のお殿様が築城の際、鬼門の方向の岬に魔除けの神様をお祀りしたところから鬼門崎と名付けられましたという。芦屋城というのは港近くの山城のことらしい。
次に現れた円錐形の岩を回り込むと、こんな姿になった。龍宮洞門という。説明は、この洞門は竜宮への入り口といわれ、花崗岩を切る帯状の断層破砕帯の模様が、竜が天に昇る姿に似ているところから竜宮洞門と名付けられましたという。
前方に現れたのは一列に並んだ溶岩。名前は付いていないらしい。
田井の松島花崗岩の松島が点在し、磯は花崗岩の礫浜です。魚介類や海藻がたくさんあり国の海域公園に指定されてますという。
この岩を回り込んで、次はクジャク石赤黒い岩肌に白い岩の流紋岩がクジャクが羽を広げたように見える奇岩ですという。アーチ形に並んだ柱状節理だと思って見ていた。その右側も横倒しになった柱状節理だと。
獅子の口日本海ができるころに流れた溶岩が波によって侵食され獅子の口のように見えておりますという。真っ赤な色に見えているのは岩石に含まれている赤鉄鉱の色ですという。写っているよりも長々と続いていた。
その続きには凝灰岩かとむ思うような土色と白色の柔らかそうな岬。
そして現れた溶岩の島。釣り人たちが構える足の下には柱状節理らしき割れ目が。
すぱっと落ちた断崖。ここにも溶岩の島。陸の岩石も柱状節理?ここにも釣り人発見。片や左手側には板状節理のような、四角形の柱状節理のようなそれが色の異なる崖で終わっている。
下荒洞門へ。この斜めに走り、縦に亀裂が入った岩石は?こちらはほぼ垂直になった安山岩の板状節理(などと知識もないのに勝手に判断)。今日は少しうねりがあるので入れなかった。中の様子は遊覧船のこのページで。集塊岩と安山岩の岩脈が交差し崩落して形成された海食洞で、長さ70m高さ10m幅は中央で22mあり53m奥で西側の洞門と交わっており東西どちらからでも通り抜け出来ることから別名筒抜き洞門とも呼ばれていますという。
先ほどの崖は回り込むと縦の柱状節理となる。新温泉町のホームページでは三尾大島は粗面岩質流紋岩の柱状節理という。三尾大島の周囲を反時計回りに巡っていた。
前方に鋸岬洞窟になっているのかと思ったら、岩の蓋のようなものが・・・しかし、これは旭洞門と呼ばれるトンネル状のもので、遠方の景色が見えているのだった。
ここで遊覧船はUターン。三尾大島の外側を通って戻っていった。約時間、船に弱い私でも船酔いせず、楽しめました。
畳ヶ淵←
参考サイト但馬海岸遊覧船新温泉町のホームページの三尾大島
参考文献「日本のユネスコ世界ジオパーク」 2017年 隠岐ユネスコ世界ジオパーク推進協議会
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玄武洞について『日本のユネスコ世界ジオパーク2017』は、玄武洞は約160万年前に噴出した玄武岩の溶岩からなり、見事な柱状節理と日本語の「玄武岩」の由来となったことで国の天然記念物となっています。玄武洞の世界的価値を高めたのは京都大学の松山基範博士による岩石に残された磁気の研究です。彼は玄武洞の岩石が逆向きに磁化していることに気づき、さらに各地の玄武岩を調べ、そのころの地磁気が現在とは逆向きだったことを世界で初めて発表しました。その後地磁気は何度も逆転を繰り返してきたことが知られ、この研究はプレートテクトニクス理論へと発展しました。そのきっかけとなったのが玄武洞なのです。玄武洞の存在は私たちの暮らしにも大きな影響を与えました。玄武岩は硬くて浸食されにくいため、そこで谷の幅が狭くなっています。その結果運ばれてきた大量の土砂がその上流側にたまり、広大な湿地となりました。旧円山川の自然堤防や山裾にある集落では、水害から家屋を守るために玄武洞の玄武岩が高く積まれた独特の街並みを見ることができますという。なんと同書には、玄武洞よりも前に座り込んだ豊岡市のゆるキャラ玄さんが大きく紹介されている。玄武洞に到着して、見学より前にミュージアムとなる六角形の建物(2018年の開館前に行った)でアイスクリームを注文。アイスクリームは大山のジャージー乳のものの様にきめが細かく、美味しかった。玄さんはいなかったが、そのアイスクリームに玄さん饅頭がトッピングされていたのは驚き。
そしてようやく玄武洞へ。説明パネルは、今から約300万年前~約1万年前、但馬地域一帯では盛んに火山の噴火が起こっていました。そのなかで、玄武洞付近を構成しているのは、約160万年前に噴出した玄武岩の溶岩であるとされています。その火山の形は残っていませんが、公園の周囲や円山川をはさんだ対岸の地域にも同じ玄武岩が分布しており、広い範囲を覆った火山活動があったことがわかりますという。玄武洞は南北に並んでいる(案内図では玄武洞ミュージアムは以前の建物の外観のまま)。”玄武洞”は文化4年(1807)儒学者柴野栗山が、当時石山といっていたこの景観を見て、天下の奇勝”玄武洞”と命名したのが、名の由来です。玄武洞の右手に青龍洞、左手に白虎洞・朱雀洞が並び、それぞれ柱状節理に個性があって蜂の巣、竜の腹、亀の甲のように見えるなど、人工ではできない自然の彫刻がかたのしめますという。各洞が古めかしい四神をとった名称の理由が判明。
玄武洞周辺の岩石は灘石と呼ばれ、江戸時代から採石場として開発されてきましたという。それだけでなく、昔は洞窟のようになっていたのが、自然崩壊が進んで、洞窟ではなくなってしまったと聞いたことがある。これだけの狭い範囲でも、こんなに柱状節理の傾きが変わっている。
玄武洞洞は2つあるように見える。以前は春先の芽吹きの前に来たので、柱状節理がよく見えたが、今回は緑に覆われて美しいが、見えない箇所も多い。また、整備が進んで、玄武岩ではないようなものが積まれていたりした。せっかくなので以前の写真も。
道中にも柱状節理が。斜めになっていたり、ほぼ同じ厚さに割れた六角形の石は、縁が丸みを帯びている。
青龍洞柱状節理の美しい青龍洞岩石に見られる規則正しい割れ目を節理といい、それが柱のようになったものが柱状節理です。玄武洞公園の洞窟の中でも特に美しい柱状節理を見せてくれるのが青龍洞です。このような柱状節理は、熱い溶岩が固まり、冷えていく過程で岩石が収縮してできたもので、溶岩の表面から中心部に向かって伸びていきますという。龍が天へと昇る勢いが感じられる縦の柱状節理がみごと。中央ではまっすぐな柱状節理だが、左右は中央への傾きが見られる。どんな風に形成されたのだろう。縦の線だけでなく、それぞれの柱に水平方向の節理が等間隔に並ぶものも。そしてその上部は前方に突き出すような形で、六角形には見えない表面が現れてる。右側の左斜めに向かう柱状節理。その右側そして柱状節理と水平方向の節理によって小さくなった石が風化して丸みを帯びている。六角形なのかな・・・
白虎洞から北朱雀洞
白虎洞
白虎洞では、水平方向に伸びた柱状節理の断面を間近に見ることができます。玄武洞の垂直方向に伸びた節理と比べると、細いことに気付きます。一般に、柱状節理はゆっくり冷えたところほど太くなるので、この付近では溶岩が速く冷えたこと、つまり溶岩の周縁部に近いことがわかります。また、横を見ると節理の断面が見られます。何角形が多いでしょうかという。横に倒れた柱状節理五角形が多いように見えま~す。
南朱雀洞洞とその上方は柱状節理。規模は小さいが、この左右から押し上げる柱状節理の線がすごい。南朱雀洞脇の岩石を見ると、節理が見られず、表面がごつごつしています。これは溶岩流の先端に当たる部分です。溶岩の表面が急に冷やされて固まってもまだ内部は熱く、あとから溶けた溶岩が押し出してきます。そのため、表面が破壊されて、塊状の岩石の集まりになるのですという。確かに左右は妙な岩石に見えた。近くで石をよく見ると、ガスの抜けた穴が見つかりますという。確かに穴が。小さな穴がたくさんあるものも。
南朱雀洞と北朱雀洞の間の押し出した溶岩。やはり葉が茂ってよく見えない。緑がないと柱状節理の様子がよくわかる。特に左上方の亀甲が並んでいる様子が。柱状節理の下側。六角形は少ないような・・・玄武洞公園は溶岩の周縁部あるいは末端部だった。
浜坂港から船に乗って←
参考文献「日本のユネスコ世界ジオパーク」 2017年 隠岐ユネスコ世界ジオパーク推進協議会
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サンセルナン聖堂の南壁途中にミエジュヴィル門(porte Miègeville)という扉口がある。『visiter Saint-Sernin』は、ミエジュヴィルという名称は、門が面した道が町の真ん中を貫く(mièlajila)ところからきている。その道はローマ時代のカルド・マクシムスのほぼ跡を辿っている。(1110-1115年頃の)ロマネスク時代の扉口は、側壁から突き出ていて、非常に美しいモディヨンで装飾された軒があるという。 『図説ロマネスクの教会堂』は、モニュメンタルな彫刻で扉口を飾った早い例の一つにラングドック地方の大都市トゥールーズのサン・セルナン教会堂がある。その南外壁に位置する「ミエジュヴィル扉口」のテュンパヌムとリンテルに堂々たる「キリストの昇天」が彫刻されている。ここでの条件はテュンパヌムという枠組とそれを構成する5つの石の形、横長部材のリンテル、そして上昇運動を示す図像である。彫刻師は、まず、テュンパヌムとリンテルそれぞれの形状の特性と上下の位置関係をシンボリックにとらえ、そこに図像上の位階を重ねていった。すなわち、天穹を連想させる半円形のテュンパヌムは天、水平に広がるリンテルは地である。つぎにテュンパヌムの中で最も高さのあるキリストを配し、両脇の天使がキリストを天に押し上げる。昇天を助ける天使は中央の石材にぴったり収まるように姿態をねじ曲げ窮屈そうだ。その左右で十字架をもつ二天使はゆったり翼を広げる。テュンパヌム両端の天使は三角形の形に合わせて苦しいポーズをとっている。こうしてキリストと左右対称に並ぶ天使の頭部は枠組にそって半円を描くと同時に個々の天使は各々の石板を充塡する。テュンパヌムとリンテルを分つ葡萄唐草水平帯はそのまま天と地の境をなし、リンテルに地上の証人である十二使徒が両端の天使とともに昇天の様を見上げている。高さのない横長部材に立つ使徒は、おのずと短軀像となったという。半円形の壁面を英語ではテュンパヌム、フランス語ではタンパン。その下の水平部材を英語でリンテル、フランス語でラントー、日本では楣石と呼んでいる。仏教寺院内もギリシア神殿も、キリスト教会も、当初は彩色されていたというが、このタンパンはどうだったのだろう。足はこぶこぶの山のような地面を裸足で踏んでいるかのようで、とても天に昇るようには見えない。
高浮彫の装飾帯の葡萄唐草の下に続く十二使徒は、中央部分だけを拡大して写していた。左から2番目の鍵を持っているのがペテロであるのはわるのだが・・・上部の軒とモディヨン。左端から、ライオンの頭部のようなものを押さえ込む人物または悪魔?、たわわに実を付けた植物、頭部を肢の間に入れて縮まる草食獣(足は肉食獣のよう)、続いて顔と前肢だけの草食獣、軒下には、Ωの両端が内側を向いた形の中に、縦の筋で3つに分かれる葉文様。蔓草にはなっていない。同書は、続く男性と女性の胸像について、例外的によく残った、サンセルナンの彫刻の最も素晴らしいものの一つで、名人技であるという。その次は顎髭がふさふさした山羊だろうか、そして右端は、先ほどもあった、体をできるだけ小さく折り曲げた草食獣のようだが、草食獣でこんな足先のものがいただろうか。軒に突き出た渦巻があるのだが、ツタにとりついたカタツムリかな。
柱頭と円柱もうちょっと拡大楣石の下側は2つの見事な渦形持送りがある。左はダビデ王、救済者の王家の血筋を示す竪琴を弾くという。右はライオンに乗る謎めいた2人の人物という。右側の柱頭手前は蔓草にとらわれた2頭のライオンというが、柱頭頂部角の渦巻の下にもライオンの頭部が。原罪に関するテーマの柱頭左側面は楽園から追放されるアダムとエヴァ。各人物の間には、生命の樹のような植物が、三段に実を付けている。
左の2つの柱頭左側面はヘロデの幼児殺し、角に幼子を抱く聖母、右側面にも同じく聖母子ともう一人の人物が登場するのは、エジプト逃避だろうか、馬には乗っていないが。奥の柱頭は、受胎告知とマリアのエリザベート訪問という。
スパンドレルの大理石の二人の大きな人物は扉口を護っているようだという。左側の彫刻上部には、軒下のフリーズの浮彫と同じ葉文様が蔓草となって2人の人物に絡みついているしかも、それがほぼ左右対称に表される。その下が十二使徒の一人大ヤコブ。サンセルナンが、アルルから、サンジルデュガール、サンギレームデゼールを通って、サンティアゴデコンポステラへ向かう「ヴィア・トロサーナ(トゥールーズの道)」の重要な地の一つであることを示しているという。ヤコブの両側にあるのは杖頭がライオンの巡礼杖?ガリシア地方のカテドラル(司教座付き聖堂)との美術的なつながりを示しているという。ヤコブは二羽の猛禽類を踏みしめている。その下には、ライオンにまたがる2人の女性の間にいる男性像という。着衣の衣端が整然と並んでいる。
スパンドレル右側上部の二人の天使は聖体のパンを掲げ、ペテロに戴冠しているが、これは高位聖職者の聖体の盛大な祝福を暗示しているのだろうという。聖ペテロは右手で祝福し天国の鍵を腰帯につけているという。ペテロは二人の悪魔に支えられた魔術師シモンが空中に浮揚するのを失敗させたという。これらを眺めながら聖堂内部へ
関連項目トゥールーズ サンセルナン聖堂 外観
参考文献「中世美の様式下 ロマネスク・ゴシック美術編」 オフィス・ドリーブル編 大高保三郎・岡崎文夫・安發和彰訳 1991年 連合出版「visiter Saint-Sernin」 Quitterie et Daniel Cazes ÉDITION SUDOUEST「図説ロマネスクの教会堂」 辻本敬子・ダーリング益代 2003年 河出書房新社「フランス ロマネスクを巡る旅」 中村好文・木俣元一 2004年 新潮社
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今回は鍵か掛かっていたため入場できなかった後陣には、5つの放射状祭室と周歩廊に囲まれた内陣背面、そして地下祭室ある。『Visiter Saint-Sernin』には、周歩廊と地下祭室の見学は10時-11時30分、14時30分-17時(10月から6月の平日)なので閉まっていたのだった。
は、後陣の最初期の柱頭に朝の光がさす。最も古い柱頭は、南側最初の小祭室と2つの窓の、植物文様と小動物が二層になっていて、彫りは浅いが非常に優美である。次は力強く構成された2つの王冠のようなアカンサス唐草のコリント式柱頭が内陣の丸い後部にある。時にパルメットに入れ替わるアカンサスは、サンセルナン聖堂の大ヒット作である。しかし、聖書の物語を表した柱頭はすでに出現している。2つ目の小祭室の入口南に、4頭の寝そべったライオンの間に預言者ダニエルが両手をあげて坐っている。2頭は小さな顔と頭を引き延ばして角の渦巻の代わりとなっている。左右対称の小祭室には、二人の戦士が敵を追っている。ここで伯爵たちの門の工房の特徴を見ることができるという。コリント式に由来するようなアカンサスの柱頭は同書の図版で確認できるが、残念なことに、他の柱頭は掲載されていない。同書は、内陣後部の下方には、大理石の浮彫が7枚ある。そのうちの3枚は、大きさと様式の調和の取れた一連の作品であるという。同書は、浅浮彫だが堂々とした、四福音書記者の象徴に囲まれたマンドルラの中の栄光のキリストという。マンドルラの中はかなり彫り深り込まれているように見える。キリストは玉座に坐し、右手で祝福し、左手で膝に建てた聖書を持っている。ずいぶんと恰幅の良いキリストで、不思議な衣文線がその胴部を刻んでいる。左上の鷲はヨハネ、右上の人間はルカ、右下のライオンはマタイ、左下の牡牛はマルコ。左は天使ケルビム、右は天使セラフィム『ロマネスク古寺巡礼』は、ケルビムは『旧約聖書』「創世の書」にあるイェッセの樹の警護者、セラフィムは6つの翼をもつ天使で、神の玉座の近くに使えた天使であるという。どちらかというと、宙に浮いたような足先になっている。欧羅巴の旅のサン・セルナンバジリカ聖堂の周歩廊では、南に使徒のパネル2枚、北に天使のパネル2枚があって、それぞれの間から地下祭室に降りられるようだ。
クリプトへ。その一つにサンジャックの聖遺物箱が安置されている。『ヨーロッパ巡礼物語』は、内陣の祭壇背後には聖セルナンの墓があり、地下祭室へ下りて行くと、さまざまな聖遺物が収められており、かつてのコンポステーラに対抗して聖ヤコブの遺体を確認したといわれてるこの教会の、大きな祭室の意味を改めて知らされたという。
『図説ロマネスクの教会堂』は、初期中世からロマネスクにかけては、クリュプタの発達が著しい。クリュプタとは教会堂の一部分で、天井高が低く薄暗い空間をさす。クリュプタの起源は地下に設けられたコンフェッシオという聖人墓であるといわれる。初期キリスト教の教会堂のアプシスの地下に聖人の棺を収めた小さな墓室が設けられ、この墓室にお参りするために、教会堂の内部から降りる地下道が掘られ、墓室の周囲を半周する。コンフェッシオは、真上にちょうど大祭壇がくるように配置されている。しかし、やがて、たんに墓室に参詣するだけでなく、聖人墓のそばで礼拝が行われるように、礼拝空間が設けられるようになり、広間式クリュプタが生まれる。ロマネスクの中頃から、これらのクリュプタのもつ礼拝機能をすべて内陣のレベルに移し、内陣の大祭壇の空間と一体化しようとする動きが出てくる。その解決方法として登場するのが段状内陣と放射状祭室付周歩廊内陣である。これはアプシスの外側に周歩廊を設け、さらにその外側に小アプシスを放射状に配置する形式である。またサンティアゴへの巡礼路沿いの教会堂(コンクのサント・フォワ、トゥールーズのサン・セルナン、サンティアゴ・デ・コンポステラ)でも放射状祭室付周歩廊内陣が採用されているのは、多くの巡礼が周歩廊の小アプシスにお参りしても、内陣中央のアプシスで行われる礼拝が妨げられないという利点があるからであるという。放射状祭室は、外側からは見ていた(ここからは3つしか見えていないが)。『Visiter Saint-Sernin』というガイドブックの表紙には、少し上の方から眺めたサンセルナン聖堂の後陣が写っている。そこには、平面図にあるように、後陣に5つの小祭室、両翼廊に2つずつの小祭室が取り付けられている。
サンセルナン聖堂 ミエジュヴィル門の浮彫装飾←
関連項目サンセルナン聖堂 内部ギリシアの聖堂でクリプトを見学した記事テッサロニキ4 アギオス・ディミトリオス聖堂2 クリプトオシオス・ルカス修道院5 クリプト
参考サイト欧羅巴の旅のサン・セルナンバジリカ聖堂の周歩廊
参考文献「中世美の様式下 ロマネスク・ゴシック美術編」 オフィス・ドリーブル編 大高保三郎・岡崎文夫・安發和彰訳 1991年 連合出版「visiter Saint-Sernin」 Quitterie et Daniel Cazes 1994年 ÉDITION SUDOUEST「フランス ロマネスクを巡る旅」 中村好文・木俣元一 2004年 新潮社「ロマネスク古寺巡礼」 田沼武能写真集 1995年 岩波書店「ヨーロッパ巡礼物語」 田沼武能 1988年 グラフィック社
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キャピトル広場(Place Capitole)の西方にジャコバン修道院(Couvent des Jacobins)がある(トゥールーズ観光局発行の地図より)。
かなり広い敷地に、ドミニコ会の修道院と回廊、そして聖堂が残っている。Google Earthより
東側の後陣には妙な形の小祭室が付属している。矩形の小祭室の出っ張りと東側のラカナル通り(Rue Lakanal)南側の側壁にはガーグイユ(犬のような形をした樋口)が、各扶壁の上部に飛び出していて、扶壁の間は尖頭アーチ形の壁龕のようになっていて、その中央に細長いステンドグラスで装飾された窓がある。ロマネスク様式の教会では、窓は半円アーチ型の小さなもので、外観は壁面が目立ったが、ゴシック様式では大きなステンドグラスの窓が目立ち、壁面は下部だけのようになっていく。ジャコバン修道院の教会の窓がゴシック様式にしては小さな窓が目立つのは、この地方のゴシック様式の特徴なのかな?教会の側壁には8つのステンドグラスがあった。西正面から数えて3番目の窓の下に現在では入口になっている南扉口がある。五重の飾りアーチには植物の同じ文様の柱頭が並んでいる。
Couvent des Jacobinsは、1230-1350年に建立された。ジャコバン修道院は後世様々な改修を受けている。その建築はドミニコ会による清貧の規律と宣教の規定、すなわちドミニコ会に従っている。厳粛で量感のある外観のために、教会のヴォールト天井の軽快感と内部の明るさには驚かされる。複雑なヴォールトと高い窓はゴシック様式による。しかし、多くの仏南西部の教会と同じく、扶壁で補強された高い壁のある単純なプランや、装飾は切石を描いたくらいで装飾がほとんどない。完璧にレンガで建造されている。八角形の鐘楼は「南方の」ゴシック様式の好例であるという。西側。赤と緑で描かれたリブが細く長い円柱から各方向に出ている。平面図(『中世美の様式下ロマネスク・ゴシック美術編』より)現在の後陣外側に付属する小祭室とは数や形が違っている。ゴシック建築では一般的に見られる飛び梁(flying buttress、arc-boutant)がないのがこの地方の特色かな。
内部は身廊と側廊を隔てる2つの柱列ではなく、中央に細い円柱が並んでいる。西壁の付け柱と後陣のものも含めると8本。戦争の時に軍隊が使用したために、教会内部にあったものは取り払われたそうで、がらんとして、見通しが良い。現在ではミサは北に安置された祭壇で行われている。ステンドグラスの下に壁龕のない壁面には、白い組紐で同じ幾何学形が繰り返されている。これを何と呼んだらよいのだろう。イスラームの幾何学文様にはなかったかな?最近までイランのイスラーム美術をまとめていたのに、もう忘れてしまった。「忘れへんうちに」より、「もうすぐ忘れますが」にした方が良いかも😅その中央には赤い円花文があしらわれる。
側壁のステンドグラスと天井のリブヴォールト。4つの交差する天井の各頂部に青っぽい彩色があるので、実際よりも複雑にリブヴォールトのように見える。ステンドグラスの一つ。聖書の物語などではなく、文様の繰り返しである。それがドミニコ会派の好みだったのかな。それとも後世の修復?赤いレンガの壁面や天井に、オークル系の土を塗り、切石積みで造ったかのように見せている。その拡大リブは赤と緑に見えたが、何色だろう?ヴォールト天井の頂部に描かれているのは8点星。要石には紋章のようなものが描かれている。別の要石には渦巻くパルメット(ナツメヤシの葉から生まれた文様)?
ジャコバン修道院のリブヴォールトは椰子の木と形容されることが多いが、言い得て妙な表現である。太いリブは次の柱か壁の付け柱につながり、細いリブは途中の丸い飾りに達している。後陣の1本の円柱からはリブが22本出ているが、それをどのように写したら良いのか・・・これでは暗すぎるし。円柱には柱頭というほどではないが、アカンサスの葉が巡り、その上は八角形になっているみたい。その下側には帯文様も。かつては円柱も彩色されていたのだろう。後陣のリブの様子と要石。切石を模して描かれているのに、リブに接している部分はアスパラガスのよう。
小祭室のヴォールティング。何故か下部を写していない。奥のリブは要石に達してはいるが放射状には伸びていない。この頃が複雑な形の天井を支えているのではないのかな。『図説ロマネスクの教会堂』は、ロマネスクの末期にはイギリスのダーラム大聖堂において交差リブヴォールトが用いられる。交差リブヴォールトとは、交差ヴォールトの稜線にリブ(オジーヴ)という骨組みを配したもので、いくつかの点で交差ヴォールトより優れ、ゴシック建築ではもっぱらこのヴォールトが使用されるようになるという。リブが支えているとは記されていない。『ロマネスク美術革命』は、ヴォールトはアーチの原理を用いた天井で、リブ・ヴォールトとは、交差ヴォールト(トンネル・ヴォールトを十字に交差させたもの)の稜線に沿って刳形を付けた天井のこと。刳形が肋骨(リブ)のように見えるため、そう呼ばれる。20世紀初頭の研究者たちは、リブ・ヴォールトには補強の機能があると考えていたのだが、しかし天蓋と壁の重みは交差ヴォールトによってすでに分散しており、リブは補強の役を果たしていないという。リブは装飾だったのだ。
彩色のよく残った壁龕。ステンドグラスの窓の下は、内側は交差ヴォールトの壁龕になっていて、外側に出っ張っている。両側には聖書の物語などが描かれていた痕跡が。壁龕に窓が開いている箇所も。壁面は切石に見えるように彩色されている。 目の荒い石に似せて無数の気泡まで描いている。その上下には、立体感のある卍繋ぎの帯文様が描かれて、ガッラ・プラチディア廟のアーチのモザイクによる帯文様を彷彿とさせる。こちらの壁龕には奥と左右の尖頭アーチ形壁面に聖書の物語などが描かれていたような跡も見受けられる。複合柱にも見える2つの壁龕の間の壁の付け柱。この様々な色の切石に似せたものは、大理石を模しているのだろうか?大理石に気泡はあったかな・・・柱頭彫刻は植物文様ばかりで、ロマネスク美術のような聖書の物語や、動物が登場するものなどはない。
関連項目トゥールーズ キャピトル広場
参考サイトCouvent des Jacobins
参考文献「図説ロマネスクの教会堂」 辻本敬子・ダーリング益代 2003年 河出書房新社(ふくろうの本)「ロマネスク美術革命」 金沢百枝 2015年 新潮社(新潮選書)
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オーギュスタン美術館のロマネスク美術展示室には、サンセルナン聖堂の他にサンテティエンヌ司教座付聖堂、そしてドラド修道院からもたらされた彫像群が置かれている。『Sculptures Romanes』は、ノートルダム・ド・ラ・ドラド修道院回廊の彫刻群は4つの工房に分類される。そのうちの3つの工房を特定するのは容易でるある。ロマネスク彫刻の様式と図像学の変遷を追うのにドラド修道院の作品群は適している。当館では27の柱頭を収蔵している。オートガロンヌ県のベルベズ(Belbèze)から運ばれた石灰岩でつくられたという。
最初の工房の作品同書は、その類似性から、最初の工房の作品は、モワサックの回廊完成のすぐ後に制作され、1100-1110年頃とされている8つの聖書の物語と6つの頂板で、モワサック集団の一工房が造ったものである。
全体の形や柱頭の大きさ、図柄の構成と、人物を特定できる姿がモワサックの柱頭と似ており、トゥールーズ風の柱頭彫刻が生まれるのはその後のことである
モワサックの回廊の柱頭のように、四角錐のピラミッドの形を俯せにした花籠飾りが特徴である。卵形の顔に小さくずんぐりした体の人物像は静的で、ほぼ正面向き、そして何もない背景から高く抜き出ている。場面は各面毎に区切られているという。モワサック回廊の柱頭彫刻については後日
ダビデ王と楽士たち 1100-10年 高33幅52奥行25㎝ 石灰岩 2連の柱のに置かれた 最初の工房 ドラド修道院回廊同書は、イスラエルの輝かしい王と、旧約聖書に記された王キリストの予示。中世においてダビデは理想の王だった。彼は詩編を著したとされるという。左面は右手に小さな楽器を持って立っている者と、角には弦楽器を左肩にのせた人物がいる。正面に竪琴を弾くダビデ王、右角に大きなタールを打つ者、右面には小さなタンバリンを肘で鳴らす者。両角の上にはコリント式柱頭の名残のように小さな渦巻がある。
ライオンの穴のダニエル 1100-10年 高35幅52奥行41㎝ 石灰岩 2連の円柱の柱頭 最初の工房 ドラド修道院回廊説明パネルは、バビロンに捕囚されている時、ダリウス王の宮廷に招かれた預言者ダニエルは、陰謀のの犠牲となり、ライオンの穴に餌食となるように投げ込まれた。オランスという両手をあげる伝統的な祈りの姿勢で中央にしゃがんで、ダニエルはライオンに囲まれているという。ライオンの穴の中で、椅子に座して両手をあげるダニエルは、右半身は量感があるが、脚部は扁平。その衣端は重なる襞を丁寧に表現している。頭部から腹部まで凹凸のない円筒形で、あげた腕やライオンと共に左右対称の構図で、祈りを捧げているというよりも、獰猛なライオンを従えた王者のよう。頂板は羽根の手入れをする鳥が4羽、向きを変えて表されている。側面ではしゃがんだライオンに馬乗りになったライオン。説明パネルは、頂板には身支度をする王子という。中央の人物に両側から2人ずつ傅いている。
キリストのエルサレム入城 12世紀初頭 石灰岩 2本の円柱の上 最初の工房 ドラド修道院回廊説明パネルは、頂板は鹿狩り。キリストのエルサレム入城は過越の祭の始まりを強調する。3名の弟子たちに伴われて、キリストはロバに乗ってエルサレムにやって来たという。住民たちは枝を持って歓迎し、彼の通る道に尊敬の印しに服を敷いた。旧約聖書の預言を実現させるために、この入城はキリストの神性を表すという。そして、最後の面は、弟子たちとの最後の晩餐の後、キリストは迷走するためにオリーブの園に引きこもった。キリストに抱きつき、キリストを逮捕するためにやって来た2名の兵士たちに彼だと示す弟子のユダの裏切りの場面と、エルサレムでの最後の晩餐などの主題を飛び越してキリストの逮捕が表されている。
洗者ヨハネの死 1100-10年 高35幅52奥行41㎝ 石灰岩 単円柱に置かれた 最初の工房 ドラド修道院回廊『Sculptures Romanes』は、4つの場面から構成されている。サロメの踊り、祝宴、頂板の2つの面には向かい合う動物が表され、祝宴の場面も左右対称。洗者ヨハネの斬首、そし、ヨハネの首をヘロディアに見せる場面であるという。角部は人物の身振りが違うが、半円アーチの中のすでに首のない洗者ヨハネと共にすでに左右対称、ヘロデ・アンティパスの妻でサロメの母ヘロディアも、踊るサロメも女性像とは思わなかった。頂板の2つの面にはやはり向かい合う動物。洗者ヨハネの上には牛を仕留めた肉食獣、最後の面では絡む蔓草を噛む動物は左右で異なる。頂板の上の面には半円を上に向けて、半分ずつ重ねながら連続させた文様。
キリストの変容と不信のトマ 1100-10年 単円柱に置かれた 最初の工房 ドラド修道院回廊説明パネルは、3つの場面からなる。山上での祈りに始まり、ペテロ・ヤコブ・ヨハネに伴われたイエズスがそこで神性を示した。恐怖にとらわれ、使徒たちは彼の前にひれ伏していた旧約聖書の預言者たちは、モーゼやエリヤと共に現れたキリストを称賛した。ナツメヤシのような樹木の間で神となったキリストに3人の使徒がひれ伏し、次の面ではキリストが山を表す丸まった地面に立ち、やや左を向いている。ペテロは、右に3つの塔で表されたキリスト、モーゼそしてエリヤを受け入れることを提案したという。二階建ての塔は12世紀初頭の教会の鐘楼を表現しているのだろうか。そして最後の面には「不信のトマ」。復活後イエズスが使徒たちの前に初めて姿を表した時に不在だったトマは、復活を疑った。1週間後イエズスは彼の前に現れた。イエズスはトマに右脇腹の傷を触らせて、復活したことを信じさせたという。また頂板の四面について説明パネルは、勉学、くつろぐ人々の姿があるが、サイコロゲーム、踊りやアクロバットなど、当時教会で禁じられていたものも表されているという。柱頭の主題とは関係のない、庶民の暮らしや楽しみが伺えて楽しい。
最後の審判 1100-10年 高35幅52奥行40㎝ 石灰岩 単円柱の上 最初の工房 ドラド修道院回廊日陰になっていて写しにくかった。『Sculptures Romanes』の図版は着衣の浅い襞や丸いお腹を覆う斜め帯状の布などが細部まで表現された場面だと分かるのに。マンドルラ(アーモンド形の身光)が太い輪として高浮彫される。説明パネルは、世の終末にキリストは2人の天使に支えられたマンドルラの中に玉座に坐って現れ、生きる者と死者を裁くという。2つの主要な面では、天使の鳴らすトランペットの音で死者たちが蘇り、墓から出てきたという。どちらも天国に行ける人たちだけで、地獄に墜ちる者は表されていない。キリストの反対側には、キリストに先立って貴石で飾られた十字架が現れる。その交差部はキリストが埋葬された時に着けていた白布が巻かれている。十字架は2天使によって紹介されているが、それはロマネスク彫刻の主題の最も古い表現であるという。その上の頂板では、水鳥はのんびりと羽根繕いをしている。
ジャコバン修道院←
関連項目トゥールーズ サンセルナン聖堂 外観オーギュスタン美術館 ロマネスク美術展示室オーギュスタン美術館 回廊はゴシック様式雲崗石窟の忍冬唐草文
参考文献「Muée des Augustins Guide des collections Sculptures Romanes」 1998年
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『Sculptures Romanes』は、ノートルダム・ド・ラ・ドラド修道院回廊の彫刻群は4つの工房に分類される。そのうちの3つの工房を特定するのは容易でるある。ロマネスク彫刻の様式と図像学の変遷を追うのにドラド修道院の作品群は適している。当館では27の柱頭を収蔵している。オートガロンヌ県のベルベズ(Belbèze)から運ばれた石灰岩でつくられたという。
前回は最初の工房の柱頭彫刻をまとめたので、今回は2番目の工房の柱頭彫刻。『Sculptures Romanes』は、政治的な要因で10年の空白の歳月があり、2番目の工房が回廊の仕事を再開した。1120-30年のものは19個の柱頭が収蔵されている。その内の12個は聖書の物語が描写され、13番目は寓話で、一連のものは、足を洗うキリストから過越祭までのキリストの受難を表す。このような連続する物語の柱頭は、ロマネスク彫刻では異例である。動物、装飾文様、6つの植物文様は例外である。最初の工房は、硬直し、枠の中に押し込められていたが、感情的で劇的な強烈さ、あふれる活力、装飾的な衣褶の扱い、細部表現の繊細さという2番目の工房の特徴は、12世紀の転換期に起こった精神的な変動の兆しや、新たな人間性の出現を示しているという。
洗足 1120-30年 高35幅52奥行41㎝ 石灰岩 単円柱の上に置かれた 2番目の工房 ドラド修道院回廊説明パネルは、捕縛の前の最後の晩餐の時、キリストは使徒たちの足を洗いながら、謙遜という最後の教訓を与えた。キリストは手を挙げて拒むペテロの前に跪いている。続く2面に4使徒が儀式に従って、履物を脱いだり、裾をたくし上げたりして準備をしているという。キリストが跪いている面には、半円アーチから両開きの幕が左右の円柱に巻きつけられている。キリストの背後から聖マティアはタオルを差し出している。アキテーヌ地方の伝導者マティアはトゥールーズにも伝導に来たという。頂板の文様はジグザグに折り曲げたリボンが2段で矩形をつくっている。ねじった畝の円柱の上には、この柱頭の上部とおなじ葉文様になっている。
最後の晩餐 1120-30年 石灰岩 単円柱の上 2番目の工房 ドラド修道院回廊説明パネルは、頂板は果実のある葉飾り。キリストが受難の前に弟子たちと最後の食事をしている時、彼らの中の一人が自分を裏切るだろうと告げた。キリストの方に身をかがめて、ヨハネは誰が裏切るのかと尋ねた。イエズスは、テーブルの前に坐っていた小さなユダにひとかけらのパンを与えながら指した。反対側の小さな面で、マティアは料理皿を持って弟子たちに加わっているという。左面がユダにパンを与えるキリストと背中側に寄りかかるのがヨハネとすると、その角に一人テーブルの前で子供のような小さく表されているのがユダ?それとも、半円アーチの下に一人坐っているのがユダ?こちらの方がキリストとヨハネかな?右面がマティア(ユダの後で十二使徒に加わる)というのは分かり易いが。
キリストの捕縛 1120-30年 高35幅52奥行52㎝ 石灰岩 3本の円柱の上 2番目の工房 ドラド修道院回廊同書は、4面の登場人物の多さは、この場面が柱頭の中で最も複雑だが、最も革新的な表現である。左半分はキリストがこの人物であると捕らえに来た兵士たちに教えるユダ(ユダの裏切り)、右半分から次の面に続くキリストの捕縛の場面。左はキリストの鞭打ち、右はカルヴァリの丘への十字架背負いの場面。
十字架降下と埋葬 1120-30年 高36幅52奥行40㎝ 石灰岩 単円柱 2番目の工房 ドラド修道院回廊頂板の文様は環つなぎ唐草。説明パネルは、アリマタヤのヨゼフがポンティオ・ピラトからイエズスを埋葬する許可を得て、ニコデモが十字架に残った左腕をやっとこで外している間、遺体を支えていた。その左にはひどく傷んだ聖母が息子の右腕を支え、その顔に優しく近づいている。次の面では、ヨハネが悲嘆にくれたて右手を顔に当てているという。この柱頭は面によって、背景が異なる。無文のところと、ワッフル地文様の箇所があって、その違いがわからない。次の面では、十字架降下のすぐ後に埋葬となる。アリマタヤのヨゼフがキリストの頭部側、ニコデモが足側にいて、亜麻布でくるんだイエズスの遺体を柩の中に納めた。聖母と聖ヨハネは泣きながら背後に控えているという。それぞれの着衣は薄手で柔らかなもので、その襞が細かく表されている。
キリストの冥府下り 1120-30年 高35幅52奥行40㎝ 石灰岩 2番目の工房 ドラド修道院回廊説明パネルは、十字架に架けられし死んだ後、復活の前に、キリストは地獄へ下りて行った。そこで、古い法律(旧約聖書のユダヤの法律)で正義とされた魂を見つけ、悪魔を投げ飛ばした。復活の十字架を突き立て、アダムとエヴァを解放した。地獄は人物の背後に描かれている。一人の悪魔が地獄に墜ちた者たちを業火(炎の上に鍋!)に西洋鍬で投げ込んでいるという。この画像では判別しにくいが、キリストの着衣の襞の細かさや文様の表現などは最初の工房では見られなかった。また、アカンサスの翻った葉先は、狭い面では両角に、広い面では両角だけでなく中央にもある。別の広い面では、3人の選ばれた者たちが天使に天上のエルサレムに導かれている。その入口の門があるという。広い面には3名が中央に、右半身には頭部が失われた天使がその3名の方を向き、最初の者の手を取っている。天使の翼は一方は広い面に、もう一つの翼次の狭い面に表されて、右手は天上のエルサレムの門を指すという、2つの面で一つのテーマを描写する。頂板の羽状唐草は四面を一巡している。
墓へと走るペテロとヨハネ 1120-30年 高34幅51奥行39㎝ 石灰岩 2本の円柱の上 2番目の工房 ドラド修道院回廊マグダラのマリアが墓が空になってキリストが復活したと知らせると、それを確認するためにペテロとヨハネが墓へと走る姿が右面左半分から左面へと続く。円柱の影から墓を伺っているペテロかヨハネ。墓は空で、キリストが復活したことが明らかとなった。この柱頭では、この面の右側だけが背景がワッフル文様になっている。左側はメソポタミアでは古くから生命の樹とされているナツメヤシが立つ。最後の面、右の半円アーチいっぱいに表された人物は聖書を持っているので、おそらく復活したキリストだろう。
不信のトマ 1120-30年 高38幅52奥行39㎝ 石灰岩 2本の円柱の上 2番目の工房 ドラド修道院回廊最初の工房(1100-10年)では復活を疑うトマが立ったままキリストの右脇腹に右手を近づけているだけだったが、2番目の工房の時代となると、トマはしゃがみ込んで、左手の人差し指でキリストの右腕をあげ、右手でキリストの傷口に触れるという、踏み込んだ表現をしている。左面と正面左側にかけては、聖ペテロと聖パウロへの教えの伝達の場面『Sculptures Romanes』は、クリュニーの規律では、この主題は特別な位置を占めるもので、クリュニー修道院はローマ教皇の直接支配下にあるので、新しい教えを託された使徒ペテロとパウロを護るという。別の主題が表されるが、場面の区切りに、右上に正面向きで立つキリストが表されているのだろうか。
キリストの昇天 1120-30年 高17幅52奥行39㎝ 3本の円柱の上 石灰岩 2番目の工房 ドラド修道院回廊説明パネルは、頂板は蔓草の中で向かい合う鳥と重なり合う輪。エルサレムで起こった昇天は、復活したキリストの最後の登場である。最初の面は、正面を向いたキリストが腕を十字にひろげ、天を見上げる。両側の天使は使徒たちと聖母にキリストを指し示している。この昇天の図像はサンセルナン聖堂のミエジュヴィル門にかかげられたタンパンのように、キリストが天使たちに抱き上げられ、横顔を見せるという、この地方に一般的な昇天とは区別できるという。ミエジュヴィル門のタンパンは1110年に造られ、この柱頭に先行する図柄である。背景は全面ワッフル文様で、その上に巡る波のような表現はアカンサスの葉ではなくなっている。顔面が失われているが、使徒はひょっとすると天に昇っていくキリストを見上げているのかも。。
天国の4つの大河 1120-30年 高36幅52奥行38㎝ 石灰岩 2本の円柱に置かれた 2番目の工房 ドラド修道院回廊『Sculptures Romanes』は、中世では四福音書記者の象徴と見なされた。天国の4つの大河は修道士にとって使徒たちの四散と地上の人々を改宗させて洗礼を施すという使命を想起させたという。頂板は平行唐草文で、柱頭上部にもジグザグ文と葉状の文様が文様帯として表され、その下に銘文、そして主題とその背景に網目状に彫られている。広い面2つにそれぞれ人物が担ぐ大きなリュトンから流れ出す大河が表される。
蔓草の中のアカンサス 1120-30年? 石灰岩 2番目の工房 ドラド修道院回廊?アカンサスにしては小さな葉が籠のような蔓草のくきの間にある。ドングリのようなものはどうも実らしい。別の柱頭大きな実を付けたアカンサス
蔓草の中のライオン 1120-30年 石灰岩 単円柱の上 ドラド修道院回廊ライオンが茎を囓っているところが面白い。頂板は細かな籠目文様。
ドラド修道院の最初の工房←
関連項目トゥールーズ サンセルナン聖堂 外観オーギュスタン美術館 ロマネスク美術展示室オーギュスタン美術館 回廊はゴシック様式雲崗石窟の忍冬唐草文
参考文献「Muée des Augustins Guide des collections Sculptures Romanes」 1998年
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ドラド修道院の3番目の工房について『Sculptures Romanes』は、トゥールーズ地方の審美眼は、「人のいる葉飾り」という主題で蔓草や葉飾りの中に怪物、動物そして人物を表した浮彫が、頂板や柱頭のフリーズに表した。それは12世紀後半を通して、2番目の工房とサンテティエンヌの彫刻師ジラベルトゥスの繊細さ、更にサンセルナン聖堂回廊優美な怪物の柱頭によって、トゥールーズに2世代も早く出現した。音楽を奏でる動物、曲芸、ライオンと闘う戦士とリラを持つロバという4つの寓意的な場面を表す彫像柱の柱頭は、人物が姿を消す傾向にある。後に植物が動物と争うようになる。しかし、その具象表現は、頂板の図柄とは反対に、ゴシック美術と結びついたという。ジラベルトゥスという彫刻師の作品はサンテティエンヌ司教座付聖堂の彫像柱が展示されていた。それについてはこちらドラド修道院だけでなく、サンテティエンヌ司教座付聖堂、サンセルナン聖堂その他の柱頭も一緒にまとめた。
猛禽に啄まれるミミズク 12世紀 石灰岩 2本の円柱の土台 ドラド修道院説明パネルは、動物寓話では、日中は目が見えない鳥として表される。中世では、イエズス・キリストが預言者たちが告げた救世主であるということを拒否するユダヤ人の象徴とされたという。残念ながらミミズクの顔がよく写っていないが、背景の葉飾りは透彫のような細かい浮彫になっている。反対側は向かい合う牡羊で、両側面には一匹の犬と複数の魚が登場するという。牡羊が闘っている背景もまた透彫に近い。
人物の登場する蔓草文様 12世紀中葉 透彫 石灰岩 2組の柱頭、2本の円柱の上 ドラド修道院説明パネルは、密生した蔓草に鳥や獣と、闘う人物たちが登場しているという。2本の円柱の上に三方が蔓草文様が浮彫され、それが2組ほぼ合わせて展示されている。本来は別々の隅に立っていたと思われる。双方ともにはっきりと透彫だが、それぞれに蔓草や柱頭フリーズに工夫を凝らしている。左の方は人物が多く、右は上方に鳥、下方に獣が多数登場する。左側の正面柱頭フリーズの角には人頭が一つずつ。浮彫から浮彫の技を獲得したことによって、アカンサスの葉は薄くなり、茎も細くなった。さて、その中に紛れた人物や動物がどれだけ見分けられるやら・・・右側の正面彫刻師の違いだろう、こちらの茎は太く、人物や動物も多く表される。
狩猟の場面と神話の人物のいる蔓草 12世紀後半 高29幅52奥行31㎝ 透彫 石灰岩 2本の円柱の上 ドラド修道院説明パネルは、広い面は2つの狩猟の場面。一つは熊狩りだという。別の面ではセイレンとケンタウロスという古い神話の怪物たちに裸の猟師が槍を向けているという。柱頭フリーズはなく、小さなアカンサスの葉が巡る2つの柱頭に一つの透彫がのってるよう。こちらは裸の男たち。どちらも蔓に手を伸ばし足を踏ん張って、転がるまいとしているよう。そして、海馬に乗る人物と、子供に授乳するセイレンという。
船の漕ぎ手たち、または舟遊び 12世紀後半 高36幅46奥行31㎝ 石灰岩 2本の円柱の上 ドラド修道院右端で舵手が手を挙げて長いオールを持った3人の漕ぎ手を鼓舞しているが、後方では反対側を向いた人物がいて、その左は子供のよう。聖母子ではないだろうが、まるで舟遊びを楽しんでいるよう。波文の下には大きな魚が1匹ずつ。
ある聖人の殉教 時代不明 石灰岩 2本の円柱の上 ロンベズ(Lombez、トゥールーズから西南西に約45㎞)説明パネルは、1125年にサントーギュスタンの規律の下にベネディクト会修道院となった。故に、その柱頭はトゥールーズのサンテティエンヌ司教座付聖堂の影響を受けてる。聖人は特定できないが、アジャンのサンカプレではないかとされる。二人目の人物と祭壇の上に組んだ手をのせ、祭儀に参加しているというその場面は写していなかった。残念!下の場面は、2人の兵士に連行され王の前に出頭し、次に首を切られた。子供の姿となった彼の魂は、神の手によって天国へと運ばれたという。口から子供の姿となった魂が出て行くという表現が興味深い。そして柱頭フリーズは蓮華が表されたような環つなぎ唐草の一つが雲となって、そこから出てきた神の右手がその魂を救済している。野にいる騎士たちの表現は、サンテティエンヌの「マギの礼拝」から創意を得たものであるというが、その面は写していなかった。
マギの礼拝 12世紀中葉 高33幅54奥行31.5㎝ 石灰岩 2本の円柱の上 サンテティエンヌ司教座付聖堂回廊?流れ星でキリストの誕生を知った東方の三博士たちがエルサレムにかけつける場面。この渦巻に乗ったマギ像に似た騎士たちが表されていたという。
洗者ヨハネとサロメ 12世紀後半? 石灰岩 2本の円柱の上 サンテティエンヌ司教座付聖堂回廊?説明パネルは、玉座に坐ったヘロデ王の前で踊るサロメという。右から左へ。死刑執行者がサロメに盆に載せた洗者ヨハネの首を見せ、サロメは母のヘロディア見せたという。どうやら洗者ヨハネの首を持つサロメは2回表され、異時同図になっているようだ。洗者ヨハネの死、彼の魂は裸の子供の姿で天に昇り、キリストに受け止められているという。その右端の建物群はエルサレムの街を表しているのだろう。
十二使徒 時代不明 大理石 2本の円柱の上 オート・ガロンヌ県のサンゴダン、サンピエール聖堂回廊説明パネルは、それぞれが持つ書物に彫られた名でわかる使徒がいる。鍵で知られるペテロは中央に、左にパウロ、名の不明の使徒が右にいるという。背景がほとんどなく、使徒たちだけが柱頭いっぱいに、密接して表される。誰か特定できない2名の使徒の右の面にいて、シモン、バルテルミーの背後に大ヤコブとヨハネ、最後の左面に小ヤコブ、トマとフィリポがいるという。使徒たちの体に張り付くような着衣と、太腿などの膨らみが強調される表現は、サンテティエンヌ司教座付聖堂の「洗者ヨハネの死」にも見られるが、地方作であることは否めない。
聖母子像 時代不明 大理石 2本の円柱の上 説明パネルは、玉座に坐る聖母の膝に正面向きで幼子イエズスが表される。ヨハネの黙示録とエゼキエルの幻視による四福音書記者の4つの象徴、ヨハネの鷲、マルコのライオン、マタイの天使、ルカの牡牛に囲まれているという。聖母の両手の外側にある人の顔などに穴が複数あいているのは振り香炉だろう。天使とは神の使いなので、可愛いものだとは限らない。天使よりも大きな翼のある牡牛など、全てが塊量感あふれる造形で、これまで見てきた柱頭とは別の系統のよう。別の面では、十字架に架けられたキリストが、香炉を携えた2天使に囲まれているという。キリストの磔刑 12世紀第1四半期 高39幅50奥行39㎝ 大理石 2本の円柱の上の柱頭 エロー県サンポンドトミエール聖堂回廊『Sculptures Romanes』は、宗教戦争の時代、ベネディクト会修道院の重要な回廊の解体によって、膨大な柱頭がほぼ散逸した。オーギュスタン美術館は2本の円柱上の柱頭を一つ所蔵していて、片方はキリストの磔刑をもう一方は聖母子を表している。この柱頭の最初の工房は、ルシヨン地方、特にピレネー・オリアンタル県のサンミシェル・ド・キュクサやセラボンヌの影響を受けていて、それが12世紀第1四半期の作品の証であるという。これが上の聖母子の面の表側だった。背後では有翼の天使たちが香炉を振っている。キリストは十字架に手足を釘で打ち付けられているが、苦しみの表現は控えめだ。時代が下がると、教会では血を流したキリストが十字架に架けられた像が出現するが、そんな生々しさやおどろおどろしさはロマネスク美術にはない。
ドラド修道院の2番目の工房←
関連項目
ドラド修道院の最初の工房
参考文献「Muée des Augustins Guide des collections Sculptures Romanes」 1998年
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ドラド修道院では12中葉に透彫の柱頭が制作されるが、サンセルナン聖堂では、「?」のついたものもあったが、12世紀前半にはつくられている。サンセルナン聖堂のモティーフもまた独特で、ドラド修道院とは別の系統のものが将来されているように思える。葉飾り 12世紀前半 石灰岩 単円柱の上 サンセルナン聖堂回廊透彫か透彫に限りなく近い高浮彫。太い茎は渦巻かず、うねりながら反時計回りに柱頭を巡る。
組紐文様 12世紀前半? 石灰岩 単円柱の上 サンセルナン聖堂回廊これは透彫。蔓草の表現や茎の太さなどに繊細さは見られないが力強い。
植物文様 12世紀前半? 石灰岩 単円柱の上 サンセルナン聖堂回廊三筋の太い茎が入り組んで作り出す隙間に、アカンサスの葉を縦に二分割した半パルメットとアカンサスの実を入り込ませ、面のようだが蔓草の透彫になっている。蔓草の端は、コリント式柱頭から抜け出せずに、一対で反り返る向かい合う渦巻となっている。
特に以下のライオンや鳥の立体的な表現が突如として出現する。『Sculptures Romanes』は、1120年頃西正面のライオン像の柱頭に端を発して、13個は1120-40年の銘があり、その内12個を見ることができる、対になった怪物、鳥そしてライオンが装飾的な蔓草に捕らえられている。それはトゥールーズのロマネスク美術ではなかったもので、西扉口の新たな様式の発明品である反復する動物という種類ができた。植物の蔓になった帯状文様はその起源をコンポステーラに見ることができる。この回廊では旧約聖書やキリスト伝の物語はなく、1140年以後ロマネスク彫刻ではなくなっていく。モワサックやドラド修道院の回廊との違いであるという。
蔓草の中の鳥 12世紀前半? 石灰岩 単円柱の上 サンセルナン聖堂回廊ある面から見ると鳥は向かい合い、その隣の面では背を向け合うように表現されている。肢は長いが鶴や鷺のように長い嘴は持たない。部分的に透彫。
蔓草の中のライオン 12世紀前半? 石灰岩 単円柱の上 サンセルナン聖堂回廊回廊の柱頭彫刻は、一つ一つの主題が違うのだが、この二つの柱頭はよく似ている。柱頭フリーズと一体型のようで、ライオンの間には円筒部分が彫り出されている。
蔓草の中のライオン 12世紀前半? 石灰岩 単円柱の上 サンセルナン聖堂回廊2頭のライオンは身をかがめて、互いの後ろ肢を囓っている。双方の太ももの上では、蔓の先端がライオンの頭のよう。
では、それ以前のサンセルナン聖堂の柱頭彫刻はどんなだったのだろう。『Sculptures Romanes』は、1070-75年の少し後に建設が始まり、1120年頃に完成した。ほぼ同時に行われた巨大なクリュニー聖堂の建設を除くと、ロマネスク期で40年以上もかかったものはフランスではない。外側の3つの扉口、伯爵たちの門、ミエジュヴィル門とペイル門を含めて、彫刻による壮大な装飾は、スペインの影響を受けている。1070年代に始まった最初の建設は迅速で、後陣と十字交差部の基礎と扉口(最初は南袖廊伯爵たちの門)の準備であった。1080年頃、後陣の聖書の物語の柱頭と伯爵たちの門を制作した工房の親方が際立っている。1083年に再開され、参事会員で建設の責任者のレイモン・ガイラールによる指揮で1118年まで教会の段階ができあがった。ベルナール・ジルドゥアンの工房の存在は、1096年5月24日に第1回十字軍を呼びかけたローマ教皇ウルバヌス2世によって奉献された、現在十字交差部の置かれている大理石の祭壇によって知られる。彼は職人たちと、周歩廊の7枚の浅浮彫した大理石板と共に、交差部の幾つかの柱頭も彫ったという。その柱頭かどうか不明だが2点が『visiter Saint-Sernin』に載っていた。
栄光のキリスト 『visiter Saint-Sernin』は、この時代柱頭の装飾は植物が大半であった。新たな様式が階上廊に出現した。二天使に支えられたマンドルラの中の栄光のキリストは、半円柱の上にあって、袖廊の半円天井のすぐ下にあり、一人の使徒が本を持っているという。
向かい合うライオン 短辺では互いの肢を合わせたライオンが頭部を上端に反らせて、その前肢の間に人頭が嵌め込まれている。四方の角では舌を出したライオンの頭部が向かい合うようにデザインされている。
こんな風に、新来の様式によって柱頭彫刻に表されるものも変わっていったのだった。
オーギュスタン美術館 3番目の工房など←
参考文献「Muée des Augustins Guide des collections Sculptures Romanes」 1998年「visiter Saint-Sernin」 Quitterie et Daniel Cazes ÉDITION SUDOUEST
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サンピエール聖堂のファサードは南扉口で、そこには珠玉のロマネスク彫刻が鏤められている。『Moissac porte du ciel』は、大きなタンパンを補強する2つのエブラズマン(ébrasement、隅切り)によって特徴付けられている。町に向かって南を向いたファサードは、南仏の太陽の光の中で、9世紀以来、来る者を拒まず開かれているという。
まずは玉座のキリストを表したタンパン。『ロマネスクの教会堂』は、テュンパヌム中央にひときわ高く大きく彫られた御座のキリストは宝石をちりばめた冠をつけ、左膝に封印のある本を載せ右手で祝福する。中央部の周辺は三段に配された24人の長老が冠を被り弦楽器と玉杯を手にし御座のキリストを仰ぐ(ヨハネの黙示録4章2-8)。「するとたちまち御霊を感じた」という黙示録の幻視の一瞬を石という物質に刻みながら、霊感と神聖をこれほど見事に可視化した作例はモワサックをおいてほかにないという。同書は、マンドルラを囲み四福音書記者の象徴である鷲(聖ヨハネ、右上)、有翼雄牛(聖ルカ、右下)、有翼獅子(聖マルコ、左下)、有翼人間(聖マタイ、左上)と、その左右で巻き物を垂らす二天使がキリストの顕現を目撃するという。キリストは十字架とロゼッタ文が巡る頭光と、星形が一列に並ぶ身光(マンドルラ)に包まれて、目を見開いて視線を前方を直視している。その着衣は二重の衣文線が走り、衣端は直線ではなく、やや煩雑な線でZ字形を繰り返えす。左下中段左から3人目左肩にかかる髪の房が蕨手のよう。カールする髭の先まで丁寧に、立体的に彫り込んでいる。右下下段右より2・3人目それぞれに冠、髪型、髭の形、衣装や首飾りをその文様も違えて彫られているのだが、顔はほぼ一緒。
同書は、精緻な技巧を示す円環葉飾り文のリンテルは幻視の図像全体をいっそう押し上げ、御座のキリストを例外的に高くしている。大テュンパヌムを受ける長いリンテルを中央柱(トリュモ)と左右の抱きが支えている。抱きは遠目にもくっきりと見てとれる逆スキャロップ形の刳り形の意匠が独特だ。神の家である教会堂の入口を支える柱や抱きに救世主の到来を予告した大預言者や教会の礎を築いた使徒を配置することがよくあるという。リンテルは日本では楣石と呼ばれ、タンパンの荷重を受けるための構造材。サンピエール聖堂ではタンパンが大きいので、トリュモ(trumeau)と呼ばれる中央柱(玄関柱)や左右の「抱き」が楣石を支えている。
中央柱の正面はリンテルと同じ円環葉飾り文の地にX状に交差する3対の獅子を示す。リンテルと中央柱はどちらも再利用の白大理石であるという。この聖堂の前身は9世紀初頭にルイ敬虔王が建立したものとされている(『moissac』より)ので、ひょっとすると楣石と中央柱は創建時のものか、あるいは他の聖堂からの転用材かも知れないが、浮彫は12世紀のものなのだろう。2段目の獅子たち。左右で毛並みの表現を変え、尾の先も違っていて、鳥頭や蕾のよう。聖堂の中に入ろうとするとき、中央柱の側面にも彫刻があるのに気付く。石の表面は平坦ではなく抱きの半円刳形に反響するような凹凸をもつという。右側面に繙いた巻き物を垂らす大預言者エレミア。エレミアとパウロの身体は引き伸ばされて石を充填し、頭部、腰、膝、足先が刳形の張りに一致する。身体は外向き、顔だけが会衆を聖堂内に導くように右側へ向けられるという。エレミアの交差させた前脚と巻き物と頭部は平行の角度をなし、その反対方向に落ちる視線が全体のバランスをとっているという。預言者エレミアの身体の希薄さ。その希薄に対し預言者の面のたたえる深い静謐な深い精神性という。外側の獅子は少し口を開いて上を向くが、それと同じ口だけが右側にもあり、その間にはパルメットのこれから伸びようとする葉が一対、大きさを変えて表される。その下のエレミアは、ジラベルトゥス作とされるトゥールーズ、サンテティエンヌ大聖堂参事会室?の聖アンデレ像(1120-40年)とは全く趣の異なる、情感溢れる表情である。衣文はペテロのものよりも繊細で薄ものが流れるように脚部にまといつくという。着衣には文様は彫り込まれていないので、その衣文の凹凸がはっきりとわかる。なんと、大腿部には浅く幅の広い翻波式衣文が。しかも、衣文と衣文の間に複数みられる。翻波式衣文は、日本へは鑑真さんが将来して、平安前期の仏像の特徴ともされているが、その起源を遡ると、古代ギリシアのクラシック期(前5世紀)、デルフォイの御者像にもあらわれている。今にも溶け出すのではないかと思うほどの優美さ。
扉口右側で優美なエレミアと相対しているのはイザヤ。
右の抱きに救世主到来の預言者イザヤが見えるが、その預言はポーチの前方にある龕の彫刻で成就される。「キリストの聖誕」と幼児伝サイクル図像がそれであるという。これが右壁龕のイザヤが預言したというキリストの聖誕と幼児伝サイクルの浮彫。下段左:受胎告知 大天使ガブリエルがマリアに告げる場面右:マリアのエリザベート訪問 エリザベートは洗者ヨハネの母となる上段左アーチ:聖母子の元へ急ぐ東方の三博士右アーチ:ベッドに座った横向きの聖母子 背後に小さく表されるのはヨゼフ?では奥から伸びてキリストの頭をなでているのは誰の手?いや手ではなく、動物の尻尾・・・!聖母子の背後に牛が飼葉桶の草を食んでいるのだった。そういえば、キリスト降誕図には、飼葉桶で眠る幼子を見つめる牛と山羊が表されてきた。これはその名残かも。降誕図の牛と山羊についてはこちら
上部のフリーズは右から左へ「神殿奉献」「エジプトへの逃避」「偶像の墜落」を配置するという。
中央柱左側面には聖パウロ像。午後訪れたので、エレミア像が白く写せた反面、反対側のパウロ像は黒っぽくなってしまった。エレミアとは違い目を開いて教会内を向くパウロ。同じ彫刻師が彫ったのだろうが、着衣もエレミア像ほど優美だとは思えない。
パウロと対峙するのはペテロ左には大きな鍵をもち獅子の上に立つ守護聖人聖ペテロを配する。ペテロの右腕と重心のかかる右足の腿から膝までは角の円柱にぴったりついている。肩からはほぼ水平線を描き、小さな頭部が石の右上角を充填する。肩から落ちる衣の規則的な平行線とチュニックに刻まれた曲線が石の表面にグラフィックな効果を生むという。両者の雰囲気や着衣の表現が少し異なるように感じるのは、ひょっとすると彫刻師の違いかも。そして左側の隅切りには、同書に記されているように、キリスト幼児伝の図像が整然と示されているのに対し、向かい合う左側の龕は混乱と見るもおぞましい図像で占められている。上段に金持ちと哀れなラザロ下側からは犬になめられるラザロは見えない。『Moissac』は、金持ちは豪華な衣装を身につけ、毎日豪華な食事をしているという。飽食で肥え太っている。一方哀れなラザロは、全身が皮膚病で、金持ちの屋敷の前で横たわっている。ラザロは金持ちの食卓から落ちるパン屑を食べたかったが、犬がすでに彼の傷口をなめるためにきている。ラザロの名は「神が助ける」という意味で、飢えで死にかけているという。ラザロは、衣服から露出した身体一面にぶつぶつが出ている。ラザロが死んだとき、天使がその魂をアブラハムの胸の中に、つまり、天上の神の心の近くに運んだ。その左で、モーゼが神の言葉を象徴する巻き物を指で示す。そこで神が我々に示す。モワサックでつくられた「開かれた聖書」の最高の教訓であるという。中段右:大酒飲みの死『Moissac』は、酒飲みが死の床で、悪い金持ちの魂を吐き出している。悪魔がそれを巾着と一緒に地獄に運ぶ。寡婦は跪いて泣き崩れているという。左:黄泉の国で拷問にあう金持ちの図が錯乱状態の場面をつくっている(『図説ロマネスクの教会堂』より)下段右:淫乱と悪魔左:吝嗇と、こちらの隅切りは地獄に堕ちるような行いを戒める場面が展開している。
オーギュスタン美術館 サンセルナン聖堂の柱頭←
関連項目キリスト降誕図の最古は?翻波式衣文はどこから
参考文献「中世の街角で」 木村尚三郎 1989年 グラフィック社「図説ロマネスクの教会堂」 辻本敬子・ダーリング益代 2003年 河出書房新社(ふくろうの本)「Moissac porte du ciel」 Pierre Sirgant 発行年不明 Jean-Michel Mothes「moissac ABBAYE SAINT-PIERRE Guide de visite」 Pierre Sirgant 1986年 l’association Montmurat-Montauriol
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モワサックのサンピエール聖堂回廊の柱頭彫刻はについて『Sculptures Romanes』は、その類似性から、最初の工房の作品は、モワサックの回廊完成のすぐ後に制作され、1100-1110年頃とされている8つの聖書の物語と6つの頂板で、モワサック集団の一工房が造ったものである。
全体の形や柱頭の大きさ、図柄の構成と、人物を特定できる姿がモワサックの柱頭と似ており、トゥールーズ風の柱頭彫刻が生まれるのはその後のことである
モワサックの回廊の柱頭のように、四角錐のピラミッドの形を俯せにした花籠飾りが特徴である。卵形の顔に小さくずんぐりした体の人物像は静的で、ほぼ正面向き、そして何もない背景から高く抜き出ている。場面は各面毎に区切られているという。
サンピエール修道院回廊は、北西から入って北側から時計回りに回ったが、『moissac』の平面図では西回廊から番号が打ってあるので、それに従うことにする。また、中庭には入らなかったので4面ある柱頭彫刻のうち3面しか見えなかったし、限られた時間の中で1面しか写せなかったものもある。尚、その注釈は同書のものである。
四隅の支柱は2箇所に2本の付け柱があり、そこから単柱と2本の円柱が交互に並んでいる。
1 支柱 西面 使徒聖フィリポベトサイダ出身、聖アンデレとペテロの町体は正面、顔は左を向いて、書物(聖書?)を示す。ここから右方向に柱頭を見ていく。まず最初は支柱の付け柱(右に少し見えている)。フィリポの縮れた髪はその毛並みが細かく彫られている。また、着衣の襞も、内着は浅く、外着は2本の突線で表すなど細かい。
2 アブラハムの犠牲 旧約聖書の物語 双円柱の付け柱の上「イサクの犠牲」の方が分かり易い。東面(画像なし) イサクは父が座っているところにロバを連れて行く。木と火を運んでいる南面 イサクは薪の上に座り、アブラハムが剣を持つ。犠牲となるところで天使が手を挙げて止めた西面 代わりに牡牛が犠牲となったアブラハムの体は南面と西面の角に、剣を持った右手は西面に表される(上写真に少しだけ見えている)。
3 栄光の十字架 キリスト伝 単円柱の上南面 宝飾品のように荘厳された十字架を、我々が崇拝するために、天使が見せているトゥールーズのドラド修道院回廊で最初期の柱頭は、モワサックの工房からきた彫刻師たちが造ったとされていて(『Sculptures Romanes』より)、(オーギュスタン美術館)その一つに栄光の十字架があった。頂板は上向きで横たわった鳥。顔は失われているが、耳があるので人面かも。北面 頂板は女性の頭部のように髪が長い鳥。
4 美しいアカンサスの葉文様 装飾的な文様 双円柱の上北面葉が2段に表される。頂板には8弁の花が並ぶ。
5 8羽の巨大な鳥 装飾的な文様 単円柱の上北面頂板はライオンで、巨大な鳥と共に角で顔を向き合わせ、面の中央部では顔をそらせたり、尻尾を合わせたりしている。
6 ライオンの穴のダニエル 旧約聖書の物語 双円柱の上 北面 ダニエルは2頭のライオンの間で祈ったので救われたドラド修道院の作品と同様に、両手を挙げて祈るオランス型で正面向きに坐っている。ライオンは左右対称に背を向けて角の生命の樹に寄りかかり、頭部をダニエルに向ける。南面 羊飼いへのお告げ 豚、牛、ロバの群を護る犬を連れた羊飼いに、天使が救世主の誕生という良い知らせを告げる
7 アカンサスの葉文様 装飾的な文様 単円柱の上北面アカンサスの大きく広がった葉とは異なり、大小の枠の中に収まっている。頂板は石榴の実だろうか。
8 グロテスクな彫像 装飾的な文様 双円柱の上北面 弩を張る生き物と、角笛に口をつける生き物
9 ラザロの蘇生 新約聖書の物語 単円柱の上旧約聖書の「金持ちと哀れなラザロ」とは別人北面 マリアとマルトがイエズスをラザロの墓に連れて行った西面 主の呼びかけで墓から生きて出てきた南面 驚く目撃者の前浅浮彫で素朴な表現。
10 アカンサスの葉文様 装飾的な文様 双円柱の上北面これまでなかったアカンサスの葉の表現で、下部で折り返した葉の左右には水の流れのようなジグザグ文様がある
11 架空の人物や動物 装飾的な柱頭 単円柱の上中央で脚を踏ん張って立つ人物、その脚にタツノオトシゴのような尾を絡ませて背面を向く鳥。
12 中央の柱この回廊が1100年に建立されたことが、上から3・4行目に記されていた。
13 ダビデの聖別 旧約聖書の物語 単円柱の上西面 塔の窓から首を出した住民の好奇の目にさらされている中、サミュエルは犠牲の牝牛をベツレヘムに連れて行くという口実で通る。北面(東面からの続き) ダビデの父は「エッサイの枝」を手に、彼の息子のうちの3人を連れて行く。手を挙げた息子たちは王位の候補者だった。しかし、神は末っ子を選んだ・・・ 南面 サミュエルは、前で跪く若いダビデを王として聖別するために、聖なる油の入ったリュトンをとった。
14 蔓草文様 装飾的な文様 双円柱の上様々なアカンサスを見ていると、この蔓草の中の3弁または5弁の葉もアカンサスに由来するのでは。頂板は蔓草が絡み合う蛇のようで、ケルトの文様を彷彿とさせる。
15 鳥と動物 装飾的な文様 単円柱の上北面翼を広げた鳥とその翼を掴む肉食獣
16 アカンサスの葉文様 装飾的な文様 双円柱の上南面これも2段かな。似ているようで少しずつ違う。
17 真福八端 キリスト伝 単円柱の上貧しい者、飢える者、柔和な者、苦しむ者、哀れみ深い者、心の清い者、平和を好む者、迫害される者と、イエズスが山の上の説教で「幸いである」と述べた8名の人物が表される。北面
18 獣性 装飾的な文様 双円柱の上獣の爪の下でつぶされる男北面小さな人物が脚と腕を縮めて台の上に乗っているよう南面ライオンは背後を向いて2つに別れ捻れた尻尾を噛んでいる。
19 カインとアベル 旧約聖書の物語 単円柱の上文字が彫られている。西面 アベルは祭壇に犠牲の動物を捧げ、天使はそれを受け取った。南面 カインは収穫物の一束を祭壇に捧げ、それを奪ったのは悪魔。東面 (写真なし) カインがアベルを殺した北面 神がカインに尋問した「おまえの兄弟はどこだ?」殺人者は答えた「私は知りません」
20 蔓草文様 装飾的な文様 双円柱の上14の蔓草文様をすっきりとさせたよう。
21 アレクサンドロスの昇天 旧約聖書の物語? 単円柱の上2羽の鷲の首に縄を掛けて、天に向かって舞い上がろうとする男の望みは、求道の精神を象徴す南面 鷲が大きすぎるものの、幅広の布を腰で広げ、その先か繩と鳴って2羽の鷲と自分の首に回したり、天使の翼型の凧を背負ったりして天に昇ろうとする仕掛けが具体的。当時そんな人がいたみたいだ。 頂板は、2天使が持つ輪っかの中に丸い人の顔。
22 ダビデとゴリアテ 旧約聖書の物語 双円柱の付け柱の上北面 サウル王(左)は天使に護られているダビデにの闘いを許可する西面(右側) 巨人のゴリアテ
23 支柱西面回廊には光が入り込む事はないのだが、『moissac』の表紙(下図)のように明るく写せる時間帯もあるらしい。使徒バルトロマイイエズスは彼について述べた、心がまっすぐで率直な人だ
旧約聖書や新約聖書の物語、装飾的な文様などの並んだ規則性はないようだ。
サンピエール聖堂 南扉口←
関連項目トゥールーズ、オーギュスタン美術館 ドラド修道院の最初の工房
参考文献『moissac ABBAYE SAINT-PIERRE Guide de visite』 PIERRE SIRGANT 1986年 l’association Montmurat-Montauriol「Muée des Augustins Guide des collections Sculptures Romanes」 1998年「Muée des Augustins Guide des collections Sculptures Romanes」 1998年
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続いて南回廊へ。モワサックのサンピエール聖堂回廊の柱頭彫刻はについて『Sculptures Romanes』は、その類似性から、最初の工房の作品は、モワサックの回廊完成のすぐ後に制作され、1100-1110年頃とされている8つの聖書の物語と6つの頂板で、モワサック集団の一工房が造ったものである。
全体の形や柱頭の大きさ、図柄の構成と、人物を特定できる姿がモワサックの柱頭と似ており、トゥールーズ風の柱頭彫刻が生まれるのはその後のことである
モワサックの回廊の柱頭のように、四角錐のピラミッドの形を俯せにした花籠飾りが特徴である。卵形の顔に小さくずんぐりした体の人物像は静的で、ほぼ正面向き、そして何もない背景から高く抜き出ている。場面は各面毎に区切られているという。
サンピエール修道院回廊は、北西から入って北側から時計回りに回ったが、『moissac』の平面図では西回廊から番号が打ってあるので、それに従うことにする。また、中庭には入らなかったので4面ある柱頭彫刻のうち3面しか見えなかったし、限られた時間の中で1面しか写せなかったものもある。尚、その注釈は同書のものである。四隅の支柱は2箇所に2本の付け柱があり、そこから単柱と2本の円柱が交互に並んでいる。
24 支柱南面 聖マタイ最初の福音書の著者身体は正面を向いているが、顔は左を向く。支柱の西面で右を向くバルトロマイとは90度という角度はあるが、向かい合っていることになるだろう。手に持つ書物には、ダビデの息子、アブラハムの息子であるイエズス・キリストの家系の本。アブラハムはイサクを、イサクはヤコブをなした
25 洗者ヨハネの殉教 新約聖書の物語 双円柱の付け柱の上 ピンボケ頂板は透彫の環つなぎ唐草東面 不気味な誕生日の菓子のように、テーブルの上に殉教者の血まみれの首が置かれているトゥールーズ、ドラド修道院回廊の最初の工房作の柱頭では、宴会の場面とヨハネの首の場面が分けられていて、同じくトゥールーズのサンテティエンヌ司教座付聖堂回廊のものとされる柱頭(12世紀後半)では宴会の場面でサロメがヨハネの首を運んでいる。柱頭には関係ないが、彫刻の下部に彩色の痕が認められる。
26 木と鳥 装飾的な文様 単円柱の上鳥にしても動物にしても、面の中央に相対することはなく、互いにそっぽを向いている。頂板には双頭の鳥(鷲)
27 偉大なるバビロン 旧約聖書の物語 双円柱の上エルサレムと敵対する町バビロンを城壁と高い見張り塔がたくさん立つ立派な都として表している。東面二人の女性が棒状のものを持って城壁の上に姿を見せているように見えるが、兵士かも西面この面では二人は上を向いて大声で呼びかけているみたい。これはバビロン捕囚を表しているのかな。
28 図案化された鳥 装飾的な文様 単円柱の上西面2羽とも奥側の肢で棒か巻き物のようなものを掴んでいる。頂板は組紐文
29 ネブカドネザル王 旧約聖書の物語 双円柱の上頂板の銘文は、大きなバビロンは私が建てたのか?彼は言う、汝ネブカドネザル王は、汝の王の座から退き、牛のように草を食べ、7年が過ぎるであろう北面 (写真なし) バビロン東面 王と右に夢を解釈するダニエル。だが占い師は異議を申し立てる南面 巻き物に名が記されたネブカドネザルはその玉座に坐っている西面 王は動物に変身し、草を食んでいる
30 聖ステファヌス(サンティエンヌ)の殉教 聖人の殉教 単円柱の上東面 信仰と聖霊に満ちたステファヌスが説教している頂板の下向きの蕾は、右から左へと少しずつ開いていく。北面 (写真なし) 兵士たちは彼を刑場へ連れて行く西面 教会の歴史上最初の殉教は石を投げて殺された頂板の花は蕾から種ができたものまで様々南面 埋葬布を掛けた棺を担ぐ人たち頂板の花は開き始めたものが並ぶ
31 2段のアカンサス 装飾的な文様 双円柱の上北面頂板には左を向いて蹲るネコ科の動物。向かい合うのでも、そっぽを向くのでもなく、並んで同じ方向を向くのは珍しい。
32 ダビデと楽士たち 旧約聖書の物語 単円柱の上南面 ダビデは我々に言った、主の家でキタラを奏でよ。彼の前にリラを演奏するアサフがいる玉座に坐ったダビデは段のある足置き台に片足ずつ置いている。モワサックの工房の彫刻師が造ったというドラド修道院回廊の柱頭でもダビデ王は角で玉座に坐っている。頂板には長い首の怪物が互いに首を回して、自分の尾をくわえている。東面 エマンはロッタを弾くドラド修道院回廊の柱頭でも竪琴を弾く楽士が登場する。北面 (写真なし) エタンがタールを叩くドラド修道院回廊の柱頭のタールを叩く楽士はこちら西面 イデトゥムがシンバルを持った両手を広げる東面と西面の頂板は、向かい合って首を絡ませる鳥が2対表されている。
33 聖なるエルサレムの町 旧約聖書の物語 双円柱の上鋸壁の上に町の名が刻まれている東面 石を投げているのだろうか南面右手に剣を持つ兵士西面右の人物は剣を持っている
34 中央柱3面は赤大理石で補修されている
35 黙示録の動物 新約聖書 双円柱の上「1000年の恐怖」の伝説は、この黙示録の第20章の幻視に由来する東面 怪物は千年の間鎖で繋がれている南面 天使は重い鎖を牽き、深い井戸を開く西面 千年は過ぎ、怪物は解放された北面 (写真なし) ゴグやマゴグは天上の火が焼き尽くした異教徒の国を象徴する
36 四福音書記者 新約聖書 単円柱の上南面 マタイ 有翼の人物西面 マルコ ライオン北面(写真なし) ルカ 牡牛東面 ヨハネ 鷲
37 イエズスの2つの奇蹟 キリスト伝 双円柱の上信仰を賛美し願いを聞き入れた異教徒たちとイエズスとの2つの出会いカナンの女西面 カナン人の娘(狂気の)は小神殿(左)に監禁されている。その母は聖ペテロの前で、他に3名の使徒を連れたイエズスに懇願した南面 キリストに同行している3名の使徒東面 病人が床に伏している。ローマ人の役人がキリストに懇願している北面(写真なし) イエズスが異邦人を受け入れるので、聖ペテロはローマの百人隊長の望みでユダヤ教ではない教会を何時か開くだろう38 善きサマリア人 キリスト伝 単円柱の上福音書記者ルカのこのたとえ話は、サマリア人の慈悲の例である西面 盗人たちの上に落ちた大きな道の3名の追いはぎの内の一人が不幸な旅人を剣で刺した頂板は蔓に絡まれた首の長い動物と有翼の動物が左右対称に表される。南面 一人のサマリア人オイルとワインでその傷の手当てをし、包帯を巻いた東面 その道を通っていた聖職者とレヴィ人しかし善きサマリア人はけが人を動物に乗せて・・・北面(写真なし) 彼の世話をする宿(教会)に運んで宿の主人(聖ペテロ)に任せたモワサックの彫刻師の親方は十字の腕を表しながら、「善きサマリア人」がイエズス・キリストを思い起こすことを望んだ
39 キリストの誘惑 キリスト伝 双円柱の上頂板は透彫のようなの環つなぎ唐草東面 イエズスは、石をパンに変えるよう悪魔に試された北面(写真なし) イエズスは神殿の高いところから飛び降りるよう試された南面 イエズスはサタンの前でひれ伏すよう試された 西面 イエズスは二人の天使に励まされた悪魔も天使も翼があって見分けにくいが、天使は足首までの衣装を着ているが、悪魔は短いか裸のようだ。
40 ヨハネの幻視 新約聖書 単円柱の上南面 パトモス島で、聖ヨハネは霊感にとらわれる。天使に起こされて「神の啓示の本」を書くよう使命を受ける東面 黙示録の騎士 西面 黙示録の騎士北面(写真なし) よく切れる鎌を持った天使
41 キリストの変容 キリスト伝 双円柱の上イエズスは3名の使徒を高い山に連れて行った。彼らの前で変身し、顔面は太陽のように輝き、白い着衣は光のように白い神性を示した北面(写真なし) エルサレム南面(写真なし) 雲の渦巻は変容の場面を隠し、我々には(左から右に)ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3名を見せるドラド修道院回廊の最初の工房が作成した柱頭では2面にわたって描写されている。東面 モーゼとエリヤとイエズス西面 イエズスと使徒たちは山から下りた
42 ペテロの解放 単円柱の上 南面 ヘロデは警護の者に連れてこられたペテロを断罪する東面 ペテロは監獄に繋がれ、使命を伝えに来た天使に起こされる北面(写真なし) 警護の兵士たちは背後の楯につかまった西面 聖ペテロと天使は解放された
43 キリストの洗礼 キリスト伝 双円柱の付け柱の上西面 ヨルダン川の水に浸かったイエズスは聖洗者ヨハネによって洗礼を受ける。二人の使徒がイエズスの衣服を持っている。中央の天上から聖霊を表したハトが降りてくる初期キリスト教美術では、ラヴェンナ、アリウス派礼拝堂のドーム(500年頃)にキリストの洗礼がモザイクで表されている。そこではヨルダン川に浸かるキリストは若い。初期の作品ほど若く表され、時代を経ると共に年齢が高く表される傾向にある。
44 支柱 パウロ彼はキリストに伴った十二使徒のうちに入らないが、彼が使徒とされるのは、異教徒にキリストの教えを説くという使命を課されているからであるサンピエール修道院 西回廊柱頭←
関連項目キリスト降誕図の最古は?翻波式衣文はどこから雲崗石窟の忍冬唐草文サンピエール聖堂 南扉口
参考文献「中世の街角で」 木村尚三郎 1989年 グラフィック社「図説ロマネスクの教会堂」 辻本敬子・ダーリング益代 2003年 河出書房新社(ふくろうの本)「Moissac porte du ciel」 Pierre Sirgant 発行年不明 Jean-Michel Mothes「moissac ABBAYE SAINT-PIERRE Guide de visite」 Pierre Sirgant 1986年 l’association Montmurat-Montauriol
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September 3, 2018, 1:03 pm
東回廊モワサックのサンピエール聖堂回廊の柱頭彫刻はについて『Sculptures Romanes』は、その類似性から、最初の工房の作品は、モワサックの回廊完成のすぐ後に制作され、1100-1110年頃とされている8つの聖書の物語と6つの頂板で、モワサック集団の一工房が造ったものである。
全体の形や柱頭の大きさ、図柄の構成と、人物を特定できる姿がモワサックの柱頭と似ており、トゥールーズ風の柱頭彫刻が生まれるのはその後のことである
モワサックの回廊の柱頭のように、四角錐のピラミッドの形を俯せにした花籠飾りが特徴である。卵形の顔に小さくずんぐりした体の人物像は静的で、ほぼ正面向き、そして何もない背景から高く抜き出ている。場面は各面毎に区切られているという。
サンピエール修道院回廊は、北西から入って北側から時計回りに回ったが、『moissac』の平面図では西回廊から番号が打ってあるので、それに従うことにする。また、中庭には入らなかったので4面ある柱頭彫刻のうち3面しか見えなかったし、限られた時間の中で1面しか写せなかったものもある。尚、その注釈は同書のものである。四隅の支柱は2箇所に2本の付け柱があり、そこから単柱と2本の円柱が交互に並んでいる。
45 支柱東面 ペテロ鍵はイエズスの言葉を思いおこす、「汝は石である。私はその上に教会堂を建てるであう・・・私は汝に天国の鍵を与えよう、汝が地上でつなぐことは、天でもつながれであろう」46 サムソン 旧約聖書の物語 双円柱の付け柱の上北面 約束の地を征服した英雄は長い髪に精神力があり、ライオンを投げ飛ばしたサムソンの頭の上にAとMを重ねてサムソンの名が刻まれている。
47 ペテロとパウロの殉教 新約聖書 単円柱の上頂板の銘文、ペテロの殉教、パウロの殉教、サウロ、サウロ、何故私を迫害する東面 ネロ皇帝、迫害者北面 ペテロは頭部を下にして十字架に架けられた南面 パウロは首を切られた。冒涜されて奪われた聖遺物を洞窟に戻した西面(写真なし) 二人の魂は裸の子供の姿で天使に天国へ運ばれる
48 蔓草文様 装飾的な柱頭 双円柱の上頂板はアルファベットの文字で、詩編53の祈り、主よその名に掛けて我を助け給え
49 アダムとエヴァ 旧約聖書の物語 単円柱の上北面 蛇が巻き付く善悪の知識の木を前に下アダムとエヴァ東面 神はアダムの不服従をとがめる南面 燃える剣を持った天使が天国から追放された者が戻ってくるのを禁じている。西面(写真なし) アダムは鋤で地を耕し、エヴァは禁断の実ではない果実を収穫する
50 アカンサスの葉文様 装飾的な柱頭 双円柱の上二段に表され、上中央に蕾が伸びている頂板にもアカンサスの葉文様
51 聖ラウレンティヌスの殉教 聖人の殉教 単円柱の上頂板は植物を挿んで向かい合う動物北面 聖ラウレンティヌスはローマ帝国の執政官に火あぶりの刑を言い渡された西面(写真なし) 彼は1枚の金貨を持っていた。教会の金を隠した場所を白状するように拷問した。ラウレンティヌスは、救うことを使命としてきた貧しい者たちを集め、「彼らこそ教会の金貨と宝石である」と言って死刑執行人に指し示した南面 殉教者は焼き網の上で生きたまま火あぶりの刑に処された。二人の天使が天国から降りてきて、その犠牲に栄誉を与えているが、下では二人の死刑執行人がふいごで火を強めている分かりにくい写真になってしまったが、最下部の両側にふいごがある東面 ピンボケだがふいごを持つ死刑執行人が中央に描かれている。
52 洗足 新約聖書の物語 双円柱の上トゥールーズ、ドラド修道院回廊の2番目の工房が彫った洗足の場面に頂板は二人の天使が持つ輪っかの中に人の顔南面 跪いたイエズスが逆らって腕を挙げたペテロの足を洗っている。柱頭の各面には他の使徒たちがいる。右側にはアンデレとパウロ東面 バルトロマイとマタイ北面 ヤコブ、ヨハネ、フィリポとトマ西面(写真なし) 他の3人の使徒がmandatum(命令)という言葉と共に表されている。この場面の後イエズスは使徒たちに告げた:私はあなたたちに新しい命令を与える。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい
53 アカンサス? 装飾的な柱頭 単円柱の上
54 ラザロと金持ち キリスト伝 双円柱の上頂板には翼を広げた天使たちが並ぶ。その上に詩編53が記されている北面 宴会の場面。右の扉の前にに横たわったラザロ。2匹の犬がその傷口をなめ、ほかの2匹は主人の食卓に興味を示す西面(写真なし) 二人の天使がラザロの魂を天国へ運ぶ南面 アブラハムの胸の中東面 地獄で悪魔たちに囲まれた金持ちの頭
55 人頭を掴む鳥 装飾的な柱頭 単円柱の上
56 支柱 聖ドゥランオーベルニュのブルドン作のオリジナルトゥールーズ司教でモワサックの大修道院長(1047-72年)
57 装飾的な文様 単円柱の上頂板はアカンサス4名の人物が鷲の喉を掴んでいる
58 カナの婚宴 キリスト伝 双円柱の上東面 ガリラヤのカナの邸南面 中央にイエズスが水を満たさせた3つの壺、右の母マリアの頼みでイエズスは水をワインに変える。壺の上で一人の使徒が本を開いている西面(写真なし) 召使いが水を汲む北面 饗宴のテーブル:3名ずつ2組が「水が本当にワインに変わった」と奇蹟に驚いている
59 蔓草文様 装飾的な文様 単円柱の上
60 マギの礼拝と幼児虐殺北面 三人のマギが赤ちゃんのイエズスとその母マリアに贈り物を見せる何故か聖母子が角に小さく表されている。南面 ヘロデ王は兵士たちに母親たちの腕から子供を引き離し殺すよう命じる。「幼児虐殺」は東面へと続く右端の兵士が東面の幼児たちを殺している。東面と西面(写真なし) 両面の中央の2つの塔は、2つの町を象徴し、画面を光りの光景と血の光景に分けている。エルサレムからベツレヘムを見て、一方は崇拝の、他方は虐殺の場面61 葉文様とネコ 装飾的な文様 単円柱の上可愛いネコたちんがいて、ことのほかよく保存されている葉文様もすっきりとまとまり、四面という角ばった形ではなく、逆円錐形のよう頂板はライオンと鳥グリフィンが2頭ずつ向かい合う。
62 2段のアカンサス 装飾的な柱頭 双円柱の上
63 聖サテュルナンの殉教 聖人の殉教 単円柱の上東面 トゥールーズ市庁の異教徒の神殿で、サテュルナン(セルナンに比定される)は3世紀中葉に最初の司教となった。南面 ローマ帝国の執政官がサンセルナンに刑を宣告する北面 階段の下でサンセルナンは「人に慣れていない」牛の首に足を繋がれて殉教を成し遂げた西面(写真なし) サンセルナンの魂はマンドルラの中で天国の輝きを知った
64 高く伸びたアカンサスの葉文様 装飾的な柱頭 双円柱の上
65 タラゴナの殉教 聖人の殉教 単円柱の上北面 聖フルクトゥオスス司教、聖アウグリウスと聖エウロギウスの助祭は典礼用の服装である東面 エミリオン総督は彼らに死刑を宣告する。その後ろに、宮廷楽士がロッタ(中世の弦楽器)を持つ。左は二人の死刑執行人がフォークで炭火を熾している南面 炎の中の殉教者たちは立って祈りながら死んでいく西面(写真なし) 三人の魂は二人の天使が支えるマンドルラの中で天国へと昇っていく。雲間から下がった神の手で救われ、神は言った「私はアルファでありオメガである。万物の最初であり終わりである」
66 受胎告知とマリアのエリザベート訪問 新約聖書の物語 双円柱の付け柱の上 南面 左は大天使ガブリエルが、マリアに神が救世主の母として選んだことを告げている。手振りで驚きを示している右は洗者ヨハネの母となる従姉妹のエリザベートを訪問した。二人の女性は抱き合っている中央は壁掛けを束ねた建物はおそらく神の出現の代わりに、聖体拝領の中断を表している
67 支柱東面 ヤコブ彼への崇拝がコンポステラへの巡礼の期である
サンピエール修道院 南回廊柱頭←
関連項目サンピエール修道院 西回廊柱頭トゥールーズ、オーギュスタン美術館 ドラド修道院の最初の工房
参考文献『moissac ABBAYE SAINT-PIERRE Guide de visite』 PIERRE SIRGANT 1986年 l’association Montmurat-Montauriol
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September 6, 2018, 1:02 pm
最後に北回廊モワサックのサンピエール聖堂回廊の柱頭彫刻はについて『Sculptures Romanes』は、その類似性から、最初の工房の作品は、モワサックの回廊完成のすぐ後に制作され、1100-1110年頃とされている8つの聖書の物語と6つの頂板で、モワサック集団の一工房が造ったものである。
全体の形や柱頭の大きさ、図柄の構成と、人物を特定できる姿がモワサックの柱頭と似ており、トゥールーズ風の柱頭彫刻が生まれるのはその後のことである
モワサックの回廊の柱頭のように、四角錐のピラミッドの形を俯せにした花籠飾りが特徴である。卵形の顔に小さくずんぐりした体の人物像は静的で、ほぼ正面向き、そして何もない背景から高く抜き出ている。場面は各面毎に区切られているという。
サンピエール修道院回廊は、北西から入って北側から時計回りに回ったが、『moissac』の平面図では西回廊から番号が打ってあるので、それに従うことにする。また、中庭には入らなかったので4面ある柱頭彫刻のうち3面しか見えなかったし、限られた時間の中で1面しか写せなかったものもある。尚、その注釈は同書のものである。四隅の支柱は2箇所に2本の付け柱があり、そこから単柱と2本の円柱が交互に並んでいる。
68 支柱北面 ヨハネヤコブの兄弟で4番目の福音書の著者
69 大天使ミカエルの戦い ヨハネの黙示録 双柱の付け柱の上大天使ミカエルがドラゴンを投げ飛ばした
70 鳥 装飾的な文様 単柱の上東面 一つの面に2羽の鳥が背を向け合わせ、角でそれぞれ別の面の鳥と顔をつきあわせた柱頭が多いが、ここでは柱頭の形が円錐に近いため、四隅に1羽の鳥が羽ばたこうとしている。頂板 水中で魚が2匹茎?でつながっているが、一方は腹を上にしている。
71 蔓草文様 装飾的な文様 双柱の上細かい唐草文様が2段に表されている。西面 頂板の植物を挟んで向かい合うライオンは顔をこちらに向けている。北面 頂板は向かい合う鳥グリフィンが首を腹側に入れて自分の後肢を加えている。
72 聖ベルナルドゥス 聖人の殉教 単円柱の上ノルチャのサンブノワ(イタリア、480-557年)、ベネディクト会の設立者で、ローマカトリック教会の修道士の祖頂板の銘文:ベルナルドゥス、神の男は修道士を殴り、主が回復させた北面 聖ベルナルドゥスが死者を蘇らせる東面 モンテカッシーノの修道院南面(写真なし) 聖ベルナルドゥスは棒を持ち、(西面の)悪魔が祈りを背かせようとする修道士に体罰を与えている西面 ほほ中央に悪魔、左に聖ベルナルドゥス
73 鳥 装飾的な文様 双円柱の上2羽の鳥は体は向かい合うが頭は背後に反らせ、尾を別の面の鳥と交差させている。頂板は蔓草状の装飾の裏側に鳥を配し、透彫のよう。
74 美しい扉口の奇蹟 キリスト伝 単円柱の上西面 神殿の美しい扉口の前で足を引きずって物乞いする者は、腕を掴まれ、「イエズスの名において」良くなった北面 イエズスに伴うペテロとヨハネ東面 サンヘドリン(ユダヤ人の最高評議会)の裁判で二人の使徒が比べられた南面(写真なし) 二人の人物の一方は石を、もう一人は聖別の角笛を持っている。それはキリストの印である
75 植物文様 装飾的な文様 双円柱の上3段のアカンサス頂板は鞍を着けた馬と角のある鹿が向かい合ってうずくまっている。
76 天使たち 新約聖書 単円柱の上西面 セラフィム(熾天使)北面(写真なし) ケルビム(智天使) 東面 大天使ガブリエル南面(写真なし) 大天使ミカエル
77 奇蹟を起こす漁師 キリスト伝 双円柱の上南面(写真なし) イエズスは神の言葉を伝える西面 不漁の小舟 東面 奇跡を起こした猟師が小舟を魚で満杯にする4北面 「人の猟師たれ」と言って使徒たちに呼びかけた
78 中央の支柱灰色の大理石の3面に、うねりとうろこ状配列の装飾がある
79 ライオンの穴のダニエル 旧約聖書の物語 双円柱の上この主題は好まれたようで、トゥールーズのドラド修道院回廊の柱頭にあったし、モワサックの回廊でもあった。東面 餌食として食べてしまおうとする6頭の立派なライオンの間に坐って静かに祈るダニエル頂板は鳥グリフィンが人間を啄んだり、猛禽がライオンの頭を突いているドラド修道院回廊の柱頭の図柄はこちらサンピエール修道院西回廊6番の柱頭の図柄はこちら西面 預言者ハバククは刈り入れ人たちに食事を運んでいた時、一人の天使が髪を掴んで、バビロンに連れて行きダニエルにその食事を与えたハバククは沢山の食事を天秤棒で担いでいる。南面(写真なし) ダリウス王(またはキュロス王)と王杖
80 行列 単円柱の上おそらく1099年十字軍のエルサレムからの戦利品。戦士たちが武器で持ち去った。十字架を持った天使が行列を連れて行く東面 エルサレムの町?北面 頭部が金槌で壊されなかった頭部西面 説明なし
81 蔓草文様 装飾的な文様 植物文様 双円柱の上
82 四福音書記者南回廊36番も四福音書記者が表されているが、その象徴の動物が大きく表されていて、図柄としてはかなりの違いがある頂板はアカンサス西面 天使、マタイの象徴南回廊36番の天使像はこちら北面 ルカ南回廊36番のルカの象徴牡牛像はこちら東面 マルコ南回廊36番のマルコの象徴ライオン像はこちら南面(写真なし) ヨハネ南回廊36番のヨハネの象徴鷲像はこちら
83 向かい合う鷲 装飾的な文様 双円柱の上頂板には向かい合う鳥が首を交差させている。
84 ヘブライ人のバビロン捕囚 旧約聖書の物語 単円柱の上勢いの異なる炎が各面中央に表される西面 「爽やかなバラの香りの風のように」燃えさかる業火の中に降りていく主の天使東面 西面と同じ頂板は二人の天使が持つ輪っかの中に神の手北面 業火は弱まっている85 聖マルティヌス 双円柱の上頂板の銘文 ここにマルティヌス 神の司教 まだ洗礼志願者 我にこの衣を掛けるその下段では鳥グリフィンが首の長い獣の首元をつつき、その獣は自分の後肢を噛んでいる。南面(写真なし) おそらくリグジェ修道院で聖マルティヌスは聖ヒラリウスの弟子となった西面 マルティヌスはローマ軍の兵士だったが、キリスト教に改宗したがまだ洗礼は受けていなかった。彼は貧者に服を半分与えた北面 二人の天使に伴われた主はマルティヌスに半分になった外套を返した「あなたが私に着せたものは私の兄弟には小さすぎる。私があなたに着せよう」頂板は鳥グリフィンと鴨が仲良くしている東面 聖マルティヌスはリグジェで死人を蘇らせた 頂板では鳥グリフィンがつつく動物が、輪っかに腰を引っかけて、首を腹側に回して自分の後肢を噛んでいる。
86 装飾的な文様 蔓草文様 単円柱の上頂板の上側はうろこ文様(この地方の屋根瓦)のことが多いのに、ここでは細かい線の入った逆三角形が並んでいる。
87 イエズスとサマリア人3名の人物が2グループ表される左:町からやって来た使徒たちが食べ物を運んできた右:天使、イエズスとサマリア人の会話の証人ヤコブの井戸の縁石の上で紐が封印されていた
88 支柱アンデレイエズスが最初に呼んだ使徒、ペテロの兄弟
モワサック、サンピエール修道院 東回廊柱頭←
関連項目サンピエール修道院 南回廊柱頭サンピエール修道院 西回廊柱頭トゥールーズ、オーギュスタン美術館 ドラド修道院の最初の工房
参考文献「moissac ABBAYE SAINT-PIERRE Guide de visite」 Pierre Sirgant 1986年 l’association Montmurat-Montauriol
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