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田上惠美子氏のすきとおるいのち展

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2017年11月4日から11日まで、奈良、学園前のきのわさんで田上惠美子氏のガラス展~すきとおるいのち~が開かれるということで、案内状は戴いていてた。
日程の都合をつけたり、安売りチケットを買いに行ったりと準備はしていたが、何か忘れていると思っていたら、せっかくの美しい葉書を記事にしていなかったのだった。

それにしても、これだけ次々と「すきとおるいのち」を生み続けられるものだ。
そして、その作品に負けない写真計画さんの写真としての作品も、案内状の楽しみでもある。この色のある影!

宛名面も美味しい

以前個展にお邪魔した時は確か「箸置き」だった作品は、龍のような小品が、こんなところに。しかも中央の横線を越えている。何か意味があるのだろうが・・・
その上、こんなアクセサリまで。


これまでの作品も見てみたいし、新しい作品も是非見てみたい。
でも、以前きのわさんの個展で、案内の葉書にあった作品を探したが見つからず、すでに売却済みだったことがある。今回はそんなことはありませんように。


きのわさんに田上惠美子氏の蜻蛉玉展を見に

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ギャラリーきのわは近鉄の学園前駅の近くにある。阪神電鉄に近鉄が乗り入れるようになって行きやすくなった。
入口左のショーウィンドウ。ネックレスのチェーンの種類も豊富になって、トンボ玉の配置のヴァリエーションが次々と。
そして下にはコアガラスの作品も。
心地よい夢のようなガラスの色に截金が淡~く溶け込んでいる。

中にはネックレスだけでなく、
ワインの替え栓 カッコええなあ~
彩り豊かなキャンディを詰めた箱のよう
コアガラスの作品が石の台に。
古代の技法で新しい作品を制作するガラス作家の田上氏は、鉱物の鑑定士という別の顔も持っていて、つい最近も山陰方面に岩を見に行ってこられたという。この石の台は、そんな活動の中で拾った石かと思っていたら、碁石を刳り抜いた残りものだそう。ということは那智黒石?
スカーフ留め。これがあったらイラン旅行の時に役立ったかも。
奥の柿色のスカーフを留めてある作品は、スカーフの襞が透けて面白い。
ブレスレット
革との組み合わせは、金属とはまた違った雰囲気になる。

反対側
小さなギャラリーだが、作品が立体的に展示されているので数は多い。
あーっ、去年はどの個展にお邪魔しても見られなかった桐箱入りの「蜻蛉玉源氏物語」が!
やっと会えたというのに、こんな写真だけとは・・・真上から撮りたかったけど、自分の影が入ってしまうので。
KOBEとんぼ玉ミュージアムの案内の写真のように、端が切れても、プロが斜めに撮るのが理解できました。

その右手には羽織紐 どんどん和装小物の種類が増えている。
右上の青いゴツゴツしたものは、青ガラスを砕いたのかと思ったけど、さすがに石みたい。
不揃いな玉を組み合わせると、単体で見ているのとは違ったものになってくる。
左下の帯留が案内の葉書の作品。向きも違うけど、バックの色や光線で、こんなに違って見えるのだ。
左上の帯留はこれまでの田上氏の作品とは一線を画すものだ。
これまでの凹凸はサンドブラストによるものと聞いているが、これは?
きのわさんもこの作品が気になると言って、黒い帯締めの上に置き直して下さった。
やっぱり組み合わせる色で全然違って見える。
田上氏にこの作品の造り方を教えていただいたのだが、正確には表現できないのでカット。とりあえず、ボディは銀箔だそうです。ん?プラチナ箔だったかな?何とええ加減な・・・
この作品、東京で人気だったとか。

奥の棚
ruri shot の作品群
レースを横に積み重ねたので遊んでみた。
光の当たる位置で、下のガラスに作品の影が映るのを狙ったぞと。
こんなことを個展の会場でさせて頂けるのも、きのわさんならでは。その上本人に断りもなくm(_ _)m
ちょっと左に光が片寄ってはいるので右端の影は薄いけれど、写真計画さんの作品とは天と地だとしても、なんとかカラーの影のある写真となりました。
玻璃手鞠(はりてまり)
これは狙ったつもりはないが、はつきりと影が映り過ぎて、ダルマのようになってしまった。

最後に入口入って右側の3段の棚(全体を写し忘れた)を上から

こんなにトンボ玉をアクセサリにする部品があるとは。
左端のサザエのような形も面白い。
これが葉書の切手のところにあった写真の系統。
箸置きではなく、波涛という作品群でした。
ガラスでつくった石ころたち。その一つ一つの中にレースガラスをはじめ、いろんなものが鏤められている。別のところにあったものは、青っぽいけど、光にかざすと透けるというものもありました。

そうそう、この真ん中の赤い玉に通っているのは、1本の線ではなく、10本以上のステンレスの針金だそう。
こちらの下の方の輪っかも同じで、本数が少ない方とのことで、これが田上工房オリジナルだとか。留め方もほかのチェーンとは違っていて、突き刺すようにして留めるそうです。

聞いたことがうろ覚えなのは、歳のせいだけではありません。
その後話題は作品から脱線、
ほしがらす このズボン、ウエストはゴムなんよ
田上氏   そう言えば私のもゴムやわ
きのわさん 私もゴムやわ
とおばちゃん話になってしまい、他のお客さんの失笑を買ってしまいました。

最後に田上氏に笑顔で見送って頂いたのですが、個展の場を笑いの場にしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。 


田上惠美子氏のすきとおるいのち展

ターキ・ブスタン大洞に見られるシームルグ文

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実は、ターキ・ブスタン大洞には、シームルグ文の浮彫があることは知っていたので、それがどこにあるのかをこの目で確かめたかったが、叶わなかった。

シームルグ文 イラン、ターケ・ボスターン大洞内奧浮彫 7世紀前半
『古代イラン世界2』は、今 日、イランの地でサーサーン朝ペルシア錦(324-641)とされるものの出土例は知られていない。それを具体的に知りうるのが有名なターケ・ボスターン の摩崖に掘鑿された大小二洞の大洞内壁に刻まれた浮彫(7世紀前半)の織物とみられるものの模様である。それは確実にサーサーン朝ペルシア後期の錦(サ ミット)の模様と言ってよい。

それら文様は身分や位階にもとづいて区別されて用いられていたと考えられる。その最高位に位置づけされているのがシームルグ(センマーヴ)文であっただろう。シームルグは犬の頭、孔雀の尾、グリフォンの羽、獅子の脚などいろいろな現実、非現実的な動物の部分から構成された霊獣である。ゾロアスター経典『アヴェスタ』においてはサエーナ・マラゴー(サエーナ鳥)と記され、鷲・鷹・隼などと同様の猛禽をあらわすとされる。
・・・略・・・ 王にのみこの神聖にして怪異な文様が用いられたのであろうという。
シームルグ文は王だけが使うことのできる文様だった。 

しかし、王の着衣は水玉に近い文様だった。
下段の王のフラワシ(永遠不滅の象徴)とされる重装騎兵の衣装、長衣かズボンにそれらしい文様があるのかも・・・
う~ん、膝下辺りに上記のシームルグ文があるのかも・・・

左壁猪狩り図
王の内着には文様はあるのだが、シームルグ文かどうか。
同図の王のフラワシの右腿あたりにシームルグ文がありそう。
右壁鹿狩り図の王に至っては、双鳥文のような衣装を着ている。

はっきりとはわからないというのが正直なところです。

サーサーン朝 帝王の猪狩り図と鹿狩り図

関連項目
ターキブスタン サーサーン朝の王たちの浮彫

※参考文献
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 (財)島根県並河万里写真財団
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館  


マンナイ人の彩釉レンガ

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ゼンダーネ・スレイマンの火口下部に切石積みの遺構があった。それはマンナイ人のものであるという。
マンナイ人というのは、十数年前に彩釉レンガなどに興味を持った頃に聞いた名前で、僅かに伝わるマンナイ人がつくった彩釉レンガは記憶に残っていた。しかしマンナイ人がどこに住んでいたのかは覚えておらず、北メソポタミア辺りだと思い込んでいた。
それがいきなりこの火口付近の遺構がマンナイ人の住居跡とだと知らされ、彩釉レンガを思い浮かべながら登っていった。
Google Earthで見ると、同じような区画で数個ずつ4段にわたって住居が密集している。

登っていくとその石積みの基礎が並んでいるところに到達する(強烈なパノラマ合成)。
このような1区画に家族で住んでいたのかな。
壁の厚み。
頂上の岩を砕いて住居に利用したのだろうか、同じ色だ。
基礎は岩を積み、その上は日干レンガ?それとも木造?
 石壁の中の土は飛ばされずによく残っているので、段々畑のよう。

ただし、彩釉レンガの出土地は90㎞ほど西にあるブーカーンで、このゼンダーネ・スレイマンではない。
Google Earthより

では、マンナイ人の彩釉レンガはどんなだったかというと、

人面鳥身の守護獣 イラン、ブーカーン出土 前8世紀 34.5X34.5㎝ 松戸市立博物館蔵
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、ブーカーンはイランの北西部、西アーザルバーイジャーン州に位置する遺跡で、山岳地帯に侵入してきたイラン人の一部族であるマンナイ人が建てたマンナイ王国の都と推定されており、発掘調査によって神殿址の存在が知られるようになった。黒色の線で縁取りした後、青や黄色、白の釉薬で埋めて文様を描き出している。図柄そのもの及び筋肉表現などにアッシリア美術の影響が強く認められる。
施釉煉瓦の胎土は、後にスーサで製作された施釉煉瓦の石英質の胎土とは異なり、ごく普通の煉瓦の胎土が選ばれている。そのため釉薬が胎土とあまりなじまず、釉薬のほとんどが剥落してしまっているという。
オオツノヒツジのような瘤のある大きな角へと続く頭部の人物は髭はラマッス(有翼人面牡牛像)に似ている。耳は草食獣のものだが、首と肢は猛禽類。
この作品で面白いのは、下絵の黒い線がはっきりと見えることで、それを修正して、黄色く施釉せずに、白の釉薬の地となっているところまでがわかってしまう。模索期の作品だろう。

人面鳥身の守護獣 前8世紀 34.5X34.9X3.6㎝ ブーカーン出土 シルクロード研究所蔵
松戸市立博物館のものよりも色彩が豊富になった。
人間の腕と脚、角は髭も髪もある人頭に付くようになった。
右手で手付きの容器を持ち、左手は何も握ってはいないが、新アッシリア時代(アッシュール期、前875-860年頃)の浮彫に見られる鳥頭の守護聖霊が聖樹に授粉する場面に似た仕草をしている。腕輪といい、アッシリアの影響が濃いが、聖樹(ナツメヤシ)の育たない地域では、その意味がわからなかったのだろう。

人面獣身の守護獣 前8世紀 34.0X33.6X8.8㎝ ブーカーン出土 シルクロード研究所蔵
ラマッス(人頭有翼牡牛像)に近付いて、角が後頭部から前頭部に向かって付いている。 
4本の肢は牛のもので、尾は巻くようにして垂れている。

人面獣身の守護獣 前8世紀 32.5X33.5X約7.0㎝ ブーカーン出土 シルクロード研究所蔵
髪と髭のある人面に輪っかのような角が巡る。翼というよりは、3本の布が斜め上に上がっているよう。
肢も尾も草食獣ではなくライオンのような肉食獣に近い。ラマッスではなく獅子グリフィンだ。獅子グリフィンは頭部が角のあるライオンだが、マンナイ人のものは人面。

似たような彩釉レンガが、アッシリアでも出土している。

人面獣身の守護獣 前8-7世紀 33.2X32.7X8.0㎝ アッシリア出土 世界のタイル博物館蔵
かなり細かい輪郭線まで丁寧に描かれている。こちらも人面の獅子グリフィン。マンナイ人はこれを真似ているようだ。
レンガに黒い線で輪郭を描き、剥落した部分もあるが、白・黒・緑・黄の色釉がほぼ滲まずに焼けているようだ。背景の緑色にまだらに白い釉薬が掛かっているようにも見える。

鹿 前8世紀 34.2X34.0X8.9㎝ ブーカーン出土 舞鶴市赤れんが博物館蔵
最初に挙げた人面鳥身の守護獣と同じ胎土で、釉薬も黄色と白だけ。最初期の彩釉レンガだろう。

雄牛 前8世紀 33.6X33.6X8.0㎝ シルクロード研究所蔵
人面ではなく、動物としての牡牛も描かれていた。

山羊 前8世紀 33.4X33.8X7.6㎝ シルクロード研究所蔵
この山羊を見ると、最初に挙げた人面鳥身の守護獣の頭部の表現が理解できる。

四葉文 前8世紀 34.2X34.3X9.4㎝ シルクロード研究所蔵
新アッシリアのジガティと呼ばれる釘状突起付タイル(アッシュール・ナツィルパル期、前875-865年頃)を平面に描き、その組紐状の装飾を簡略化して四葉文に描いたもののようにも思える。

施釉レンガ イラン、ジウィエ出土 前8-7世紀 164X340X93 世界のタイル博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、クルディスタン地方サッケズの東南に位置するジヴィエ遺跡は初期鉄器時代3期(前8-7世紀)の城塞と墓地からなる遺跡である。
この遺跡をアッシリアのサルゴン2世(在位721-705)の遠征記録に出てくるマンナイ人の城塞ズィヴィアに関連づけるフランスの考古学者A.ゴダール博士の説がもっとも妥当と考えられている。「列柱の間」と呼ばれる建物は礎石の上に木柱が並び、壁はアッシリア的な釉薬タイルで装飾されていたという。
アッシリアに倣ったものかも知れないが、そこにもマンナイ人にしかない特徴はあった。

関連項目
ゼンダーネ・スレイマン

※参考文献
「世界のタイル日本のタイル」 世界のタイル博物館編 2000年 INAX出版
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市オリエント美術館
「世界美術大全集東洋編 16西アジア」 2000年 小学館


タフテ・スレイマーンのタイル

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タフテ・スレイマーンには8点星や十字形のタイルを組み合わせた床があり、現在ではタイルは失われて圧痕が残っているということを『砂漠にもえたつ色彩展図録』で知った。
だから、この遺跡で一番見たいものがこの圧痕だった。
同展図録で枡屋友子氏は、1270年代にイルハン朝第2代君主アバカによってイランのアゼルバイジャン山中に建設された宮殿タフテ・ソレイマーン(ペルシア語で「ソロモンの玉座」を意味するが、後世につけられた名称)である。これは現存する唯一のイルハン朝宮殿で、1950年代から70年代までのドイツ考古学研究所の発掘により、およそ100種類の異なった型から作られたタイルが使用されていたことが明らかになった。装飾プログラムに用いられたタイルの種類は、床タイル、腰羽目、フリーズ、ボーダー・タイルといった内壁用タイル、及び外壁用タイルと幅広かった。使用された技法は、ラスター彩、ラージュヴァルディーナ、単色釉、多色釉であった。一つの同じ型から作られた浮彫りを持つタイルを、それぞれ単色釉、ラスター彩、ラージュヴァルディーナと3つの異なった技法で仕上げる場合もあった。また、タフテ・ソレイマーンの敷地内にタイル型を含む陶器工房と窯が発見されたので、タイルの大部分がそこで制作されたことがわかったという。
窯跡は見た記憶はない。
同書は、使用されたラスター彩の様式はカーシャーンのものと酷似し、カナダ王立オンタリオ美術館のメイソン博士の分析によれば、腰羽目タイルの胎土と釉薬の成分はカーシャーン産のラスター彩陶器のものと一致した。
従って、カーシャーンの陶器工房について次のような重要な事実が明らかになる。なすわち、タイルの生産はカーシャーンという陶器生産地で制作されたものが使用される場所に運ばれただけではなく、カーシャーンの陶工が出張してタイル生産を行うこともあったということ。カーシャーンの陶工はラスター彩タイルのみならず、単色釉タイル、ラージュヴァルディーナ・タイルなど様々な技法のタイルも生産していたということであるという。
カーシャーンからタフテ・スレイマーンまで、直線距離でも466㎞ほどある。
カーシャーンの陶工たちは、陶土や釉薬の材料と共に、タフテ・スレイマーンにやってきたのだろう。
で、添乗員金子氏にその旨を伝えると、女性学者に話をつけ、見せてもらえることになった。それは⑦西イーワーンで発掘調査している場所にあった。

行ってみると切石積みのサーサーン朝の壁面とイルハーン朝の遺跡の間を調査中だった。
この地下深くに図録に掲載された写真のところがあるのだそう。
女性学者が発掘隊長に聞くと、地下は調査中なので入れることはできないが、タイルの圧痕は近くにも残っているとのこと。
反対側(サーサーン朝のイーワーン内部)からみた遺構。
右側の切石積みの壁面下方に、粘土または漆喰が、波のうねりのように厚く貼り付けられた箇所がある(というか、それだけしか残っていない)。
そこに、六角形、8点星を初め、幾何学形を組み合わせた、サーサーン朝期にはない、イスラームの幾何学文様が見て取れる。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、タフテ・ソレイマーン出土のタイルは殆どが断片ばかりで、発掘以前、しかも前近代にタイルが故意に壁から剥がされた痕跡があった。その一方で、出土タイルと同じ型から作られているが、発掘に由来するものではない、保存状態の良好なタイルが世界中の様々なコレクションに所蔵されていることが注目される。岡山市立オリエント美術館を始めとして、日本にも非出土タイルが数多く所蔵されているという。このような圧痕がそれを物語っている。
こちらの方には6点星がはっきりとわかる。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』に記載されている8点星・十字形・変形六角形(ロセッタ)だけではない、多様な幾何学形のタイルを組み合わせた、華麗な壁面がここにあったのだ。

遺跡に付設されている博物館にあった唯一のラージュヴァルディーナ・タイル

浮出し草花文六角形タイル 
照明せいで色がへんになってしまった。ラージュヴァルディーナは藍地金彩と日本では呼ばれるが、金泥で描いたのではなく、金箔を貼り付けているのが、この作品でも見てとれる。白い線で蔓を描いて、葉などを截箔で表しているようなのだが、浮出した文様と截箔は必ずしも一致していない。

浮彫六角形タイル おそらく空色(トルコブルー、照明のため本来の色が不明)
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、タフテ・ソレイマーン出土のタイルには中国風の龍と鳳凰、獅子、鹿が描かれており、イランのイルハン朝は現在の北京を首都とする大モンゴル帝国内の一王国として、中国では皇帝の象徴である両と鳳凰の図像の使用を大ハンから許可されていたようである。図像的にも、歴史的にも中国から直接伝わったことが明白な中国風の龍と鳳凰の図案はその後もイランに残り、中国本来の意味とは異なったイラン的な脈絡で、使用されることになるという。
それほど格調高い文様なのに、地に施釉されているのに、鳳凰が無釉とは妙。釉薬の面がごっそりと剥がれてしまったのだろうか。
金箔なら焼成後貼り付けるので、こんな剝がれ方はしない。

大ハーンから許可された鳳凰文について、日本で所蔵されている作品でみていくと、

鳳凰文8点星タイル 1270年代 ラスター彩 20.9X21.2X1.8㎝ イラン、タフテ・ソレイマーン由来 世界のタイル博物館蔵 
同書は、12世紀後半~13世紀初頭には絵画的な精密描写が特色のミーナーイー技法が盛んであったが、製作技法では、青釉とラスター彩に加えてラージュヴァルディーナが多い。13世紀後半からそれは空色か藍色の地に限られた色数の色釉と金箔を重ねるラージュヴァルディーナ技法に代わられるという。
空中に広がる尾が面の半分を占める。重そうな体部に龍のような角の生えた頭部は、鳳凰文を見たことのない陶工が描いたと思わせる。
鳳凰文8点星タイル 1270年代 ラスター彩 21.2X21.3X1.6㎝ 世界のタイル博物館蔵
軽やかな鳳凰の表現だが、顔面は鳥よりもヒトに近づいた。くちばしから出ているのは、角ではなく、ヒゲのよう。
双鳳凰文浮出し8点星タイル イルハーン朝 14世紀初頭 ラスター彩 27.6X27.1X1.5㎝ イラン出土 個人蔵
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、2羽の鳳凰が旋回して飛ぶ図柄。同時代の陶器にも多いという。 
これまで見てきた鳳凰文とは全く異り、双鳥文という中国の文様が、完成度の高い表現となっている。中国から将来された作品を真似たものだろうが、すでにイルハーン朝末期のものである。

鳳凰文フリーズタイル 1270年代 ラージュヴァルディーナ 35.2X36.3X2.0㎝ タフテ・ソレイマーン由来 岡山市立オリエント美術館蔵
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、鳳凰文を藍色ラージュヴァルディーナ彩で表したもの。左上隅は鳳凰の首の付け根あたりまで後補という。

鳳凰文フリーズタイル 1270年代 ラスター彩 34.0X34.0㎝ タフテ・スレイマーン由来 中近東文化センター蔵
同展図録は、上の文様帯の蓮華文も13世紀後半の特徴的モティーフというが、蓮華には見えない。
鳳凰文フリーズタイル 1270年代 ラスター彩 35.5X36.5X1.3㎝ タフテ・スレイマーン由来 個人蔵
本作品の上の文様帯の方が蓮華っぽい。
全般に、フリーズタイルの鳳凰は頭部が小さく表され、バランスが良いが、8点星タイルの鳳凰は、頭部が大きすぎる。陶工が別人だったのかも。

次は龍文についてと図版を探したが、1点しかなかった。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、龍文のフリーズタイルも世界のタイル博物館に青釉1点、個人蔵の下半部は別タイルにラスター彩1点があるという。

龍文8点星タイル 1270年代 空色ラージュヴァルディーナ 21.2X20.2㎝ タフテ・スレイマーン由来 中近東文化センター蔵
龍の体にも金箔が貼られていたらしい。

同展図録は、今までのセルジューク朝~イルハン朝タイルの研究から、一つの型から作られたタイルは特定の建物の装飾だけに用いられ、他の建物に使用されることはなかったことが知られているので、こうした非出土タイルも本来タフテ・ソレイマーンを飾っていたものと想像される。それが近代以前に建物から剥がされ、別の建物に再利用されたのが再び剥がされて美術市場に現れたらしい。出土タイルの保存状態が劣悪であるため、非出土タイルのカタログ化、浮彫りデザインの分析は、重要な今後の課題であるという。
剥がされ再利用された時、及び再び剥がされて美術市場に出回った時にはかなり丁寧に扱われたおかげで、状態の良いものが残った。今で言えば盗掘だが、こんなこともあるのだ。

ラージュヴァルディーナ・タイルとは

タフテ・スレイマーン出土のタイルについての記事
ラージュヴァルディーナはタイル以外にも

関連項目
タフテ・スレイマーン2 博物館
タフテ・スレイマーン1 サーサーン朝とイルハーン朝の遺跡

※参考文献
「砂漠にもえたつ色彩展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館

アルメニア博物館のラスター彩はタフテ・スレイマーンの後

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イスファハーンのザーヤンデ川の南方、ジョルファ地区はアルメニア人の居住区になっていて、ヴァーンク教会と同じ敷地内にあるアルメニア博物館を見学した。そこで見つけたのがこのタイル。ラスター彩やラージュヴァルディーナが鏤められている。
アルメニア人はサファヴィー朝のアッバース1世(在位1588-1629年)がイスファハーンに呼び寄せたので、このタイル装飾の方がずっと古い。
説明には12世紀とあるが、ラージュヴァルディーナはイルハーン朝の第2代アバカが造立した、現在ではタフテ・スレイマーンと呼ばれている宮殿を飾られたのが最初なので、13世紀後半以降になる。
それにしてもこの形。小型のミフラーブでもない。何だったのだろう。
用いられているタイルはともかく、左右対称に仕上げられた時のままに残っている。白い銘文帯の外側のタイルも左右対称に同じ種類が配置されている。



どのように呼ばれるものかわからないが、ラスター彩風の蔓草文に空色釉をかけたものや、藍色に茶色っぽいものが描かれているものなど。
そして、植物文の空色ラージュヴァルディーナが続く。

頂部は、空色タイルで蔓草文様をつくり、チューリップのような花と文様化された葉がついている。その隙間にいろんな文様のタイル片を埋め込んでいる。その内側の白地のペルシア文字の銘文帯は短いものを繋いでいて、文章になっているのかどうか不明。
銘文帯で囲まれた三角形のところには、龍らしきものが盛り上げて表されている。
銘文帯の内側の区画には紺色の組紐文が越えたり潜ったりしながら幾何学文様をつくり、その中に大きさも色も違うタイルを埋めている。五角形の区画に5点星を配している。
右角のものは、銘文帯と水色の線の内側に鳥が描かれているが、それが一つのタイル片でできていて、8点星タイルの破片を再利用したことがわかる。
ラスター彩には酸化銀を使った黄色っぽいものと、酸化銅を用いた赤っぽいものがある。
紺色の組紐文が織り出す10点星の中に、8点星タイルが置かれている。このタイルを中心に置いて作りあげられたのだが、その8点星タイルに描かれているのがウサギとは。
それとも、このウサギ文のタイルが古いものとか、王から下賜されたとかいう大切なものだったのだろうか。
壊れたタイルの再利用なのか、新品のタイルをそれぞれの形に切ったのか。
左の五角形の区画を見ると、5点星の周囲の三角形などは、1、2種類のタイルを切ったもののよう。その内の水色が入ったものは、変形四角形の隣、要するに中央のウサギ文の8点星の左下のところを埋めた部品によく似ており、同じタイルから切り取ったのではないかなどと探る楽しみがこの作品にはある。
田上惠美子氏の大小、色とりどりの作品群も、こんな風に嵌め込んでいったらすごいだろうなあ。
左下隅もインスクリプション帯と三角部分が一体。じっくり見ると、四隅は全部同じようにつくられていた。その内側の酸化銅の赤っぽいラスター彩タイルは、元は8点星形だったような。

『砂漠にもえたつ色彩展図録』はラスター彩について、イランでは12世紀後半から生産され、14世紀半ばまで続けられたということなので、この集合タイルの材料となったタイルのうちラスター彩は、遅くとも14世紀半ばのものであるが、これらが、いつの時代にこのような作品にされたかはわからない。

タフテ・スレイマーンのタイル

関連項目
ヴァーンク教会

※参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館

オルジェィトゥ廟のタイル装飾

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オルジェイトゥ廟 イル・ハン朝、1307-13年 イラン、スルタニーエ
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、14世紀になると、いくつかの重要な新しい変化が見られた。それらの作例のうち最も重要なのは、ソルターニーイェにあるウルジャーイトゥーの墓廟である。それは、広大で開かれた敷地の真ん中に建てられた巨大な八角形の建物で、巨大なドームがヴォールト天井の回廊によって取り巻かれ、8基のミナレット状の塔を冠のように戴いているという。
ドームはなんとなく新しい感じ。
遠方から眺めるとドームはこんなに高く大きいものだった。建物自体は低くずんぐりと見えるが、これは、前方の遺構で下部が隠れているため。
現在の青いドームは修復されたものであることが、『COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE』の図版によって判明した。

同書は、ウィルバーによって、ペルシアでタイル貼り廟の現存最古のものとされているという。
軒に巡る二段のムカルナスは古いままかも
ムカルナスには空色と紺色で幾何学文様がつくられている。しかも、下段の広い画面では、8点星をつくる空色の組紐が浮き出ている。モザイクタイルというだけでなく、凹凸もある。

入口上部のスパンドレルには二色の組紐が複雑に絡み合っている。
8点星というよりも8弁の小さな花が一つだけ。実は、その花を花弁状に囲む空色の組紐が、この絡みの元なのだ。

平面図(『イスラーム建築の世界史』より)
○数字は写真のイーワーンやアーチのある場所を示しています。

内部は、最下段の壁面に、空色嵌め込みタイルによる大きなインスクリプションが。
妙に凹凸があったりする。
こんなネコの目のような菱形タイルのある文様帯も。

モスクへと繋がる二段アーチの面のタイル装飾が、漆喰装飾がなくなり見られるようになっている。
『ペルシア建築』は、内部の壁面は、当初、明るい黄金色を帯びた煉瓦で仕上げられ、部分的に小さな淡青色のファイアンス・タイルを嵌め込む方法で、角ばったクーフィー書体の大インスクリプションが表されていた。しかし1313年、この内装は変更され、プラスターを用いて再装飾されたという。
側壁には幾何学文様とそれを囲む組紐の間に空色タイルが嵌め込まれている。
この辺り、暗かったので、全体にピンボケ気味ですが、資料として掲載します。
5点星と10点星の間に文字が入り込んだ大きな文様の不規則な地にも空色が嵌め込まれている。
ここにも10点星を基本とした幾何学文様。
10点星は焼成レンガのインスクリプションで、その地には空色だけでなく紺色タイルも嵌め込まれているみたい。小さな丸いタイルを中心に、文字を放射状に配置している。
浮彫タイルの六角形・五角形・菱形や、小さな三角形にまで空色の組紐を嵌め込んでいるのだが、幾何学形の浮彫タイルや焼成レンガの組紐よりも空色タイルの方が沈んでいる。ここでも凹凸のあるモザイク装飾があった。
こちらは10点星の浮彫タイルに空色タイルの組紐が放射状に展開して複雑な文様をつくっているが、その輪郭は、傾きの異なる2つの五角形。
端なので10点星の半分だけ。ここの四角形タイルは紺色タイル。

10点星の浮彫タイルを中心として、放射状に展開する矢印のような幾何学文様と、そこに嵌め込まれている空色タイルの大きな文様。
その縁にある文様帯は左右対称に上へ上へと伸びる蔓草文。
壁面が折れるところにはこんな楽しい幾何学文様も。

付け柱には空色・紺色そして素焼きタイルではなく、白色タイルが鎖のように絡み合う文様。
その根元には四弁花文が。
またピンボケ。でもさっきのとはまた違った文様の貴重なモザイクタイル。左端にインスクリプションもあるし。

層目にもモザイクタイルの現れたアーチやイーワーンがあった。

① 漆喰装飾のムカルナスの頂部が剥落してタイルが見えている。
3色の長方形タイルで菱形文様をつくっていたらしい。

③アーチ部分と外側の壁面がモザイクタイルだが、タイルの釉薬が剥落してしまったことが、残っている色タイルからわかる。
内側は長方形色タイルで文様をつくったムカルナス。それぞれのムカルナスの文様は左右対称になっている。
ムカルナスの下部もタイルの釉薬が剥がれている。
アーチの下
その続き。アーチもこんな文様だったのでは。

④モザイクタイルの現れたイーワーン
奥のアーチ頂部。③のアーチと同じ文様。
イーワーンの壁面。文様は不明。
奥壁リュネットには、菱形空色タイル8辺と小円形紺色タイルで花文或いは8点星を、4点星空色タイルと共に、紺地に浮き出したモザイクタイル。
その下のインスクリプション帯では、焼成レンガで組紐のような文字を浮き出し、地に空色・紺色・白色のタイルで幾何学文様をつくる。
アーチ外側の壁面にも凹凸のあるモザイクタイル装飾。インスクリプションが浮き出ている。
側壁には浅いミフラーブ形の壁龕。ここもモザイクタイルで荘厳されていた。
ミフラーブ脇の文様帯も紺は紺色タイル。そこに空色タイルの組紐で幾何学文様を編んでいるが、その中心は大きな6点星を2つ角度を変えて組み合わせている。その中はといえば、12点星が、おそらく白色と空色のタイルでつくられていただろう。
この小さな区画はなんだろう。その中には、六角形の地文様に、小円の周囲に変形四角形を巡らせ、6点星とする。ここでも6点星が浮き出ている。

⑥ 側壁の腰壁には斜格子文、その中に4個の空色タイルを嵌め込んでいる。その右端の文様帯はこれまでにないシャープなもの。
左隅に少し見える奥壁は寝湯やが剥がれてはいるがモザイクタイル。
アーチには組紐文、イーワーンには幾何学文様のモザイクタイルがあった。
かすかに残る釉薬やタイルの胎土の色によって文様を推測することはできる。紺色・白色・空色タイルで構成していた。
反対側の側壁。
アーチの組紐文が少しだけ残っていた。組紐をやや曲線ぽく繋いでいる。その中に浮かび上がるのは入れ子の5点星。花弁に見えるものも。
その下には部分的に8点星とアーチ形の空色タイルが嵌め込まれており、その続きには斜めの線が強調された空色タイルと素焼きタイルのモザイクだが、五角形の区画にはロセッタ形の、三角形の区画には三角形の空色タイルが嵌め込まれている。ここも凹凸がある。
付け柱は六角形の空色タイルと6点星の素焼きタイルの組み合わせ。


漆喰壁に開けられた「窓」一覧
正方形と長方形の組み合わせだが、凹凸をつけている。地は空色タイルの痕跡があるが、浮き出た方の色が不明。おそらく紺色タイルだろうが。
右端は八角形のタイルが縦に並ぶ文様帯。主文は12点星を中心に展開する幾何学文様のモザイクタイルだったようだ。
残っている釉薬から、薄い色の胎土は紺色タイル、赤っぽい胎土は空色タイルだったようで、12点星を取り巻く変形四角形の白い胎土は、他のタイル壁面から察すると、白色タイルだろう。
薄い黄色の素焼きタイルの中に正方形の空色タイルが嵌め込まれているが、赤い線が気になる。制作時につけられたものではなさそう。
円形紺色タイルの周囲に6つの小さな三角形り隙間があり、奥には赤っぽい色がのぞいている。その周囲に白っぽい変形四角形素焼き(或いは白色釉が剥落した)タイルが6つ、その外側に菱形空色タイルが6つ巡って文様の一単位を構成している。それを組み合わせた壁面だが、空色タイルは、素焼きタイルよれも凹んでいるので、空色タイル地に6点星が浮き出ていると言ったほうが良いかも。
小さな8点星の紺色タイル周囲に変形四角形の白色タイル、その外側に正方形紺色タイルが巡って8点星に、更に変形四角形の空色タイルが8つ並んで大きな鋭角の8点星をなしている。
もっと言うと、白い菱形タイル3つの周囲に、紺色の日本風に表現すれば幾何学的な千鳥文が配されて変形六角形を形成し、鋭角の8点星の外側に配される。そのように巡ることによって、変形六角形の中の2つの菱形が円形に並んでいるように見える。
その両外側には、紺色の地に白色の4点星が入った文様が、空色タイルの帯と交互に並ぶ。
左端は、中央に8点星紺色タイルと斜め正方形の空色タイルが交互に並ぶ文様帯だったようだが、釉薬が剥がれているために、両側のタイルの形は分かりにくい。
主文も分かりにくいが、8点星・6点星・六角形・変形四角形などの形が認められる。
こんな風に、オルジェイトゥ廟のタイル装飾は、兄が建立したタフテ・ソレイマーンの宮殿を飾ったラージュヴァルディーナのような華麗なタイルは用いられず、もっぱら、紺色・空色・白色・素焼きタイルを様々な幾何学形に、時には凹凸を付けて組み合わせたものだった。

関連項目
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ)

※参考文献
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「ペルシア建築」 SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE」 1996年 Thames and Hudson Ltd.London
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館

オルジェイトゥ廟のタイル装飾を受け継いだ廟

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イルハーン朝の1313年に完成したという、スルタニーエのオルジェイトゥ廟について『ペルシア建築』は、内部の壁面は、当初、明るい黄金色を帯びた煉瓦で仕上げられ、部分的に小さな淡青色のファイアンス・タイルを嵌め込む方法で、角ばったクーフィー書体の大インスクリプションが表されていた。しかし1313年、この内装は変更され、プラスターを用いて再装飾されたという。
その上地震もあって、タイル装飾はあまり残っていない。中には上塗りされたプラスターを剥がして、タイルの壁面を出しているところもあるが、タイルの釉薬が剥落している場合も多いのだった。

『COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE』は、ウィルバーによって、ペルシアでタイル貼り廟の現存最古のものとされているという。
残念ながらドームは修復タイルだった。
回廊上の軒飾りは部分的に残っていて、空色と紺色のタイルだけのシンプルな幾何学文様のモザイクタイルだが、下段の家形五角形内では、素焼きタイルの小片もも使われ、中央の空色10点星から同心円状に展開して、一番外側は立体的な空色組紐で作られた10点星となっている。

イーワーンのスパンドレル
紺色の小さな花を中心に、空色の組紐による八弁花文が二重、外側の大きな花弁を作る組紐が外に向かって伸び、紺色の五角形の鎖と立体交差する。この紺色の組紐も、空色の小さい方の花を囲んで8点星を作る。

墓室の腰壁の付け柱には、紺地に空色と白い釉薬のかかった組紐が、鎖状に絡み合う蔓草のような文様を作り出している。

モスクへの入口の壁面は、植物文様の浮彫タイルと素焼きタイルの組紐による幾何学パターンがやや浮き出ている。凹んだ地に空色タイルが嵌め込まれている。
空色の組紐が地として使われているものは他にもある。
ここでも、植物文様の10点星を中心に文様が展開するが、空色組紐は凹んだ線となって、文様を作っていく。浮き出た素焼きタイルの組紐は特異な幾何学文様になっている。

二層目④のイーワーンには組紐のカリグラフィーが、素焼きタイルの組紐を浮き出させて作られている。凹んだ地には、空色と紺色そして白のタイルで、六角形を積み込む八角形のパターンが無限に繰り返されている。

菱形の素焼きタイルで構成された6点星の凹んだ地に、菱形の空色タイルが嵌め込まれている。
⑥のイーワーンには、多彩な空色嵌め込みタイルのパターンを見ることができる。
中央の長方形の区画には、空色の組紐が直線的に使われている。ここでも素焼きタイルの方が空色タイルよりも出ているが、文様としては、花や巻きひげを伸ばす蔓草をデザイン化したもののように見える。

このようなタイル装飾が後の時代の建築に受け継がれていったことは、ヤズドのマスジェデ・ジャーメ(14世紀)を見れば明らか。
ヤズドのタイル装飾については、表門主礼拝室

それだけでなく、君主オルジェイトゥの命で建立された廟に、同じタイル職人が従事していたという。

シャイフ・バヤズィド廟表門 イルハーン朝、1313年 イラン、バスターム
『COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE』は、テヘランからホラサーン地方のマシャドに至る、巨大な塩砂漠の縁を通る道路の半ばにある、小さなバスタームの町は、14世紀にモンゴルの統治者が、地方の聖者で、神秘主義の歴史の重要人物のシャイフ・バヤズィドの墓廟を建てたことで知られている。
この9世紀の神秘主義の聖者は、ゾロアスター教からイスラームに改宗した人物の孫であるという。
シーア派聖廟都市マシャドは、日本ではマシュハドとされているが、現地の呼び方に準じる。
Google Earthより
バスタームは小さな町でGoogle Earthの解像度はよくないが、マスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)の北にバヤズィド廟がある程度にはわかる。

同書は、モンゴルのイルハーン朝が1295年にイスラームに改宗したことによって、ペルシアの地にタイル装飾の発展をみた。
国力の低下にもかかわらず、イルハーン朝のオルジェイトゥは1307-1313年に自らの墓廟を、現在のスルタニーエの町の近くに建立した。それは高い水準によるペルシア現存最古の墓廟で、レンガの二階建ての八角形の建物で、今でもオリジナルのタイルが部分的に残っている。尖頭アーチの壁龕と青色タイルのドームは遠くからでも見ることができる。
13世紀のアナトリアにおける装飾的嗜好を追求して、オルジェイトゥ廟の職人たちは、空色と紺色の組紐を絡み合わせた。色タイルの間の素焼きタイルをずっと少なくしていった。このような狭い網、あるいは紐状装飾は、1313年に建立されたバスタームのバヤズィド廟にも採用された。バスタームに残るタイルは剥落し、非常に少なくなった素焼きタイルは小さく抽象的なモティーフが浮彫されていて、組紐の色タイルの間で陰影の効果を出しているという。
中に凹線のある菱形とくの字形の空色タイルで4点星だけを作っている。これも組紐ということらしい。
その中に嵌め込まれているのは、抽象文様ではなく、花文を型押しした素焼きタイルでは。

左は組紐が上下交差しながら8点星などの幾何学形を、ゆるく作っている。
右はそれらとは異なり、1枚の紺色浮彫タイルである。中央の卍は上下の線に繋がり、上下に2つの山のある枠と共に上下対称なので、型作りのようで、一つ一つ線の太さなどに違いがある。
地には五弁花文の他、様々な花の文様が型作りされている。
青釉タイルをそれぞれの形に刻んだものとは異なり、手作りであることがタイルの縁の丸みに現れている。
同じデザインの空色浮彫タイルを並べた壁面もある。
中央に卍、それぞれの先に枝分かれした鉤形のものがついている。点対称なのでどの面を上にしても同じ文様になる、型作りのタイルだ。
このような施釉浮彫タイルは、同じ13世紀、コーニスに貼られていたものがイラン考古学博物館に残っている。
オルジェイトゥ廟では地として凹んだ箇所に配置されていた空色タイルだが、バヤズィド廟では浮き出して、壁面装飾の主体となっている。
このようなタイル装飾のある表門の図版が同書にないのは残念だが、Google Earthに添付された写真で、タイル装飾された廟の表門の様子を知ることができる。






      オルジェィトゥ廟のタイル装飾

関連項目
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ)
14世紀、トゥラベク・ハニム廟以前のモザイク・タイル
ヤズド、マスジェデ・ジャーメのタイル2 主礼拝室
マスジェデ・ジャーメのタイル1 表門

※参考文献
「COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE」 1996年 Thames and Hudson Ltd.London
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会


オルジェィトゥ廟の漆喰装飾1 浅浮彫とフレスコ画

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スルタニーエのオルジェイトゥ廟は青いドームと入口上にタイル装飾があった。
平面図(○数字はアーチやイーワーンの位置を示す

ところが、入口を入って見上げたイーワーンにはタイルではなく、一面漆喰の装飾だった。
『ペルシア建築』は、内部の壁面は、当初、明るい黄金色を帯びた煉瓦で仕上げられ、部分的に小さな淡青色のファイアンス・タイルを嵌め込む方法で、角ばったクーフィー書体の大インスクリプションが表されていた。しかし1313年、この内装は変更され、プラスターを用いて再装飾された。変更後のデザインは多様で、レース状の大きなメダイヨンもあれば、モザイク風に彩色された植物文様もあるという。
現地ではフレスコ画に見えた。
レース状の大きなメダイヨン。
イーワーンの側壁にもメダイヨンが左右それぞれ3つずつ。画像がよくないが、微妙に凹凸がある。
この大きな花に見える文様の中にはアラビア(ペルシア)文字が組み込まれているし、文様帯にもインスクリプションが描かれている。
別の壁面の漆喰装飾はイスラームらしい幾何学文様の中にも花文が入り込み、全体に柔らかな感じを与える。
でも、文様の区画に切れ目が見える。小さな単位で作って、モザイクのように嵌め込んでいったのだろうか。
その下には革細工のような凹凸のある植物の文様帯。更に下には華麗なインスクリプションが、蔓草を絡めて表されている。
蔓草とインスクリプションについてはこちら
同書は、また神の啓示を伝える聖なるインスクリプションもあり、その起伏する文字は生き生きとしており、穏やかな流れるような律動を示すという。
彩色のない壁面も。

モスク内の漆喰装飾
ムカルナスには植物文様が、ラピスラズリ?の地に描かれている。
こちらのムカルナスは白地

二層目の漆喰装飾
① イーワーンは白地に植物文様が描かれているが、色はよくわからない。
植物文は陰刻されている。
壁面には白地にインスクリプションと植物文様が、青っぽい色で描かれている。
フレスコ画だった。

②のイーワーンと墓室側のアーチ
イーワーンの花文もインスクリプションを中心に置いて、2層に植物文を表す。区画の隙間を埋める植物文様は独特。
外側のアーチの装飾は凹凸が深く、上へ上へと伸びる植物の活力が表されているよう。

⑤ 浅いムカルナスが何層も重なっている。最下層は漆喰装飾もタイルモザイクも剥がされ、レンガの壁体が露出している。
①と同じように、白地に陰刻しているみたいだが、
下部を見ると陰刻だけでなく、植物文様を陽刻しているらしい。

⑦ 現在の入口の上のイーワーン
外側のアーチ
ピントがいまいちのため植物文様の凹凸がうかがえないが、両側のロゼッタ文は立体的に型作りして彩色または金箔を張り付けている。更に外側の植物文は浅浮彫で、金箔を貼ったか金泥を塗ったような輝きがある。
型押しかも知れないが、浅いレリーフがみごと。
壁面は①のイーワーンと同じようにインスクリプションが巡り、その下にはそっくりな植物文様が。隅の方を見ると、極浅いレリーフかなとも思う。

⑧のイーワーンはフレスコ画による装飾だった。
アーチの漆喰装飾はほとんど残っていない。イーワーン頂部には、これまでとは異なる植物文様が、インスクリプション帯で囲まれている。
奥壁上部には幾何学文様。小窓の下には、オルジェイトゥ自らによって隠されたモザイクタイルを出してあるが、釉薬が剥落しているため、タイルに見えない。
その下にインスクリプション帯を挟んで植物文様
植物文様は①と同じ。
しかし、側壁の文様はかなり違ったものだった。
丸い文様が何を表しているのだろう。桃や杏などの実?それが6つで六角形を並べたようにも見える。

漆喰装飾には浅浮彫による陰影の効果を狙ったものと、フレスコ画があった。



関連項目
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ)
オルジェィトゥ廟のタイル装飾
アラビア文字の銘文には渦巻く蔓草文がつきもの
一重に渦巻く蔓草文の起源はソグド?

参考文献
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「ペルシア建築」 SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会

オルジェィトゥ廟の漆喰装飾2 埋め木

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スルタニーエのオルジェィトゥ廟では、二層目が墓室の大空間に向かって開かれた8つのイーワーンと、イーワーンを繋ぐ天井の低い通路、そして二段の大きなムカルナスドームの小さな部屋という組み合わせの連続だった。
イーワーンでは漆喰細工と彩色による装飾が見られ、二段のムカルナスや通路の壁面には、そのイーワーンドームの小部屋の2つと通路の壁面や天井、そして三層目の回廊の壁面や移行部に埋め木という装飾があった。

『ペルシアの伝統技術』は、セルジューク朝時代、10世紀から12世紀にかけて装飾的な要素の強い建築技法がイランで盛んに用いられるようになり、それ以後のイラン建築の特徴となった。この技法、つまりイランでハザールバーフ(hazārbāf、「千の交織の意)として知られる装飾的な煉瓦積みは、すでに8世紀にはイラクで出現していた。
漆喰の継ぎ材が用いられるようになったが、豊かな装飾が好まれたため、これらの漆喰の継ぎ材にも浮き彫りが施されるようになった。その後、煉瓦と煉瓦の間に浮き彫りを施した埋め木が嵌め込まれるようになった。最終的には豊かな浮き彫りが全面に施された漆喰の壁が用いられるようになった。この技法はソルターニエのウルジャーイトゥー廟のドームやヴォールトの建築においてその頂点に達したという。
これがそのドームの一つ(①と②のイーワーンの間)。
大きなムカルナスと三角状の曲面の大きな植物文様とで構成されている。
ムカルナスの曲面には、レンガの間に型押しした埋め木が嵌め込まれている。このムカルナスドームの埋め木は、総て同じ文様だった。
三角状の曲面には大きな植物文様を型押しした漆喰装飾。
それぞれの曲面の縁を巡る細い文様帯は不揃いに見えるが、漆喰に型押ししたものらしい。それぞれに彩色されている。

二つ目のムカルナスドーム(入口上の⑦のイーワーンと⑧の間にある)
このドームに使われている埋め木は、様々なパターンがある。最初に通ったムカルナスドームにはない、線でつながったような文様があちこちのムカルナスに施されている。
線がつながっているように見えたが、埋め木の文様の対角線がつながって、斜格子文のように見えているのだ。それにレンガ自体も十字形。それともこのムカルナス全体が漆喰?
そんな気がする。
左下のムカルナスは四弁花に浮彫された埋め木が、中央まで斜めに、そして左右交互に並ぶ。右のムカルナスも同じような配置だろう。
ムカルナスの曲がり角のレンガは曲面になっていて妙だ。やっぱりこのムカルナスのドーム自体が漆喰装飾でできている。
そうかと思えば、右のムカルナスは四弁花を浮彫した埋め木の斜めの線で遊んでいるようだ。
左のムカルナスでは菱形ができているが、埋め木の中の斜めの線を繋ぐということはしていない。
全体が漆喰でできているので、このムカルナスの面に、長方形のレンガでは作り得ない形の区画になっているのだ。

天井の低い通路の壁に埋め木を見かけた。
この画像には3種類の埋め木があるが、それぞれが少しずつ違っている。手彫りかな?
しかし、『ペルシアの伝統技術』は、漆喰製の埋め木は一つ一つ彫られたものではなく、明らかに数多くの異なる型による型作りであったという。 
手彫りっぽくても型作りらしい。

別の通路では、尖頭アーチ上のスパンドレルだけでなく、埋め木にも赤い彩色が残っている。
この部屋の壁面は、レンガの長手を細い文様帯が囲み、短手をその文様帯が交差して幅広になっている。
どう見ても文様が揃っていないので手彫りのようだが、同書に記されているように型作りなのだろう。
同じ部屋の別の壁面。下側には2種類の埋め木があり、左側の方は、左右のレンガが突き出ているために、X字形の空間に埋め木を嵌め込んでいる。
上の蔓草の文様帯も型作り?

三層目にはドーミカル・ヴォールトが3つ並ぶ回廊が8つあった。
『ペルシア建築』は、外側のギャラリーを形づくる24区画(各辺3区画)のヴォールトは、入り組んだ幾何学文様を表わす彩色パネルで装飾されている。その文様は非常に魅力的であり、色彩もまた素晴らしいという。その壁面やドーミカル・ヴォールトの移行部にも埋め木があった。

もっと広い壁面を写せばよかった。これでは埋め木の文様の配置に規則性があるかどうかわからない。

回廊⑥-1のドーミカル・ヴォールト
壁面は多いが、埋め木の文様としては、それほど種類は多くなさそう。
回廊⑤-1のドーミカル・ヴォールト移行部
それでも、その配置などに工夫を凝らしている。長手の漆喰面も利用して、菱形を作っているように見える。
上の右壁面。ここでも色彩で菱形を作っている。

こんな壁面もあった。埋め木が剥がされたのだろうか。それとも修復中?


埋め木という型作りの漆喰をレンガの壁面に嵌め込むという装飾。これは今まで見てきたものにもあったが、「埋め木」という表現を知らなかった。
もっとも、埋め木細工というのは、日本では古いお寺などの板や柱の補修でお馴染み。

唐招提寺金堂の板の穴を補修した埋め木
円柱の下部が傷んで木を接いだが、その木材が傷んで補った埋め木

レンガの間を充填する埋め木については次回

オルジェィトゥ廟の漆喰装飾1 浅浮彫とフレスコ画

関連項目
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ)
オルジェィトゥ廟のタイル装飾


※参考文献
「ペルシアの伝統技術 風土・歴史・職人」 ハンス・E.ヴルフ 大東文化大学現代アジア研究所 2001年 平凡社

レンガの組み積み(ハザールバーフ)と埋め木

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『ペルシアの伝統技術』は、セルジューク朝時代、10世紀から12世紀にかけて装飾的な要素の強い建築技法がイランで盛んに用いられるようになり、それ以後のイラン建築の特徴となった。この技法、つまりイランでハザールバーフ(hazārbāf、「千の交織の意)として知られる装飾的な煉瓦積みは、すでに8世紀にはイラクで出現していた。
この新しい建築技法は、さまざまな煉瓦の組み積みが用いられるようになったのを機に始まった。なかでも、地模様積みは明暗の効果を生み出し、装飾としての文字の使用を促すこととなった。この技法のなかで最もすぐれた例は、セルジューク朝の偉大な宰相ニザーム・アルムルク(1017-1092年)によって建設されたエスファハーンの金曜モスクにある小さなドームの部屋に残されているという。
その幽かな凹凸によって、ドームには金箔が貼られているのかと思ったほどだった。
ここは大ドーム室と呼ばれているのだが。
『ペルシア建築』は、インスクリプションが語るところによれば、広間はニザーム・ウル・ムルクの命にもとづき、マリク・シャーの治世の初期(1072年以降、たぶん1075年以前)に建設されたという。
この広間-宏壮で気品があり侵しがたい威厳をもつ主礼拝室-は直径15.2mという巨大なドームをいただくが、その場合、ドームを支えるために彫りの深い三ツ葉形のスクインチ(この形はヤズドにあるブワイフ朝時代のダワズダー・イマーム廟のスクインチから発展したもの)が使われている
という。

ドームに明かり取りがないために、インスクリプション帯辺りが最も見難かったが、装飾としての文字にはピントが合っていた。
ドーム移行部にもレンガの組み積みによる凹凸で文様が表されている。

『ペルシアの伝統技術』は、この時期には漆喰の継ぎ材が用いられるようになったが、豊かな装飾が好まれたため、これらの漆喰の継ぎ材にも浮き彫りが施されるようになった。その後、煉瓦と煉瓦の間に浮き彫りを施した埋め木が嵌め込まれるようになった。最終的には豊かな浮き彫りが全面に施された漆喰の壁が用いられるようになった。この技法はソルターニエのウルジャーイトゥー廟のドームやヴォールトの建築においてその頂点に達した。とはいえ、古くはゴルパーイェーガーンのモスク(1104年)で、またエスファハーンの金曜モスクの古い時期に建てられた部分(1122年頃)でも、主としてこの技法が用いられているという。

確かにレンガの間に装飾的な浮彫のあるものは、イスファハーンのマスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)南東礼拝室で見かけた。
しかしながら、レンガ自体が風化していて、継ぎ材との境目がわからないほどのものもあった。
この写真の下方に継ぎ材がすっぽりと抜けている箇所があるお陰で、レンガとは別材の埋め木が嵌め込まれていたことがわかるのだった。
焼成レンガの形も一様ではないが、漆喰の埋め木は特に状態が良くない。木材の埋め木なら浮彫したものを嵌め込んだだろうが、漆喰の埋め木の場合は、漆喰を隙間に充填してかに型を押したため、漆喰が固まるまでに圧力がかかったものは潰れてしまったということかな。
南東礼拝室の50・51の区画辺りにこのような柱が見られた。
とはいえ、以前に旅したウズベキスタンで見たソグドの文様に似たものがここにもあった、ゾロアスター教由来の文様だなどと思いながら撮影していた。
入口近くの礼拝室(96-98)では、遠くから見ると、石材をジグザグに浮彫したように見えたどれが焼成レンガに見えた円柱だったが、近寄ってみるととんでもなかった。
焼成レンガを段々に刻んだものの広い隙間に漆喰を充填し、文様を型押ししているのだ。
こちらの円柱も大きなジグザグ文様で、上写真のような構成に、更に十字文の漆喰の埋め木を配している。技術はともかく、なんという凝りようだろう。
この円柱も焼成レンガの占める割合は小さい。
焼成レンガの短手の間に漆喰を押し込んで型で押したが、職人が未熟だったのでこのような出来栄えになってしまったのかも。

ヤズドのマスジェデ・ジャーメ(1364年完成)でも、主礼拝室の側廊に埋め木はあった。
レンガの壁面にしては継ぎ目が見えない。全体に漆喰壁で、乾燥後埋め木をする部分を彫り込んで、型押ししたように見える。インスクリプションの文字なども嵌め込まれているが、これも型押しかな。
こちらはレンガ壁だろうか、縦に筋が見える。

このように焼成レンガの間に小さな文様が嵌め込まれているのは、ウズベキスタン、ブハラのカリャン・ミナレット(カラハーン朝、1127年。高さ46m)でも見かけた。
この文様について現地ガイドのマリカさんによると、ゾロアスター教由来のもので、善と悪の2つの顔が上下反対に付いていて、それが魔除けになっていったらしい。

文様としては、ヒトが二人並んでいるような、星形が2つと表現した人もいた。
しかしながら、当時はこのような文様の由来に興味があったことと、修復されたものを見てテラコッタだと思ってしまったので、オリジナルのものもテラコッタなのか、漆喰の埋め木なのかはよくわからないが、イスファハーンのマスジェデ・ジャーメと同時代のものなので、漆喰かもしれない。

トルクメニスタンのクニャ・ウルゲンチにそびえているクトゥルグ・ティムールのミナレット(イルハーン朝、1320年代 高さ67m)でも埋め木はあった。
下から見ていくと、ヤズドのマスジェデ・ジャーメにも受け継がれた文様、羽を広げた蝶のような、四弁花のような。
インスクリプションの上にはS字やそれが左右反転した文様が嵌め込まれている。
ここのは漆喰ではなく、テラコッタの埋め木のように見える。
ずっと先の方には、空色タイルの埋め木がある。それは星形一つのもののよう。
同じ文様のタイルは、ヒヴァでもあちこちで見かけたが、ヒヴァの建物は古いものは少ない。
こんな風に違う国で見たものが、互いに関連性があったり、別の素材で作られたりして続いていったことが分かることもある。

今回まとめていてわかったことは、「埋め木」とは、木材に浮彫したものではなく、レンガの継ぎ材として用いられた漆喰に浮彫したものということだ。木材の傷んだ部分を補修するために、新しく木材を埋め込む日本の技法としての「埋め木」を訳語にしているのだろう。



関連項目
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ)
イスファハーン、マスジェデ・ジャーメ1 南翼
イスファハーン、マスジェデ・ジャーメ 南ドーム室

※参考文献
「ペルシアの伝統技術 風土・歴史・職人」 ハンス・E.ヴルフ 大東文化大学現代アジア研究所 2001年 平凡社
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会

オルジェイトゥ廟の漆喰装飾3 華麗なるドーミカル・ヴォールト

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三層目は華麗な漆喰装飾の回廊だった。
『ペルシアの伝統技術』は、漆喰の継ぎ材が用いられるようになったが、豊かな装飾が好まれたため、これらの漆喰の継ぎ材にも浮き彫りが施されるようになった。その後、煉瓦と煉瓦の間に浮き彫りを施した埋め木が嵌め込まれるようになった。最終的には豊かな浮き彫りが全面に施された漆喰の壁が用いられるようになった。この技法はソルターニエのウルジャーイトゥー廟のドームやヴォールトの建築においてその頂点に達したという。
二層目のムカルナスドームにも全面が漆喰装飾の壁になっているものがあった。
それについてはこちら
今回は、三層目の8つの回廊に3つずつあるドーミカル・ヴォールトを見ていく。○数字は回廊の場所を示す。

①-1
遠くから見ると、花のような大小の文様が中央の「花」を中心に展開する。
幾何学文様を構成する組紐は、その中に嵌め込まれた花文の埋め木よりも高く、立体的に作られている。
この面は壁と同じようにレンガの間に埋め木を嵌め込んだものだと思っていたが、一面物の漆喰装飾なのだった。
二層目の壁面では、文様がよくわかるようにズームした写真しか撮っていなかったが、全体を見ると、X字形埋め木4つで作られた菱形を、12個の丸文の埋め木が囲んでいるのだった。

①-2
幅広の六角形の中に六角形更に6点星が入る。
六角形よりも6点星の面が一段高くなっている。
16枚の花弁のある花を中心に、赤い組紐によって幾何学的な文様が織り出されていく。幾何学形の中にも植物文様の埋め木が嵌め込まれている。
漆喰地を組紐の分を残して埋め木の形に彫るときに、細かく分割する線を描いたのだろう。
鈴のような花文と、五弁花文が二色の組紐がつくる幾何学文の中に嵌め込まれている。

①-3
レンガに埋め木を嵌め込まれた壁面と、ドーミカル・ヴォールトの埋め木風漆喰装飾との違いは、実は分かり易いのだ。
ピントが合いきらなかったが、12点星の中心はカリグラフィーが、7点星には葉文、もっと小さな区画には星形を描いた埋め木が嵌め込まれている。漆喰壁を彫り込む場合は、こんな風に上下に交差する組紐も難なくできるだろう。
こんな文様帯も埋め木。

②-1・3、③-1・3
中心に8点星を置き、黄色を帯びた箇所が遠目に「井」字形に見える。
埋め木は、カリグラフィーの他は植物文様だが、それぞれ変化に富んだ文様となっている。
『イスラム芸術の幾何学』は、アラベスク・モチーフと呼んでいて、アラベスク(ペルシャ語ではイスリーミーという)のデザインは、幾何学パターンを補完する。アラベスクの目的は植物界をあるがままに描写することではなく、植物のリズムや生長のエッセンスを視覚的に抽出し、原型(アーキタイプ)としての”楽園の庭”を想起させることにあるという。
なるほど、多様な花々の咲く楽園を表していたのだ。

②-2
ドーミカル・ヴォールトは六角形。中にもう一つ六角形が入り、その内側に6つの六角形が凹凸で作られ、6つで中央に6点星を作っている。
大きな六角形は二重の文様帯から少し高くなっているがは、その中の6個の小さな六角形はそれよりも出ていて、中央の6点星はもっと出ている。
遠目では、大小の花文だけの静かな装飾に見えるが、
やっぱり組紐に囲まれた植物文様の埋め木だった。
2つの六角形の間には赤の組紐で六角形、白の組紐で6点星が作り出され、しかも、組紐どうしが上下に立体交差を繰り返している。
6点星の中には三角形を2つ組み合わせた中に6弁の花を配した12弁の花の埋め木が埋め込まれている。

③-2
白っぽいインスクリプション帯による浅い8点星の中に、イスラームの幾何学文様が展開するが、その中に植物文が表されているので、華麗な印象を受ける。
他の天井は斜行積の三角形面が大きいが、ここではそれが小さくなり、代わりに両側に太い文様帯を構成する。
両端文様帯は、②-2の六角形と六角形の間に配された文様と基本的には同じだが、六角形を作る組紐は白、6点星を作る組紐は赤と、反転している。そして6点星の中には植物文様の埋め木が嵌め込まれている。
ドーミカル・ヴォールトの頂点にはカリグラフィーと組み合わされた8点星の埋め木。その周りには多様な植物文様(イスリーミー)の埋め木。

④-1
剥落部分から焼成レンガ地がのぞいていて、この漆喰面が非常に薄いものだと気付く。
中心の8点星を囲む組紐が六角形・八角形・5点星などを作っており、やはり植物文様(イスリーミー)の埋め木が嵌め込まれている。

④-2
12枚の花弁を開いた花のような文様が幾何学的に配されている。
中央にはソロモンの印章にインスクリプションを組み合わせた円文、その周りに12個の花文が配される。それを12弁の花文を中心にした6つの円花文が囲み、その外側にも・・・と広がっていく。面白いことに、大きな円花文の間に2種類の埋め木が嵌め込まれていて、それが六角形をなしている。小さいので目立たないが、亀甲繋文になっている。
ソロモンの印章について『イスラム芸術の幾何学』は、円の円周上の1点を中心とし、円の中心を通る第2の円を描く。できた交点を中心にして順々に次の円を描くと、中央の円のまわりに6個の円が描かれる。クルアーン(コーラン)に記された天地創造の6日間の理想表現である。この美しくもシンプルな構造は無限に拡げていくことができ、平面を充填する正六角形のタイリングを作り出すという。
正六角形の各辺の中点をひとつおきに結ぶと、正三角形2個からなる六芒星ができる。これはイスラム世界では「ソロモンの印章」と呼ばれ、ソロモン王がこの印章付き指輪を使ってジン(精霊)を使役したとされるという。
蛇足だが、亀甲繋文は正六角形のタイリングと同じ文様にもなるが、その起源は古く、インダス文明(前3千年紀)にすでに文様として使われていて、イランには紅玉髄のビーズ装身具が将来されている。

④-3
白っぽい組紐に緑色が入って涼しげ。
組紐の各所に見える白い線は何だろう?組紐を作る小片の継ぎ目とも思えない。
組紐によって、中央の8点星のまわりに8つのロセッタ、その外側には多様な形の幾何学文が作られていき、その中に多様なイスリーミーの埋め木が嵌め込まれている。
『イスラム芸術の幾何学』は、水平方向に置かれた正方形と斜め向きの正方形を組み合わせると、8個の先端を持つ星形ができる。正三角形2つを組み合わせた六芒星と同じく、これも「ソロモンの印章」と呼ばれる(伝説はひとつではなく、いくつかあるのだ)。この形は、非常に多彩なパターン・ファミリーの出発点となる。
イスラムの幾何学パターンでは、はっきりとした幾何学的ロゼット、つまり中央の星のまわりに花弁形を放射状に配して花形の結晶のようにした図案がよく見られる。このようなロゼット・パターンは、星形モチーフのネットワークとして捉えることも可能であるという。
そして、8点星の周囲に配された8つのロゼットについて同書は、8回対称ロゼットで、8回対称とは、360度回転させる間にもとの形と8回重なる回転対称図形という。
以前深見奈緒子氏に教わったこの甲虫のような六角形を指すロセッタは、英語ではロゼットなのだった。

⑤-1・3
見ようによっては十字形に見えるものと8点星が規則正しく並んでいる。
この組紐は、小さな小さな幾何学形を作り出している。しかも、ほとんどが変形である。
『イスラム芸術の幾何学』は、ペルシャでは幾何学パターンはギリーと呼ばれるが、「ギリー」の文字通りの意味は「結び目」で、植物を想起させるほか、結び目や組紐などが持つ護符的な力も連想させる。帯が交差するパターンは、裏返しても鏡映対称にならない。表裏を反転させると、「上」だったところがすべて「下」となり、「下」だったものは「上」になる。
世界中の宗教やスピリチュアルの伝統はどれも、われわれが見ているこの世界の下には、目に見えず捉えることも難しいが意味にあふれた秩序があって、この世界を支えていると説くという。
幾何学パターンはギリーと呼ぶことにしよう。そう言えば、ウズベキスタンでは、植物文様をイスリミ、幾何学文様をギリヒと呼んでいた。きっとペルシア語由来の言葉だろう。
隅の方を見ると、アラベスク・モチーフの文様帯が凝縮されている。

⑤-2
緑を帯びた12点星を中心にした円花文の周囲に6つの大きな円花文が配されている。
『イスラム芸術の幾何学』は、サブグリッドの中に、六角形の各辺の中点に星の尖端部(角度60度)がくるようにして星形が作られる。この6回対称の星2個をずらして重ねると12個の尖端を持つ星ができるという。
12点星のまわりに12個のロセッタ、その外側に12個の5点星が組み合わされて一つの大きな円花文ができている。
三角形の移行部は三つ葉と六弁の花文、そして長い平行四辺形という3つのモチーフだけで構成されて、しかも非常に平面的に仕上げられている。

⑦-1
花文よりも白っぽい組紐が目立つ。
白い組紐がつくる10点星の中に花文が入り込む。しかも、上から見た花と横から見た花があって、その配置が規則的ではない。
他のドーミカル・ヴォールトの漆喰装飾とはちよっと系統が違うような。

⑦-2 外から見えたドーミカル・ヴォールト
六角形の中に六角形が入れ子に、その中に6点星、更に円形とわずかながら高くなっていく。
中央の円には5点星にカリグラフィーを組み合わせたもの。カリグラフィーには鳥の頭のようなものが出ていて面白い。
円を一回り。
組紐が作り出した様々な幾何学パターンには、植物文様(イスリーミー)ではなく、幾何学文様(ギリー)の埋め木が嵌め込まれている。
菱形の区画には両矢印なども登場する。
右の菱形区画にはL字形のような埋め木、左側は変形ロセッタ。
円を囲む6点星の中は、5点星と変形ロセッタの埋め木。外側の菱形区画は六角形と6点星、そして変形5点星に、イスリーミーともギリーとも言える文様の埋め木が嵌め込まれているのだが、組紐の幅がとても広く、未完成ぽい。
右の菱形区画の中央には、組紐が四角形を作っている四角形の中を通る組紐も変形八角形を作って完結していて、他の組紐へと繋がっていない。そして、左の菱形区画でも、組紐自体が変形ロセッタを2つ作っている。
組紐は蔓草のように、いろんな方向に伸び続けるものではなかったのかな。それとも、職人の遊び心かも。
外側の三角形の区画では、6点星をロセッタが取り巻くように組紐が彫られている。はずなのに、ここでも3つの頂点からロセッタの中に組紐が入り込んで捻れ、蕾のような形を作っている。やっぱり遊んでいる。
ドーミカル・ヴォールト移行部の三角面は、従来通りに上下に交差する組紐が幾何学文様を作っている。埋め木はイスリーミーで、整然と配置されている。
文様帯は蔓草文なのだろうが、その一つ一つが、口を開いた蛇に見えてしまう。

オルジェィトゥ廟の漆喰装飾2 埋め木

関連項目
オルジェィトゥ廟の漆喰装飾1 浅浮彫とフレスコ画
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ)

オルジェィトゥ廟のタイル装飾
亀甲繋文と七宝繋文の最古はインダス文明?

※参考文献
「ペルシアの伝統技術 風土・歴史・職人」 ハンス・E.ヴルフ 大東文化大学現代アジア研究所 2001年 平凡社
「イスラム芸術の幾何学 天上の図形を描く」 ダウド・サットン 武井摩利利訳 2011年 創元社 

マスジェデ・キャブードのタイル装飾

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タブリーズのマスジェデ・キャブードは青いタイル装飾によってブルーモスクとも呼ばれている。
『GANJNAMEH6』は、唯一の紀年銘は玄関の東支柱にあり、870(西暦1465)年を示す。テュルク系黒羊朝のカラ・ユースフの息子であるジャハンシャーの建立とされる。ジャハンシャーの妻ジャン・ベイゴム・ハトゥンあるいは娘のサレヘ・ハトゥンの発願によると言われている。
例外的に町外れに建立されたモスクで、ファサードの両端にタイルで覆われた細いミナレットが建造された。ドームと壁面の内側は、空色・藍色・黄色の極上の彩釉タイルにより、コーランの引用文と植物文様で荘厳されたという。
外壁のほとんどは度重なる地震によってタイルが剥落してしまい、南ドームの東外壁にわずかに残っている。
焼成レンガの幅の広い組紐で作った幾何学文様にはモザイクタイルによる植物文様やカリグラフィーが嵌め込まれている。
大きな浅い5点星を中心にして、方形以外は輪郭が曲線のモザイクタイルがちりばめられ、その間を幅の狭いレンガを並べて埋めている。これまでにない方法だ。
5点星に見えてやはり輪郭は曲線。その中に細く刻んだ空色・紺色・黒・白・柿色の色タイルで蔓草文様を構成している。
カリグラフィーも方形のものと鈴のような形のものがあり、それぞれ書体も変えてある。
黒に見えたタイルは紫かも。
縁の文様帯は、これまでに見てきた蔓草文様に柿色のパルメットが入り込んでいる。
右側の壁の方は全く雰囲気が違って、こんなかわいい方形タイルが並んでいる。
白い方形の入ったタイルはモザイクで、白い枠に植物文様が描かれているのは絵付けタイルだった。

北側にあるファサードの側面。
蔓草文様の間にカリグラフィーが入っている。
緑色のタイルも少し使われているのはわかるが、この面で一番目立つ蔓の線が、どういうわけか土色。おそらく釉薬が剥がれやすい色だったのだろうが、いったい何色だったのだろう?南壁で使われていた5色の中で、ここにない色と言えば柿色くらいのもの。
上の方にはインスクリプション。
付け柱に柿色があった。ここでは柿色はよく残っているし、緑色もあちこちに使われている。
ファサードだけは残っている
イーワーン左上のモザイクタイルは、やはり柿色の釉薬が剥落している。
その下
インスクリプション帯も柿色だった。
インスクリプションに蔓草は巻き付いているが、大抵は大きく渦巻きながら蔓が分かれていく。それについてはこちら
このように大きく渦巻かない蔓草との組み合わせは珍しい。
螺旋状に上へ伸びる付け柱
イーワーン内左側壁には柿色タイルがよく残っている。
壁龕上部は9点星のある幾何学文様。
その上のインスクリプション帯でも、蔓草は左に向かって伸びるが渦巻かない。
イーワーンはムカルナスはなく、アーチネットの浅い装飾。
カリグラフィーを大きく包む蔓草花を柿色タイルで表し、空色タイルがその中でささやかに蔓を伸ばす。
アーチネットでできた小さな区画にはカリグラフィーが入れられている。

モスク内部
平面図

前廊の浅い壁龕にムカルナスらしきものが。
壁龕は細かな蔓草やカリグラフィーのモザイクタイルで荘厳されている。
前廊から大ドーム室への側壁にもモザイクタイルがあるが、中央のアーチだけは細かなモザイクタイルで、両側はレンガの間地を広くとって手間を省いたような壁面装飾となっている。
大ドーム室側のモザイクタイル。8点星の上下が伸びたような形と斜めにした方形とが、南外壁のようなレンガを並べた壁面に嵌め込まれている、と思ったが、どうやらそれらしく見せる漆喰細工らしい。
その下側の腰壁。
6点星と六角形を離して、その間に様々な幾何学形を作り出している。紺色の組紐の交点に柿色タイルが嵌め込まれているように見えるが、
素焼きタイルかも。

大ドーム室も素焼きタイルも見えるが、モザイクタイルで装飾されている。ドームには全く残っていないが、どんな文様で覆われていたのだろう。
四隅に2つずつある小イーワーンの一つ。
色の薄い箇所は修復タイル。
リュネット(形としてはタンパン、ピンボケ気味)の中心は、3点星を2つ重ねたものにカリグラフィーを組み合わせたものを12の柿色タイルの弧で囲んでいる。
その左右から空色と柿色の蔓が曲線を描きながら伸びて頂点で交わるが、やはり渦巻くているとは言えない。

大ドーム室側の小ドーム室イーワーンには、全く異なるタイル装飾があった。
『GANJNAMEH6』は、イラン暦1301(西暦1922)年、カジャール朝のナデル・ミルザ王子が、小ドーム室について記述している。昔、総ての壁、ドーム内部は金箔で花の文様を表した青いタイルに覆われていたという。
紺色に金箔を貼ったタイルというのは創建オリジナルで、それが復元修復されている。

ではこれはラージュヴァルディーナと呼んでいいのかな。
ラージュヴァルディーナについて『砂漠にもえたつ色彩展図録』で枡屋友子氏は、13世紀後半にイランで始まった技法で、14世紀末まで中央アジアで続けられた。登場初期には中絵付を持つ白釉の上に施されたが、13世紀末までにには、わずかにターコイズ釉の地のものもあるものの、藍色釉の地が大半を占めるようになり、藍色を意味するペルシア語「ラージュヴァルド」から派生した「ラージュヴァルディーナ」という名称がこの技法に対して当時からすでに使われていたようである。これは技術的にはミーナーイー陶器と同じくエナメルで上絵付を施す技法であるが、用いられた色彩は白、黒、赤茶色に限られ、金彩ではなく金箔が貼られたという。
しかし、タブリーズのマスジェデ・キャブードは15世紀末か16世紀初に完成されたモスクなので、ラージュヴァルディーナとは別の技法で作られたものだろうか。




関連項目
タブリーズ マスジェデ・キャブード(ブルー・モスク)
アラビア文字の銘文には渦巻く蔓草文がつきもの


参考文献
「GANJNAMEH6 MOSQUES」 1999年
「砂漠にもえたつ色彩-中近東5000年のタイルデザイン-展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館

蔓草文様のモザイクタイル

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タブリーズのマスジェデ・キャブード(ブルーモスク)には細かな植物文様のモザイクタイルの壁面装飾があった。
これはティムール朝から受け継いだ技術で、ひょっとするとサファヴィー朝のモスクへと受け継がれたものではないかと思われる。

植物文様のモザイクタイルについて『砂漠にもえたつ色彩展図録』で深見奈緒子氏は、シャーヒ・ズィンダーにイランで熟成した植物文のモザイクタイルが出現するのは1372年建立のシーリーン・ビカー・アガー廟が最初であるという。
サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群に初めてモザイクタイルで造られたとされるが、中央アジアではこれが現存最古のモザイクタイルで、イランでもこれより古い植物文様のモザイクタイルは残っていない。
この廟について『中央アジアの傑作サマルカンド』は、1385-86年の建造としている。
最初ということで、主に左右対称な植物文様である。
入口上部のインスクリプション帯には空色の蔓草が渦巻いている。
インスクリプション(銘文)と渦巻く蔓草についてはこちら


グル・エミール廟(1404-05年)は、ティムールが戦死した孫ムハメド・スルタンのために建立した墓廟だが、後にティムール自身の墓廟となったものだ。
表門の尖頭アーチ上スパンドレルには、空色と白色の蔓が渦巻いている。
その上のインスクリプション帯では空色の蔓草が渦巻いている。

ウルグベクのメドレセ(1414-20年)はティムールの孫ウルグベクによって建立された。
『シルクロード建築考』は、1420年に建てられたウルグ・ベクのメドレッセは、当初イスラム教の学林として開校されたが、のちウルグ・ベク自らも講師となり、また多くの一流学者によって、天文学、数学、哲学などの講義も行われたという。
18世紀の地震によって、二階の部分や教室のドームは崩壊し、ミナレットは3本だけが、かろうじて補強されて余命を留めているという。
ファサード、ピーシュタークのスパンドレルは、地震で亀裂が入っているが、柿色と空色の蔓草が渦巻くモザイクによるタイル装飾が今も残っている。
インスクリプション帯には空色の蔓草が渦巻く上に銘文を置いている。

その半世紀ほど後にマスジェデ・キャブードが建立された。その間のタイル装飾については不明。

マスジェデ・キャブードについて『GANJNAMEH6』は、記録によると、ブルーモスクは870(西暦1465)年に完成したが、付属の建物は建設が続いていた。872年、ウズン・ハッサンによってジャハンシャーが殺害された後は、建設が中断した。ウズン・ハッサンの息子スルタン・ヤアクーブが完成させたという。
その後ティムール朝のモザイクタイル装飾は黒羊朝、続いて白羊朝へと受け継がれた。あるいは、ティムール朝のタイル職人を招聘してこのマスジェデ・キャブードの建立に従事させたのかも。
違いは蔓草が渦巻かないことだが、空色の蔓草よりも勢いのある蔓草は釉薬が剥がれているが、
それが柿色なのは、別の箇所に残る色で判明。やや色が薄いが、これはウルグベクのメドレセの組み合わせと同じ。
この面でも柿色は剥落している。インスクリプションが柿色で蔓草が空色の組み合わせは、シリング・ベク・アガ廟ですでに現れている。
イーワーン頂部に残るモザイクタイルは、空色の控えめな蔓草の上に花を表したような文様が柿色で描かれ、その中にカリグラフィーが入り込む。
アーチネット下のモザイクタイル。
アラビア文字もペルシア文字も右から左へと書いていくので、蔓草も右から左へと伸びていく。しかし、ここでも蔓草は渦巻くことはない。

サファヴィー朝は黒羊朝を滅ぼした白羊朝を滅亡させた。
『クロニック 世界全史』は、1501年、イスラム神秘主義のサファヴィー教団の長、イスマーイール1世(14)が、アク・コユンル(白羊)朝を破ってアゼルバイジャン地方を征服し、タブリーズに入城した。イスマーイール1世はシャーの称号を冠して君主の座に就き、ここにサファヴィー朝が成立したという。
しかしながら『ペルシア建築』は、サファヴィー朝の統治は颯爽たるシャー・イスマーイール1世(1499-1524年)の登場とともに始まった。そして数々の建築を産み出した。しかし現在では、そのほとんどがすでに消滅してしまった。
シャー・アッバース1世(1589-1627年)の治世に移ると、いよいよサファヴィー朝建築の偉大な時代が幕を開くという。


イスファハーンの王の広場南に入口のあるマスジェデ・イマームは、アッバース1世が1612-30年に建立したモスクである。

ドームは、空色の地に柿色と白色で紺色の輪郭を持つ蔓が渦巻いているが、下のインスクリプション帯に蔓草は表されていない。
表門のイーワーンは、ムカルナスが左右対称に文様の異なるムカルナスを配置し、それぞれが細かなモザイクタイル装飾。
渦巻く蔓草も、柿色と空色の蔓草の組み合わせもある。
平らなタイル片で曲面をつくるための技術は高く、モザイクタイルは絶えることなく受け継がれてきたものだと納得できる。

扉口脇のパネルでは、中央の白い花と4つのカリグラフィーの隙間を埋める空色と柿色の細い蔓草が、同心円状に渦巻いている。
通路の尖頭アーチでは、柿色と空色の蔓草それぞれ伸びているが、渦巻はさほど強調されてはいない。

同じくイスファハーンの王の広場東にある王族専用のモスク、マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー(1601-28年)もアッバース1世が建立した。

ドームは素焼きタイルの地に、空色と白に紺色の輪郭を持つ蔓草が大きく渦巻いている。
表門イーワーンのムカルナスもマスジェデ・イマームと同じような植物文様のモザイクタイル。その下部には、壺の上下から出た何本もの空色の蔓草が、左右対称に渦巻きながら蔓を伸ばす。
ドームの内側も素焼きタイルの地にクジャクの羽の文様がモザイクタイルでつくられているが、頂部は白色の地に紺色と緑色の蔓が渦巻きながら同心円状に広がっていく。
ドーム下部には16の透かし窓、その間に同じ数の壁面が等間隔に設けられていて、その上下のインスクリプション帯には蔓草はない。
そのインスクリプション帯もモザイクタイル。
周囲は絵付けタイルだが、窓の透かしはモザイクタイルで左右対称の蔓草をつくっているが、渦巻はない。

黒羊朝が建立を始め、白羊朝が完成させたタブリーズのマスジェデ・キャブード(1465年)から、サファヴィー朝で現存するイスファハーンの2つのモスクまで、150年ほどの空白がある。
その間にも受け継がれた蔓草文様が、イスファハーンではこのように花開いた。渦巻も受け継がれているが少なくなっている。特にインスクリプション帯には渦巻く蔓草がつきものだと思っていた私にとっては、かなりの驚きだった。

もっとも、サマルカンドのレギスタン広場でウルグベクのメドレセの向かいにあるシルドル・メドレセ(ブハラ・ハーン国、1636年)では蔓草に渦巻はある。しかも柿色と空色の二重。
インスクリプション帯にも空色の蔓草が渦巻いている。

ということで、渦巻はあまり好まないのがサファヴィー朝の嗜好で、他のところでは、二重に渦巻く蔓草もあるし、インスクリプション帯には渦巻く蔓草も入り込んでいるといったところかな。

マスジェデ・キャブードのタイル装飾

関連項目
タブリーズ マスジェデ・キャブード(ブルー・モスク)
アラビア文字の銘文には渦巻く蔓草文がつきもの
シャーヒ・ズィンダ廟群5 シャディ・ムルク・アガ廟
グル・エミール廟1 外観
レギスタン広場1 ウルグベク・メドレセ

参考文献
「砂漠にもえたつ色彩-中近東5000年のタイルデザイン-展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「東京美術選書32 シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術
「GANJNAMEH6 MOSQUES」 1999年
「クロニック 世界全史」 1994年 講談社

アゼルバイジャン博物館 ラスター彩

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ラスター彩のケース
説明文は、イスラーム陶器製作の時代は12世紀、セルジューク朝の最盛期とホラズム・シャー朝という微妙な時代。広口の水差し、瓶などが作られ、型作り、象嵌、浮彫などの装飾が施された。陶工は金属職人と競った。ラスター彩陶器、ミナイ手(ハフト・ランギ)、化粧掛け陶器などが、ジョルジャン、カーシャーン、ラアイなどで作られたという。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、ラスター彩陶器は、白色不透明釉の上に酸化銀または酸化銅を含む絵具で着彩したもので、上絵付のための2度目の焼成には酸素を著しく減少させた特別な環境を作り出す窯が用いられ、酸化金属を還元させることによって焼き上がった図柄が金属的な輝きを示す陶器である。「ラスター」とはこの金属的な「輝き」を指す英語で、現代の美術用語であり、当時は「2度焼きされるエナメル」と呼ばれていた。イランでは12世紀後半から生産され、14世紀半ばまで続けられた。ラスター彩の技法は特定の陶工集団が独占していたようで、広く普及することはなく、陶工集団が移住した地で一定の期間だけ隆盛を誇るという傾向にあった。この時代のイラン・ラスター彩陶器では多くの場合、白釉に中絵付が施されており、ラスター彩の色彩だけでなく、ターコイズ色や藍色のハイライトを帯びているという。
ラスター彩鉢 12世紀
全体に薄い発色、器体も薄手。
馬に乗って駆ける人物が見込みに描かれ、口縁部にはカリグラフィーが巡っているが同じ文字が並んでいて、インスクリプションにはなっていない。その間の文様も同じものが6回繰り返されているが、何を表しているかは不明
ラスター彩鉢 12世紀
上の作品よりは幾分厚みがありそう。
こちらも騎馬像が見込みに描かれている。丸顔の女性と思って見ていたが、この時代、こんなに自由に女性が遠出できたのだろうか。そう考えると騎士かも。
ラスター彩鉢 11世紀 厚手
見込みには八弁の花文、その外側にも8弁の花か萼が描かれ、その先から外側へ鎖状の線が伸びる。その間に8名の人物立像が右向きで表される。それぞれが文様の違う服装で、女性のよう。
このような丸顔の女性がラスター彩に描かれているのは、これまでも見てきたし、セルジューク朝やイルハーン朝は日本人と似た平らな顔族であることは知っていた。だが、深目高鼻のガイドのレザーさんが「丸くて平たい顔」と言うと、ものすごく実感できた。
ラスター彩鉢 薄手
全面に植物文様が描かれいてるが、口縁部はペルシア文字風。
ラスター彩深鉢 12世紀
狭い見込みには左右対称に鳥が描かれる。ペルシア文字が巡る口縁部との間には段3段の文様が21列並ぶ。
鉢の外側にも文様は描かれている。

水差し 12世紀
頸部にはヒョウのような動物が描かれる。
ラスター彩鉢 12世紀
見込みが広く、そこに一人の人物が描かれているが、やはり馬に乗っているみたい。
別のケース上段もラスター彩
ラスター彩鉢 13世紀
空色の透明釉が部分的に入る。
見込み中央に四弁花、その周囲にヒョウのような動物が4頭、その間の文様は不明。12の円には胡坐する人物像が右手をあげて描かれる。髪の様子から女性ではないだろうか。
口縁部にはペルシア文字が描かれる。
ラスター彩壺 13世紀
胴部には蔓草の間に人物が描かれる。
十字形ラスター彩タイル 13世紀 ゴルガーン出土
ピントはタイルの下の台に合っていた。
ラスター彩に紺色や空色の釉が入る。植物文様だけなので、聖なる建物内部、おそらくミフラーブを、8点星のタイルと組み合せで荘厳していたのだろう。その場合、8点星のタイルは空色か紺色の単色だったのではないかな。空色の十字形タイルとラスター彩の8点星タイルという組み合わせの逆で。
十字形と8点星を組み合わせたタイル装飾(カーシャーン出土、イルハーン朝、13世紀)はこちら
ラスター彩皿2点 13世紀
『砂漠にもえたつ色彩展図録』が ラスター彩の色彩だけでなく、ターコイズ色や藍色のハイライトを帯びているというような作品は他にもあったが、こちらの2点はそれが際だっている。

壁にかかったパネルにミフラーブの写真

ミフラーブ ラスター彩と空色タイル サラブのマスジェデ・ジャーメ 
空色の蔓草文様を浮彫したタイルと、ラスター彩のインスクリプション帯でミフラーブを構成している。
インスクリプションは紺色。地のラスター彩による蔓草文様も丁寧に描かれていて、マッカ(メッカ)の方向を示す大切なミフラーブを荘厳するのに相応しい技術だ。
その続きの部分を方向を変えて。
この写真パネルのミフラーブが、サラブのマスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)のものであることが分かったのは、別の写真パネルのおかげ。しかしペルシア語しかないので、書いてあることは理解できない。





関連項目
ラスター彩の起源はガラス
タブリーズ アゼルバイジャン博物館

参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館


アゼルバイジャン博物館 面白い動物が描かれた陶器

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戌年最初の記事ですが、犬の絵はありません。

白地多彩釉鳥文鉢 10世紀
おおざっぱに口縁を黒い弧が巡る。中央に大きく横向きの鳥、とさからしきものが赤く描かれているので鶏だろうが、足は人間のものだ。赤い花も描かれ、それに繋がった控えめな黒い蔓草が、蔓を各方向に伸びている。鶏の下には朱色で太いカリグラフィーが描かれている。
イランの彩画陶器には、このような、というよりももっと不可解な動物が描かれていて、見ていて楽しめるタイプがある。それは総て岡山市立オリエント美術館で見たものだが、このタイプの陶器にイランで出会えて懐かしい思いをした。

『イランの彩画陶器展図録』にもとさかの描かれた鳥の絵が幾つかあり、サリー陶器と呼ばれているので、アゼルバイジャン博物館蔵品もおそらくサリー(Sari)陶器だろう。
同展図録は、11世紀頃からは、カスピ海南岸のマーザンダラーン地方やガルス地方の出土と伝えられる陶器が知られるようになる。これらも化粧土と鉛釉による彩画陶器の一種であるが、図柄や装飾技法などにおいて、イラン東部やトランスオクシアナの陶器とはやや異なった特徴が認められる。
これに属するのがサリー陶器とアグカンド陶器、およびアモール陶器とガブリ陶器で、それぞれひとめでわかるような特色をもっている。
学術的な発掘調査で生産地が確かめられたものは少なく、出土地の記述はしばしば伝聞に頼ってなされている。
サリー陶器と白地多彩釉陶器の違いとして、前者のほうが全般的に色彩が鮮やかで、赤や緑が鮮烈であること、黒でひかれた輪郭線に、しばしば連続する細かい点が打たれていること、下地の白の化粧がけにやや黄色い味がかっていることなどが指摘されている。
サリー陶器は、カスピ海南岸のサリーの町の出土とされるものが多いためにその名称がつけられたのであるが、実際には明確な出土地が特定されたものは少なく、おそらくはカスピ海南岸の広い範囲にわたって作られていたもので、東イランやトランスオクシアナとも関連をもった陶器であるという。

白地多彩鳥文鉢 10-11世紀 径18.3高6.7㎝ イラン北中部 ブリヂストン美術館蔵
同展図録は、サリー陶器は、鳥や動物を画面の中に大きく表した図柄が特徴的で、抽象化した植物文やクーフィー体の銘文がこれを取り巻くことがある。しかしよくみると、付随的に描き込まれた花とその茎のモティーフは、白地多彩陶器の41でみたものとそっくりで、トランスオクシアナや東イランの彩画陶器と密接な関係をもったものであることがわかるという。
同展図録91番の作品。
確かにアゼルバイジャン博物館品と同様に、花とその茎のモティーフがある。

白地多彩花・葉文鉢 10-11世紀 径27.2㎝ トランスオクシアナ 中近東文化センター蔵
同展図録は、茎のあるパルメットの葉を四方にのばし、間隙に花文を散らしたデザイン。白地と黒、およびトマト色の赤との対比が鮮やかであるという。
これが同展図録の41番の作品。
花の蕊や花弁を小さな円で表しているが、サリー陶器はそれが抽象化されている。
黄白地多彩花文鉢 9-10世紀 高7.7㎝ イラン 中近東文化センター蔵
同展図録は、それはたとえば、90を両者の間に挿入してみるとよくわかるであうろう。これは41のパルメットを取り除いたデザインであるが、楕円形の大きな花のモティーフはサリー陶器に登場するものと同一で、中央に一羽の鳥を大きく描けばサリー陶器の図柄となるという。
これが同展図録90番の作品で、製作作順に見ていくと、この最も古い鉢の文様が、花か円形の飾りかわからないが、91ではそれに加えて、小さな円を集合させた花文が出現し、41では小さな円の集まりのタイプだけが残り、茎も消滅して、パルメットのような横向きの花文に合わせるかのように、整然と並ぶようになったとも思える。
 
白地多彩鳥文鉢 10-11世紀 径18.3高6.4㎝ イラン北中部 大原美術館蔵
同展図録は、画面の下方にクーフィー体の銘文がある。鳥のとさかも、そのようなクーフィー体の銘文の形に影響されているという。
アゼルバイジャン博物館本のとさかもクーフィー体に由来するものだったのだ。
花とその茎のモティーフも描かれている。
白地多彩鳥文鉢 10-11世紀 径21.1高7.2㎝ イラン北中部 岡山市立オリエント美術館蔵
同展図録は、鉢の底の部分を鳥の胴の丸みにしてあるなどして、器形の特徴を意識したデザインが工夫されているという。
この鶏は胴部が小さくも尾が長いなと思っていたが、どうやら見込みの狭い鉢に描かれているらしい。
花とその茎のモティーフにクーフィー体の黒い文字、とさかと揃っている。
白地多彩鳥文鉢 10-11世紀 径18.5X高7.8㎝ イラン北中部 大原美術館蔵
同じように羽毛に斑点があるが、とさかがない。鶏ではない鳥も描かれている。
花とその茎のモティーフは器面を一周するが、クーフィー体の文字はない。
白地多彩鳥文鉢 10-11世紀 径24.7高9.3㎝ イラン北中部 富山美術館蔵
くちばしが大きく足が長いので、鴫のような水鳥かも。花とその茎のモティーフもかなり変わっている。
そして上の作品との違いは、輪郭線から色釉がはみ出していることだ。
白地多彩鳥文鉢 10-11世紀 径18.5高7.3㎝ イラン北中部 岡山市立オリエント美術館蔵
輪郭線のない赤い線状のものはとさかのつもり?鶏には見えない鳥が花弁を啄んでいる。
赤い線は胴部にも見られ、黒いものは文字のよう。
花のモティーフはあるが、茎はなくなってしまった。

白地多彩鳥文鉢 11世紀 径26.2高9.0㎝ イラン北中部 岡山市立オリエント美術館蔵
口縁部に黒い三角形を連ね、その内側を2本の細い線が描き込まれた文様帯があるだけで、花とその茎のモティーフもクーフィー体の文字もないすっきりとした背景いっぱいに、クジャクのような冠羽のある大きな鳥が飛んでいる。
同展図録は、アモール出土と伝えられるが、正確な出土地は不明である。翼を広げて飛ぶ鳥のデザインには82の構図が応用されているという。
白地多彩文字文皿 9-10世紀 径27.5㎝ 東イラン 中近東文化センター蔵
82番の作品。
同展図録は、葉文を組み合わせたもののようにみえるが、それぞれの要素には草書体の銘文が隠されている。円と葉を四方に配する構成という。
それよりも、下の鳥を思いっきり図案化したように見えるのだが。

白地黒彩鳥文鉢 10世紀頃 径23㎝ 東イラン、ジェイ・グラックコレクション
同展図録は、胴部に唐草のある1羽の鳥を大きく描いている。鳥もアラビア文字の変形である。羽根の描写も抽象的。地には、円や渦巻と短線を組み合わせた文様という。
草食獣も描かれている。

白地多彩動物文鉢 10-11世紀 径24.0㎝ 東イラン 西田美術館蔵
同展図録は、縁の3箇所には外側には三角形の連なり、内側はジグザグ文と点文。中央には鹿かガゼルに似た四足獣が表されているという。 
肉食獣から逃げながらも、後方を伺っているように見える。
見込みの底では、輪郭線も斑点の文様も滲んでいる。

白地多彩動物文鉢 9世紀 径16.5㎝ 東イラン ジェイ・グラックコレクション
同展図録は、花文が周囲に点ぜられ、緑と黄色の斑が付されており、華やかな画面になっているという。
体の斑点と長い尾は強調されているが、肢はとても俊足のチータとは思えない。目みたい。
白地多彩動物文鉢 9-10世紀 径21.6㎝ 東イラン 中近東文化センター蔵
同展図録は、黄色味がかった地に、すっきりとした黒彩でチータを描いている。これは猟犬とならぶ狩猟用の動物であった(首に鎖がある)という。
上の作品もそうだが、頭部の斜め上に向かうものが鎖だとは思わなかった。その上太い首輪と顔の間に何を描いているのか・・・前肢だ。この図では、斑点のある丸いものは肢を表しているのだった。
そして、奇妙な描き方ではあるが、一番完成度の高い動物文は、同展図録の表紙になっているこの皿。しかし、この作品については全く説明文がないのだった。

白地多彩動物文皿 時代不明 出土地不明 所蔵不明

この特別展でたくさんの作品を出品されたジェイ・グラックコレクションについて検索してみると、神戸の異人館街にあったペルシャ館でグラック夫妻のコレクションが展示されていたが、1995年の阪神大震災で倒壊し、長い間放置されていたという記事がたくさんあった。しかし、そのコレクションがその後どうなったかについては不明。どこかで修復、保存されていることを願うばかりである。

蛇足ですが、かなり以前に知り合いの爺さんにこの図録を見せたところ、とても興味を持ち、陶芸が趣味だったので、自分もまねて作り、私にくれました。
大鉢 径29高9.6㎝
大皿 径37高5.5㎝
こうして比べてみると、やはり素人なので、釉に滲みや流れが見られ、絵も小さくまとまってしまっています。
あまりにも重いので実用に向かず飾っているだけ。毎年大掃除になると、その大きさと重さを実感する。
鳥の絵の方は径22㎝の皿も作ってくれ、菓子器に使っていたら縁が欠けてしまいました。

     アゼルバイジャン博物館 ラスター彩

関連項目
タブリーズ アゼルバイジャン博物館

※参考文献
「イランの彩画陶器」 1994年 岡山市立オリエント美術館

ペルシアの彩画陶器は人物文も面白い

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ラスター彩陶器には人物文が描かれるものがあり、タブリーズのアゼルバイジャン博物館でも展示されていた。
それについてはこちら

イスラームは動物や人物を表すことが禁じられているのにもかかわらず、人物が描かれるのは、東方からやってきたセルジューク朝のテュルク系の人々の嗜好だと思っていたが、それ以前、深目高鼻の人たちも人物文を描いている。
『タイルの美Ⅱイスラーム編』は、預言者ムハンマドが、神から受けた啓示をまとめたイスラームの聖典コーランには「信者の者よ、酒と賭矢と偶像神と占い矢とは、いずれも嫌うべきこと、悪魔の業じゃ、心して避けよ」とある。これがイスラームの偶像否定や飲酒の禁止のもとになっている一節である。
しかしラスター彩タイルには、ボストン美術館所蔵の1211年の年代銘が記されたラスター彩タイルのように、人物や動物が描かれたものもある。おそらくこれら人物文が表現されたラスター彩タイルは、宗教的な建造物ではなく、宮殿などの私的な居住空間の壁を飾ったものであろうという。
もともと世俗の場では人物が描かれていても構わなかったのだ。

黄地多彩騎馬戦士文鉢 9世紀 東イラン 径28㎝ ジェイ・グラックコレクション
『イランの彩画陶器展図録』は、騎馬の戦士を徒歩の戦士や女性像、魚などが囲んでいる。右側の女性はやや大きめに描かれ、騎馬戦士と向き合っており、重要な存在とみられるという。
正面向きの顔もあれば、戦士の一筆書きのような横向きの顔もある。丸顔ではない。
女性や戦士の頭上に山字形のものは王冠?それとも帽子?
黄地多彩騎馬戦士文鉢 9-10世紀 東イラン 径35.0㎝ 中近東文化センター蔵
同展図録は、騎馬戦士のまわりを数人の徒歩の戦士と動物が、旋回するような方向に連なって、取り巻いているという。
人物は目は大きく描かれるが、輪郭はかなり略されている。それでも全員山字形のものを被っている。

黄地多彩騎馬戦士文鉢 10世紀 東イラン 径20㎝ ジェイ・グラックコレクション
同展図録は、鎖かたびらのような鎧と、かぶとで身を守り、剣と盾とをもったひとりの戦士を、クローズアップして表しているという。
山字形ではない兜を被っている。
正面を向いた顔は細長い。
黄白地多彩戦士文鉢 9-10世紀 東イラン 径22.6高8.6㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
同展図録は、鎖かたびらに身を包み、剣と円盾をもった戦士が攻撃の姿勢をとっている。周囲にはクーフィー体の銘文が崩れたモティーフという。
ガイドのレザーさんのように深目高鼻の人物が描かれている。角が生えているようにも見えるのは兜かな。

黄白地多彩人物文鉢 9-10世紀 東イラン 径20.5高9.2㎝ 松岡美術館蔵
展図録は、周囲にハート形の装飾文。王侯酒宴図は、伝説上の帝王ジャムシードの酒杯の物語を思い出させる主題でもあるという。
細長いリュトンを右手で掲げている。そのそばに描かれているのは酒の入った3つの壺だろうか。
横向きの輪郭が面白い。
両腕の背後の黒いものは何だろう。
黄地多彩人物文皿 9-10世紀 東イラン 径19.1高6.4㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
同展図録は、裾の長い衣を着た人物が酒杯を掲げている。王侯の酒宴を表した画題は、かつてササン朝銀器やソグド壁画などにしばしば表されていたという。
残念ながらその図版はなかった。大きな酒盃は円錐形に渦巻状のものがついている。ブーツ型のリュトンかも。
横向きなのに、目鼻口が顔の中央に描かれて前向きのよう。
やはり両腕の後ろ側には黒い布のようなものが描かれている。

黄白地多彩人物文壺 9-10世紀 東イラン 径21.4高22.4㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
同展図録は、壺の4面に、朱色のマントを着て座した人物が表され、空隙には鳥が描かれている。下方にはハート形の装飾文という。
上の人物と同じような顔の描き方だが、目が大きい。胡坐しているのだろうが、足をどのように組んでいるのか分かりにくい描写だ。
この人物の両腕の後ろ側にも2つに分かれた黒い布が描かれている。
黄地多彩人物文鉢 9-10世紀 東イラン 径19.8高8.0㎝ 松岡美術館蔵
同展図録は、中央に戦士に似た服装で座って花の枝(?)のようなものをもつ男性像。まわりの帯には菱形を渦巻で囲んだモティーフがみえるという。
口縁部は七宝繋文と蔓草文を合成したような文様。
2匹の蛇が絡み合うような足も胡坐のつもりだろうが、こんな風に足を絡めるのは不可能だ。
この横顔も味わい深いが、この図でやっと両腕の後ろ側にたれているのが、ずきんの端だと判明した。

黄地多彩婦人文鉢 10世紀 東イラン 径20㎝ ジェイ・グラックコレクション
同展図録は、裾広がりのスカートを大きく表した構図もときおり見られる。背後にある木はプラタナスともいわれるが、はっきりとはわからないという。
何故か女性の額から上が画面に収まりきれず切れている。右目が少し描かれ、出ているはずの鼻と口は凹んで描かれていて、これまで見てきた横顔の表現とも異なる。
自由に描いたと言えばそれまでだが、いったいどんな思いで描いたのだろう。当時東イランに住んでいたのは深目高鼻の人々だったことは分かった。
こういう面白い人物を描いていたのに、テュルク系のセルジューク朝期になるとその伝統は引きつがれず、丸顔になってしまった。

アゼルバイジャン博物館 面白い動物が描かれた陶器

関連項目
タブリーズ アゼルバイジャン博物館
アゼルバイジャン博物館 ラスター彩

※参考文献
「イランの彩画陶器」 1994年 岡山市立オリエント美術館 
「タイルの美Ⅱ イスラーム編」 岡野智彦・高橋忠久 1994年 TOTO出版

聖タデウス教会 の浮彫装飾

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マークー郊外にある聖タデウス教会は、現地の説明文によると、黒の教会と呼ばれる古い教会が1329年に再建され、新しい教会は19世紀前半、ガージャール朝の王子アッバース・ミルザによって増築され、アルメニアのエチミアジン大聖堂よりその外壁の石彫が贈られたという。

上の段には聖人あるいは聖職者の立像が並ぶ。
正面向きで、襞は規則正しく並び、曲線的なZ状の衣端となる。
この像は後補らしく、右肩や左腕の襞の表現が一筆書きで描いたようで面白い。衣端はZ状でこのような表現がずっと残っていたのだろうか。

新しい教会を巡る文様帯を南側の東端から西へと見ていくと、
丸い盾や槍を持って戦う戦士たち。大きな花の蕾に顔を近づける有翼のライオン。
大きな花の続きには仔牛をなめる母牛と搾乳する人。花に続いて建物を世紀にして銃を構える人物。花の向こうには鹿が
2頭。その先には抱き合う二人。坐っているフタコブラクダ。
出っ張った3つの面へ
椅子に座る人とその前に立って何かを差し出す人。キジのような鳥を仕留めた肉食獣。首の長い動物。
馬を牽いく戦士。岩陰?に隠れる戦士。ゾウのような怪獣は大きな魚を鼻で捕らえている。
顔の描かれた太陽の両端には馬のような体だが龍のような顔の怪獣。
先ほどの面と左右対称にならんだそれぞれの場面。日向なのでよく見える。
その続き
別の面へ
これも左右対称になっている。鳩のような鳥は右側にはなかった。
その続き
右端は戦う戦士たちで終わっていたが、左端はその続きがあり、有翼の怪獣が人を飲み込んでおり(この辺りは後補)、その左も人がいて
日陰で撮影していない箇所があり、有翼の怪獣が人を飲み込み、その続きに戦う戦士たちがいるという、この辺りも写していない箇所のどこかで左右対称に場面が配置されているようだ。

文様帯の下には半円アーチや尖頭アーチの浅い壁龕が並び、そこにも浮彫がある。

生命の樹
ツタが絡まる糸杉もイランの地では生命の樹だろう。アバルクーという町では樹齢4000年の糸杉を見た。ここに浮彫されている糸杉の幹は4本に分かれているが、アバルクーの糸杉は何本か分からないくらいたくさんに分かれていた。
その上は何を表しているのだろう。

一つ欠けているが双頭の鷲、アルメニア語の銘文、少し下に大きな独特の円花文。
下に双葉の出る十字架はそれぞれの尖端が植物。
四福音書記者はその象徴は描かれず、それぞれの福音書を持つ人物として表されている。

大天使ミカエル
タンパンの浮彫は天秤で天国行きと地獄行きを量る大天使ミカエル。羽根が石板の中に収まるような配置に彫られている。
大天使ミカエルを挟んで左右の壁には聖人
これはドラゴンを退治する聖ゲオルギオス
可愛い天使たち
6枚の羽根を持つセラフィム(熾天使)
飛んでいる天使は二枚羽根
横向きの天使は体も手足もある
こちらは3/4正面向きだが、後補らしく鑿跡が鋭い。
正面向きの天使

西正面入口で教会を守護するライオン
側壁には植物文様。その中心は花それとも太陽?
入口脇の彫刻
小さな羽根の天使が花瓶を両側から支えている。花瓶から出た蔓は規則的に蔓を絡めながら上へと向かう。

アーチの装飾帯も植物文様
尖頭アーチの表側は蔓草のように続いていない。下側は花瓶とそこから出た蔓が並んでいる。
尖頭アーチと半円アーチの間のリュネットには渦巻かない蔓草。半円アーチの表側も蔓草ではない。
半円アーチの下側は十字架を頂点に置いて、独特の植物文が並ぶ。





参考文献
「IRAN THE ANCIENT LAND」 MIRDASHTI PUBLICATION

アルダビールのシェイフ・サフィー・ユッディーン廟 モザイクタイル

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ユネスコの世界遺産の記事によると、イスラーム神秘主義スフィーの隠遁所として、16世紀初めから18世紀末に、イランの伝統的なイスラーム建築様式を用いて建設された。という。
A:シェイフ・サフィー・ユッディーン廟 B:シャー・イスマイール1世廟 C:ムヒイー・アルドン・モハンマド廟 D:シャフニシン(アルコーヴの並ぶ部屋) E:アル・フファズの家(カンディル・ハナ) F:チニ・ハナ(ハネガー) G:ジャンナト・サラ H:サハトまたはサフン(境内) I:シャー・アッバース門 J:中庭 K:新チッラ・ハナ L:ハディースの家(アル・ムタワリの家) Q:シャヒドガー(墓地) R:マカベー(墓地)の中庭 S:シャー・イスマイール1世の母の廟 T:庭園の南側の部屋群 

D:シャフニシンとE:カンディル・ハナの外壁と円筒形のA:シェイフ・サフィー・ユッディーン廟
これが最も古く、16世紀初ということになるのかな。
タブリーズのマスジェデ・キャブード(ブルーモスク)のタイル装飾から50年ほど後のもので、イスファハーンの王の広場にあるマスジェデ・シェィフ・ロトフォッラーマスジェデ・イマームよりも100年ほど前のものになる。
軒下は二段のムカルナスがモザイクタイルで植物文様の装飾。その下段の渦巻く蔓草とインスクリプションのフリーズもモザイクタイル。
マスジェデ・シェィフ・ロトフォッラーの入口イーワーンのムカルナスの文様と同じ系統だ。
入口の縦長のピーシュタークもモザイクタイルで覆われている。傘型のイーワーンの下部左右にだけムカルナスがある。
側壁
上に伸びる花と葉の蔓草文様。それぞれの細部もみごとに小タイル片を嵌め込んでいる。
緑と白の多い壁面
小さな円形や、花びらのギザギザなどの刻みもみごと
緑のタイルといってもその色は様々
入口上のピーシュタークも蔓草文様があるが、さほど目立たない。
スパンドレルには大きな緑の円文が一対あるのが印象的。
その上のムカルナス
植物文を引き延ばしてデフォルメした文様が目立つ。
左脇の小壁龕のムカルナス
その下の4面は植物文様だが、タイルの色が鮮やか。後世の修復ではないのかな。
外側にはおそらく大理石の付け柱。
入口をくぐった上の尖頭天井にぱ蔓草とインスクリプションの組み合わせ
続く前室のドーム
ここも植物の葉や蔓をを用いながら、新たな文様のスタイルを展開している。

シェイフ・サフィー・ユッディーン廟は、円筒形にドームが架かっている。
空色タイルで「アッラー」だけのカリグラフィーが一面を埋め尽くしている。
「アッラー」が上下左右に回転した4つ一組で十字十字ができ、それを等間隔に配置している。
そんな中に円形のモザイクタイルによる装飾が嵌め込まれているが、これもアッラー?
ドームも入れ子の菱形のバンナーイだが、
ドラムの蔓草とインスクリプションはモザイクタイル。
外側のファサードはこちら
イーワーン上部のムカルナスもモザイクタイル
透かし窓の辺りは古い感じはしない。下のインスクリプションも修復されたものだろう。
外側の装飾帯には素焼きタイルで五角形・6点星・正方形の区画を設け、内側に空色タイルの輪郭線、その中に白と紺色タイルでそれぞれの形を構成している。
こちらは修復されたモザイクタイル

C:ムヒイー・アルドン・モハンマド廟
正方形にドームを載せている。その移行部が三角形を組み合わせたような壁面にしている。
そして、素焼きタイルと空色タイルで幾何学文様をつくっている。
剥落してしまったが、白色のタイルも使われていたようだ。

アッバース1世が建立したG:ジャンナト・サラ
スパンドレルもモザイクタイル。空色と柿色の蔓が二重に渦巻いている。
右のイーワーン
ドームは放射状に文様が広がるモザイクタイル
頂部
黒か紫色のタイルも使われているようだ。
その下部
隅のムカルナスの頂点にも傘型の折り目が入っている。
正面の尖頭アーチ形のタイル面
細かなモザイクタイル。白いタイルと剥落した部分を白の漆喰で埋めた修復とがある。

I:シャー・アッバース門に続く側壁にもモザイクタイル
白の菱形の区画に柿色と空色の蔓が入り込んで、新しい文様ができたみたい
しかし、こちらの方は従来の空色と柿色の蔓が二重に渦巻く文様
その浅いイーワーンには、素焼きタイルと色タイルによるモザイク
拡大このようなモザイクは、マスジェデ・シェィフ・ロトフォッラーの礼拝室四隅の壁面にも見られるものだ。


サファヴィー朝盛期のモザイクタイルがアルダビールでも見ることができた。



関連項目
マスジェデ・キャブードのタイル装飾
イスファハーン、マスジェデ・イマームのタイル
マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーのタイル

アルダビールのシェイフ・サフィー・ユッディーン廟 中国磁器のコレクション

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シェイフ・サフィー・ユッディーン廟に繋がった形で、チニ・ハネという大きな建物が建立され、内部は大小それぞれ4つのイーワーンがイスファハーンのアリー・カプー宮殿の楽器の間のように、陶磁器の形を刳り貫いた漆喰装飾のムカルナスとなっていた。
現在アルダビール・コレクションと呼ばれている中国の磁器は、ムカルナスの下に並んだガラスケースに展示されている。
アルダビール・コレクションは総て17世紀とされているが、あまり知識のない私が見ても、ちょっと違うのではないかと思われるものがあった。
そこで、大変古い文献(ということは白黒図版)だが、『世界陶磁全集第11巻 中国 元明篇』(以下『世界陶磁全集』)と『陶器全集第11巻 元・明初の染付』(以下『陶器全集』)に記載されている、或いはよく似た作品については、その年代に従うことにする。

唐草文の皿 明初、永楽年間(1403-24年) 高6.9径38.2底径25.0㎝
『世界陶磁全集』は、文様の描法においてこの時代は殊に洗煉化への傾向が顕著にあらわれる。まとまりのよい余裕のある構成となり、青の使い方が少なくなって白い磁器の感覚が一層大きい意味をもつようになる。文様は多くの場合輪郭のあたりをつけることなく直接大胆且つ的確な用筆で描く。この特徴は当時の文様の主体をなす花文にほとんど例外なくうかがわれる。輪郭をまず描いて中を埋めていく技法は、この頃なかった訳ではないが、15世紀後半までは一般に用いられるに至らなかったようであるという。
見込みには複数の種類の花が5つ描いている。
アルダビール・コレクションの唐草文皿
上の作品とは上下逆さまなだけのようだが、細かい点で違いがある。しかし、時代としては同じ頃だろう。
花の種類と数は同じ。
花の上下と展示の上下が合っているので見易い。こちらも花の種類と数は同じ。
先に挙げた文献には、このタイプの皿が幾つか記載されているが、皆少しずつ違っているのは、手描きであること、または陶工の違いなどによるものだろう。

アルダビール・コレクションの図版1 唐草文盤(盤と皿の違いは文献による) 明初 径38.7㎝ コレクション29.98
見込みの花が小さく、下側には蓮葉が描いてあり、総て蓮華の花なので蓮華唐草文と呼べる。
アルダビール・コレクションの図版2 明初 径27.9㎝ コレクション29.119
蓮華が6つ描かれる。

龍波涛文の瓶 明時代永楽年間(1403-24年) 
荒波の上に輪郭と線刻のみで龍を表す。その龍は三爪。中国では皇帝だけが五爪の龍を象徴として用いることができた。
イルハーン朝期1270年代に制作されたとされるラージュヴァルディーナ・タイルには四爪の龍が描かれいるが、それはイランのイルハン朝は現在の北京を首都とする大モンゴル帝国内の一王国として、中国では皇帝の象徴である龍と鳳凰の図像の使用を大ハンから許可されていた(『砂漠にもえたつ色彩展図録』より)からだという。
アルダビール・コレクションの図版3 龍波涛文瓶 明初 青花 高41.9㎝ コレクション29.471
首のない瓶とよく似た作品だが、龍の描き方が少し違うので、龍の体の隙間の形も異なっている。
点状の目だけがコバルト釉で描かれる。その右の方にペルシア文字が刻まれている。
アルダビール・コレクションの図版4 龍波涛文梅瓶 明初 高41.6㎝ コレクション29.403
『陶磁全集11』は、アルデビル・コレクションの中でも最も美しいものの一つである。14世紀中頃に栄えた青地白文の手法を15世紀初めまで引きついでいるのはこの青の波文地に白の龍をあらわした一種類に限るらしいという。
驚いたことにこれは五爪である。皇帝専用の器が将来されていたとは。

アルダビール・コレクションの図版5 龍唐草文瓶 明初 高33.2㎝ コレクション29.470
三爪の龍が右方を振り向いている姿はアルダビール・コレクションの図版3と同じ。白抜きでは分かりにくい角とたてがみの様子を知る手がかりとなる。
アルダビール・コレクションの図版6 青花龍波涛文盤 明初 径40.0㎝ コレクション29.37
『陶磁全集11』は、龍のような著名なモチーフがこの頃の青花大盤に姿を見せないのは不思議である。龍文は筆洗や把盃のような小さいもの、または諸種の大形瓶などに見るが、今まで目睹した大盤はすべて青の波文の地に白く抜いたものばかりである。この場合天使龍の細部は素地に細線を以て陰刻しただ眼だけを青で描いてある。この盤の外側は運中の龍4匹を青で描くという。
この龍は背中を見せて、自分の左前方を見ているようだ。
龍文鉢
四爪の龍で、こちらの方が格が高い。
しかし、これまでの龍は総て顔を横に向けているのに、この龍は正面を向く。制作時期が下がるのかも。

唐草文瓶 15世紀前半以前
上記2冊の文献を見た限りでは、この形の瓶子は、元から明の永楽年間までのものである。 

鉢皿3点
説明文に、タスマースプ1世の名と1550年という年が記されている。
タスマースプ1世はサファヴィー朝の第2代で在位は1524-76年。その頃に明から将来された作品だとすると、16世紀になる。
楼閣山水図皿
農村図?鉢
口縁部に並んでいるのはペルシア文字ではなさそう
鉢 

葡萄文皿
上下逆さまになっているので文様がわかりにくい。口縁部の波涛文の波頭が太くて迫力がない。側は草花繋ぎ。
見込みには葡萄の長い房がほぼ等間隔に3つ並び、それぞれが蔓で繋がり、葉も数枚描かれる。そして細い巻きヒゲが長々と伸びるのが特徴でもある。
葡萄文皿 永楽年間(1403-24年) 径42.6㎝ クリーヴランド美術館蔵
口縁部の波涛文は規則的に描かれているが、波頭は細かく描かれ迫力がある。側は独立した花文が12並ぶ。
見込みには葡萄が自由に並び、実の上側を塗り残して立体感を出す。
葡萄文皿 永楽年間(1403-24年)
口縁部は波頭が1・2・1・2と4回繰り返す。上の作品よりは描き方が荒いが勢いはある。また、側は草花繋ぎとなっている。
見込みの葡萄はほぼ等間隔に並ぶが、房の大きさはそれぞれ異なっていて、実は全体に薄く、上側が濃く絵付けされている。
この2点との比較から、現地で写した作品はこれらよりも時代が下がると思われる。

背後の説明文には、タスマースプ2世の名と1731の年が書かれている。
蓮華文鉢
見込みは、細い紐で結わえた2本の茎から多様な花や葉が出ている。蓮華あり、クワイの葉あり、蓼のような植物も。
アルダビール・コレクションの図版7 明初 青花蓮華文盤 径34.4㎝ コレクション29.21
紐で束ねた蓮華やクワイの葉の茎などの本数が格段に多い。
蓮華文の皿 明、永楽年間(1203-42年) 高7.9径43.8底径29.2㎝ 東京国立博物館蔵
口縁部の波涛文は、クリーヴランド美術館本(永楽年間)に近い。見込みの植物は、波涛文に負けないくらい、しっかりと描かれている。
アルダビール・コレクションの図版8 青花蓮華唐草文片口 元(14世紀) 高4.4径13.8底径8.5㎝ 
蓮の花や葉、細い葉というシンプルな組み合わせで、ほぼ左右対称に描かれ、束ねられた茎は6本。このような元の文様が基本となり、明時代に茎がヒゲ状に巻いたり、数が増えたり、減ったり、植物の種類が増えたりしていったのだろう。
それにしても、アルダビール・コレクションには元の青花もあるのだった。
元の染付といえば、イスタンブールのトプカプ宮殿のコレクションが思い浮かぶが、イランにも元や明初のアルダビール・コレクションがあるというのに、一括で17世紀にするのはもったいない。

『世界陶磁全集』は14世紀の特徴として、15、6世紀の青花と比べれば一目瞭然であるるが幅の広い筆で大胆な筆致を以てのびのびと描いている。その自由で自然な描法こそこれら初期の青花と後世のものとの最も著しい相違であるという。

アルダビール・コレクションの図版9 青花鳳凰唐草文盤 元(14世紀) 径40.6㎝ コレクション29.122
同書は、円縁で古様の唐草を配し、内側には「捻じ釘のような」葉と6箇箇の大きい花をあしらった太い蓮華環を画くという。
「捻じ釘のような」葉は、菱の葉ではないかな。
見込みは、草が生えているのが地面だとすると、鳳凰は舞い降りて地上寸前に上方に向きを変えようとしている場面だろうか。
アルダビール・コレクションの図版10 青花蓮池水禽文盤 元(14世紀) 径40.6㎝ コレクション29.38
盤の内面の見込みは蓮池水禽を画くという。
口縁部は波涛ではなく波文が表される。
見込みにはカモのような水禽の番いや蓮などが、ほぼ左右対称に描かれている。
アルダビール・コレクションの図版11 青花魚藻文盤 元(径14世紀) 径45.2㎝ コレクション29.43
見込みは、中心に大きく魚を画き周りに水草を配しているという。
水草が三方から生え、水中には丸い浮遊物で満ちている。

青花(染付)以外では発色はよくないが青磁もあった。

器の裏を見せているものがある。
弘治年間は1488-1505年なので、15世紀末-16世紀初。明初には含まれない。
このように、明の磁器は底に元号が記されているので、漢字さえわかれば編年は困難なことではないのだが・・・

シェイフ・サフィー・ユッディーン廟 モザイクタイル

参考文献
「砂漠にもえたつ色彩展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館
「世界陶磁全集第11巻 中国 元明篇」 編集責任者後藤茂樹 1961年 河出書房新社
「陶器全集第11巻 元・明初の染付」 編集兼発行者下中邦彦 1960年 平凡社
 
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