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ペルセポリス アパダーナの階段中央パネル

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アパダーナ平面図(『THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis』より、以下『GUIDE』)
『ペルシア建築』は、ペルセポリス全体の中で最も重要な地位を占める建物といえば、それはクセルクセス王のアパダーナであって、外側を測ると方76.2m、中央の広間が方59.4m、3面に付くポルティコがそれぞれ奥行19.8mという値を持つという。
北面と東面に二重に階段が付いている。
アパダーナの想像復元図(『Persepolis Recreated』より)で見ると、階段のうち中央にあるものから使節団が入っていく。見学でも中央の階段を登り下りした。

北面の階段
その中央の階段パネルには帽子や服装は「ペルシア風」と「メディア風」を交互に着ているが、兵士達が4名ずつ向かい合っている(右は1人が写っていない)。
『GUIDE』は、元はその上に別の場面があった。しばしば誤ってアフラマズダのシンボルとされる有翼日輪、その両側にライオンの体に翼のあるスフィンクス。スフィンクスは有翼日輪に挙手している。その背後にナツメヤシの列があるという。
万国の門出口の人面有翼牡牛像の顔もこんな風だったに違いない。

しかし同書は、オリジナルの謁見の場面は、現在イラン国立博物館にあるという。この浮彫は他の場所にあったものと取替られたものだったのだ。
同書は、謁見の場面で飾られていた。蓮の花と王を示す笏を持ち、王は玉座に座る。その皇太子は玉座の後ろに立ち、その背後にはタオル持ちと武具持ち、そして2人の近衛兵がいる。王の前には、高官が服従の仕草で片手を口の前に挙げ、軽く身を屈め報告している。その背後にも2人の近衛兵が立っている。クセルクセス王の後、この謁見の場面は宝物庫に移されたという。
旅の最後にテヘランのイラン国立博物館を見学して、オリジナルは見ることができた(左の近衛兵は画面の外ではあるが・・・)。
『GUIDE』は、この場面は1938年、E.F.シュミットによって、宝物庫から発掘されたという。
ダリウスとクセルクセスの後というとアルタクセルクセス1世(在位前464-424年)だろうと思うが、お陰で貴重な浮彫が火に遭うこともなく保存されてきたのだ。


一方、東階段の中央パネルも宝物庫から出土している。同じく謁見の場面だが、北階段のものとは左右反転しているし、クセルクセス1世の像は壊れている。
そういえば、遠くから眺めた東階段の中央パネルは、 「ペルシア風」と「メディア風」を着た兵士達が交互に並んで4名ずつ向かい合うという、北階段と同じものだった。
オリジナルと現在のパネル(『GUIDE』より)の比較。
間の抜けたことに、ここには立ち寄っていない。
で、取り替えられたパネルには、 有翼日輪や人面有翼スフィンクスなども残っている。

どんな理由で謁見の場面を、碑文と兵士の行進の場面に替えたのだろう。




※参考文献
「THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis」 ALIREZA SHAPUR SHAHBAZI 2004年 SAFIRAN-MIRDASHTI PUBLICATION
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「Persepolis Recreated」 Farzin Rezaeian 2004年 Sunrise Visual Innovations


ペルセポリス 百柱の間扉口側壁浮彫

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百柱の間はアルタクセルクセス1世が建てた大きな建物で、現在は円柱はほとんどなく、四方の扉口や窓などの枠が残っていて、扉口の左右側壁には浮彫が施されている。左右同じモティーフが表されているが、胸像のように、向きが同じになっている。

北柱廊玄関の西扉口
西側壁
頂部に玉座に座るアルタクセルクセス1世の謁見の場面。その下には5段に渡って10名ずつの近衛兵が左右から行進して中央で向かい合う図が表され、東西側壁合わせて100名、100本の円柱で支える広間への入口の一つに表されていることになる。
『THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis』(以下『GUIDE』)は、謁見の場面は、宝物庫で発見されたものの基本的な特徴を繰り返している、玉座の王、2本の香炉、報告する「メディア風」千人隊長、タオル持ち、そして2人の「ペルシア人」近衛兵が場面の両端に表されている。「宝物庫の浮彫」と違って、玉座の背後に皇太子が登場するという。
アルタクセルクセス1世の皇太子といえばクセルクセス2世。彼が自ら父王の頭上にハエ払いを掲げている。

南壁西扉口は、両側壁に「玉座担ぎの図」が、共に百柱の間へ入る様子が浮彫されている。
『古代イラン世界2』は、帝王が座す玉座の脚の側面に数段に分かれて属州の民が配されているが、両手を上げて玉座を担いでいる。あるいは、帝王の玉座のあるプラットフォームを彼らが担いでいる。この図はまさに、「世界の王」の観念を明確に示している。
アッシリア帝国後期の帝王の脚の装飾に既に見られるという。
『GUIDE』は、両側の側壁はひと続きの場面となっていて、28名の玉座担ぎは、その位置と着衣によって識別できるという。
28という数は、アパダーナ北階段の使節団の数である(東階段では23)。
西側壁
『古代イラン世界2』は、帝王の頭上には有翼のアフラ・マズダ神像が配されているが、その左手には王権の象徴の環(クワルナフ)を持ち、右手を挙げて祝福しているので、これは王権神授を表しているという。
その下に有翼円盤だけが2段あり、その両側にはライオンの行進が表される。それぞれはロゼット文の文様帯で仕切られ、最下部は斜格子の文様帯となる。気付いていないだけかもわからないが、これはペルセポリスで初めて見た文様帯ではないかな。
一人の召使いが左手でタオルを半折りにして握り、右手でハエ払いを王の頭上に掲げている。双方とも顔面や手先などが壊れていて残念。
アルタクセルクセス1世と召使いの着衣の袖と、長い裾、そしてタオルまでが整然とした衣文を丁寧に表している。
玉座は下から見てもよくわからないが、獣足になっている。獣足についてはこちら
アルタクセルクセス1世の玉座を載せた大きな台の下には、3段にわたって玉座を担ぐ人物がいる。
上段右から(番号は、アパダーナ北階段浮彫の使節団に呼応する。『GUIDE』による)
メディア人 ④アーリア人 ⑤バビロニア人 ⑦アラコシア人
東側壁上段左より
エラム人 ③アルメニア人 ⑥リュディア人 ⑧アッシリア人
西側壁中段右より
カッパドキア人 ⑪尖り帽子のサカ(スキタイ人) ⑬バクトリア人 ⑮パルティア人 ⑰ソグド人
東側壁中段左より
エジプト人 ⑫イオニア人 ⑭ガンダーラ人 ⑯サガルティア人 ⑱ホレズム人
西側壁下段右より
インド人 ㉑サッタギディア人(パンジャブ) ㉓ダアイ人?(カスピ海東岸のスキタイ系遊牧民) ㉕東イラン人 ㉗エチオピア人
東側壁下段左より(ただし写していなかったので、『古代イラン世界』の東扉口の図版より)
⑳スクルディア人 ㉒サカ・ハウマヴァルガー(西部スキタイ人) ㉔アラブ人 ㉖リビア人 ㉘スキタイ人

『古代イラン世界4』は、アケメネス朝の美術は、古代西アジア美術を集大成したもので、これ以上発展する余地がないとまでいわれている。
たとえば、朝貢図はアッシリア帝国の美術にならったものである。玉座担ぎの図もアッシリア後期の帝王の玉座の脚の装飾に既に見られる。有翼円盤のアフラ・マズダ神の図像および、その左手に持つ環(正当な王位の象徴、クワルナフ)もアッシリアのアッシュール神像(淵源はエジプト)に由来するという。
アケメネス朝は広大な領土となった各地の先進美術や技術から新たなペルシア風を創っていったのだ。

   アパダーナの階段中央パネル

関連項目
ペルセポリス4 アパダーナ東階段から百柱の間
獣足を遡るとエジプトとメソポタミアだった

※参考文献
「Persepolis Recreated」 Farzin Rezaeian 2004年 Sunrise Visual Innovations
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis」 ALIREZA SHAPUR SHAHBAZI 2004年 SAFIRAN-MIRDASHTI PUBLICATION
「季刊文化遺産8 古代イラン世界」 1999年 財団法人島根県並河萬里写真財団 

アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成

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『古代イラン世界』は、アケメネス朝の美術は、古代西アジア美術を集大成したもので、これ以上発展する余地がないとまでいわれている。事実、ペルセポリスの浮彫の図像を調べていけば、多くの図像がそれ以前の西アジア、エジプトの美術などにたどりつけるという。
それを手持ちの書籍の図版の範囲で見ていくと、

『古代イラン世界2』は、「怪獣と英雄ないし帝王の闘争図」は帝王のような人物は短剣で怪獣と闘っている。その冠がアケメネス朝の帝王のいずれのものとも決定しがたいので、このような帝王風の人物は祖先を英雄化したものであるといわれている。
むしろ、神に等しいと考えられた帝王を、個人レベルではなく、万世一系の帝王という観念のレベルでそのように描写したと考えたほうが妥当である。すなわち、怪獣と闘う帝王は「アケメネス朝による平和」を乱す「悪全般」を退治する善なる王権を象徴しているのであるという。
百柱の間東壁北扉口に牡牛と闘う国王の浮彫がある。
アルタクセルクセス1世が飛び掛かる牡牛の角を掴み、短剣で腹を刺している。建物の外側に王がいる。牡牛ではなく周りから攻め込んでくる敵や天変地異など全ての象徴のようなものだったならば、扉口の外側に怪獣を表した方が、宮殿に侵入するのを王が防いでいるという風に思えたのに。
同書は、このような観念はメソポタミアにおける「国王の獅子狩り」に匹敵するという。
この機会にアッシリアの浮彫もちょっとのぞいてみよう。

『アッシリア大文明展図録』は、古代メソポタミアにおいて、ライオン狩りは特別な意義を持っていた。早くも紀元前3000年以前から、王がライオンを狩る場面が描かれている。ライオンは野生の力を象徴し、王の任務はそれを自らの支配下に置くことであった。そしてある時から、ライオンを狩るのは王のみに認められた特権となったように考えられるという。


国王のライオン狩り アッシュール・バニパル王期(前645-640年頃) 縦159.0-160.0横264.0㎝ ニネヴェ北宮殿出土 大英博物館蔵
同展図録は、王は伝統的な国王のスポーツであるライオン狩りをたしなんだ。王の獲物となるライオンは、捕獲したり、飼育した後に、王の狩猟の獲物となった。この浮き彫りには、そのような主題が描かれている。
画面最上段には、一連の出来事が順を追って描かれている。画面の右手では、護身用の小さな檻の中から手を延ばしてライオンの入った檻の扉を持ち上げている。檻から出たライオンは、画面の左方向へと進んだところで、王の放った矢を受ける。ライオンは死なずに、盾持ちの男に守られて矢を射続けている王めがけて飛びかかる。この画面のさらに左手に描かれていた最終場面では、アッシリアの王の印章の構図と同じように王とライオンが一対一で対決し、王がライオンを剣で刺し殺している情景が描かれていたという。
同展図録は、騎手が、それほど興味を示してもいないようにも見えるライオンに手を出している。左手から王が現れて、ライオンの尾をつかんでいる。この画面では見えないが、王は右手に棍棒を持ち、ライオンの頭部を殴ろうとしていることは、浮き彫りに伴う説明文にも記述されているという。
王はライオンの尾を掴み、棍棒で殴ろうとしているが、向かい合ってはいない。
国王のライオン狩り アッシュールナツィルパル2世期(前875-860年頃) ニムルド北西宮殿西翼出土 縦98.0横139.5厚23.0㎝ 大英博物館蔵
同展図録は、アッシリア美術においては、勝者の戦車を引く馬の下に、倒れた敵ないしは犠牲者を描くのは常套手段である。この画面に描かれたライオンは身体に3本の矢を受けている。この画面は完結した構図ではなく、画面の右手には、別のライオンが描かれていたと推測されるという。
国王の雄牛狩り アッシュールナツィルパル2世期(前875-860年頃) ニムルド北西宮殿B室出土 石製板20上部 縦93.0横225.0厚9.0㎝ 大英博物館蔵
同展図録は、王の戦車は倒れた雄牛の上を画面右に向けて疾走してゆく。戦車上から雄牛を狩る人物がアッシュールナシルパルⅡ世その人であることは、彼の被っている特徴ある王冠から確認できる。この画面では、王は前方を向いて矢を射るかわりに、後方を向いて、背後から襲いかかってきた雄牛を狩っている。王は雄牛の角をつかみ、首に剣を突き刺している。
この浮き彫りは、玉座の近くの壁画を飾っていた作品の上半部である。おそらく王が特別に誇りに思っていた功績を表現したものと考えられるという。
王は牡牛の角を掴み、その首に短剣を刺しているが、互いに向かい合ってはいない。
「王の印章」の印影 サルゴン2世期(前715年) 粘土 径3.8厚2.0㎝ ニネヴェ出土 大英博物館蔵 
同展図録は、このスタンプ印章の印影には、背後に房飾りが垂れ下がる王冠を戴き、キルトを身に着けた有髭のアッシリアの王の姿が描かれている。王は右向きに立ち、後脚で立ち上がったライオンのたてがみを左手でつかんで、その胸部を剣で突き刺している。ライオンは一方の前脚を頭の後ろに振り上げ、他方を身体の正面に下げた、独特の姿勢で描かれている。画面の周囲には ここも
この印影は、木製の箱の周囲にかけた紐の結び目に円盤状の粘土塊を置き、その上に押印されたものである。
衣装の細部や、王とライオンの大きさの比率、印章のサイズや縁飾りに使われる装飾文などにおいて多くのバリエーションが存在するが、この種の印章は3世紀間にわたって、アッシリアの王宮の経理実務や行政に関わる用途に使用され、「王の印章」として知られている。この種のスタンプ印章の実物はこれまで出土していないという。
これこそペルセポリスの扉口側壁の浮彫の元になったものではないかと思われるほどよく似た構図である。違いといえば、ライオンが牡牛に、たてがみではなく角を掴み、胸ではなく腹部を刺していることくらいだ。

『古代イラン世界』は、万国の門の出入り口に守護聖獣として有翼牡牛を一対ずつ配置するデザインもアッシリア帝国の宮殿出入り口に既に見られるという。
それについてはすでに記事にした。こちら
そこで今回はそのラマッスをどのように運んだかを表した浮彫の模写を、

人面有翼牡牛像を運ぶ浮彫の模写に基づく銅版画 原本はセンナケリブ王期(前704-681年)
『アッシリア大文明展図録』は、アッシリアの彫刻作品の中で、見る者を最も威圧するのは、高さ5mにも及ぶ人面有翼雄牛像や人面有翼ライオン像などの巨大な守護像であろう。このような像は、通常、30tもの重さの岩塊から造られており、像を移動の様子はセンナケリブの宮殿から出土した浮き彫りに描かれていが、何百人もの男たちが力をあわせて荷ぞりに載せた巨像を引きずって動かしたという。 
岩塊に肢などを少し浮彫しただけで、頭部は切り出したままのものを運び、安置場所で細かく浮彫したのだろう。

『古代イラン世界』は、朝貢図はアッシリア帝国の美術にならったものであるという。
アパダーナ東階段には23ヶ国から朝貢してきた使節団が、それぞれに特産品や動物を伴って行進する様子が3段にわたって現されていた。
黒いオベリスク 前858-824年 黒色石灰岩 高202幅60㎝ 大英博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、シャルマネセル3世の晩年に制作された記念碑。石碑は四角柱で、そり頂部は3段の階段状になり、ジッグラトと呼ばれる神殿塔の形状を模している。
各段4面が一続きの主題を表現し、その内容は各パネル上部に銘文として刻まれている。
最上段のパネルにはイラン北西部に位置するギルザヌ国の王スアが、弓と矢を手にしたシャルマネセル3世の前にひれ伏す場面が描かれ、それに続くパネルに貢物(略)を運ぶ死者たちの行列が表現されている。
2段目のパネルには、イスラエル王オムリの息子であるイエフ王が、杯を手にしたシャルマネセル3世の前にひれ伏す場面が描かれ、それに続くパネルに貢物(略)を運ぶ死者たちの行列が表現されている。
3段目のパネルには、ムスリ国(おそらくエジプト)からの朝貢品として、二瘤駱駝、カバ、犀、アンテロープ、象、猿などの珍しい動物が運ばれてくる情景が描かれる。
4段目には、ライオンが鹿を襲う場面に続いて、スフ国(ユーフラテス河中流域)からの貢物として「銀、金、金製水差し、象牙、投げ槍、亜麻布」を運ぶ使者の行列が描かれる。
最下段には、ハッティ国からの使者が朝貢品を運ぶ情景が描かれている。このように各国からの朝貢を描くことによって、シャルマネセル3世の治世にアッシリアが影響を及ぼした広範な領域を示そうとする意図が読み取れるという。
たしかにアパダーナに繋がる朝貢図がアッシリアにあった。

『古代イラン世界』は、アパダーナの36本の巨大な石柱の柱頭を「2頭の牡牛の背合わせ像」で飾るデザインは、ルリスターンなどの山岳地帯の動物意匠に由来しようという。
あっと驚く指摘だった。以前からルリスタン青銅器、特に轡の動物表現には興味を持っていたが、それが双頭の牡牛形柱頭と結び付くとは思わなかった。

有翼人面獣身くつわ 前1千年紀前半 青銅 長12.7㎝ ルリスタン出土 岡山市立オリエント美術館蔵
ルリスタン青銅器といえばこのような動物などを象られた轡。口の左右にある鏡板から双頭の牡牛を創造したのだろうか。
馬形くつわ鏡板 前1千年紀前半 青銅 長9.9㎝ ルリスタン出土 岡山市立オリエント美術館蔵
ここで現された動物は馬だが、確かに双頭になっている。動物の前軀を左右に繋いだ造形は確かにルリスタン青銅器にあった。

『古代イラン世界』は、有翼円盤のアフラ・マズダ神の図像および、その左手に持つ環(正当な王位の象徴、クワルナフ)もアッシリアのアッシュール神像(淵源はエジプト)に由来するという。
円盤の中に姿を現した神は環を持っているのかどうか・・・
別の浮彫では左手で環を持っているが、日輪の背後に上半身を現す。
『世界美術大全集東洋編16』は、この浮彫りは、ニムルド北西宮殿の「玉座の間」から出土した。かつては玉座の間の真後ろに設置されて、王が玉座についた際に。その背景をなしていたきわめて重要な作品である。画面中央には「聖樹」が描かれ、その上方には有翼日輪の中にアッシュル神が表されている。アッシュル神は画面の右側を向き、アツシュルナツィルパル2世の表敬に応えるかのごとく、両手を肘から曲げて掲げている。
聖樹を挟んでその両側に繰り返される王の姿は、聖樹の幹を中心軸として180度回転した「面対称」の原理に基づいて表現されている。「線」を対称軸とする通常の「鏡像(ミラー・イメージ)」とは異なるという。
この浮彫を見ると、どちらが王か迷ってしまう。次に、どちらも王で、左右ともに右手を人差し指で有翼日輪を指して礼拝しているのだと気付く。
そして有翼日輪の中から神が上半身を現し、左手で環を持っている。
ラメセス3世葬祭殿第2中庭柱廊天井 新王国第20王朝、前1160年頃
『世界美術大全集2エジプト美術』は、第20王朝2代目のラメセス3世は、第19王朝の大王ラメセス2世にあやかり自らの名をラメセスとした王。
禿鷲の翼をもつ有翼日輪が刻されている。
有翼日輪のさらに奥の天井が高くなった部分には、両翼を広げたネクベト(禿鷲の女神)の図像が並んで描かれている。翼を広げたネクベトの図像は、新王国時代に好んで描かれたものであり、王宮や神殿、王墓の通路などの天井などを飾っているという。
ラメセス2世が造立したアブシンベル大神殿にもネクベトの図像が並んでいるが、有翼日輪はないので、エジプトにおいて有翼日輪は、この頃に完成した文様ではないだろうか。

広大な版図を手中にしたアケメネス朝の王たちは、それぞれの地で育まれた美術を受容し、更に消化して自分たちの美術を創っていったのだった。

    ペルセポリス 百柱の間扉口側壁浮彫

関連項目
アパダーナの階段中央パネル
アパダーナ東階段の各国使節団
使節団の献上品
百柱の間扉口側壁浮彫
ペルシア風ラマッス
柱頭彫刻

※参考文献
「季刊文化遺産8 古代イラン世界」 1999年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「大英博物館 アッシリア大文明展-芸術と帝国-図録」 1996年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「古代イラン秘宝展-山岳に華開いた金属文化-展図録」 2002年 岡山市立オリエント美術館
「世界美術大全集2 エジプト美術」 小学館 1994年

パサルガダエもナクシェ・ロスタムも拝火神殿ではなかった

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『ペルシア建築』はパサルガダエの拝火神殿について、聖火のためには方形の塔があった。この塔は今では崩壊しているが、ナクシェ・ロスタムにある塔とよく似ており、その類似性は拝火信仰の歴史がいかに古いものであるかを物語るという。
ナクシェ・ロスタムの拝火神殿はよく残っているので、パサルガダエの方も入口へと登っていく階段の様子が想像し易い。
金の板が嵌め込まれていたという長方形のくぼみも同じような配置であるし。
正面
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトパサルガダエは、ダリウス二世王墓の前に建っている高さ12.5m,幅7.3mの方形の建造物である。便宜上「ゾロアスターのカアバ」と呼ばれるが,地元の伝承上の俗称であり,ゾロアスターとは何の関係もない。三階建てを思わせる窓がついているが,いずれもめくら窓である。基盤から6.35mのところにドアがある。そこに至る階段は下部のみが残っている。この建造物の目的は諸説が出されているが,不明である。王の即位礼で使用された可能性が一番高い。なお,東壁下部にはサーサーン朝の王シャーブフル一世の中期ペルシア語碑文が刻まれている。南壁下部にはそのギリシア語版が,西壁下部にはパルティア語版が刻まれている。また,東壁の中期ペルシア語碑文の下部にはケルティールの中期ペルシア語碑文も刻まれているという。
なんと、ゾロアスター教の拝火神殿ではなかった。パサルガダエの遺構の説明で、ガイドのレザーさんが「カンビュセス2世の墓という説もあります」というのも、可能性はあるかも。
遺跡の説明板は、「ゾロアスター教のカーバ神殿」として知られる石の塔。この2世紀の間、誤って拝火神殿と解釈されてきたという。
入口上部の軒
内部は何もない空間。
説明板は、この建物はアケメネス朝時代に建てられたパサルガダエのコピーで、石造技術はペルセポリスの全ての特徴を示す。特に燕の尾状の金属の留め具(鎹)はダリウスとクセルクセスの時代に使用された。これは重要な構造であった。というのも、シャープール1世(後239-70年)が壁の低いところに3カ国語(パルティア語、中期ペルシア語、ギリシア語)の碑文を残していて、彼の血筋、その帝国の拡張、ローマ帝国の3皇帝(ゴルディアヌス3世、ピリップス・アラブス、ウァレリアヌス)に対する勝利、家族と臣下、そして宗教上の寄付を記した。後に高位の祭司カルティールが東壁に碑文を残しているという。
西壁
説明板は、黒い石で造られた様々な四角形の壁龕が白っぽい壁に配置されているのは、偽窓のある三階建てのアパートを思わせるという。
確かに異なったタイプの窓が一対ずつ3段造られているので、そう見えるかも。
パサルガダエの石塔には屋根に突き出した歯形の装飾があったが、ナクシェ・ロスタムでは、それが四壁頂部に整然と並んでいる。
説明板は、7.3X7.3m平面で、3段の基壇の上に立っている。その下半分は中身が詰まっていて、上部は5mの高さの部屋のようになっている。30段の石段が北にある唯一の扉口へと続き、屋根は4つの巨大な石でできているという。
ペルシアでは、拝火神殿はこのような建物だと思っていたら、とんでもなかった。

拝火神殿の建物とされているものは、

タフティ・サンギンのオクス神殿(正確な年代は不明、前5-3世紀にも使われた)
時代としてはアケメネス朝からヘレニズム期になるので、アケメネス朝期の拝火神殿はこのような平面だったのえも。
外壁は城壁のように、7箇所に監視塔のような矩形の突起があり、永遠の火を燃やし続けるアーティシュガーが2箇所もある。
外観は翼の短いT字形。

もっと古い拝火神殿は、

ティリヤ・テペ遺跡の拝火神殿(『黄金のアフガニスタン展図録』より)
同展図録は、前2千年紀中頃には拝火教神殿が建てられたという。
城壁の監視塔のような円形の出っ張りが6箇所ある。

マルグシュの遺跡トゴロク21号神殿(前3-2千年紀中頃) 平面図(『世界美術大全集東洋編15』より)
『シルクロードの古代都市』は、「要塞」の外側、東側の隅に、平面図では大小2つの円が見えるが、ここが火の祭壇であった。小さい円の部分には聖火を燃やした後の聖灰が積もっていた。サリアニディほか多くの研究者は、トゴロク21号の宗教がゾロアスター教の源流、つまりツァラトゥストラによって改革される前の原(プロト)ゾロアスター教だと考えているという。
この拝火神殿も円形の突起が6箇所ある。

ところで、『古代イラン世界』には、ナクシェ・ロスタムのゾロアスター教聖火壇としてこのような図版が掲載されている。
同書は、従来アカイメネス朝の時代の建造物と考えられてきたこの拝火壇は、現在ではその構造からみて、サーサーン朝以前には遡り得ないことが明らかにされているという。
確かに、ペルセポリスやナクシェ・ロスタムの王墓というアケメネス朝の建造物、あるいはそれを浮彫にしたものには、アーチというものは見られない。
よく見るとこの図版は同じような聖火壇が2つ並んでいる。

時代は不明だが、『イスラーム建築の世界史』にサーマーン廟の元になったジェッレのチャハール・ターク(拝火神殿)が紹介されている。
同書は、サーサーン朝ペルシアの国教はゾロアスター教で、火を神聖視することから拝火教とも呼ばれている。世界が始まってから消えることのない永遠の火を、アーティシュガー(火の場所)と呼ばれる神殿で燃やし続ける。そこから儀式のために火がチャハール・タークという神殿に運ばれる。4つのアーチという意味で、矩形の平面の四方にアーチを架けねその上にドームを戴く。当時周廊をもち、対をなした状態で、山間地に建てられていたという。

ナクシェ・ロスタムの聖火壇も対で造られているが、アーチは開口部ではなく、壁龕になっている。

拝火神殿は、時代や場所と共に姿は変わっていったようだが、言えるのは、パサルガダエの現地の説明板が「石塔」とし、拝火神殿と信じていたものも、ナクシェ・ロスタムで拝火神殿と通称されているものも、拝火神殿ではなかったのは確かだということである。

アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成

関連項目
パサルガダエ1 要塞と拝火神殿
タフティ・サンギン遺跡オクス神殿
マルグシュ遺跡の出土物3 祭祀用土器が鍑(ふく)の起源?

※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトパサルガダエ


※参考文献
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社 
「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社 
「シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店

ナクシェ・ロスタムにエラム時代の浮彫の痕跡

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大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトエラム古王国時代のナクシェ・ロスタム浮彫跡は、ナクシェ・ロスタムの遺跡にはエラム王国時代からものがみられる。場所は左端から2番目の浮彫「バフラーム二世とその家臣」のところ。その浮彫の下部にある左右2枚のパネルにおそらくサーサーン朝時代に削られたエラム時代の浮彫の痕跡が見えるという。
神は右側のパネルにいて,蛇のコイル状の玉座に坐っているという。
日陰でもあるし、はっきり言って、全くわからないといった方が良いくらい。
でも、目を凝らすと、中央の神は体を正面向けて坐り、右手は開いて肘から斜め上にあげ、左手はくの字に曲げているようにも見える。まるで結跏扶坐した施無畏与願印の仏像のよう。蛇は全くわからない。
パネル左端の上部には王らしい人物の頭部と顔の側面が確認できるという。
どこに?
ここにも何かあったのかも。

さらに右側の側壁には完璧なまでのエラムの人物像が描かれている。エラム時代の他の浮彫と比較しておそらく王権叙任を主題としたものであろうという。
なるほど、右側の浮彫はサーサーン朝時代のものに比べて浅く、立体感がない。
ということは、これはエラムの王なのだ。
左、つまり坐った神のいる方向に頭部と腰から下を向けているが、肩や組んだ腕は正面向き。
王冠は額よりも出ている半球状のもので、結んだ紐は後ろに垂らしている。服は半袖のよう。

時代はエラム古王国時代(紀元前2000年紀前半)に属すると考えられている。このことはナクシェ・ロスタムの地がアケメネス朝以前遙か昔の時代から王権叙任などの儀礼にかかわる聖地であったことを物語っているという。
他にも何も彫られていないが、浮彫するために削られた壁面があった。今では判別できないが、それもエラム時代に遡る王権神授図のようなものがあったのかも。


パサルガダエもナクシェ・ロスタムも拝火神殿ではなかった


関連項目
ナクシェ・ロスタム アケメネス朝の摩崖墓とサーサーン朝の浮彫

※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトエラム古王国時代のナクシェ・ロスタム浮彫跡

※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 長澤和俊監修 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団



アケメネス朝の王墓

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アケメネス朝のを建国したキュロス大王の墓廟は、その初期の都パサルガダエにあるとされるが、大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトパサルガダエは、6段からなる基壇のうえに高さ2.11m,幅2.11m,奥行き3.17メートルmの大きさで,北西側に墓室の入り口を備える。6段の基壇は,チォガー・ザンビールのようにジッグラト風で,上段に登るにつれ切石は小さくなり,段の高さも低くなる。墓室の屋根は切妻形式である。アレクサンドロスの事跡を伝えるギリシア語の文献の中ではキュロス二世の墓であると書かれていること以外にこれがキュロス二世の墓であるという確証はまったくないという。
そう言われると、その後のアケメネス朝の墓廟は岩壁に造られていて、全く似ていない。
この墓廟について詳しくはこちら

ボスパルというところにもこれに似た墓廟があるという(『ペルシア建築』より)。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトボスパルは、ブーシェフルは古来水運の町として栄えてきたが,前イスラーム期の遺跡は少ない。そのなかで注目に値するのがボズパルのグーレ・ドフタルである。アクセスの点からいってもほぼファールス州に近い。ボスパルは、カーゼルーンの南西100kmほど,サル・メシュハッドから11kmばかり離れたところに位置する谷間の集落名。
ここには地元で「乙女の墓(グーレ・ドフタル)」と呼ばれている切妻造りの石造墓がある。三段の基壇の上に方形の墓室が置かれ,屋根は半円形の岩によって覆われている。しかし,南面と北面の上部には切妻造りを示す三角形上になっている。北面には高さ60cm,幅80cmの墓室があり,その上には方形の「めくら窓」のような窪みが付いている。この窪みは南面にも付いている。墓室の中には,段差がある奥部にお盆状の窪みがある。積み石は4面がきれいに磨かれた石からなる。所々隙間があるなど,技術的にはパサルガダイのタッレ・タフトよりもやや劣る。墓の形状はパサルガダイにある「キュロスの墓」を小型化したものに似ている。
この墓はキュロス2世の祖父キュロス1世のものであるとして紀元前7世紀に造られたという説,紀元前5世紀よりは早くないという説などあり,製造年次については定説がない。という。
キュロス大王の墓廟よりは古そう。

その子カンビュセス2世の墓は不明だが、次の王ダリウス大王はナクシェ・ロスタムに石窟墓を築き、以後ナクシェ・ロスタム、その後はペルセポリス近くのフマット山山腹などに築かれた。
ゾロアスター教では人が死ぬと鳥葬されるが、『THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis』(以下『GUIDE』)は、アケメネス朝の王達は、ダリウス大王の時から、ミイラにされ、石窟墓に埋葬されるようになった。このような2つの墓が、ペルセポリスの「王家の丘」に開鑿された。

ダリウス王(アケメネス朝第3代、在位前521-486年)の墓
ダリウスは王位を簒奪してキュロス大王の血筋であると標榜していたとされる人物という。もし、パサルガダエの遺構がキュロス大王の本当の墓廟ならば、自分を正当化するためにも、似た墓廟を造ったのではないだろうか。
しかしながらダリウスは岩壁に十字形の摩崖墓を築いた。
『ペルシア建築』は、この摩崖墓は、明らかにペルセポリスやスーサの建物を模したもので、ポルティコ、円柱、キャピタルその他のディテールまで、まったく共通と言える。そして、このダリウス1世の墓所は以後、同じ岩に刻み込まれていったアケメネス朝歴代の王墓に対するプロトタイプの役割を演じたという。 
左上壁面には碑文。その右に王が基壇の上に立ち、王権神授図が表されているはずだが、水の流れた跡でよくわからない。
その下半いっぱいに大きな玉座が表され、その下には2段にわたって玉座を担ぐ人々がいる。その両端と側面に儀仗兵も3段に描かれる。
玉座の上には、王が3段の基壇の上にたち、右には王家の火が、中央上には輪を持った有翼日輪が宙に浮かび、王権神授の場面が表されているはずだがよく分からないのは風化が進んでいるからだろうか。
しかし、大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトダリウス一世の十字墓の画像では、ダリウス王の着衣が、規則的に折られた袖の襞の線が浅いことや、裳裾の折り畳み方にやや難がある点、両翼の先端付近が崩れてわからないものの、有翼日輪から半身を現したアフラマズダ、高い台で燃え盛る王家の火などもしっかりとわかる。
その場面の下は連珠が並び、端は角のあるライオンとなっていて、前肢もあり、寝そべっているように見える。
しかし、大阪大学の同ページでは、ライオンの傍から始まる3つは、扁平ながら卵鏃文ぽい文様帯だが、それが風化して連珠のように見えるが、一つ一つの間に縦の仕切りのようなものが残っていて、卵鏃文に近い文様帯だったことを示している。
その下はデンティル(軒垂木の木口、歯形装飾)と三層のフェスキアを重ねた、簡素だがギリシア風のエンタブラチュアが、4本の付け柱で支えられている。
ギリシアのイオニア式オーダー(プリエネのアテナ神殿、前350年頃)と比較すると、前6世紀後半-5世紀前半という時代では、まだ卵鏃文もなく簡素。
双頭の牡牛形柱頭もすでに現れている。こんなところにも碑文が。

右に出っ張った崖の西壁に築かれたクセルクセス1世(前486-465年)の墓は日が当たってよく見えたし、よく残っている。
上部では王権神授の場面、それを支える玉座は画面いっぱいに表され、その両端にライオンの前軀があって、双頭のライオンの柱頭の間を拡げたようにも解釈できる。
右に王家の火が燃え盛っているように表され、斜め上の有翼日輪もよく残っている。尾の左右に先が3つに分かれたものは鳥の足だろうか。
王の着衣の衣文も丁寧に浮彫され、厚みのある体に表現されているが、顔は失われている。左手で持つ弓は細い弦も見える。
また、ダリウス王の玉座にあった卵鏃文状のものは、もっと扁平で縁が玉縁のように盛り上がっている。
2段に玉座を担ぐ人々の間の仕切りにはS字の渦巻文が3本の縦線を軸に、左右反転しながら続いている。
右側は獣脚がしっかりと残っていて、長剣の鞘を右肩に吊した人物が、進行方向を向いて後ろ手に持っている。また、ライオンや獣足だけでなく、玉座を担ぐ人々の服装、髪型や持物をが各々その出身地のものをしっかりと表現している。
デンティルや3層のフェスキアから成る簡素なエンタブラチュアもダリウス王のものと同じ。軒の下の付け柱に双頭の牡牛形柱頭があるのも同じ。入口上のコーニスにエジプト風のカヴェット・パターンがあるのも同じだ。

その子アルタクセルクセス1世(在位前464-424年)の墓もダリウス王の墓を踏襲している。
その後の王ダリウス2世(在位前424-423年)の墓も代わり映えしない。

次のアルタクセルクセス2世と3世の墓はペルセポリスのラフマット山南部にある。

アルタクセルクセス2世(在位前404-343年)の墓(南の墓)
『GUIDE』は、南の墓は、それぞれ2つの石棺のある3つの部屋からなる。ミイラになった遺体は、各地の日用品、武具、衣装そして貴石などと共に棺に安置されていた。それらは全て「もう一つの世界」に住む者が使うためだった。棺は中高の蓋で閉じられ、永久に封印された。神官は墓を守り、墓の前に建てられた家で暮らした。アケメネス朝滅亡後、墓泥棒は王家の墓を破って宝物を盗み、遺体は言うまでもなく破壊したという。

アルタクセルクセス3世(在位前358-38年)の墓。
『GUIDE』は、王の墓は各翼が同じ長さの十字形で、ペルセポリスでは下部が切り出されていないという。
『GUIDE』は、上翼に宗教的な場面が表される。「ペルシア風」服装の王は3段の台に立ち、やはり3段の台に置かれた高い祭壇の上で燃え盛る王家の火と向かい合う。各王は戴冠式で火を付けた。それは統治のシンボルで、王が亡くなった時にのみ消された。王は弓(イランの国家的な武器)を片手に持ち、讃美の所作でもう一方の手を開いて聖なる火に伸ばしている。
その上に王家の栄光(有翼の王の胸像)が浮かび、片手で輪(統治の象徴)を持ち、祝福のしるしでもう一方の手を開いて王に向けている。右上方に、新たに昇った月、分厚い三日月と薄い満月で表しているという。
右上方の月は、彫りの深さは様々だが、ダリウス王の墓はその部分がよく残っておらず分からないが、ナクシェ・ロスタムの他の墓で表されている。
同書は、小さく表された「ペルシア人」と「メディア人」は王と火の側面にいる。王と王家の火は大きな玉座の上に立っている。その端はライオンの前軀で下端は花の文様になっているという。
同書は、30人の人物は、30の国の王を意味し、2段になって玉座を支えている。これらの玉座持ちは、ダリウス大王の墓と南の墓に表されているというが、ナクシェ・ロスタムの他の3墓にもある。。
墓のファサードは、アケメネス朝の宮殿に典型的な彫刻がある。ライオンはロータスを間において、9頭ずつ向かい合うという。
これはナクシェ・ロスタムの4墓にないものだ。
左右の先頭のライオンがロータスを挟んで向かい合っているところ。妙に様式化された筋肉表現のライオンだが、互いに吠えている顔はすごみがある。
それらは、4本の円柱の上にある双頭の牡牛形柱頭で支えられている。
柱頭という言い方をしているが、ギリシア建築の柱頭彫刻(ドーリス式イオニア式コリント式)のように直接人物構造(エンタブラチュア)を支えるものではなく、お寺の建物などでたとえると、肘木を支える斗のようなものだ。アケメネス朝の属州となったイオニア地方の人々が建築や浮彫装飾に関与しているとはいえ、この発想はイオニアにはないもので、デンティル(歯形装飾)と共に、木造で建物を造る地域の建築を採り入れたものではないのかな。
同書は、入口は一つだけで、当初は、一度閉めたら二度と開けられない石の扉があった。単一の扉口のある偽の宮殿は、没した王が手に入れた「もう一つの世界」である。入口は床の中に2つの棺のある部屋への玄関に導くという。 


キュロス大王以前の墓はともかく、アケメネス朝が成立してからは、カンビュセス2世(在位前529-521年)、スメルディス(在位前521年)、クセルクセス2世(在位前424-423)、ソグディアノス(在位前423年)、アルセス(在位前338年)の墓はどこにあるかわからない。
そして、アレクサンドロスの東征によってアケメネス朝が滅亡した当時の王ダリウス3世(在位前336-330年)の墓について『GUIDE』は、3番目の墓は、ペルセポリスの南に未完の摩崖墓がある。以前はアケメネス朝最後の王、ダリウス3世に捧げられたものとされてきたが、最近の研究では疑問視されているという。
ガウガメラの戦いで敗走している時に味方であるはずのベッソスに殺されたのだから、アケメネス朝の伝統にのっとった埋葬が行われたとは思えない。では、その未完の墓は他の王のものだろうか。


ナクシェ・ロスタムにエラム時代の浮彫の痕跡

関連項目
ナクシェ・ロスタム アケメネス朝の摩崖墓とサーサーン朝の浮彫
ペルセポリス(Persepolis)5 博物館からアルタクセルクセス3世の墓
パサルガダエ(Pasargadae)3 キュロス2世の墓

※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトパサルガダエボスパルダリウス一世の十字墓

※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis」 ALIREZA SHAPUR SHAHBAZI 2004年 SAFIRAN-MIRDASHTI PUBLICATION

サーサーン朝の王たちの浮彫

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『古代イラン世界2』は、サーサーン朝の帝王たちにとって最も重要なことは、王位の正統性であった。それは具体的にはゾロアスター教の神々、特にアフラ・マズダ神やアナーヒーター女神による王権の裏付けであり、このような事柄を臣民に容易に理解せしめて自己の威光を高揚すべく摩崖に浮彫を刻んだのである。そして、その場所は多くの人々が訪れる神聖な場所であった。
なお、各浮彫には原則として、制作を命じた国王に関する銘文はないので、国王の比定は文献的には殆どできないが、王冠の形式を、歴代の国王が発行したコインの表に刻印された王冠のそれと比較して決定している。
王と神は騎馬姿で描写されているが、騎馬の国王の王権神授はパルティア美術に範をとったものであろう。構図はイラン美術に伝統的な側面観と左右対称性を重視しているという。
サーサーン朝の王たちの残した浮彫を年代順にみていくと、

アルダシール1世(初代、在位224-241年)
王権神授図(騎馬叙任式図) 縦4.28横6.75m ナクシェ・ロスタム
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、画面構成は左右対称的で、向かって左に騎馬のアルダシール1世、右に同じく騎馬のアフラ・マズダー神を描写している。帝王は王位の標章たるディアデム(リボンのついた環)を頭につけ、頭上には大きな球体(宇宙の象徴)を戴いている。神は城壁冠をかぶり、左手でバルソム(ゾロアスター教の聖枝)を持ち、右手には正当・正統な王位の標識たるディアデムを持ち、帝王に授けようとしている。帝王と神の服装はほぼ同一で、長袖の上着を着、眺めのパンタロンをはいている。その襞は自然らしさに欠け、装飾的である。帝王の背後には払子を持つ小姓が立っているという。
神の城壁冠からもリボンが付いていて、肩掛けの端がアケメネス朝の王の襞とはまた違うが、ギザギザの折り目が風に靡いている。その下には風を受けて膨らんだ布に見えるものもある。
ディアデムについたリボンは、横縞を表現しているのだろうか。
同書は、帝王と神の乗る馬の足下には、両者に敵対する存在の死骸が横たわっているという。
アルダシール1世の敵はアルサケス朝のアルタバヌス5世ということで、やはり王位の象徴ディアデムを付けていたことが、リボンからわかる。
馬の胸繋は円形のメダイヨンで装飾されているが、帝王の馬のメダイヨンには王位の標識たる獅子頭が見られる。また、両者の腰の部分にはローマの鞍と同じく、突起が見えるし、鞍敷からは大きなドングリ形房飾り(諸王の王の標識)が鎖で吊り下げられているという。
このドングリほど大きくはないが、中国の石造の馬(則天武后の母の順陵のもの)や騎馬俑の馬(隋時代)にもこんな房飾りがみられる。
同書は、悪魔のアーリマンの頭部には悪魔を象徴する蛇の頭部がつけられているという。
耳のようなものが蛇だろうか。

シャープール1世(第2代、在位241-272年)
戦勝図 縦6横12.95m ナクシェ・ロスタム
『世界美術大全集東洋編16』は、シャープール1世はローマ帝国の3人の皇帝とユーフラテス河を境に戦ったことが知られている。その3人の皇帝はゴルディアヌス3世(在位238-244)、フィリップス1世(アラブ、在位244-249)。ウァレリアヌス1世(在位253-260)である。戦いはいずれもシャープール1世に有利に展開したようである。この作品では、画面中央にシャープール1世の雄々しい姿が、その前方に、両手を差し伸べ、ひざまずいて恭順の意を表明しているローマ皇帝が描写されている。これはシャープール1世と和睦したフィリップス1世であろうという。 
その背後に立つ人物は、シャープール1世に対して両手を高く差し伸べ、それを帝王がつかんでいるので、帝王に降伏し捕虜となったウァレリアヌス1世であろう。
ーマ皇帝の像はコインの肖像などを参照して制作されたのであろう。マントやスカートの襞は規則的で、シャープール1世の行縢の風になびく襞とは対照的であるという。 
同書は、浮彫りは全体的に立体感に富みねとくに馬の筋肉表現は優れている。一段と大きく表された帝王は城壁冠をかぶり、球体を戴き、左手で剣の柄を握っている。衣服は長袖の上着、行縢(むかばき)をつけ、さらにローマ皇帝と同じく小型のマントを肩につけているという。
アケメネス朝の王は襞が多いがすっきりとした服装なのに、サーサーン朝になると、繁雑な皴のできる衣装になるのだと思っていたが、これは行縢というズボンの上に付ける保護具のようなものらしい。布というよりも、羊の毛皮かも。
画面の向かって右には帽子をかぶった男子の胸像が浅浮彫りされている。その下方に刻まれたパフラヴィー文字銘から、のちにバフラム2世(在位276-293)に仕えた高僧カルディールであることが判明している(戦勝図とは無関係)という。
ナクシェ・ラジャブのアルダシール1世の王権神授図の左に自分の胸像と碑文を付け足したカルティールは、ナクシェ・ロスタムにも付け足していた。
シャープール1世の三重の勝利 タンゲ・チョウガーン
『古代イラン世界2』は、国王と敗者のローマ皇帝たちを中心にサーサーン朝の騎馬軍団が描写されているが、多数の軍勢を描写する方法は上下遠近法、重層法といった西アジアの伝統的絵画様式が用いられているという。
一番下の段の浮彫が後世建造された灌漑用水路によって浸食を受けているが、5段に表され、その結果、シャープール1世がどこにいるのか、探さないとわからない。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、中央のシャープール一世のところには3人のローマ王が描かれているという。
他の細部についてはこちら
戦勝図 摩崖浮彫 縦5.43横9.18m イラン、ダーラーブギルド
『世界美術大全集東洋編16』は、イラン南部、ダーラーブ市の郊外にあるこの浮彫りは聖水の女神アナーヒターの胸像を浅浮彫りにした岩壁にあるが、その前方には泉と池がある。画面中央には、騎馬のシャープール1世が描写され、その馬の足下には、同帝王と戦って戦死したゴルディアヌス3世の死体が横たわっている。帝王の馬の面前には、和睦(降伏)したフィリップス1世が立ち、許しを請うためにひざまずこうとしている。その上方には、捕虜となったウァレリアヌス1世が右手を揚げて恭順の意を表し、帝王はその頭をなでて同皇帝の降伏を受け入れている。多数の人物を数列にわたって、重ね合わせて奥行(三次元的空間)を暗示する「上下遠近法」は古代西アジアに典型的な様式であるという。
神殿や宮殿、そして浮彫も当初は彩色されていたということなので、それが残った貴重な作品かと思っていたが、よく見ると色の配置が妙。馬の尾の下を見て合点!そんなに古いとは思えない落書きだ。

バフラーム1世(第4代、在位273-276)
騎馬叙任式(王権神授)図 縦5.35横9.4m ビーシャープール、タンゲ・チョウガーン渓谷右岸
『世界美術大全集東洋編16』は、この浮彫りは、国王の頭部の王冠がナルセー王(在位293-303)によって改変され、向かって右の帝王の馬の足下にササン朝の皇太子(バフラム2世の息子のバフラム3世)の横臥した死骸が付け加えられている。このような異常な点が存在するが、浮彫りそのものは、ササン朝摩崖浮彫りの最高傑作と評価されている。もっとも鮮明に示すのが、立体感に富んだ人物像と馬の写実的描写であり、とくに馬の筋肉表現が秀逸である。このような様式の特色は、この作品にシャープール1世が捕虜としたローマの彫刻家が関与していることを示唆していよう。
アフラ・マズダー神はディアデム(環)を握り、それをバフラム1世に授けようとしているのであるが、環に結ばれたリボン(鉢巻き)は風にたなびき、バフラム1世はその端をつかんでいるに過ぎないという。
細部についてはこちら

バフラーム2世(第5代、在位276-293)
戦闘図 ナクシェ・ロスタム
説明板は、2段の戦勝図がダリウス大王の墓の下に彫られている。王は鷲の翼の飾りのついた王冠(鷲はバフラーム2世の鳥、戦いの神)を被っている。上段は、馬に乗った敵に騎乗して向かい、長槍で馬から落としている。下段は、バフラーム2世が互いに騎乗して長槍を持って対峙し、別の倒した敵が馬の下にいるという。
鷲の翼王冠というのはどちらもわからない。
細部についてはこちら
王とその家臣 ナクシェ・ロスタム
曲面に彫られていて、しかも、両側の家臣たちは胸部のみで、その下はエラム時代の幽かな線刻が残されたままにされている。
王はシャープール1世同様、家来よりも大きく表されている。
鷲の翼の王冠は向かって左側だけ残っている。
右端から2人は帽子に標がついているので高官だとわかる。
左端は帽子を被っていない。次は標のある帽子かもわからないが、はっきり写っていない。その次はライオンの頭部を象った帽子を被っている。
騎馬謁見図 タンゲ・チョウガーン
ビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、バフラーム二世がアラブ族の使節を迎えている場を描いているという。
詳しくはこちら
ライオン狩り図 縦2.14横4.65m  サル・マシュハド
『世界美術大全集東洋編16』は、古代西アジアの宮廷美術の典型的テーマである「帝王のライオン狩り」を表したもので、ササン朝の摩崖浮彫りでは他に例が知られていない。帝王は身体を正面観、頭部を側面観で描写されているが、その背後に立つ王妃の手をとり、右端の皇太子(バフラム3世)を守ろうとしている。帝王と王妃のあいだにはカルディールが描写されているが、この高僧はバフラム2世の治下でゾロアスター教の最高指導者の地位につくほど力があったといわれる。
この2頭のライオンはササン朝において、王位継承者が即位式にて倒すべき2頭のライオンを意味しており、それゆえ、この図はバフラム2世が「正当・正統な帝王」であることを明示した一種の王権神授(叙任)図なのであるという。
サーサーン朝の王たちがライオン狩りや羊狩りをしている様子は、銀鍍金の皿に表されている。それぞれの王の冠と共に調べてみたい。 
画面の左端には2頭のライオンが描写されているが、1頭は横たわっているのですでに死んでいることがわかる。もう1頭はまさに帝王に飛び掛かろうとしているが、すでにその胸に帝王が突き出した剣が突き刺さっているという。

ナルセー王(第7代、在位293-303)
叙任式図 縦3.5横5.6m ナクシェ・ロスタム
『世界美術大全集東洋編16』は、帝王の背後には二人の男子が配され、右側の人物は右手をあげて帝王と女神に敬意を表明している。彼は馬(ミスラ神の象徴)の頭部を装飾した帽子をかぶっているが、あるいは皇太子のホルムズド(のちの2世)ないし他の王子であろう。その背後の男子像は未完成という。
同書は、画面の向かって右端には、城壁冠と「アーケード冠」を合成したような冠をかぶったアナーヒーター女神を配し、その女神から正当・正統な王位の標識たるリボンのついた環を右手で受理せんとするナルセー王を描写している。国王の王冠も「アーケード冠」である。「アーケード冠」とはアナーヒーター女神殿を取り囲む多数のアーチを連ねた形式の冠をいう。このように、アフラ・マズダー神からではなく、アナーヒーター女神かに王権を神授される帝王を表した叙任式図はササン朝初期ではきわめて異例であるという。
帝王と女神のあいだには、子どもが一人描写されているが、これはのちのホルムズド2世(在位303-309)ないし末子の王子であろうという。
王だけでなく、アナーヒーター女神も王子も行縢を着けている。
王子は顔面も腕も壊れているが、ひょっとすると、王位の象徴ディアデムに手を延ばしているのかも。

ホルムズド2世(第8代、在位303-309)
騎馬戦闘図 縦3.52横7.97m ナクシェ・ロスタム
『世界美術大全集東洋編16』は、ナクシェ・ルスタムの岩壁には、騎馬の王侯が1対1の決闘を行っている光景を描写した摩崖浮彫りが合計4点存在するが、この作品はそのもっとも古い例で、他の3点の騎馬戦闘図のモデルになっていたことが判明している。この戦闘図の主人公は向かって左の騎士であるが、その王冠は1対の鳥翼と真珠をくわえた猛禽の頭部よりなる。
帝王は、右腰に矢筒を吊り下げ、長い槍で右方の敵を突き倒している。この敵がローマの皇帝か、ホルムズド2世と王位を争ったライバルであるのか、あきらかではない。馬の脚は八の字のように開いているが、これは古代エジプト美術以来、近代まで疾走する馬の定型的表現形式となっていた、いわゆる「空中飛行型」の形式であるという。

シャープール2世(第10代、在位309-379)
戦闘図
右半分だけに浮彫がある。シャープール2世は騎乗で敵を長槍で刺している。
サーサーン朝期のナクシェ・ロスタムは、中央にシャープール二世と思われる王が敵を殺しているという。
シャープール2世の冠こそ鷲が翼を広げたもののように見える。
王の左に騎乗するする人物は、武器ではなく、旗のようなものを持っている。これがウルのスタンダードやアラジャフユック出土のスタンダードなどに繋がるものかも。
スタンダードについてはいつかまとめたい。
戦勝図 タンゲ・チョウガーン
ビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、シャープール二世によるクシャーン朝の制圧と併合を記念して造刻されたといわれている。上下二段からなり,王は中央上段で玉座に座っているという。
詳しくはこちら


         アケメネス朝の王墓

関連項目
タンゲ・チョウガーン サーサーン朝の浮彫
ナクシェ・ラジャブ サーサーン朝の浮彫
ナクシェ・ロスタム アケメネス朝の摩崖墓とサーサーン朝の浮彫

※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトサーサーン朝期のナクシェ・ロスタムビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群

※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 長澤和俊監修 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館

ビーシャープールの謁見の間にドームはあったのか?

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ビーシャープールの宮殿に謁見の間とされる大きな建物跡がある。

『ペルシア建築』は、大宮殿は、いっそう複雑なイーワーン形式の建物である。謁見の広間は方22mほどの大きさを持ち、高さ24mほどのドームでおおわれていた。広間の四面はそれぞれ三連イーワーンの形をとる。構造体は石と煉瓦片をモルタルで固めて作られているという。
方20mというのは、おそらく各面に突き出た部分を計算に入れず、正方形部分のことを言っているのだろう。

謁見の間の四面にあるという三連イーワーンとは、正方形平面に、各面の中央に矩形の張り出し部のついた複雑なプランとなり、それぞれの天井部分がその奥行の幅のヴォールト天井となったもので、『ペルシア建築』にその推定復原模型図が示されている。
しかし、この図は建物の一面の三連イーワーンをかなり平面的に描いていて、各面との結合部分の描写があいまいである。このようなところから、高さ24mもあるドームが架けられたのだろうか。
サーサーン朝のドームは四隅にスキンチをわたす架構法をとる。そのためには直角に交わる2つの壁面が必要となるが、この図ではスキンチを架ける場所がない。正方形と考えるなら、三連イーワーンが交わる角になるが、そこにスキンチらしきものは見当たらない。

サルヴィスターンのバハラーム5世(第15代、在位420-438年)の宮殿をみると、
『ペルシア建築』は、サルヴィスターンにバハラーム5世が建てた5世紀の宮殿になると、さらに複雑な展開と進歩した技術が認められる。東正面の中央イーワーンを入れば、まずねドームをいただく中央広間があり、その奥に方形の中庭がある。中庭では、中心軸上、西側の奥壁に接して一つのイーワーンが設けられている。こうした構成はフィールーザーバードを想起させるとはいえ、概して当宮殿には対称性がなく、自由闊達さが目立つという。
ビーシャープールの謁見の間には外側にイーワーンはなく、四面に三連イーワーンがあった。
同書は、円いドームを支持するためにはスクインチが使われている。また、脇の諸室ではヴォールト架構の支持体として円柱が用いられているという。
後のイスラーム初期のサーマーン廟では、正方形の四隅にスキンチアーチをわたして八角形にし、その上に十六角形をつくり、更に上を円形にしてドームを架構しているが、この宮殿のドームは4つのスキンチアーチの上に直接円形をつくり、ドームを架構している。
この大きさがわからないが、ビシャプールの謁見の間ほどではなさそうだ。しかも謁見の間にはこのような壁面がない。
『イスラーム建築の見かた』は、直径10mと小ぶりながら、平面が正方形をなす厚い壁体の上にドームが構築されているという。
『ペルシア建築』の想像復元図ほどにはスキンチアーチははっきりしていない。

また、広い空間に屋根を架ける古来からの工夫として、ラテルネンデッケというものがある。20m四方の部屋に天井を架けたのがトルクメニスタン、ニサ遺跡の正方形の広間と呼ばれている部屋である。
天井は木造で、4本の太い柱に支えられた中央部にラテルネンデッケという高さのある屋根があり、中央に明かり取りの八角形の穴がある。その周囲に平天井が3区画ずつある。
ビシャプールの謁見の間は、周囲の三区画を奥行の異なるイーワーンとし、中央に木造のラテルネンデッケ天井を架けたのではないだろうか。
しかし、内部に柱跡があるというような形跡はなかった。

ローマ軍の捕虜たちが建設に従事したと言われている。
ローマには巨大な半球ドームが架かるパンテオン(118-128年)があるが、これは正方形ではなく、円形の壁の上に架けられているので、スキンチもペンデンティブも必要ない。というよりも、この時代には、ローマではまだ正方形から円形のドームを架構するということは行われていなかったのだ。
その後ローマ帝国が東西に分裂し、東ローマ帝国の都となったコンスタンティノープルで、ユスティニアヌス帝(在位527-565年)が再建したアギア・ソフィア大聖堂は30mもの巨大ドームがペンデンティブによって架けられている。
ペンデンティブの起源はまだわからないが、3世紀のサーサーン朝にあったという遺例は知らない。


大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトビーシャープール都市遺跡は、十字型の宮殿で、東西南北に4つのエイヴァーンが設えられている。発掘当初、このエイヴァーンを覆う高い円形のドームが造られていたとされた。しかし、構造上無理があり、現在では4つのエイヴァーンの上は屋根で覆われていたが中央部分に屋根はなかったとされている。この建造物は、一般に「謁見の間」とされるが、正確には不明という。
やはりこの大広間の中央にはドームはなかったのだ。

関連項目
ササン朝は正方形にスキンチでドームを架構する
スキンチとペンデンティブは発想が全く異なる
ペンデンティブの誕生はアギア・ソフィア大聖堂よりも前
※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトビーシャープール都市遺跡

※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 長澤和俊監修 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年 
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 1997年 小学館
「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版


サーサーン朝の王たちの冠

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ナクシェ・ロスタムにナクシェ・ラジャブ、そしてビーシャープール郊外のタンゲ・チョウガーン渓谷でサーサーン朝時代の王たちが造らせた王権神授図や戦勝図などの浮彫は、風化が進んでいることや日陰になっていたりして、王の顔や冠がよく分からないものが多かった。
そんな時に銘文があればどの王のものかはっきりするが、『古代イラン世界2』は、各浮彫には原則として、制作を命じた国王に関する銘文はないので、国王の比定は文献的には殆どできないが、王冠の形式を、歴代の国王が発行したコインの表に刻印された王冠のそれと比較して決定しているという。
浮彫とコインを比べてみると、

アルダシール1世 在位224-241年 ドラクマ銀貨 出土地不明 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、224年、アルサケス朝パルティアを倒してササン朝を創始した。アケメネス朝ペルシャの再興をめざして「諸王の王」を名乗り、ゾロアスター教を国教とする中央集権を確立したという。
ナクシェ・ロスタムの王権神授図(騎馬叙任図)で王冠がわかる。
右手で王位の標章であるリボンのついたディアデムをアフラマズダ神から受取り、左手で神に礼拝の仕草をとっている。
アルダシール1世はすでに頭部にリボンのついたディアデムを付けていて、王冠は耳をすっぽり覆った帽子状のものに、膨らんで渦巻いたものが付属している。
ガイドのレザーさんは束ねた長い髪の誇張だと言っていたのだが。
表:球体装飾のついた冠をかぶり、長いひげが特徴の王。
裏:アケメネス朝の獅子足の玉座がついたゾロアスター教の拝火壇。銘アルダシールの火。
コインの方はその膨らみは小さいが、『ペルシャ文明展図録』は球体装飾と表現している。頭部の筋が髪を表したものか、王冠なのかは不明。

シャープール1世 在位241-272年 ドラクマ銀貨 出土地不明 イラン国立博物館蔵
同展図録は、西はローマ帝国の勢力をメソポタミアから排除し、東はクシャン朝を破り領土を拡大した。都市建設や農業用水工事など内政にも手腕を発揮したという。
ナクシェ・ロスタムの戦勝図に3段の城壁冠がよく残っている。上の球体装飾は縦長。
表:球体装飾のついく城壁冠をかぶり、ひげある王の右向き肖像
裏:拝火壇とその両脇に城壁冠をかぶり長い聖杖を持つ王侯像。以後の基本図柄となった。銘はシャープールの聖火であることを示す。
コインではもう少し凝った表現をしていて、丸い球体装飾に襞がある。

バフラーム1世 在位273-276年
タンゲ・チョウガーン渓谷の騎馬叙任式図(王権神授図)より。
『世界美術大全集東洋編16』は、この浮彫りは、国王の頭部の王冠がナルセー王(在位293-303)によって改変されたという。
放射光のように伸びて球体を包む王冠。
コインはない。

バフラーム2世 在位276-293年 
『ペルシャ文明展図録』は、ササン朝はローマにならいディナール金貨も発行した。金貨は戴冠記念などの儀式や戦時に出されたとされる。 
ナクシェ・ロスタムの王とその家臣の王冠には、球体装飾の下に翼のようなものが認められる。
タンゲ・チョウガーン渓谷の騎馬謁見図の王冠は、球体装飾が房のように表され、その下には大きな翼がある。
ディナール金貨
表:シャープール1世の娘である王妃と並んだ王の肖像。向かい合う人物は王子とされる。冠は三者三様で、王は球体装飾のある鷲翼、王妃は鷲(怪鳥シムルグ)、王子は馬の頭部(いずれもゾロアスター教の神のシンボル)。
王の鷲翼はかなり控え目。

ナルセー王 在位293-303年 
ナクシェ・ロスタムの叙任式図から。
エジプト由来で、ペルセポリスの門上の装飾であるカヴェット・パターンを巡らせたような装飾が球体を囲む。
ドラクマ銀貨 イラン国立博物館蔵
表:球体装飾と小枝装飾がつく冠をかぶる王の右向き肖像。
小枝というよりもパルメット文に近い装飾。

ホルムズド2世 在位303-309年
ナクシェ・ロスタムの騎馬戦闘図より。
かなり風化しているが、王冠の翼のようなものがはっきりと残っている。
コインはない。

シャープール2世 在位309-379年
『ペルシャ文明展図録』は、領土回復に務めた長期政権の王。幼少期に王位につくと、70年という長きにわたり統治を行った。クシャン朝に遠征し東方に領土を拡大し、西方ではローマのユリアヌス帝と戦い、和平条約を結んで失地回復に成功した。この頃ゾロアスター教の経典「アヴェスター」の編纂がはじまったという。

ナクシェ・ロスタムの戦闘図より。
コインや胸像のような城壁冠には見えない。鷲翼の冠に近いのでは。
タンゲ・チョウガーン渓谷の戦勝国より。
縮れた長い髪は両側に大きくまとめ、城壁冠ではなくも帽子のようなものを被っている。また、ササン朝では横向きに描写されるのが常であるのに、珍しく正面を向いた像である。
胸像 高50.0幅38.0㎝ ストゥッコ ファールス州ハッジ・アーバード出土
『ペルシャ文明展図録』は、王の正面観をストゥッコで表した胸像。ササン朝の故地であるイラン高原南部のファールス地方で出土した。戴いた冠の形状から、シャープール2世であることがわかるという。
正面向きで無表情な人物表現はパルティア風で、パルミラの人物像にも共通している。
ディナール金貨 イラン国立博物館蔵
表:シャープール1世と同じ城壁冠(ただし頬当てなし)をかぶる王の右向き肖像。
シャープール2世は長い在位期間に冠を変更することもあったのだろうか。それとも浮彫は別の王?

ビーシャープールの謁見の間にドームはあったのか?

関連項目
サーサーン朝の王たちの浮彫

※参考文献
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝 展図録」 2006年 朝日新聞社・東映
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館


銀製皿に動物を狩る王の図

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サーサーン朝の摩崖浮彫に王のライオン狩りがあった。

バフラーム2世のライオン狩り図 在位276-293年 縦2.14横4.65m  サル・マシュハド
『世界美術大全集東洋編16』は、古代西アジアの宮廷美術の典型的テーマである「帝王のライオン狩り」を表したもので、ササン朝の摩崖浮彫りでは他に例が知られていない。帝王は身体を正面観、頭部を側面観で描写されているが、その背後に立つ王妃の手をとり、右端の皇太子(バフラム3世)を守ろうとしている。
この2頭のライオンはササン朝において、王位継承者が即位式にて倒すべき2頭のライオンを意味しており、それゆえ、この図はバフラム2世が「正当・正統な帝王」であることを明示した一種の王権神授(叙任)図なのであるという。
バフラーム2世は鷲翼の冠が特徴で、ナクシェ・ロスタムやタンゲ・チョウガーン渓谷にも摩崖浮彫を残している。
それについてはこちら

サーサーン朝の王が動物を狩る図は銀製皿にもあり、あちこちの博物館でたまに見かけるものだった。このようなテーマが銀製皿にも描写されるようになったのだろうか。
 
シャープール2世熊狩文皿 在位309-379年 銀鍍金 径31㎝ アフガニスタンまたはトルクメニスタン出土
『世界美術大全集東洋編15』は、画面向かって左には、長槍を持つシャープール2世が2頭の熊と戦い、1頭はすでに殺害し、もう1頭をも殺害しようとしている勇壮な光景が描写されている。国王は3個の矢狭間を装飾した王冠と球体(頭髪を覆う布)を頭上に戴いている。
この作品は、ササン朝ペルシアの帝王の狩猟を描写した現存する最古の作品であるという。
これがサーサーン朝最古の王の狩猟図を表した銀製皿だった。ということは、摩崖浮彫の方が先だったことになる。
70年にわたる長い統治でも、描かれた容貌から、若い時期のものだろう。
また、球体装飾という言葉で表されていたものは、長い髪を包む布だった。ガイドのレザーさんが髪の毛を大きく誇張していますと言っていたのは、ある程度正しかったのだ。
シャープール2世狩猟図文杯 銀鍍金 径22.9㎝ 1927年にウャトゥカ地方でのトゥルシェンコによる偶然の発見 エルミタージュ美術館蔵
『ロシアの秘宝展図録』は、王冠と疾駆する姿、それに弓を射る図柄からシャープールⅡ世と考えられる。こうした銀製レリーフで鍍金された帝王狩猟場面はねただ単に時代の流行であったばかりでなく、それ以上に全能で屈服され得ないササン朝の王が世俗的かつ宗教上の支配者であることを示そうと意図されたのであるという。
上の作品は若いシャープール2世を表しているが、ここでは壮年期風で、落ち着きと自信が表情に出ている。
シャープール2世猪狩文皿 在位309-379年 銀鍍金 径23.9㎝ ロシア、ウラル山脈西ペルム地方、ウェレイノ出土 ワシントン、フリア・ギャラリー蔵
『世界美術大全集東洋編15』は、帝王は2頭の猪を追跡して背後から射殺するいわゆる追跡型狩猟を行っているが、この方法は獲物と対決する狩猟よりもやや遅く銀皿に描写されるようになったと考えられる。
馬は空中飛行型で疾走しているが、胸繋と尻繋には扇状の垂飾り。1対のドングリ状の房飾りがついているという。
コインや摩崖浮彫に比べて頭部に巡る城壁冠と、球体装飾とが離れていて分かり易い。
そしてその顔貌は、かなり年配であることを窺わせるが、上の2作品よりも精悍さが現れている。

シャープール3世豹狩文皿 在位383-388年 銀鍍金 径22㎝ ロシア、ペルム地方出土 エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15』は、国王の狩猟が王室の狩猟園ではなく山岳地帯などの野外で行われていることを暗示するために、三角形の山岳文を多数連続して器の縁に描写し、そこに中央アジア原産の野生チューリップなどの草花などを刻む描写様式も特色としてあげることができようという。
見過ごしてしまいそうだが、確かに下端の3つの山岳文には、それぞれ花が線刻されている。

バフラーム2世騎馬猪狩文皿 クシャノ・サーサーン朝、4世紀前半 銀鍍金 径28.0㎝ ロシアペルム地方出土 エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、国王が湿地帯で狩りを行っていることが、画面下方の水流と右端の葦によって暗示されている。葦の茂みからは2頭の猪が国王目がけて突進し、馬は驚いて後ろ足で立ち上がっている。国王は剣で先頭の猪の肩に切りつけている。また、突進する猪の獰猛な牙を避けるために右足を90度後ろに曲げている。このような足の表現は、クシャノ・ササン朝で制作された国王猪狩文の特色である。
この図柄の重要な部分は、別の銀板に図像部分を打ち出してはめ込んでいるが、この技法はクシャノ・ササン朝ないしササン朝初期の技法である
という。

この国王がクシャノ・ササン朝のバフラム2世であることは、国王の独特の王冠形式から判明する。頭には1対の牡羊の角がついているが、バフラム2世が発行した金貨と銅貨に刻印された国王胸像の王冠形式に酷似している。また、牡羊はゾロアスター教の軍神ウルスラグナの化身の一つであり、バフラムという名前はこのウルスラグナの近世ペルシア語に相当するという。 
バフラーム2世の王冠は鷲翼が付いていたはずなのに牡羊の角?
調べて見ると、このバフラーム2世はクシャノ・サーサーン朝の王で、サーサーン朝のバフラーム2世(在位276-293年)とは別人だった。

バフラーム2世金貨 クシャノ・サーサーン朝(4世紀前半) 径3.1㎝ アフガニスタン出土
『世界美術大全集東洋編15』は、コインの図柄は基本的には前代のクシャン朝後期のヴァスデーヴァ1世(在位2世紀後半~3世紀前半)ないし2世(在位3世紀?)のものを模倣したものである。また、コインの直径が大きくなったため、厚さは薄くなり、図柄を打刻するときの衝撃によって湾曲しているという。
確かに牡羊の角の冠を被っている。でも足は鳥のよう。

国王騎馬虎狩文皿 クシャノ・サーサーン朝(3-4世紀) 銀鍍金 径28.5㎝ アフガニスタンまたはトルクメニスタン出土
同書は、ササン朝の典型的な図柄を下敷きにしているが、描写されている国王はササン朝ペルシアの帝王(諸王の王)ではなく、アフガニスタンやトルクメニスタンなど中央アジア西南部を統治した、クシャノ・ササン朝と別称されている王朝のペーローズ王ないしその縁者と推定されている。
国王は平たい冠を戴き、馬上で背後を振り返り、飛び掛かってくる虎の心臓に剣を突き刺している。もう1頭の虎はすでに国王に殺害され、画面の下方に横たわっている。
国王の頭髪は丁寧に編んであるが、このスタイルはササン朝初期の形式である。
図像の重要な部分は、別の銀板から打ち出したものをはめ込んで高浮彫りにしているので、立体感が強調されているという。
サーサーン朝では常に表されてきた、馬のドングリ形房飾りがクシャノ・サーサーン朝ではない。

ナクシェ・ロスタムやナクシェ・ラジャブ、ビーシャープールなどで摩崖浮彫を残したサーサーン朝初期の王の登場する作品を探していると、クシャノ・サーサーン朝の王たちの銀製皿の方が多いことに気づいた。


国王猪狩文皿 クシャノ・サーサーン朝(3~4世紀) 銀鍍金 径18㎝ アフガニスタン制作 山西省大同市出土 大同市博物館蔵
『世界美術大全集東洋編15』は、クシャノ・ササン朝製の銀製皿は、猪狩りが代表的なテーマで、騎馬にせよ地上に立っているにせよ、国王が足を90度曲げている点に特色があるという。
下方に波文が線刻され、左端に葦が高浮彫されるなど、水辺での狩りの様子が描写されている。
波文の上部には図柄を打ち出した板が剥がれそうになっている。

同書は、クシャノ・ササン朝では、形式化してはいるが、写実的な様式を用いて豪華な銀製皿を制作していたが、4世紀の半ばにササン朝ペルシアのシャープール2世(在位307-379)がこの小王国を併合したため、以後はササン朝の国王を表した銀製皿がクシャノ・ササン朝のメルウ、バルフなどの工房で制作されたと推定できるという。

帝王騎馬獅子狩文皿 サーサーン朝 出土地不明 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、帝王の冠はコインには見られない珍しいもので、王名を特定することは困難であるが、内厚の浮彫からササン朝の銀器としては比較的古いものと考えられる。帝王が後ろ向きに矢を放つ構図は「パルティア式射法」と呼ばれる典型的な図像という。
見るからに古風な作品である。馬にはサーサーン朝に特徴的なドングリ形房飾りがついているが、王冠がサーサーン朝では見られないものということで、併合される前のクシャノ・サーサーン朝時代の作品ではないのかな。
パルティアンショットについてはこちら

『世界美術大全集東洋編16』は、銀器類はおそらく、宮廷などの酒宴に用いるために制作されたのであろう。また、これらの銀器類は、国王たちが外国の支配者や、臣下などへの贈物として制作されたといわれているが、そのほかにも、逆に総督や高官などが国王への貢物(ないしは賄賂)として作らせた場合もあったのではないかと推定される。 
5世紀以後になると、「打ち出しはめ込み」による高浮彫りの技法は消滅し、それに代わって刻線によって細部を仕上げる簡便な方法が用いられるようになった。

いわゆるササン朝銀皿は、初期の作品が技法的にもっとも優れ、しだいに衰退していったという。


サーサーン朝の王たちの浮彫

関連項目
サーサーン朝の王たちの浮彫
パルティアン・ショットは北方遊牧騎馬民族のもの?

※参考文献
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝 展図録」 2006年 朝日新聞社・東映
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館

「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」 1993年 京都文化博物館・京都新聞社

軍旗とスタンダード

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ナクシェ・ロスタムのシャープール2世戦闘図には長槍を持ち敵と戦う王の後ろに旗持ちが一人だけ描かれている。
その旗というのが、長い棒の先が3つに分かれ、それぞれに房飾りのようなものが付いている。その素材が柔らかいものか、金属でできたものかもわからないが、現在で言う旗とはかなり違ったものだ。
これは軍旗で、スタンダードとも呼ばれているものなのだろう。
形だけでいうと、下図の生命の樹に似ている。

牡牛文の碗(部分) 前2000年頃 ビチュメン 高9口径18㎝ スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、碗の側面には山と聖樹、うずくまる牡牛の像が4回繰り返されている。一番下には円弧文で小高い山が表現され、その上に様式化された樹木文が配される。枝が左右に伸び松毬のような塊が並んでおり、樹の上には松毬文様が集まった蕾のようなものがある。
メソポタミアを中心に発達した「生命の樹」のモティーフの典型的なものの一つである。甘い水の流れ出る山の頂上にある聖樹によき動物の代表である牡牛が寄り添い、全体が豊饒と再生の象徴的図像となっているという。

ところで、シャープール2世戦闘図のスタンダードを見て思い出したのが、アナトリアのアラジャフユックの出土品だ。

儀式用スタンダード 青銅 24㎝ アラジャフユック出土 前3千年紀後半
『世界美術大全集東洋編16』は、アラジャ・ホユックの副葬品のなかで出色なのは、なんといっても「スタンダード」と呼ばれる青銅製品であろう。これらはいずれも基部に柄に差し込めるような形の茎が作り出されており、柄に差し込んで用いられた祭器であったと考えられる。
スタンダードには大きく分けると、動物像と円盤状のものの2つの種類が見られる。動物像としてはまれに驢馬も見られるが、牡牛と牡鹿が中心となっているという。
これは軍旗ではないが、台座に安置されるものではなく、棒状のものに差し込んで、上に掲げたり、持って移動したりするものだったことが、浮彫を見て納得できた。
スタンダード(牡鹿、部分) 前3千年紀後半 トルコ、アラジャ・ホユックB墓出土 青銅、銀 高52.5長26㎝ アンカラ文明博物館蔵 
『世界美術大全集東洋編16』は、本体は鋳造による青銅製であるが、この角を含めた頭部は薄い銀の板によって覆われている。胴には銀の象嵌による装飾が顕著に認められ、背中には直線が引かれ、胴の両側には二重の同心円文が7つずつ配され、頸の部分には3本からなるジグザグ文が巡らされている。さらに肩と腰の上部には、十字文が2対2組で配されるという。
これも棒に差し込んで掲げ、儀式に使われる特別なものだった。

しかしながら、現在スタンダードと呼ばれているものが、このように竿頭に取り付けられるものばかりではない。現代人が見ても旗とわかるものもある。

スタンダード 前2400-2200年頃 青銅製 シャハダード出土 イラン国立考古博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、ザクロス山脈の東端、ルート砂漠に接する位置にあるシャハダード遺跡は600hにもわたる範囲に建築址や墓地が広がっているが、これらは同一時期のものではなく、前3000年から前1600年ごろにかけての都市が各時代ごとに中心を移動させていったことによって、このような広がりを見せるに至ったのである。
青銅のスタンダード(軍旗)は、軍事的な指導者の存在を示唆しているという。
旗の部分には複数の神が描かれているようだ。また、旗を掲げる棒の先には鳥、おそらく猛禽が羽を広げて留まっていで、アナトリアでは神聖な動物が牡鹿だったが、この地では猛禽だったことを想像できる。

スタンダード 前3千年紀後半 貝殻、石灰岩 幅72㎝ マリ(テル・ハリリ)出土 ルーヴル美術館蔵
棒の先に牡牛像を付けて掲げる人物が登場する。軍旗(スタンダード)というものは、こんな風に掲げ持っていたことがわかる。
また、このような場面を象嵌で表した木製の板(あるいは箱状の一部)もスタンダードと呼ばれているのも紛らわしい。
このスタンダード(旗)持ちとそっくりなものが表された奉納板がアレッポ国立博物館に収蔵されている。というよりも、欠けた部分もそっくりで、同一のものとしか思えない。

戦勝の奉納板 前3千年紀末 アラバスター、貝殻、石 マリ出土 シリア国立博物館蔵
板状のスタンダードは奉納板らしい。
『シリア国立博物館』は、マリ遺跡の神殿の壁面は、しばし貝をこすり切ってつくった人物の像、青色のアラバスターの薄板などの小片をモザイクのように配した奉納板で飾られていた。この図は、周辺の都市を攻略し、捕虜を連れてマリ王の前で戦勝を報告するところと考えられているという。
下段に同じような牡牛の像がある。これも旗のように掲げて行進しているのだろう。

かなり以前に大英博物館展で見たウルのスタンダードは深く印象に残るものだった。軍旗とも言われていることが不思議で、より強く記憶に刻まれたのだろう。

ウルのスタンダード ウル第1王朝時代、前2500年頃 木、貝殻、赤色石灰岩、ラピスラズリ 高20.3幅48.3㎝ イラク、ウル王墓出土 大英博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、元来は細長い木製の箱で、その4つの側面を貝殻赤色石灰岩、ラピスラズリを材料に、ピッチで固定したモザイクで飾ったものであるという。
『大英博物館展図録』は、一説に軍旗とも説明され、また楽器だったのではないかとの推測もあるが、用途についてはなお不明である。マリからも類例が出土しているという。
中空のものなら持ち上げることはできただろうが、戦いの時に持ち運んだりしたら、すぐに壊れてしまいそうな作品だった。
どちらかというと、神殿の奉納板か、王宮の装飾品だったのでは?









※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「大英博物館展図録」 1990年 日本放送協会 朝日新聞社
「世界の博物館18 シリア国立博物館」 増田精一・杉村棟 1979年 講談社
「NEWTONアーキオ4 メソポタミア」 編集主幹吉村作治 1998年 ニュートンプレス
「アナトリア文明博物館図録」 アンカラ、アナトリア文明博物館

チョガ・ザンビールの出土品

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チョガ・ザンビールの遺跡は現在、三重の城壁も小神殿もジッグラトも、焼成レンガか日干しレンガという、土色一色と言っても過言ではないほどである。
しかし、ジッグラトの壁では、コバルトブルーがわずかに残る彩釉レンガをたまに目にすることがある。
『図説ペルシア』には、コバルトブルーの釉薬がよく残ったレンガの図版が載っている。ジッグラトは、建立当初は色彩ゆたかな建物だったのかも知れない。

ずっと以前、岡山市オリエント美術館で、チョガ・ザンビールの出土品を見たことがある。


釘頭状建築装飾 ウンタシュ・ナピリシャ王銘入り 前1275-40年頃 高35.5径30.4㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、釉のかかっていない軸部を壁体に挿し込み、丸い面をこちらへ向けたという。
わかりにくいが、円盤状のものには施釉されていた。青みがかった釉薬がわずかに残っている。
ハフト・テペ遺跡に併設された博物館でも1点展示されていた。

Grazed Wall Knob 前13-12世紀
こちらは白に近い釉薬がかかっていた。
円盤状の頂部と軸部に穴があいている。長い釘でも使って、壁に固定していたのだろうか。

釘頭状装飾付方形タイル 前1275-40年頃
左:37.4X37.4高27㎝ シルクロード研究所蔵 
右:37.4X37.6高約19㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
同展図録は、ともに方形パネルに釘頭状部分がついたもので、中にホゾを入れて壁面に深く挿し込む。類例がアッシリアにあり、ジガティと呼ばれているという。
トルコブルーの釉薬が残っている。
連珠文というには大きすぎるが、8つの凸状円が中央の釘頭状突起を囲み、タイルの四隅には3枚の花弁のようなものが配される。よく見ると釘頭状突起には中央に大1個、周囲に小6個の七曜円文が、おそらく凸状に付けられている。
メソポタミア文明展でも展示されていた。

ウンタシュ・ナピリシャの銘の入ったタイル 前14世紀後半 彩釉煉瓦 高22.5長37㎝ ルーヴル美術館蔵
『メソポタミア文明展図録』は、最も荘厳な場所である「王の門」とジッグラト頂上の神殿は、煌めく装飾で表面を覆われていた。装飾は煉瓦のほか、中央に突起があり隅に花弁のモチーフのある釉薬のかかったタイルが使われた。このシリカ質の彩釉煉瓦の輝きは、表面を覆った青緑色釉薬の効果だった。タイルと一体となった中央の突起は、穴の空いた板を壁に固定する釘の形を模倣している。そこには、建設した王の名がエラム語で刻まれるか、水玉模様が描かれた。この釉薬を用いた建築装飾はエラム人による技術革新であり、偉大な後世に、とりわけ前6世紀ネブカドネザルⅡ世治下の都市バビロンで再現されたという。

こちらもハフト・テペ考古博物館で展示されていた。
釘頭状突起には中央に大きな円、その周囲に6つの小さな円が凹状に付いている。矩形の平面には8つの大きな凹状の文様、そして四隅には3枚の花弁が凸状に表されている。
もう一つは、おそらくウンタシュ・ナピリシャの名が刻まれた平頭の釘頭状突起と、四隅に3枚の花弁が付けられている。
釘頭状壁面装飾はスーサ遺跡の博物館にも。
また、スーサの博物館では、スーサ出土の釘頭状突起装飾もあり、前5千年紀のものさえあった。それについては後日
そしてテヘランの国立考古博物館にもあった。
このような巨大な装飾品を取り付けた壁面の想像図をどこかで見たような記憶はあるのだが、例によって見つからない。あるいは、「砂漠にもえたつ色彩展」でそのような図が参考展示されていたのかも知れない。

捻り文円筒ガラス棒 前1275-40年頃
上:長17.4径41.5㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
下:長25.5径1.4㎝ シルクロード研究所
同展図録は、戸口付近で白と黒の捻り文のガラス棒がまとまって出土している。木製の扉に貼った装飾と考えられているという。

テヘランの国立考古博物館には、その木製扉が展示されていた。

木枠はもちろん現代のものだが、少なくとも似た形で出土したからこそ、このように復元できたのだろう。
それにしても、白と黒の捻り文のガラス棒を斜めにして並べるとは。
ジッグラトの階段通路前の門にあったにしては小さい。宮殿などを飾っていたものかも。

ハフト・テペ考古博物館では、ジッグラトの4面各中央に設けられた階段の前の壇には、テラコッタ製の牡牛像と獅子鷲(鳥グリフィン)の像が置かれていた。その獅子鷲が1体展示されていた。頭部は大きめだが、翼は小さく、体部は細身になっている。
鷲翼は背中の上で蝶の羽根のように閉じている。
想像復元図では、階段への入口の前には、どちらも獅子鷲が置かれている。レザーさんの説明やパネルでも、片方が牡牛、もう一方が獅子鷲という風に理解していた。

テヘランの国立考古博物館では、ジッグラト北東面の階段入口の前から出土した牡牛像があった。瘤牛だ。
説明板には牡牛の出土場所、出土状況の写真と共に、牡牛に刻まれた銘文が記されていた。我はフンバン・ヌメラの息子、アンシャンとスーサの王ウンタシュ・ガル、施釉のテラコッタ製のこの牡牛は、昔の王たちが創り得なかったもので、この聖なる地を尊厳を持って祝福したインシュシナク神のために、我が造り守護獣としてこの聖域に安置した。我は長寿と建康を願って捧げた・・・我の子孫たちに伝える・・・。
別の博物館に展示されていたので、両方の大きさを比べることはできなかったが、周囲の人や展示ケースから見て、ほぼ同じ大きさだったらしい。




関連項目
チョガ・ザンビール2 ジッグラト南東から北東面
彩釉レンガは前13世紀のチョガ・ザンビールにも

※参考文献
「四大文明 メソポタミア文明展図録」 2000年 NHK  
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館 
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社 

ハフト・テペからの出土品

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ハフト・テペ遺跡に併設された博物館
説明を見逃したが、アケメネス朝風の柱礎がいくつか。
ペルセポリスのアパダーナにあった柱礎に似ているが、やはり違う。

土製容器 前15-14世紀
巨大な散り蓮華のよう。皿や鉢なら丸く作っただろう。何か特別な時に使ったか、特別な物を入れる器では?
ハフト・テペで発見された青銅製品。
前2千年紀、ハフト・テペは、東方の青銅製品や武器の交易の中心だった(パネルの説明より)。
矢あるいは槍、双歯の短剣、腕輪 前15-14世紀
女神小像 前15-14世紀 テラコッタ
女神小像
儀式用ベッド模型 前15-14世紀
発掘による出土物。青銅製品や土製品など。

埋葬用壺 前15-14世紀
青銅板 10X7.5㎝ 銅の薄板 テラス複合体Ⅰ出土
説明は、発掘の時に第2の広間入口付近より出土した。打ち出しと彫りで作られた。中央の像はエラムの神々の一人。この神は角のついた兜を被り、右手に斧、左手に弓を持ち、ライオンの背の上に立っている。その前に裸の女性がひざまずいているが、この神は衣服を着ている。エラムの神の左には、祈りの姿勢でラマ女神が表されている。メソポタミアとエラムの信仰において、ラマ女神は、人と高位の神々との仲介者であると信じられていた。そのために、ラマ女神の腕は祈る人の仕草となっているという。
ライオンの上に乗る神というのはヒッタイトが最初ではなかったかな?
棺 土器 
左:前15-14世紀
右:パルティア-サーサーン朝時代(前3世紀後半-後7世紀半ば)
同じようなものが並んでいるように見えたが、時代が全く違う。よく見ると、古い方が薄手だ。
棺 前15-14世紀 ビチューメン(瀝青) 
陶製棺と同様に楕円形だが、蛇腹のように凹凸をつくり、上に行くほど小さくなり、蓋が付いている。

人物頭部 スーサ遺跡の博物館蔵
左:女性頭部 中エラム時代
中央:デスマスク? 中エラム時代(前1300-1000年頃) テラコッタ
用途不明、儀式用の仮面の可能性
右:男性頭部 中エラム時代
壺 中エラム時代 スーサ遺跡の博物館蔵
ライオン頭部? 中エラム時代
口の中が空洞で、ギリシアの神殿にあったライオン頭部の軒飾り(樋口)のようなものかな?あまり雨は降らない地域だが。

彩釉レンガ アケメネス朝時代(前550-330年)
色褪せているが、青と黄色だったのだろう。輪郭線を盛り上げて、釉薬がはみ出して色が混ざらないように工夫されている。
このような彩釉レンガを積み上げて、壁面の装飾にしていたが、アケメネス朝滅亡後はその技術が途絶えたのか、その後彩釉タイルが出現するのはイスラーム時代に入ってから。
その間も、施釉陶器は作られているというのに。

施釉ランプ壺 パルティア-サーサーン朝時代(前3世紀半ば-後7世紀半ば)
左:トチン パルティア-サーサーン朝時代
窯で焼いている時に、釉薬が溶けて台に流れ、器体と台がくっついてしまわないための道具。でも、くっついてしまっているし・・・
右:容器の蓋 前15-14世紀  
施釉壺 サーサーン朝期(226-561年)
胴部あたりまで、部分的に釉薬がかかっている。

石製品 前15-14世紀
左はすり鉢や容器。右はおそらく分銅とのこと。


ほぼハフト・テペ考古博物館の収蔵品ですが、一部はスーサ遺跡の博物館のものです。


関連項目
ハフト・テペ遺跡

スーサの出土品1 釘頭状壁面装飾はエラム

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スーサの博物館にはチョガ・ザンビールのジッグラトの釘頭状突起付壁面装飾が1点展示されていた。また、各地の博物館にも同じようなタイルが収蔵されている。
それについてはこちら

ウンタシュ・ナピリシャの銘の入った釘頭状突起付タイル エラム中王国時代、前14世紀後半 彩釉レンガ
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、方形パネルに釘頭状部分がついたもので、中にホゾを入れて壁面に深く挿し込む。類例がアッシリアにあり、ジガティと呼ばれているという。
『メソポタミア文明展図録』は、最も荘厳な場所である「王の門」とジッグラト頂上の神殿は、煌めく装飾で表面を覆われていた。装飾は煉瓦のほか、中央に突起があり隅に花弁のモチーフのある釉薬のかかったタイルが使われた。このシリカ質の彩釉煉瓦の輝きは、表面を覆った青緑色釉薬の効果だった。タイルと一体となった中央の突起は、穴の空いた板を壁に固定する釘の形を模倣している。そこには、建設した王の名がエラム語で刻まれるか、水玉模様が描かれた。この釉薬を用いた建築装飾はエラム人による技術革新であり、偉大な後世に、とりわけ前6世紀ネブカドネザルⅡ世治下の都市バビロンで再現されたという。

そして、壺状の壁面装飾物もあった。

壺型釘頭状突起 エラム中王国時代(前1300-1000年頃) スーサ出土
この釘頭状突起は水玉文様が浮き出ている。
説明板は、このような壁面装飾品は、スーサでは前5千年紀後半から後の時代まで続いていたという。

壁面装飾用突起 土器 スーサ第Ⅰ期(前4300-4000年) スーサ出土
確かに、突起型壁面装飾は、スーサでは前5千年紀にもあった。スーサの宮殿独特の壁面装飾は、形を変えながら続いていたのだった。
このような焼成土製突起は、アクロポリスの外壁を装飾するために用いられたという。

また、同じような壁面装飾板が、メソポタミアにもあった。

彩釉タイル 新アッシリア、トゥクルティ・ニヌルタ2世期(在位前894-890年) アッシュール出土
『知の発見双書43メソポタミア文明』は、王宮の壁は、彩釉タイルでも飾られていた。タイルの模様は様式的で幾何学的だったが、そのなかにも芸術家の自由な発想が窺える。発見されたタイルをもとにアンドレが描いた水彩画という。
チョガ・ザンビールのものは各辺は直線だったが、四隅が尖って各辺が凹面となっている。

壁面装飾板 新アッシリア、前875-865年頃 彩釉テラコッタ 幅28.0厚15.0㎝ イラク、ニムルド、イシュタル・キドムリ神殿出土 大英博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、中央が丸く突き出しており、その上に同心円とV字形連続文を組み合わせた文様が彩釉で表現されている。突起の基部には、楔形文字でアッシュルナツィルパル2世の銘文が刻まれている。その周囲にはパルメットと石榴を交互に配した文様が表現され、外縁部には黒と白の正方形が交互に繰り返されるパターンが表現されている。この装飾板は四隅を持って引っ張ったような形状を呈するが、これは、当時の装飾に使われた織物が壁面に掛けられた際に生じる反り返しを模したものだと考えられているという。
このような形は織物の反り返しを表現したものだったとは。
この種の装飾板は、新アッシリア時代の宮殿や神殿の内装に使われ、人の背丈よりもやや高い位置の壁面に設置されていたという。装飾板は留め釘を使って軸に固定するようにして壁面に嵌め込まれ、1列に並べられたり、正方形や円形状に配されていたらしい。また、装飾板を設置するかわれに、その図柄が漆喰の壁面にじかに描かれることもあったという。
略して壁画にもなったというもの面白い。

『メソポタミア文明展図録』のいう前6世紀ネブカドネザルⅡ世治下の都市バビロンのものは見つけられなかった。



関連項目
チョガ・ザンビールの出土品
スーサ2 エラム時代の宮殿まで

※参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館 
「四大文明 メソポタミア文明展図録」 2000年 NHK  
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「知の発見双書43 メソポタミア文明」 ジャン・ボッテロ/マリ-ジョゼフ・ステーヴ 矢島文夫監修 1994年 創元社

フーゼスタン州のパルティア美術

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スーサ遺跡に併設された博物館には、パルティア時代の美術品も展示されていた。
アケメネス朝がアレクサンドロスに滅ぼされた後、セレウコス朝の支配下に置かれたが、アルサケス朝パルティアが独立して勢力を拡大し、イランもその領土となった。その頃から、サーサーン朝のアルダシール1世がパルティアを滅ぼすまでの期間につくられた美術を、フーゼスタン州の出土品に限るがまとめてみた。

その特徴として『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、ヘレニズム美術が着実にこの地域に伝播したことはイラン系のアルサケス朝パルティア(前3-後3世紀前半)の時代に制作されたさまざまな作品が物語っている。アルサケス朝の宮廷美術は、その初期の首都であった現トルクメニスタンの旧ニサの宮殿や神殿から発掘された若干の彫刻以外、ほとんど現存していない。
われわれが「アルサケス朝の美術」という場合には、アルサケス朝パルティアが西アジアを統治していた時代の西アジアの美術を意味している。すなわち、パルティア人以外の被征服民(土着の民)の宮廷美術、あるいは隣接するシリア(パルミラ、ドゥラ・エウロポス)やトルコ(コンマゲーネ王国)の美術である。
これらの小王国の宮廷美術は、アルサケス朝の宮廷美術の影響を強く受けていたと考えるべきであろう。
パルティア時代の美術は、ヘレニズム美術がしだいに変貌し、イラン系および土着の要素が復活していった歴史であるといえる。
その前半(前3世紀-前1世紀末)の宮廷では、ギリシア文化を積極的に摂取していたが、時を経るにしたがってアケメネス朝以来のイラン美術の伝統やパルティア人の嗜好、慣習なども取り入れられ、ギリシアとイランの両要素が折衷されるに至った。そのような折衷美術の実態をもっとも鮮明に示しているのが、トルコ南東部の小王国コンマゲーネのグレコ・イラン式彫刻であるという。
馬に乗る女性小像 時代不明 テラコッタ スーサ博物館蔵
女性はバランスのとれた姿に表現されている。馬の顔といい、ヘレニズムの影響を感じさせる。
表情も柔らかい。

女性胸像 石造? マスジェデ・ソレイマン、サル・マスジェド遺跡出土 スーサ博物館蔵
やや硬直した表情の正面向きの像だが、パルミラの婦人胸像(2世紀末)と比べると、自然な表現で、それよりも早い時期に制作された作品だろう。

ヘラクレス像 石造  マスジェデ・ソレイマン、サル・マスジェド遺跡出土 スーサ博物館蔵
ヘラクレスは、通常は棍棒とライオンの皮を持つか、被るかしているが、ここでは子ライオンを抱えている。顔面上半が壊れているのが残念だが、おそらくヘレニズムから脱した頃のパルティア美術だろう。
同じパルティア美術とされる、ハトラ出土の棍棒とライオンの皮を持ったヘラクレス像(2-3世紀)とも異なる表現だ。

女性立像 石造 マスジェデ・ソレイマン、バルデメシャデー遺跡出土 スーサ博物館蔵
パフラヴィー文字の銘文があるという。
衣文が仏像を思わせるが、ヘレニズム色の強いガンダーラの仏像の衣文は深い。

柱頭彫刻4面うち2面 マスジェデ・ソレイマン、バルデメシャデー遺跡出土 スーサ博物館蔵
蕨のように下から伸びた渦巻を1本の茎?が支えているような左右の装飾の中に、神のような存在が1体ずつ表される。4人とも伏し目
残りの2面
4つ目の面はガラスに反射して人物像がわかりにくいが、長衣の襞は少なそう。だが、それは例外で、他の3体は襞の多い衣装を着けている。

6弁花のある柱頭 マスジェデ・ソレイマン、バルデメシャデー遺跡出土 スーサ博物館蔵
やはり両端に蕨のような植物文がある。

双頭の動物型柱頭  マスジェデ・ソレイマン、サル・マスジェド遺跡出土 スーサ博物館蔵
おそらく牡牛の前半像が表されていたのだろうが、頭部は別材を取り付けたようで、すっぽりとなくなっている。

円柱 イゼー出土 スーサ博物館蔵
ひょっとすると、4面に人物(神)像が浮彫されているかも。
地域性の強い作品である。衣褶の多い着衣がパルティアのものを採り入れているという程度。
男性像の墓石 イゼー、ソーサン平原出土 スーサ博物館蔵
イゼーというところは、パルティア風でもイラン風でもない造型感覚を持った地域だったようで、興味深い。

スーサの出土品1 釘頭状壁面装飾はエラム


関連項目
スーサ3 博物館
スーサ2 エラム時代の宮殿まで
スーサ1 アケメネス朝の宮殿

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館


スーサの出土品2 エラム時代の略奪品

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『メソポタミア文明展図録』は、北西セム語族アムル人は前2100年頃から徐々に南メソポタミアの都市に侵入しつづけていたが、シュメール人、アッカド人に替わってついにラルサ王国、さらにはバビロン第1王朝を築くことになる。
カッシート王朝の終末、前1150年頃、エラムの王シュトルク・ナフンテ1世のメソポタミア侵入によって、各都市が破壊され、多くの神像やモニュメント等の戦利品がスーサに持ち去られた。その中にハンムラビ法典、ナラム・シンの戦勝碑などもあった。これがその後の1901-02年フランスのJ・ド・モルガン等のスーサの発掘調査によって再び発見されたという。

ハンムラビ王の法典 バビロン第1王朝第6代ハンムラビ王期(前1792-50年) スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
同展図録は、ハンムラビ王は先ず国内の治水工事や灌漑用水路などの拡充、神殿の建設や修復などに力を注ぎ、そしてメソポタミアのエシュヌンナ、エラム、マリ、ラルサなどを制圧し、統一を成し遂げた。前1763年のことである。そしてその数年後、前1760年ころにハンムラビ法典を制定した。
石碑の上部には左側にハンムラビ自身が恭しく右手を挙げて神を拝しており、右側には正義の神である太陽神シャムシュが神のシンボルである4段の角の冠を被って、王座に座っている。そしてシャムシュの右手は支配と主権を表す輪と杖をハンムラビに授けようとしている。
ハンムラビ王によってメソポタミアの統一し、公正で弱者を守るという正義を掲げたバビロン王朝であったが、ヒッタイト王国のムルシリ1世の突然の攻撃によって、前1595年、首都バビロンは破壊されたという。
太陽神は肩から光または炎を出して、左手は拳を握り、右手だけで小さな環と短い杖をハンムラビに差し出している。
ハンムラビは左腕を折り、その上に右腕を置いて掌を立てる。これが神を拝む形。
ゾロアスター教のサーサーン朝では、杖とリボンの付いたディアデムが王権神授図には必ず登場する。それは、このメソポタミアの伝統が継承されたからだろう。

アルダシール1世(初代、在位224-241年)
王権神授図(騎馬叙任式図) 縦4.28横6.75m ナクシェ・ロスタム
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、画面構成は左右対称的で、向かって左に騎馬のアルダシール1世、右に同じく騎馬のアフラ・マズダー神を描写している。帝王は王位の標章たるディアデム(リボンのついた環)を頭につけ、頭上には大きな球体(宇宙の象徴)を戴いている。神は城壁冠をかぶり、左手でバルソム(ゾロアスター教の聖枝)を持ち、右手には正当・正統な王位の標識たるディアデムを持ち、帝王に授けようとしている。帝王と神の服装はほぼ同一で、長袖の上着を着、眺めのパンタロンをはいている。その襞は自然らしさに欠け、装飾的である。帝王の背後には払子を持つ小姓が立っているという。
メソポタミアのものとの違いは、環(ディアデム)に長いリボンが付いたこと、杖は神が左手に持っていて、王に授けるのは環だけ。その後もサーサーン朝の王権神授図には、アフラマズダ神がリボンの付いたディアデムを王に授ける場面が表される。
とはいえ、サーサーン朝に先行するアケメネス朝やエラム時代の王権神授図は、文献でさえ見たことがない。浮彫などに表されてはいないが、儀式としては、王朝を超えて受け継がれてきたのだろうか。
同書は、前12世紀、エラム王たちの略奪した他のモニュメントとともに、クドゥルがいくつかスーサに運ばれたという。

ナジマルタシュのクドゥル カッシート王朝(バビロン第3王朝)1328-1298年頃 石灰岩 高36㎝ スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
左の面に登場するのは、カウナケスを身に付け、玉座に坐る4段の角の冠を被る女神で、その上に太陽、三日月、星が大きく表されている。

王メリシバク2世の大クドゥル(部分) カッシート王朝、メリシバク2世期(在位前1185-71年) 黒い石灰石 全体高83幅42㎝ スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
『メソポタミア文明展図録』は、カッシート人の導入したクドゥルは、王の土地贈与を証明するものであり、不規則な形の石、通常は光沢のある黒い石灰石をカットしたものに記載された。これらクドゥルは公文書であり、クドゥルによりカッシート王たちは近親者や宮廷高官に土地を授与し、彼らの歓心を買った。土地贈与を公認する神々は、大半はカッシート王朝の採用したメソポタミアの神々だが、たいてい各神の象徴が石の上に描かれた。クドゥルは、大部分神殿内部で発見された。おそらく王の定めた土地区画に沿って設置した境界石の複製であろう。それらはメソポタミア南部では前7世紀まで使用されたという。
同書は、刻まれた文書は、メリシバク2世の娘への土地贈与と用水路の修復を伝える。平面上では、1場面が低浮彫で描かれ、この不動産取引を認証する神を介在させる。口の前にかざした手で敬虔な祈りを表しながら、王は腕をとった自分の娘を、迎えの仕草をするナナらしい女神の傍に導く。星の三大神の象徴が場面の上方に張り出している。すなわちイシュタルの星、シンの三日月、シャムシュの日輪であるという。
太陽はシャムシュ、三日月はシン、星はイシュタルの神の象徴だった。
王は左手で娘の手を引いているので、右腕だけを折って、掌を立てている。
ナナ神と王の間に香炉が置かれている。
蛇足だが、ナナ女神の座る玉座の下の台は獣足になっている。

王メリシバク2世のクドゥル 前1185-71年頃 黒い石灰石 高65幅30㎝ スーサ、アクロポリス出土 ルーヴル美術館蔵
同展図録は、石の面の一つに刻まれたアッカド語の長い文書は、王メリシバク2世が息子たちに土地を譲渡したことに関する条文である。他の面には5段に、この行為の保証者である神々の象徴や属性が描かれている。
最上段には、メソポタミアの主要な神々が認められる。左から右に、まず神々の父で天の神アヌとその息子で「風の主」エンリルが、2人とも台の上の角付き冠で表され、次にもう1人の息子で知恵と深淵の神エアが、雄牛の頭部で表される。彼の脇にはおそらく「山の女王」母女神ニンフルサグがいる。頂部には星の三神の象徴が鎮座する。すなわち月神シンの三日月、愛と戦いの女神イシュタルの星、太陽神シャムシュの日輪である。
クドゥルの最下段には地下の冥府の神々に結びつく角のある蛇と蠍が描かれているという。
このクドゥルにも星の三神の象徴が表されている。

エラム人の王が略奪した石碑頂部 前12世紀 玄武岩 高64.5長さ41㎝ スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
同展図録は、神による権力の印の委譲というこのテーマは、前3千年紀末以来メソポタミアではよく知られており、バビロニアのハンムラビ法典のものが殊に有名である。この石碑では、神の印である角付き冠を被った神が、手にもった権力の象徴である環と棒を手にし、王の即位を承認する行為としてこれを王に差し出す。日輪と三日月が場面の上部に張り出す。彫刻の全く宗教的な作風は前12世紀のカッシートのバビロニアでの制作を思わせる。
しかしエラム人の王たちは、メソポタミア史の証拠をスーサに集めるだけでは満足せず、自分たちのために利用しようとした。これによく似た作品(ルーヴル美術館蔵)では、神の前で祈るメソポタミアの王はエラムの王の姿に彫り直している。この石碑では置換作業は完了しておらず、まだ元のメソポタミア風の輪郭が、かろうじて素描された新たな輪郭の下に認められるという。
カッシートから様々なものを略奪してきたシュトルク・ナフンテ王、あるいはその後のエラム中王国時代の王は、境界石に表されたカッシートの王の姿を自分の姿に替えるということを行った。この時点で、エラムに王権神授図というものが成立したのだろう。
また、この図では、星の三神の象徴が一つずつ表されるのではなく、三日月の上に太陽がのり、太陽の中に星が表されている。

クセルクセス1世(前486-465年)の摩崖墓 ナクシェ・ロスタム
王権神授の場面右上に、うっすらと丸いものが浮彫されている。
厚い三日月の上に薄い満月が出ているようで、星の三神の象徴ではなくなっている。それは、アフラマズダ神が有翼日輪から姿を表しているからだろう。
そして、アフラマズダ神は左手に環を持つだけで、杖は持っていない。

アルタクセルクセス3世(在位前358-38年)の墓
『GUIDE』は、上翼に宗教的な場面が表される。「ペルシア風」服装の王は3段の台に立ち、やはり3段の台に置かれた高い祭壇の上で燃え盛る王家の火と向かい合う。各王は戴冠式で火を付けた。それは統治のシンボルで、王が亡くなった時にのみ消された。王は弓(イランの国家的な武器)を片手に持ち、讃美の所作でもう一方の手を開いて聖なる火に伸ばしている。
その上に王家の栄光(有翼の王の胸像)が浮かび、片手で輪(統治の象徴)を持ち、祝福のしるしでもう一方の手を開いて王に向けている。右上方に、新たに昇った月、分厚い三日月と薄い満月で表しているという。
やはり、アケメネス朝の摩崖王墓には、太陽はない。『GUIDE』は、王家の栄光(有翼の王の胸像)としているが、ゾロアスター教の最高神アフラマズダが、有翼日輪、つまり太陽から姿を現しているからだろう。
アフラマズダは環だけを持っているが、左で立つアケメネス朝の王は、左手で弓を杖代わりにし、右手は神を礼拝する仕草というよりも、環を受け取るために、アフラマズダの方に伸ばしている。
有翼日輪の起源についてはこちら
以前、アケメネス朝美術について、アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成という記事を作ったが、今回もまた王権神授図が西アジアに由来するものであることがわかった。
しかし、アケメネス朝の浮彫にはなかった杖が、サーサーン朝の初代の王アルダシール1世の王権神授図にのみ描かれているのは何故だろう。


     フーゼスタン州のパルティア美術

関連項目
スーサ3 博物館
スーサの出土品1 釘頭状壁面装飾はエラム
スーサ2 エラム時代の宮殿まで
サーサーン朝の王たちの浮彫
アケメネス朝の王墓
アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成

※参考文献
「世界四大文明展 メソポタミア文明展図録」 2000年 NHK
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館

マーシュランドの葦の家

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チョガ・ザンビールの遺跡に到着し、駐車場からジッグラトへと向かう途中に、チグリス河、ユーフラテス河の下流域マーシュランドに見られる葦の家のようなものが2つ並んでいた。
一家で住めそうな大きさだ。
側面は粗く風通しが良さそう。このような家屋は、これまで旅して日干レンガや焼成レンガの建物ばかり見てきた目には新鮮で、また、マーシュランドで見てみたいと思っていたものが、イランで見られて驚いた。
ガイドのレザーさんによると、この辺りはアラブ人が多く住んでいるのだという。

葦の家については、2000年頃にNHKで放映された「世界四大文明」シリーズの番組で知った。メソポタミア文明の時代から住居となっていた葦の家に、現在も人々が暮らしているという。内部には部屋の仕切りはなかったように記憶している。

何故メソポタミア時代に、葦の家に住んでいたことが分かるのかというと、浮彫に残っているからだ。

神殿奉納用の飼い葉桶 前3000-2800年 アラバスター 高16.3長103幅38㎝ イラク、ワルカ(ウルク)出土 大英博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、ウルク出土のこの「飼い葉桶」は、この町の女神でシュメール世界でもっとも人気の高かったイナンナの神殿に奉納されたものと考えられている。表面に施された浅浮彫りの図柄は、中央に蘆葦類を束ねて作った小屋を、その左右に山羊、羊を、左右対称となるように配している。ここに見られるような小屋は、現在でもイラク最南部の沼沢地域で見られるものであり、前3000年ころからずっと人々の住居として、また家畜小屋として利用されてきた。小屋の屋根から左右に突き出し、また浮彫り面右端にも見られる吹き流し状のものは、女神イナンナの象徴と考えられており、この時期のいくつかの浮彫り、円筒印章などにも見られる。左右の側面もこの吹き流しが姿を見せており、それと羊、ロゼット文様が、背中合わせに左右対称に配されているという。
側面には8弁の開花した花を、まだ完成されてはいないが文様として表していて、ロゼット文という文様の古さを知る手掛かりとなる。
また浮彫の葦の家は、人々の住まうためのものではなく、神殿なので、吹き流しというものが立てられているのだろうか。
あるいは、現在の葦の家の長い円柱状のものは、古い時代の吹き流し状のものが、簡略化されたものなのかも。
でも、葦の家から子羊が出てきて母羊を迎えているようでもあり、これは家畜小屋を表したものとも思える。


葦の家が表されている円筒印章の印影も見たことがあるはずだが、探しても見つからなかった。見つかればこの記事に貼り付けます。


※参考文献
「世界美術大全集東洋編15 西アジア」 1999年 小学館

ブルジュルドのマスジェデ・イマームとマスジェデ・ジャーメ

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マスジェデ・ジャーメだと思って行ったマスジェデ・イマームで、若い女性建築家が、マスジェデ・ジャーメはもっと向こうにあると言っていたのが気になって、ホテルに戻って『GANJNAMEH6』と『GANJNAMEH7』を開いてみた。
それで、見学したのは、マスジェデ・イマームの方だったことがわかった。
マスジェデ・イマームは『GANJNAMEH6』に、マスジェデ・ジャーメは『GANJNAMEH7』に記載されていた。
Google Earthより

見学したマスジェデ・イマームについて『GANJNAMEH6』は、西イーワーンの銘文に1209年と記されていて、それがこのモスクで最も古い記録の残る年である。カジャール朝期のこの町の統治者の1248年の署名があるという。
それぞれ西暦で1795年と1833年。古くは見えないタイルも、修復だろうと思って見ていた。

中庭から西イーワーンと、出入りした北イーワーン。
主礼拝室と東側礼拝室
同書は、マスジェデ・イマームの紀年銘はカジャール朝期だが、様々な時代に修復が行われているという。
小さいながら、昔から町として存続してきたので、カジャール朝以前からモスクはあったはず。修復によって紀年銘が消えたり、元々なかったりすることもあるのだろう。


平面図
東側礼拝室は、中央に並ぶ3本の円柱と、両壁から少し出ている程度の付け柱とで3つのドーミカル・ヴォールトが架かっている。
3本の円柱の内、奥の1本は焼成レンガで補強されている。
この円柱は珍しく石でできているので、転用材かもとも思ったが、本来はムカルナスを持ち送って迫り出していいるはずの柱頭が、ムカルナスらしさは失われているので、あまり古くはないかも。
イルハーン朝(14世紀前半)のドーミカル・ヴォールト。青タイルが、十字に組み合わせられていたりして、まだ色タイルが貴重な時代のようにも思える。
主礼拝室のドームはそれほど古くはなさそう。
頂部の明かり取りは、黒と青のタイルでリブを装飾したアーチ・ネット。
同書の図版
正方形の床から四隅の2面の壁面が、上部でその頂点に向かって、2枚のムカルナスの曲面となってせり出している。そうしてできた8つの尖頭アーチの上に円形を導き、ドームを架けている。
これは、サファヴィー朝のアッバース1世が建立した、イスファハーンのマスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーの主礼拝室の移行部がやや崩れた時代のもののようだ。
三次元投影図
チャハール・イーワーン形式で、北門と西門から出入りできる。

マスジェデ・ジャーメについて『GANJNAMEH7』は、サファヴィー朝アッバース2世の時代に建立された。西入口の上に1022年の銘文があるという。
この文を読んで1022年という数字だけが目に着いた。かなり古そうなので、行ってみたいと思ったのだが、英語版なのでヒジュラ暦だとは思いもしなかった。西暦1613年のことだった。他にも1092(西暦1682)年や1209年(西暦1795)年などの銘があるようだ。
こちらは、マスジェデ・イマームのようなチャハール・イーワーン形式(中庭に4つのイーワーンのあるタイプ)ではなく、簡素な造りである。金曜に人々が集まる町で最も格式のある会衆モスク Congregational Mosque なのに。


三次元投影図とは向きが反対だが、ずんぐりした一対のミナレットと、膨らみのないドームという素朴な外観。
同書は、記録と調査によって、このモスクの最も古い部分はドームで、後の修復で覆われている。焼成レンガの取り替えや補修が、9-17世紀に断続的に行われたことが判明した。モスクの最盛期はセルジューク朝時代(11-12世紀)である。主礼拝室の床下230㎝にある層が、イスラームの最初の世紀(西暦7世紀)の建物の痕跡の存在を示している。現在は焼成レンガの支柱と日干レンガのヴォールトで建てられている。主礼拝室と両側の副礼拝室は同じ地上レベルなので、同時期に建立されたことがわかる。西礼拝室の851(西暦1472)年と853(西暦1474)年のコインの発見は、礼拝室が9世紀(西暦15世紀)後半に建立されたことを裏付けるものだという。 
このドームやミナレットが後世の改築であるとしても、創建はアッバース朝時代に遡るほど古いものだった。
やはり創建がアッバース朝時代に遡る、イスファハーンのマスジェデ・ジャーメを纏めた記事マスジェデ・ジャーメの変遷を参考にすると、ドームが出来るのはセルジューク朝時代前半(11-12世紀)で、ドーミカル・ヴォールトが架けられるセルジューク朝後期はまでは、礼拝室は平屋根(陸屋根)だったはずだ。
素朴な雰囲気だが、古いまま残っているのではない。
まさにこの図版のドーム架構を見てみたいと思ったのだった。おそらくセルジューク朝(11-12世紀)にドームが架けられたのだろう。
正方形の上に尖頭のスキンチアーチで八角形を導き、更に上にもスキンチアーチを用いて小さな尖頭アーチを16個とし、円形に近づけてドームを載せている。この移行部の造りの緻密さは一見の価値がある。
そして、焼成レンガの組み合わせで壁面を装飾している点も見逃せない。
主礼拝室の東側礼拝室はイルハーン朝かも。




関連項目
ブルジュルド(Boroujerd)のイマーム・モスク
マスジェデ・ジャーメの変遷

※参考文献
「GANJNAMEH7 CONGREGATIONAL MOSQUES」 1999年
「GANJNAMEH6 MOSQUES」 1999年

敵の死体を踏みつける戦勝図の起源

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サーサーン朝の王権神授図や戦勝図には、王の乗る馬の足元に敵が踏みつけられていることが多い。
それについてはこちら

また、アケメネス朝では王墓には敵が登場しないため、そのような表現は見られないが、唯一の例かと思われるダリウス1世の戦勝記念碑浮彫にも、敵を踏みつける王が表されているらしいが、目視することはできない。
説明板は、前520-519年、 18X7.8m
王位簒奪者ガウマタと9名の反逆者に対する勝利を表した浮彫の周囲に、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の碑文がある。両手を上げて降伏を示したガウマタは王の足元に横たわり、捕虜たちは王向かい合っている。アフラマズダのシンボルである有翼日輪は、ダリウス1世に力の輪を授けようとし、王は右手を挙げて恭順を示しているという。
しかし、実際には足場があるため、王の足元は見えない。
現地で買った絵葉書で見ると、両手を上げて降伏したガウマタは・・・足場がなくてもよくわからないかも。
やっとガウマタがわかった。ダリウス1世の後ろに出ているのは、ガウマタの足だった。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトダリウス一世の碑文と浮彫には、「ダリウス一世に踏みつけられるガウマータ」として、両手を上に上げ、腹部にダリウス1世の左足がのせられた姿で描写されている。

『世界美術大全集東洋編16』は、このような形式はメソポタミアのアッカド王朝のナラム・シーン王の戦勝図やイラン北西部サリ・ポール・ズハッブのアヌバニニ王の戦勝図(前23世紀)などに由来する。ダリウス1世の右上にはゾロアスター教の主神アフラ・マズダーが表され、正当かつ正統な王位を象徴する環を同王に授与しようとしている(王権神授)。これもメソポタミア美術の王権神授図に伝統的な「環と棒」に由来するという。
同書にはサリ・ポール・ズハッブのアヌバニニ王の戦勝図は図版がないが、幸い、大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトサレ・ポレ・ゾハーブで詳しく知ることができた。
同サイトは、ケルマーンシャー市から西へ100㎞ばかり行くと、サレ・ポレ・ゾハーブという町に着く。イラク国境から20㎞の地点に位置している。 その市内に5つの浮彫があり、町に入る手前にアケメネス朝期とサーサーン朝期の遺跡がある。市内に5つある浮彫のうち4つは紀元前三千年紀後半から二千年紀前半にかけてのものとされ、イランではもっとも古い浮彫である。
古代のエクバタナからビーセトゥーンの山麓を通ってバビロンに通じる「アジアの道」に面している。ビーセトゥーンからは150㎞ほど西にあたる。町を流れる小さい川の手前の右側、小学校の裏庭にこの浮彫が位置している。同じ崖の下にはパルティア時代の浮彫が刻まれている。付属するアッカド語碑文によれば、ルッルビ国のアヌバニニ王が戦勝を記念して破った敵将を引き具してイシュタル女神の前に立っている図である。下部にはアッカド語の碑文が刻まれている。描かれた時代は紀元前三千年紀後半とも二千年紀前半ともいわれている。とりわけ、ビーセトゥーン浮彫のモデルと考えられているが、確証はない
という。

その図はイシュタル女神と向かい合うアヌバニニ王の足元に、敵がしっかり踏みつけられている。
サレ・ポレ・ゾハーブ(Sarpol Zahab)は、イラク、キルクークの南東170㎞辺りの町。

そして、ナラム・シーンの戦勝記念碑 アッカド王朝時代、前23世紀 高約2幅1.2m 赤色砂岩 スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、この戦勝記念碑はスーサから発見された。碑面には2種類の銘文が刻み込まれている。碑面上方の中央部付近にはかなり欠損してはいるもののアッカド王朝時代の銘が残っており、この記念碑がサルゴン1世の孫にあたるナラム・シーン(前2254-2218頃)がザグロス山中に住むルルビ族に勝利を収めたことを記念して作られたことを物語っている。その右手、山をかたどった上に刻み込まれているのは、前12世紀のエラム王シュトルク・ナッフンテのもので、彼がバビロニアに侵入した際、他の多くの戦利品とともにこの碑をシッパルの町から奪ってきたことを記している。これまでの浮彫りに見られた碑面を水平方向に何段にも仕切る線は姿を消し、斜め上方に向かう動きが、構図のなかに見事に組み込まれている。碑面頂部には神々のシンボルである天体が現れているが、そこに向かって全体が集約し、ダイナミックで堂々とした作品に仕上げられている。
この作品もまた、スーサに運ばれたナッフンテ王の略奪品だった。王は足下に敵兵の屍を踏み付けながら、誇らしげに武器を携えて軍の先頭を切って進んでいる。その姿は堂々としており、しかも写実的に表現されている。肩の部分は正面から見た格好をそのまま写しているが、その他の身体の各部分の描写には、側面または斜め前方から見た格好を取り入れている。目を側面から描出した浮彫りは、知られている限りではこの作品が最古であるという。
スーサに運ばれた略奪品についてはこちら
同書は、ナラム・シーンの姿は碑面中央にねひときわ大きく表されている。彼がかぶっている兜についた角飾りは一般には神のみがつけるものであるため、ここでは王に一種の神性を付与することとなったという。
敵兵の2名の遺体は、地面に横たわるのではなく、頭部と胴体がX字形に交差して宙に浮いてしいて、王の左足を置くためのもののようで、これもまた、王の神性の現れの表現とも思える。

アッカド王朝時代の浮彫り断片 前23世紀 イラク、ラガッシュ(テッロー)出土 石灰岩 ルーヴル美術館蔵
同書は、王の名前は欠損してはいるものの、サルゴン1世の後継者であるリムシュ(在位前2278-70頃)ではないかと思われている。碑には表裏両面にわたって戦闘の場面が繰り広げられている。人物の動きはさらに多様化し、動作は軽快で、人体表現に写実的傾向が強まってきているという。
ここでは箙を背負い、矢を引く人物が王ではなさそうだが、その下元に敵兵が倒れている。

エアンナトゥムの戦勝記念碑(禿鷲の碑)部分 初期王朝時代3期、前2500年頃 イラク、ラガッシュ出土 石灰岩 ルーヴル美術館蔵
同書は、ラガッシュの君主であったエアンナトゥムの戦勝を記念する浮彫りと、彼の事蹟を物語る碑文とが、表裏両面にわたって刻み付けられているこの大型の石碑は、一名「禿鷲の碑」とも呼ばれているという。
同書は、エアンナトゥムは兜をかぶり毛皮を身に着け、右手に武器を持って立ち、その後方には武装した歩兵の集団が続いている。兵士たちは一様に兜をかぶり盾と槍で身を固めているが、それぞれの頭、足、盾や槍を持つ手を引き出し、観念的に組み合わせた表現がなされている点が注目される。
歩兵の足下には蹴散らされている敵兵の姿が見られるという。
ひじょうに断片的だが、積み上げられた兵士の屍が埋葬されようとする場面と思われる。君主がこの場面にも登場していることが、わずかに残っている足先から判明するという。
王自身の足下にも敵兵の遺骸が2体横たわっている。

このように、王が直接敵を踏み付けているのではないが、兵士が踏み付けたり、王の足下に敵の屍が横たわっていたりする戦勝記念碑というのは、メソポタミアでは古くからみられるものだが、王自身が敵の遺体を踏むというのは、アケメネス朝のダリウス1世の戦勝記念図が最初かも。
そして、それがサーサーン朝の戦勝図へと受け継がれていったのだった。

関連項目
サーサーン朝の王たちの浮彫
スーサの出土品2 エラム時代の略奪品

※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトダリウス一世の碑文と浮彫サレ・ポレ・ゾハーブ

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館

サーサーン朝 帝王の猪狩り図と鹿狩り図

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ターキ・ブスタン大洞はイーワーン式洞窟のファサード、奥壁の上下に高浮彫の図像がある。
詳細についてはこちらそして、左右側壁下半分には国王の猪狩りと鹿狩りの浮彫がある。

左壁 猪狩り図
『世界美術大全集東洋編16』は、長方形の枠の中に幔幕を巡らし、そこで大がかりな狩りを行う帝王を描写している。この狩りが湿地で行われていることは多数の葦の存在によって明白であるが、ターキ・ブスタンには今も清水が湧き出る泉があるから、その水が潤す遺跡周辺は当時、湿地帯となっていたのであろう。また、周辺には狩り場の囲みを想起せしめる土塁の跡がある。それゆえ、この狩りはこの地域で行われた蓋然性が高いという。
斜めから部分的にしか写せていないが、象に乗って猪を追う者たち、舟に乗る者もいて、追い詰められた猪の群れが逃げ惑う場面が、壁面を覆い尽くしている。
全体図
弓矢を構える国王は、現状では雨水の浸入で白く変色した部分に辺り、見ていても判別できなかった。だから洞窟内で撮影された『世界美術大全集東洋編16』の図版は非常に助かる。
同書は、狩りの概要はまず、画面左端のインド象に乗った勢子たちが猪の群れを追い立てることから始まる。多くの猪が重層法(上下遠近法)で描写されている。その猪を帝王たちが待ち構えて射るのである。殺された猪は従者たちが集め、それらをインド象に乗せて幔幕の外に運び出す。そして、その後に宴会が催されたのであろうという。
同書は、画面の中央には小舟に乗った帝王が合弓を引き絞って猪を射殺しようとしているが、すでに殺された獲物が2頭大きく描写されているという。
王の前で斜め下に向かっている大きく表された2頭の猪は、すでに殺されたものだった。
この帝王の向かって右方には同じく小舟に乗り、合弓と矢を持つ王侯が描写されている。その外観は帝王とほぼほぼ同一であるが、円形頭光で荘厳されている点が異なる。これは帝王のフラワシ(霊魂のようなもの)ど、春分の日近くになると天上から降下するといわれる
ので、春の豊饒祈願祭(ファルヴァルディーガーン祭)に帝王と一緒に、農民の敵たる猪を殺害する儀式に参加していることを表していよう。この狩りは帝王の栄光を称えるためのものであるから、狩りは帝王とそのフラワシだけで行われ、他の人々はそれを許されてはいない。楽士が小舟から奏楽し、他の臣下か帝王たちの「偉業」を賛美しているという。
2隻の小舟に乗っているのは竪琴を引いている楽士たち。

帝王猪狩り図 7世紀 ストゥッコ 84X142㎝ チャハル・タルカーン・エシュカバード出土 フィラデルフィア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、テヘランの南ライからほぼ30㎞の地点には先史以来イスラーム時代に至る遺跡が点在しているが、そのなかにササン朝末期の城塞遺跡があり、アメリカの調査団によってその一部が発掘され、宮殿などの壁画を飾っていたストゥッコ装飾が断片ではあるが大量に発見された。ストゥッコはササン朝時代において、テシフォンやキシュの宮殿建築の装飾や塑像の素材として早くから使用されていた。この作品はその一部で、帝王の猪狩りを描写したものである。画面の周囲にはさまざまな植物文や動物文が配されているが、これらはササン朝の美術ですでに用いられていたものである。繰り返しの多い文様はすべて型押しで制作されているという。
同書は、中央の狩猟文はターキ・ブスタン大洞左壁の狩猟図を簡略化したものと考えればよかろう。帝王の名は特定できないが、おそらくホスロー2世などの王冠形式をモデルとしているのであろう。画面上段の連珠文の中の猪頭は軍神ウルスラグナの化身で吉祥、戦勝や大地の豊饒をもたらすと考えられていた。下段の有翼人物胸像はしばしば、ササン朝のスタンプ印章の図柄にも用いられているが、おそらく、同種の牡牛羊文と同じく、若者に変身したウルスラグナ神の化身であろうという。

ターキ・ブスタン大洞右壁
『世界美術大全集東洋編16』は、帝王鹿狩り図は、帝王が秋(秋分の日)に行う公式の行事(ミスラカーナ祭=豊饒感謝祭)を表すという。
なるほど、大きな角の鹿が列をなして疾駆している。
とはいえ、実写では外から斜めに見るしかないので、わかりにくい。やはり『世界美術大全集東洋編16』の図版が頼り。
国王の右の人物群像をはじめ、浮彫がおわっていないものが目につく。完成を見ない内に王朝が滅んでしまったのかも。
最下段の角のない鹿だけが首にリボンを巻いている。そしてこの鹿は枠外にもう一度登場していて、その下の人物は横向きになって立っているが、これは何を表しているのだろう。


サーサーン朝末期ともなると、王を含め人物像はずんぐりとしてしまうみたい。

関連項目
ターキブスタン サーサーン朝の王たちの浮彫
銀製皿に動物を狩る王の図
アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館

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