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『イスラーム建築の見かた』は、サファヴィー朝以後シーア派を標榜したイランでは、ミナレットは建築の装飾として用いられるだけで、アザーンはイーワーンの上に設けられたゴルダステと呼ばれる小屋から唱えられるようになるという。イーワーン上の小さな建物は監視塔だと思っていたが、ゴルダステという、シーア派でアザーン(礼拝への呼びかけ)をするものだった。朝散歩で、外側から見えたマスジェデ・イマームの北西イーワーンの上にあるこの小屋である。東西南北の各方向を向いてアザーンを唱えていたのだろうか。チャハール・イーワーン形式の中庭から見ると。
そして、同じくチャハール・イーワーン形式のマスジェデ・ジャーメの西イーワーンにも。ただし、このイーワーンが建造されたのは、セルジューク朝後期(12-13世紀)。その頃はスンニ派だったので、ミナレットからアザーンを朗唱していたはず。しかし、マスジェデ・ジャーメで唯一ミナレットがあるのが南イーワーン。このドゥ・ミナール(ミナレットが一対あるもの)は、ティムール朝時代(15世紀)に付け足された。ということは、ティムール朝からサファヴィー朝になるまでの間は、ここから礼拝への呼びかけを行っていたのだろう。 柵は木製だが、ミナレットの下部から頂部のドームまで、塔身が通っている。
では、ティムール朝以前はどこにミナレットがあったのだろう? マスジェデ・ジャーメに入ったところで、その変遷を図解してあったが、 アッバース朝時代(8-10世紀)・ブワイフ朝期(11世紀)の図面には、ミナレットが描かれていない。セルジューク朝前期(11-12世紀)になると、北ドーム室(ゴンバディ・ハーキ)の背後、周壁の外側にミナレットかなと思われる円塔があるが、サレバン・ミナレット(1130年)やメナーレ・マスジェデ・アリー(11世紀後半)のような細長いものと比べると、ずんぐりしている。どちらかというと、カリャン・ミナレット(カラハン朝、1127年)に近い。セルジューク朝後期(12-13世紀)になると、その円塔はなくなり、代わって北イーワーン室の北側にドゥ・ミナーレが建てられ、それはイル・ハーン朝期(14世紀前半)まで存在したが、ムザッファール朝時代(14世紀後半)に北イーワーンから北ドーム室までが屋根で覆われた時に取り外されたようだ。 マスジェデ・ジャーメは、最初期から改宗モスクだった。『イスラーム建築の見かた』は、9世紀前半になると、ミナレットが街の大モスクに必ずといってよいほど建設されるようよになり、ここから礼拝への呼びかけがなされた。初期イスラーム時代には、先述したようにモスク建築が多柱式で低平な広がりをもちドームを使うことは稀で、ミナレットはモスクにおける空に聳える唯一の要素であった。ミナレットは呼びかけの塔であると同時に、モスクのシンボルでもあったという。様々な調査が行われてきただろうが、その当初のミナレットの場所は、まだ解明していない。
マスジェデ・ジャーメ チャハール・イーワーン←
関連項目マスジェデ・ジャーメの変遷イスファハーンで朝散歩マスジェデ・イマーム1
※参考文献「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
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東寺に観智院という塔頭がある。 『東寺観智院の歴史と美術』は、東寺は、平安京の条坊制でいうと左京九条一坊にあり、南大門から北大門まで一直線に金堂・講堂・食堂が建ち並んでいる。創建以来、文明18年(1486)の土一揆による放火や文禄5年(1596)の地震など幾度か災害に遭ったが、その都度再建され、1200年前の平安京遷都以来、その位置を変えることなく現在に伝わっている。この伽藍の北限にあたる北大門を一歩外に出ると、八条通に面した北総門まで櫛笥小路(くしげこうじ)が続いている。この小路は、平安時代以来、そのままの幅で残っている京都市内で唯一の小路である。江戸時代まではこの小路の両側に、十五箇院ともいわれる多くの院家(寺僧の住坊)が建ち並んでいたという。
八条通に面している北総門 鎌倉後期その左前の祠には、石造の不動明王 時代不明 北大門との間が櫛笥小路。向こうの大きな屋根は食堂。 板蟇股や舟肘木の簡素な四脚門をくぐって、 櫛笥小路に入ると、左手(東側)には院家の塀が続いているが、右手は学校になっている。観智院は櫛笥小路の南端近くで、その門と五重塔を確認。
同書は、平安時代、伽藍の北にあたるこの場所には、花園や水田、町家などがあった。鎌倉時代末期、後宇多法皇の六箇の立願により、寺僧の「止住僧坊(院家)」の建立が企画された。小野勧修寺流を継承した杲宝(ごうほう)が観智院を創建することとなり、延文4年(1359)、北大門の北東の位置に、観智院は上棟したという。 16年12月に修復が終了し、17年春に特別公開されている。拝観入口となる庫裡前の庭。ミツマタの花が満開をやや過ぎて、苔の上に花が落ち始めており、その周りに置かれた伽藍石や鬼瓦も目に留まった。多分左右対称に雲が表されていたのだろう。額に法輪を付けたものは、法隆寺の西院妻室鬼瓦(慶長年間、1596-1615年)と共通するが、何時の時代のものだろう。こちらは顔が短いわりに4条の顎鬚と上方にそそり立つような髪は長い。 北西隅、蹲踞(つくばい)の脇に置かれた良い形の灯籠。織部灯籠ほど顕著ではないが、竿に控えめな出っ張りがある。
庫裡から入る。
渡り廊下を右折して、「楼閣山水図」の襖絵のある羅城の間の障壁画を廊下から鑑賞。全体は写っておらず、右側の柱の間に描かれた楼閣山水図は4枚続きとなっている。ここは、壁面のように見せて、隣の武者隠しの「暗の間」から警護の者が襖を破って入って来られるようになっている。
観智院平面図(『東寺観智院の歴史と美術』より)警護の者たちが控える「暗の間」そして「使者の間」と廊下から見ていき、突き当たると枯山水の細い庭がある。その庭は客殿正面の方へと続いている。観智院のリーフレットは、この客殿は慶長10年(1605)に再建されたもので、入母屋造り、軒唐破風を付けた桃山時代書院造りの一典型であるという。
リーフレットは、違棚、棹縁天井、竹の節欄間、帳台構の機能は住房生活が考えられ、住宅建築として貴重な存在であるという。お寺の説明では、猿棒棹縁天井といって、棹縁に面取りがあって、断面が猿の顔に似ているとか。
客殿は奥が上段の間となっており、宮本武蔵が描いたという襖絵が現在でも残っている。 『東寺観智院の歴史と美術』は、鷲図と竹図は、極めて独特な表現を示しており、寺伝では「剣聖」として有名な宮本武蔵(1584-1645)によって描かれたとされる。客殿が再建された慶長10年(1605)頃には、武蔵はまだ20代であり、若年でこのような障壁画を描くことができたか疑問である。ただし、武蔵50歳代半ばの作と考えられている蘆雁図屏風(永青文庫所蔵)などと比べると、武蔵による後年の作の可能性は大きいだろうという。上段の間の方は、入って鑑賞することができた。
同書は、宮本武蔵は、剣客として細川家に仕える傍ら、余技に水墨画をよくし、禽鳥を描くことに長じていた。『画乗要略』(江戸時代中期、白井華陽書)に、宮本武蔵善撃剣、世所謂二刀流之祖也、平安東寺観智院有其画山水人物、法海北氏気豪力沈、」とあるように、宮本武蔵は海北友松(1533-1615)に絵画を学んだといわれている。筆法鋭く覇気せまる画技は、海北友松に共通するところが多いという。武蔵の水墨画の作品は、「枯木鳴鵙図」や「正面達磨図」、「布袋観闘鶏図」などは知っていたが、京博で現在開催されている特別展の「海北友松」に学んだことは知らなかった。終わらないうちに見に行かねば!
鷲図 上段の間東側 お寺の説明では、武蔵は20代前半、観智院に身を寄せていて、そこで海北友松と知り合って、水墨画を習ったということだった。右上に、空中で身を翻して左下を見下ろす鷲。獲物か敵を見つけたような鋭さがある。左下にいる鷲は、しかし、右上の鷲を見ておらず、着地しようと右足を出している。やや丸まって、負けを認めているようでもある。ただ、武蔵の絵は、植物の葉先や鶏の尾羽などの先の鋭さというものが、昔見ただけだが印象に残っている。その鋭さが、鷲の先に描かれた雑草の、何気ない風景の描写のようで、しっかりとした線に現れているように思える。
竹林の図リーフレットは、竹があたかも交差する二刀のように張りつめた緊張感で描かれ、二刀流武蔵の心意気が感じられるという。竹の節が極端に太く描かれている。竹だけでなく、葉も淡墨で描かれ、消え入りそうだが、その線は力つよい。細い枝の描き方も鷲図の草に共通する。
この襖絵の向こう側が羅城の間の奥の障壁画になっている。
楼閣山水図 奥(南)の襖4枚と続く右(西)の1面『東寺観智院』は、羅城の間の楼閣山水図には、海北友松の影響が強くみられ、単なる寺伝としてあながち否定するわけにもいかないという。
楼閣山水図 西の襖4枚上図と比べると、簡略化された楼閣と、消え入りそうな樹木だけという静かな風景の描写となっている。これは、先ほども記したように、隣接する「暗の間」から襖を破って警護の者が駆けつけるためのものなので、簡略に描いているとも考えられる。絵のあるところだけを拡大。樹木は奥の障壁画の描き方と似ている。![]()
本堂を拝観した後、四方正面の庭に向かっていると、「どうぞ写して下さい」と言われた。観智院は撮影禁止だったが、唯一写すことができたところ。それは、四面正面の庭と本堂の間の廊下の先にある極楽橋から見える書院の襖に描かれた満月の図で、書院の襖に描かれた、浜田泰介画伯の「四季の図」の内、「秋の音」図の満月が見えているのだった。そして四方正面の庭を拝見して終了。
外に出て客殿の屋根が杮葺き(こけらぶき、柿は木偏に市、こけらは木偏に一+えんがまえ+縦棒)なのに気付いた。 その屋根をしっかりと写そうと思って移動していて、この八重桜の花房が吊り下がっているのに気付いた。ちょっと珍しいかな。 しかし、屋根は大きな木に阻まれてしまった。
北大門へと向かう。 こんなところに堀があるとは思わなかった。欄干が石で造ってあっていい雰囲気。 太鼓橋だった。その真ん中から石製の欄干と西側の堀を写す。高欄笠石は曲線になっているように見えたが、ただ傾きを持たせているだけ?束石の形も面白い。北門を入って、隙間から観智院が見えたが、やはり客殿の屋根は姿を現さない。さっきの堀の続きに架かる橋の高欄笠石は木製に取り替えられていた。
※参考文献「東寺観智院の歴史と美術-名宝の美 聖教の精華」 2003年 東寺(教王護国寺)宝物館
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観智院客殿の説明が終わると、同院の解説をしている人に従って本堂へ。本堂は宝形造の建物で、大きな宝珠を頂いている。『東寺観智院の歴史と美術』は、客殿の東側に位置する本堂は、嘉慶2年(1388)2月、五大虚空蔵像を安置する小堂を造立したのが始まりとされる。享禄2年(1529)ら五大虚空蔵像の勧進が行われているので、この頃、現在とほとんど同規模の本堂が建立された可能性があるという。
同書は、杲宝は、観智院を創建して2、3年後の康安2年(1362)に死去する。そのため、観智院の本尊は、杲宝の在世中にはまだ安置されていなかった。本尊の五大虚空蔵像は安祥寺の恵運(798-869)が請来したと伝えるものである。賢宝は、永和2年(1376)2月、観智院の本尊として、五大虚空蔵像を京都山科の安祥寺より移動修理を行った。そして、嘉慶2年(1388)、観智院に新しく小堂を建立し、修理完成した五大虚空蔵像を観智院の本尊として安置したという。幔幕や幡で荘厳されているために、奥の檀上に安置されている五大虚空蔵像は、良くは見えなかった。中国の仏像には珍しく、木造である。横から見ても幔幕に阻まれるのだが、その風貌が日本の仏像とは異なるので、もっとしっかりと見たかった。そして、5体の高さがそれぞれ異なっていたのを、このように5つの画像を並べても、よくは表せない。中央の馬座の法界虚空蔵像が一番高く、左の孔雀座の蓮華虚空蔵像と迦楼羅座の業用虚空蔵像が最も低かった。そして、顔はよく似てはいるが、大きさもそれぞれ異なっていた。
五大虚空蔵像 唐時代 木造・古色・練物盛上東方 金剛虚空蔵(獅子座) 高75.4南方 宝光虚空蔵(象座) 高75.0中方 法界虚空蔵(馬座) 高73.5西方 蓮華虚空蔵(孔雀座) 高70.6北方 業用虚空蔵(迦楼羅座)高70.1元々は奥行のある矩形の檀中央に法界虚空蔵像、四方にそれぞれの方位の虚空蔵像が安置されていたのだ。『東寺観智院の歴史と美術』は、五尊はいずれも蓮台まで広葉樹による一木造で、それぞれ別製の鳥獣座に右足を外にして結跏扶坐する形で表されている。蓮華虚空蔵の孔雀や業用虚空蔵の迦楼羅の台座は、賢宝が観智院に安置した時から欠失しており、その後、文禄5年(1596)の地震で、本堂は倒壊し、五大虚空蔵像も損傷を被ったため、いずれも後補の部分が多い。「賢宝法印記」が観智院聖教の中に現存している。これによって、台座墨書銘の若干の文字を補うことができ、五大虚空蔵像は上安祥寺の根本北堂に安置されていたことがわかるという。安祥寺については安祥寺の調査研究というページにより、嘉祥元(848)年、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子(809-871)の発願により、入唐僧・恵運(798-869)が開山した真言系の密教寺院であることがわかった。恵運が唐から持ち帰ったもの、あるいは藤原順子が発願した時に請来されたもので、晩唐期の仏像ということになる。
業用虚空蔵像
顔はのっぺりとはしているが、鼻筋は通っている。その風貌は日本の仏像とは違うが、唐時代の仏像。『もっと知りたい東寺の仏たち』は、表面は彩色仕上げとするが、現状は黒漆塗りによって黒化している。鼻梁を長く執ったのっぺりとした面長な顔立ちや、四角張った脚部といった造形は、日本の彫刻には見出せず、中国唐代後半期の作例か。頭髪や臂釧・胸飾などの装身具は練物を用いて塑形しているが、これも中国彫刻にしばしば見出せる技法であるという。そして瞳が小さな玉のように、上下の瞼に挟んで表されている。『東寺観智院の歴史と美術』は、瞳は練物を盛るという中国的な技法がうかがえるという。瞳も練物だった。両肩に掛かる垂髪は豊かに表されている。金剛虚空蔵と宝光虚空蔵 宝冠を被り、やや細身ではあるが腹部は出るなど共通点は多いが、それぞれに風貌も、腕の曲げ方も違っている。同一工房で別々の仏師が造ったのだろうか。獅子座この程度の枘で、仏像を支えられるのだ。初唐期の順陵の走獅よりも頭部が小さくバランスが良い。
法界虚空蔵像 同じく順陵の仗馬と比べると、肢が細くもたてがみも扁平に仕上げてあり、獅子のたてがみや尾の房、肢の巻毛などが豊かに表現されているのとは対照的だ。
ところで、宝光虚空蔵は鼻の短い象の上に置かれた蓮華座に結跏趺坐しているが、東寺講堂の帝釈天は半跏の姿勢で直接鼻の長い象に乗っている。
帝釈天坐像 承和6年(839) 木造彩色 坐高105.2㎝ 『もっと知りたい東寺の仏たち』は、一面二臂であるが、三眼を表す。甲冑を身に付け、その上に菩薩のように条帛や腰布などを纏っている。創建当初の像であるが、補修が多く、頭部が全て後補のものに代わり、右腕や台座(象座)なども後世に補われたものであるという。象も頭部も後補だった。
象はともかく、五大虚空蔵像と東寺講堂の帝釈天像は、制作時期が近いのではないかと思われる。 『中国の仏教美術』は、晩唐に入ると会昌5年(845)、武宗による廃仏が行われ、中原地域で目を見張るような作品は今のところ知られていない。晩唐の彫刻は、中唐に引き続き肥満あるいは長身といった傾向をもち、現存作品で判断する限り、隋や初、盛唐の像にみられるような超塑性は失われているという。それに比べると、帝釈天像は、力のみなぎった作風で、新しい都で、密教という新たな仏教が隆盛していく先駆けとなる勢いが感じられる。
東寺 観智院1武蔵の水墨画←
関連項目唐の順陵2 南門の走獅唐の順陵5 獅子と馬
※参考サイト 安祥寺の調査研究
※参考文献「東寺観智院の歴史と美術-名宝の美 聖教の精華」 2003年 東寺(教王護国寺)宝物館「もっと知りたい東寺の仏たち」 東寺監修 根立研介・新見康子 2011年 東京美術「中国の仏教美術」 久野美樹 1999年 東信堂
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東寺宝物館には兜跋毘沙門天像が展示されている。久し振りに見たこの像は、千手観音像(平安、像高584.6㎝)と同じ展示室の隅に置かれていたせいか、記憶していたよりも、ずっと小さく見えた。
『もっと知りたい東寺の仏たち』は、当初は平安京の南端の羅城門に安置され、門転倒後に東寺に移されたと伝えられる毘沙門天像。『東宝記』にはこの像が城門に安置される根拠として、中国の西域の安西城に出現して、外敵を退散されたという毘沙門天像に由来するという因縁譚が紹介されているという。
兜跋毘沙門天像 唐時代後半 木造 彩色・漆箔・練物 像高189.4㎝同書は、中国唐時代も後半期に造られたとみられる像で、中国産の桜の一種と思われる材を用いて造られている。瞳には異材を嵌め込んでいることや、鎧の各所の飾りも練り物によって塑形されている点、あるいは両目を吊り上げた面長のいささか異様な顔立ちといった点などに中国彫刻の特色が認められるという。 冠には正面向きの鳳凰が浮彫される。瞳に嵌め込まれた小さな黒い玉は異材と解説されるが、観智院の五大虚空蔵像のように練り物ではないらしい。同書は、その姿は通常の毘沙門天像と大きく異なり、裾長の金鎖甲という鎧を着け、両腕に海老籠手を付けるという。 戦いに向けた服装であるのに、鎧の下に出た裳裾は柔らかな薄手の布のよう。海老殻状の脚絆と靴を付けた毘沙門天の台座もすごい。 同書は、尼藍婆・毘藍婆の二鬼を従える地天女の両手掌の上に立っているという。東寺のホームページによると、向かって右が尼藍婆(にらんば)、左が毘藍婆(びらんば)
そう言えば、講堂の多聞天も地天女が支えていたような。
同書は、東西方向に長大な講堂の基壇には、21体の仏像が安置されている。すなわち、中央には、五仏が鎮座する。丈六の大日如来像を中心にして、その周囲に半丈六の四仏が並ぶ。五仏の向かって右隣(東方)には、五菩薩が鎮座する。五仏の左方(西方)を見ると、五大明王像が鎮座する。この主要な15尊の周りには、等身大の梵天・帝釈天・四天王の6体の像が配置されている。これらの群像は、承和6年(839)に開眼されたものとみられる。ただし、五仏と五菩薩中尊は、文明18年(1486)年に土一揆のために焼失し、現在は再興像に代わっており、残りの15体が当初のものであるという。
同書は、造像当初の15体はいずれもヒノキを用いた一木造りの技法で造られたものである。ただし、補修の多い帝釈天像と多聞天像を除くと、他の像はいずれも髪など、像の表面の各所に乾漆(漆に木粉や繊維などを混ぜたもの)による塑形が認められ、奈良時代の木心乾漆造りの伝統が継承されている。東寺講堂所尊像は奈良時代の伝統を受け継ぐ官営工房系の仏師の手によって製作されていると思われるが、彼らが密教僧の指導を受けながら、前代には見ることのできなかった新奇な密教彫像を造り出していったのであるという。
多聞天像 承和6年(839) 木造 彩色・切金文様 像高164.7㎝同書は、比較的補修が多く、体部は後補の厚手の彩色に覆われている。ただし、頭部については、近年の修理で後補の彩色が除去され、当初の顔立ちが現れたという。 四天王はどれも顔が小さく造形されているが、その中で多聞天は、肉付きのよい丸顔である。
同書は、二鬼を従えた地天女に立つ姿をしており、四天王像中にこの種の多聞天像が加わるのは大変珍しい。地天女や二鬼は概ね後補のものに代わっているが、当初からこの形を取っていた可能性があり、謎の多い像であるという。 体部は塊量感がある。暗い中で、しかも講堂隅の奥に安置された多聞天像はよくは見えなかったが、前面に置かれた持国天と比べてなんとなく違和感が感じられたのは、彩色というよりも截金によるものだったのだ。いつの時代に施されたものかわからないが、文様の種類も多く、丁寧な仕上げではある。
ただし、二鬼を従えた地天女が支える台座が後補なのは残念だった。それでも造像当時もこのような台座であった可能性もあるという。その場合、兜跋毘沙門天像を参考にしたと考えてよいのだろう。
東寺 観智院2仏像は唐時代のもの←
関連項目東寺 観智院1武蔵の水墨画
※参考サイト 東寺の宝物館
※参考文献 「もっと知りたい東寺の仏たち」 監修東寺 根立研介・新見康子 2011年 東京美術
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昔は新幹線の車窓からこの五重塔が見えてくると、京都に着いたなと感じたが、新快速が便利になって新幹線にを使うことはなくなってしまったので、そのワクワク感がなくなったのは残念ではある。また、これまでは南大門から境内に入っていたので、今回のように北総門から段々と南下し、五重塔が少しずつ大きく見えてくるというのは初めてだった。
もちろん、建物や樹木などがその前に立ちはだかっているので、五重塔が垣間見える程度なのだが。東門近くの駐車場より。右端が拝観受付。右手には食堂があり、柵の中に講堂・金堂と並んでいる。
話は違うが、樹木の下には礎石がたくさんあった。講堂右手には礎石が二列に並んでいた。建物焼失前の礎石が並べてあるのだろうか。 奈良時代などの寺院址から出土する礎石と比べると小さい。
講堂脇より五重塔に向かう通路より。再び五重塔が姿を現し、通路の両側にも礎石が並んでいる。これが経蔵跡の礎石かな。
東寺五重塔は木造の塔としては日本で一番高いと言われている。その姿も美しいが、現存のものは江戸時代に建てられたものだ。
五重塔 寛永21年(1644) 3間5重塔婆 本瓦葺 高さ54.843m『もっと知りたい東寺の仏たち』は、創建時の五重塔は、元慶7年(883)からしばらくして建てられたようであるが、その後度重なる災禍により、4度の焼失を繰り返したという。その姿は古様を写して美しいと、昔々何かで読んだような気がする。ただし、午前中はこの宝光からは逆光となり、南や東から写そうとすると、植え込みがあるために全体が収まらない。
南東の邪鬼再建時には彩色されていたらしい。南西の邪鬼
南東より初層 特別拝観は東から入り反時計回りに進んで南から出る。
『もっと知りたい東寺の仏たち』は、初層内部には、心柱を大日如来に見立て、その周囲の須弥壇上に阿閦(東方)・宝生(南方)・阿弥陀(西方)・不空成就(北方)の金剛界四仏の彫像とねその四仏に二尊ずつ従う八大菩薩の彫像が配されている。さらに、須弥壇四隅の四天柱には金剛界曼荼羅諸尊が、初層四周の柱には八大竜王図が、壁には真言八祖像が描かれている。こうした彫像及び画像からなる尊像の構成は、塔が初めて建てられた9世紀後半に遡る可能性もあるが、大日如来を中心とする真言密教の一種の曼荼羅の世界を形成していると見られるという。同書は、内部の仏像も、塔の再建と同時並行して再興されたもの。この時期の東寺大仏師は七条仏師の康音とみられるが、当時の七条仏師の作風は鎌倉彫刻を基調とする写実的なものである。しかしながら、四仏及び八大菩薩像の造形には多少素朴さがあり、『聞書并日記』には、担当仏師を「奈良大仏師」としており、この仏師が誰に当たるかは謎が残るという。四天柱の金剛界曼荼羅諸尊像はほとんど剥落してしまっているが、丸い区画の間地には黒地に七宝繋文が表され、比較的よく残っていた。初層仏像群 木造漆箔 寛永21年(1644)同書は、四仏は、講堂像に類似した通形の姿で表されているが、八大菩薩像は8体ともほぼ同様な姿で表され、両腕の構えにわずかな違いをみせている。12体いずれも、構造の詳細は不明ながら、ヒノキ材を用いた寄木造りの技法で造られ、表面は漆箔仕上げとし、目には玉眼を嵌め込んでいる。謎の多い仏像群であるが、江戸時代前期の基準資料として貴重という。
東方 阿閦如来三尊像 像高64.8㎝ 左脇侍:弥勒 右脇侍:金剛蔵北方 不空成就如来三尊像 像高64.8㎝ 左脇侍:普賢 右脇侍:地蔵西方 阿弥陀如来三尊像 像高65.1㎝ 左脇侍:文殊 右脇侍:観音南方 宝生如来三尊像 像高62.8㎝ 左脇侍:除蓋障 右脇侍:虚空蔵
五重塔を離れ、南大門を見ようと思ったが、柵があるため直接出られない。境内から出るには、拝観受付まで戻らねばならないので諦め、池の東側を通っていった。この辺りから多くの人たちが写真を撮っていたので、行ってみると五重塔が見えていた。受付を出て、宝物館も見て、大宮通りに出ようと東門を目指していたら、校倉造の宝蔵のある周囲の堀から再び五重塔が。蓮はまだ芽が出たばかりのようで、塔が水面に映っていた。
東寺 兜跋毘沙門天像も唐時代←
関連項目東寺 観智院2仏像は唐時代のもの東寺 観智院1武蔵の水墨画
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展示室に入って最初に出会ったのが小さな天王立像で、それは法隆寺四天王像によく似ていた。日本にも同じような天王像があったのだ。
天王立像 飛鳥時代(7世紀) 木造 高51.7㎝ 東京藝術大学大学美術館蔵同展図録は、首をガードするような高さのある大きな襟が特徴的な上衣を着け、縄状の帯を締めている。静かにうずくまる邪鬼を含め、最古の天王像として知られる奈良・法隆寺金堂の国宝・木造四天王立像と共通点が多く、現存稀な飛鳥時代の天王像のひとつとして重要な作例である。構造は頭部から邪鬼までをクスノキの一材から彫出したもので内刳は施していない。上衣の襟には大きくカラフルな縦縞の彩色が残り、衣裾のドレープが丁寧に表現されるなど、小像ながらも完成度の高い造像である。また、高い髷をつくる、天衣を胸前で結ばないなどといった点で、先の法隆寺金堂木造四天王立像と異なる特徴を併せ持つことは興味深いという。東京藝術大学大学美術館天王像(東藝大本とする)の胸前の甲冑は、文様というよりも、年輪の層が浮き出ている。まず、法隆寺の四天王像と大きく違っていたのは、その表情だった。 同展図録は、口を開き険しい表情でまっすぐ前方を見据えるという。額上の3つの穴には、法隆寺本と同様に、金銅製の透彫冠が付いていたことを示している。法隆寺四天王像うち多聞天立像 飛鳥時代(7世紀)眉は吊り上がっているが怒りの形相ではない。目は杏仁形がやや崩れたような形で、瞳は表されていない。同書は、総じて飛鳥時代の天王像は、絵画作品も含め当時の中国すなわち隋・唐時代に流行した像容とはやや異なり、四川省成都市・万仏寺址から出土した南北朝時代・梁(502-57)の石造天王立像をはじめとする、一世代前の造像に通じるすがたである。このような天王像の像容におけるタイムラグは、飛鳥時代の仏像美術を研究する上で重要なテーマのひとつであるがいまだ不明な点が多いという。中国からの仏教文化は、飛鳥・白鳳時代は韓半島を経由して入ってきたので、古い時代の様式、天平時代になると、直接当時の最新様式のものが請来されるようになったという風に言われて来た。
天王立像 四川省成都市万仏寺址出土 南朝時代(6世紀) 砂岩 中国国家博物館蔵
『中国国宝展図録』は、襟の立った長袖コート状の鎧を身につけ、腰にベルトを締める。裾に規則的に刻まれた下衣の襞がのぞいている。大きな肩布をはおり、その下に胸甲らしいものの輪郭線が表される。
法隆寺金堂四天王像(飛鳥時代)は、上に述べたような形式を備えており、その関連が注目されるという。確かに法隆寺四天王像(法隆寺本とする)と似ているが、法隆寺本は立て襟が筒状で、どんな風に着るのかわからない。その点、東藝大本は、左右に開いた襟になっている。口が開いてるのは東藝大本と共通する。そして本像が、飛鳥時代に制作された法隆寺本とも、東藝大本とも異なるのは、革製のベルトを締めていることだ。飛鳥時代のものは、どちらも縄状に撚りをかけた布状のものである。
康勝釈迦諸尊像 四川省成都市出土 梁、普通4年(523) 石造 成都市四川省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』(以下『南北朝』)が、左前方には大袖の衣に鎧をつけ長靴を履いた神将像という。襟は後頭部を隠すほどに大きく、胸元で外反している。天王像は蓮台に乗るが、その下には邪鬼が身を丸めている。東藝大本がその上に立つ邪鬼は、両手で天王像の垂らす天衣の端を支えている。天王像に踏みつけられて懲らしめられているというよりは、天王像と共に外敵から護るために、目を見開いて構えているようだ。では法隆寺本が踏みつけている邪鬼はどうだろう。 法隆寺本の邪鬼は、その下の岩とともに、非常に特異な造形である。ただ、奈良時代以降の邪鬼のように、踏みつけられているのではなく、それぞれの天王像の使いとして、棒状のものをそれぞれの手で支えているように見える。どうやら、飛鳥時代の四天王像は、侍者として邪鬼を足の下に侍らせているらしい。
法隆寺で仏像が造られた頃、寺院を建立するほどの力はなくても、屋敷の中で仏像を安置し、その像を護るために四天王像も欲しいと思って、法隆寺本に真似て造らせた人もいたのかも。
関連項目 国宝法隆寺金堂展には四天王像を見に行った法隆寺金堂四天王像の先祖は
※参考文献 「木X仏像展図録」 編集大阪市立美術館 2017年 大阪市立美術館・産経新聞社「国宝法隆寺金堂展図録」 2008年 朝日新聞社「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」 2000年 小学館
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「木X仏像展」では、かなり以前に東博のホームページで知った飛鳥時代の木造菩薩立像に会えるのを楽しみにしていた。
菩薩立像 飛鳥時代(7世紀) 木造(クスノキ) 高106.1㎝ 東京国立博物館蔵同展図録は、大きな顔、極端に細いウエスト、両肩と両腕から垂れる魚のヒレのような形状の天衣、一度見たら忘れられない、何とも不思議なすがたの個性的な菩薩立像である。また、両肩にみられる蕨手状の垂髪、天衣が膝前でX字状に交差しその端が左右にヒレ状に広がる表現は、法隆寺夢殿の救世観音菩薩立像と共通する形式であるという。救世観音立像 飛鳥時代飛鳥期(7世紀前半-半ば) 木造金箔 像高178.8㎝ 法隆寺夢殿安置『法隆寺』は、頭部に大きな宝冠をいただき、火焔付の宝珠を、右手の掌を前に向けて両手で胸前に捧げ、宝珠形の光背を背に、高く盛り上がった反花座上に立つ。表面は漆で目留めをし、白土下地を施した上に金箔が押された珍しい手法が用いられている。墨書された眉や髭、鮮やかな朱彩がのこる口元は衆生救済の慈悲に満ち、いかにも太子を意識して造顕されたように思える。金堂の釈迦三尊像と同じく、著しく正面観が強調されながらも、肉体性を具えた、生身の太子の尊像が重なる不思議な像であるという。東博本は同じような時代に造られているので、様式的に似たところはあるが、当時の仏師が直接本像を見て造ったとは思えない。
顔が大きく見えるのは、脚が膝の下ほどにしか残っていないのだろうと思っていたので、足元を見て廻ったが、足首よりも太くなっているようで、甲やかかとが失われている程度なのだった。このように見ると、X字状に交差する天衣も膝上辺りまであって、バランスはとれている。やはり顔が大きすぎるのだ。三日月形で中央に突起のある胸飾りの下方に左から右へ斜めに曲線が走るように見えるが、その面をじっくり見たら、上側が下側よりも出ていた。僧祇支を着けているのだと思って見ていたら逆に着衣の方が凹んでいた。穏やかだが特徴的な顔は一目見て飛鳥仏と思ったが、似た顔を探しても見つからない。口元のまわりがくぼみ加減に表現されているところは、法隆寺献納宝物の中で異例の木彫如来立像に似ているように感じる。
N193 如来立像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 木造(クスノキ)漆箔 像高52.6㎝ 東京国立博物館蔵『法隆寺宝物館』は、法隆寺献納宝物のなかでただ1つの木彫像。頭から台座まで1本のクスノキから作られている。飛鳥・白鳳文化期の木彫像のほとんどはクスノキから作られている。この像は7世紀後半の白鳳文化期の作という。
『木X仏像展図録』は、現状では両肘先を欠失するが、肘が左右同位置にあることから、両手で宝珠を捧持していた可能性も考えられるだろうという。不思議なことに、蕨手のかかる肩から腕にかけての鰭状のものが上腕を覆っていると思っていたが、背後から見ると、細い二の腕は天衣と一体化しているようにも見え、そして、前に出ている円筒状の腕とは繋がっていない。おそらくこの像を制作した仏師は、何段か鰭状に拡がる菩薩立像のそれぞれが表すものが分からないままに、見よう見まねでつくったのだろう。
同展図録は、側面から見ると高浮彫像のように薄く前半部しかなく、背面は衣文を表さずのっぺりとしており、奈良・法隆寺金堂の国宝・金銅釈迦三尊像脇侍菩薩立像のように、ほとんど正面観しか考慮されていないのも本像の大きな特徴である。構造は頭部から脚部までクスノキの一材から彫出したもので内刳は施さず、わずかに彩色がのこる。このような特徴から、本像の制作年代は飛鳥時代にさかのぼると考えられているという。法隆寺金堂釈迦三尊像脇侍菩薩 側面から見ることを考えずに仏像を制作していた頃の仏像は、正面から見ると肉厚なようで、側面から見ると非常に薄い。本像も幅はないが、側面から見ると腹部が反っている。しかし、東博本はその反りもない。
同展図録は、同時代の法隆寺諸像をはじめとする「都ぶり」の造像などを手本とし、地方の工匠が造り上げたのだろうか。本像はその時代を超えるプリミティブな造形により、「仏像とは何か」、「人はなぜ仏像を造るのか」という本質的なことを私たちに問いかけているように感じるという。「都ぶり」を手本とした仏像を真似て造り、またそれを真似て造りということを何回か繰り返しているうちに、細部が何かわからなくなっていき、東博本のようよな仏像が造られたのだろう。 この文にも記されているように、だからといってこの像は仏像としての値打ちがないのではなく、見る人を惹きつけるものを持っている。
木X仏像展 法隆寺四天王像に似た小像←
関連項目法隆寺献納宝物の中に木造の仏像
参考文献 「木X仏像展図録」 編集大阪市立美術館 2017年 大阪市立美術館・産経新聞社「法隆寺宝物館」 1999年 東京国立博物館
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マスジェデ・ジャーメのモザイクタイル装飾について『COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE』(以下『COLOUR AND SYMBOLISM』)は、1364年に建立され、最初にタイルで覆われたのが1375-76年で、まだ日干レンガや浮彫ストゥッコのパネルが露出していた。1406-17、1432-33、1457-59、1470-71と再開され、17世紀、そして今日に至るまで続いたという。『砂漠にもえたつ色彩展図録』で深見奈緒子氏は、シャーヒ・ズィンダーにイランで熟成した植物文のモザイクタイルが出現するのは1372年建立のシーリーン・ビカー・アガー廟が最初であるというが、『中央アジアの傑作サマルカンド』は、1385-86年の建立としている。こういう場合、発行年の新しい文献に書かれている方を選ぶことにしているので、そうなると、シリング・ベク・アガ廟以前のイランで制作された植物文のモザイクタイルという可能性がある。シリング・ベク・アガ廟のモザイクタイルはほぼ植物文で、そうでないものはインスクリプションか枠の線くらいのものであるのに比べると、マスジェデ・ジャーメは多様なモザイクタイルの技法が見られる建造物である。
そこで、植物文・インスクリプションのように、色タイルを様々な形に刻んで組み合わせるものをタイプⅠ、空色嵌め込みタイルのような、素焼きタイルを地にして色タイルが文様として入り込んでいるものをタイプⅡ、色タイルや素焼きタイルを幾何学形に割って組み合わせたものをタイプⅢ、矩形の色タイル・素焼きタイルの組み合わせをタイプⅣ、凹凸を付けたものをタイプⅤ、浮彫テラコッタと色タイルとの組み合わせをタイプⅥ、一色の幾何学形タイルだけのものをタイプⅦ、という風に分類してみた。ただし、古いイランのモザイクタイルにやっと出会えたとはいえ、どのタイル壁面が1375-76年のものかはわからないのだが。
今回は表門のタイル装飾について
上部アーチ・スパンドレル タイプⅠ花と1-2枚の葉からなる花文を繋いだトルコブルーの蔓草の間に茶色い蔓が入り込んで渦巻く。部分的に黄色い米粒状のものが並ぶ。小さなインスクリプションはタイル職人の名前?アーチ部のインスクリプション帯はコバルトブルーの地に白タイルでインスクリプション、トルコブルーで蔓草を描いている。イーワーンとスパンドレルの間の持ち送りになった連続アーチ(仏語でvoussure、ヴシュール)には幾何学文だけのたもの、タイプⅢがある。イーワーン タイプⅠ・タイプⅢ傘状の頂部には、日本の立涌文を幅広にしたような枠の中に植物文やイマームの名前?などが表される。その最下部中央にも文字が。逆三角形を二つ並べた枠には6点星・六角形などの幾何学文。ムカルナス タイプⅠ・タイプⅢ平面を折るなどして曲面ぽく見せている。焼成レンガで構成された平面を組み合わせたようなムカルナス(ブハラ、カリャン・ミナレット、1127年)サファヴィー朝期のムカルナス(マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーの表門、1601-28年)のようななめらかな曲面へと発展していく過程を見ているよう。ムカルナスとムカルナスの間にできる面にも幾何学的な文様を嵌め込む。ムカルナスの奥行をもたせるための9点星の面には、中央に円形のインスクリプション、外に名前を図案化したものなど。平面ではなく半球形に出っ張らせ、幾何学形に切った色タイルで埋め尽くしたものも。
上下イーワーンの境目上から 左右対称の蔓草文。文様自体は細かなものではない。 タイプⅠ三角形・菱形・正方形・五角形などに割った色タイルで6点星を中心にして幾何学文を構成した文様帯。 タイプⅢ細い文様帯に囲まれているのは空色タイルを地に、素焼きタイルでインスクリプションを表すのは、初期の空色嵌め込みタイルでインスクリプションを表したミナレットの反対。それほど色タイルの制作が容易になったのだろう。そして空色タイルにだけコバルトブルーの細い蔓草文が入り込んでいる。 タイプⅠとタイプⅢの組み合わせ
表門下部二段のインスクリプション帯 タイプⅠコバルトブルーの地に白いインスクリプションがある上に、オレンジ色のインスクリプションもあったりする。何か重要な章句であるとか、造立者の名前などかな。スパンドレル タイプⅠ上方のものと似た構成だが、小さなインスクリプションは異なっている。 タンパン 中央の主文 タイプⅠ植物文様とインスクリプションその周囲 タイプⅢ様々な形や色の幾何学文がちりばめられている。五角形と五角形を底辺で2つ合わせたものなど。その間を幅広の組紐が通るが、白っぽいところとオレンジ色がそれぞれ集まっているところがあって、まだらに見える。二重のインスクリプション特に中心部のものは、オレンジ色のインスクリプションの上に白色とトルコブルーそれぞれが重なって文様なのか文字なのかさえわからない複雑さ。表門の複合柱 タイプⅠインスクリプション帯以外は左右対称の文様。この辺りは修復されたもののよう。ここには深緑も入っている。その上のムカルナスの壁龕 タイプⅠこれは修復されたものっぽい。一番下の文様帯 タイプⅠ・タイプⅢインスクリプションのある10点星を中心に、トルコブルーの組紐が幾何学文様をつくっていく。上下には植物文の5点星がある。門構え内側 上方 タイプⅠ上部のインスクリプション帯の白い文字とクーフィ体のオレンジ色の文字。そして円文の中の文様化された白い文字。壁龕上部スパンドレルと尖頭アーチの文様帯 タイプⅠ蔓草文と組紐文の違いはあるが。壁龕 タイプⅢ5点星・7点星・10点星とロセッタ(変形六角形)の組み合わせ。7点星・10点星には花弁のある花文が入り込む。3面の壁龕部分(うち2面) タイプⅠ・タイプⅢ花文を内包する八角形と卍繋文との組み合わせの文様帯。その下には直線的な植物文様の地に90度傾けた正方形。その中には文様化された文字。門をくぐった最初の小ドーム 透かしが入っているのかと勘違いしたのは、矩形の色タイルに光が反射していたため。八角形の明かり取り窓の上の小さなドーム タイプⅣこんなところにまでモザイクタイルを駆使した入念な仕上げとなっている。その中心部分 タイプⅠ・タイプⅣ矩形の色タイルで文様を構成している場合が多いが、真ん中は二色で、4点星のように見えるインスクリプションがあり、その中には文様ともインスクリプションとも思えるような装飾が。ドーム部分 タイプⅡ空色嵌め込みタイル。目地のわからない方が古く、黒く見えるのが修復部。そう思うのは、イスファハーンのマスジェデ・ジャーメ(セルジューク朝後期、12-13世紀)の南イーワーンでも、色タイルが素焼きタイルに嵌め込まれていて、その目地が分からないほど精密に仕上げられているからだ。スキンチ内面 曲面が歪んでいるように写ってしまった。ここも目地が黒く見える。おそらく隙間が密でないからだろう。
関連項目 シャーヒ・ズィンダ廟群6 シリング・ベク・アガ廟ミナレットの空色嵌め込みタイル
※参考文献 「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会「COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE」 1996年 Thames and Hudson Ltd.London「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館 「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
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マスジェデ・ジャーメのモザイクタイル装飾について『COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE』(以下『COLOUR AND SYMBOLISM』)は、1364年に建立され、最初にタイルで覆われたのが1375-76年で、まだ日干レンガや浮彫ストゥッコのパネルが露出していた。1406-17、1432-33、1457-59、1470-71と再開され、17世紀、そして今日に至るまで続いたという。『砂漠にもえたつ色彩展図録』で深見奈緒子氏は、シャーヒ・ズィンダーにイランで熟成した植物文のモザイクタイルが出現するのは1372年建立のシーリーン・ビカー・アガー廟が最初であるというが、『中央アジアの傑作サマルカンド』は、1385-86年の建立としている。こういう場合、発行年の新しい文献に書かれている方を選ぶことにしているので、そうなると、シリング・ベク・アガ廟以前のイランで制作された植物文のモザイクタイルが残っている可能性がある。シリング・ベク・アガ廟のモザイクタイルはほぼ植物文で、そうでないものはインスクリプションか枠の線くらいのものであるのに比べると、マスジェデ・ジャーメは多様なモザイクタイルの技法が見られる建造物である。
そこで、植物文・インスクリプションのように、色タイルを様々な形に刻んで組み合わせるものをタイプⅠ、空色嵌め込みタイルのような、素焼きタイルを地にして色タイルが文様として入り込んでいるものをタイプⅡ、色タイルや素焼きタイルを幾何学形に割って組み合わせたものをタイプⅢ、矩形の色タイル・素焼きタイルの組み合わせをタイプⅣ、凹凸を付けたものをタイプⅤ、浮彫テラコッタと色タイルとの組み合わせをタイプⅥ、一色の幾何学形タイルだけのものをタイプⅦ、という風に分類してみた。ただし、古いイランのモザイクタイルにやっと出会えたとはいえ、どのタイル壁面が1375-76年のものかはわからないのだが。
今回は主礼拝室
ピーシュターク(門構え)のスパンドレル タイプⅢにタイプⅠが入り込んでいる。6つの五角形が花弁のように囲んだ中に植物文と円文が入り、6点星がそれを囲む。直線なのに曲線的な雰囲気がある。側壁インスクリプション帯の下 タイプⅠ主文は矩形にまとめたインスクリプションに8点星と八角形が入り込む。周囲の文様帯はタイプⅢその下の区画 スパンドレルは菱形・変形四角形・5点星の組み合わせ。タイプⅢ壁龕はタイプⅢだが、凹凸があるのでタイプⅤ三角形・菱形・変形四角形・五角形に切ったコバルトブルーと素焼きのタイルで地文を造り、白タイルの五角形・菱形と三角形の素焼きタイルで10点星を、変形四角形で小さな10点星を浮き出させてつくり、白とトルコブルーのタイルの組紐を高く浮き出させる。その上浮き出たタイルの輪郭をコバルトブルーの細く刻んだタイルで縁取る。一番下の段中央 タイプⅤ・タイプⅥ型成形の浮彫による繊細な蔓草文で装飾した幾何学形のテラコッタをやや浮き出た組紐で繋いでいる。トルコブルータイルの組紐が交差する箇所には、菱形のコバルトブルータイルを配している。一見タイプⅡ風だが、地文の素焼きタイルではない、浮彫テラコッタが使われている点が特徴なのでタイプⅥとした。その隣 タイプⅠスパンドレルの下の壁龕に生命の樹を表したような趣のある植物文様。
奥行のあるイーワーン尖頭ヴォールト天井 タイプⅡ名前を方形に文様化したものが斜めに並ぶ。貴重な色タイルが焼成レンガの間に出現した空色嵌め込みタイルから、大きな壁面を短時間でタイルで飾る工夫として成立したバンナーイへの移行期にも思える。
ドーム タイプⅣ頂点で16点星をつくり、そこから変形四角形・ロセッタ(変形六角形)・4点星・八角形・5点星・六角形・6点星・砂時計形(変形六角形)・7点星・変形5点星などの幾何学文様を織りなすコバルトブルーに挟まれた白い組紐。頂点 タイプⅢそれぞれ8枚の白とコバルトブルーの花弁に捻りを入れるという凝りよう。それを囲む16点星は白とトルコブルーの細く刻んだタイルをヘリンボーン(杉綾織文)状に並べる。白タイルは釉薬の剥がれが見られる。インスクリプションはタイプⅠ他はタイプⅣ。矩形に刻んだ素焼きタイルと、白・コバルトブルー・トルコブルーのタイルとで構成されている。 ムカルナスはタイプⅡ素焼きタイルとコバルトブルー・トルコブルーのタイルを矩形に刻んで文様をつくっている。移行部 タイプⅡ
ミフラーブミフラーブはマッカ(メッカ)の方向にあるキブラ壁に取り付けられた装飾的な壁龕で、モスクで一番重要なものである。モスクを建造するときにどこから建て始めるかはわからないが、完成したモスクをタイルで荘厳する時、一番先にタイルを貼り付けるのは、大切なミフラーブではないかと、勝手に想像している。上から スパンドレル タイプⅠ2つのスパンドレルの間の半球 タイプⅢ 尖頭アーチの帯状の面 タイプⅠムカルナス タイプⅠほぼタイプⅠの植物文だが、ムカルナスとムカルナスの間を補う小さな面には幾何学文様が入り込むのでタイプⅢインスクリプション帯 タイプⅠ インスクリプション帯から下は3つの壁面で構成されている。中央上には3段のインスクリプション タイプⅠその部分拡大 地の色、文字や渦巻く蔓草の大きさなどが異なる。中央下 タイプⅠ側面の区画内の文様 タイプⅠそれを囲む文様帯 タイプⅥ浮彫テラコッタと色タイルとの組み合わせ縦書きのインスクリプション帯、様々な文様帯 タイプⅠ右端の付け柱 タイプⅢ
側壁 尖頭アーチ窓の周囲の文様帯 タイプⅡ小さな素焼きタイル辺も使用している。スパンドレル タイプⅠ その外側の壁面 タイプⅣ素焼きタイルを地に、トルコブルーとコバルトブルーで人の名を表しているものと思われる。白タイルはコバルトブルーで四方を囲まれた箇所にのみ嵌め込まれている。その下 トルコブルーの六角形で構成した壁面に、タイプⅠで植物文を表す。『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、イスラーム建築最古のタイルは、イラクのサーマッラーから発掘された9世紀アッバース朝のもので、正方形や六角形の単色タイルと正方形や八角形のラスター・タイルがあるという。六角形の単色タイルは、色タイルの最初期からあって、それだけで壁面を装飾するという伝統が続いていったということかな。
ドーム室とイーワーンを隔てる尖頭ヴォールトの壁面上の大画面 タイプⅠ・タイプⅢの組み合わせ下の腰壁 タイプⅦ六角形のトルコブルーのタイルだけで構成している。ウズベキスタン、シャフリサブスにあるコク・グンバズ・モスク(1434-35年)の腰壁にも見られる。 もう一方の壁面 インスクリプション帯 タイプⅠほぼ矩形の色タイルで構成された花文のようにも、幾何学文のようにも見える。 タイプⅣ ただしオレンジ色のタイルは、矩形を組み合わせたというよりは、基本的には1枚のタイルから削り出しているようだ。中にはそれが割れたり、足らずに呼び次いだりしているものもある。その周囲にも異形色タイルが組み合されている。
こんなにも多様な文様、技法で荘厳されたヤズドのマスジェデ・ジャーメは、表門のドゥ・ミナールがペルシアで最も高いという特徴もあるのに、『GANJNAMEH6』『GANJNAMEH7』にも採り上げられていないのは残念である。同シリーズでは、平面図や三次元投影図だけでなく、紀年銘が細かく記されているので、タイル装飾の年代も、少しはわかったかも知れないのに。
マスジェデ・ジャーメのタイル1 表門←
関連項目シャーヒ・ズィンダ廟群6 シリング・ベク・アガ廟ミナレットの空色嵌め込みタイル
※参考文献「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会「COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE」 1996年 Thames and Hudson Ltd.London「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館 「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
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マスジェデ・ジャーメの壁面装飾は変化に富んでいたが、それぞれがモザイクタイルの技法だった。『COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE』は、1364年に建立され、最初にタイルで覆われたのが1375-76年で、まだ日干レンガや浮彫ストゥッコのパネルが露出していた。1406-17、1432-33、1457-59、1470-71と再開され、17世紀、そして今日に至るまで続いたという。建物は1324年に着工し、40年わたって整備され(『ペルシア建築』より)、1364年に完成したが、タイルを貼り始めたのが1375年ということになる。着工した頃はイルハン朝時代で、建物が完成した時にはムザッファル朝期になっていた。その後3回のタイル貼付はティムール朝期、17世紀はサファヴィー朝期と王朝も異なる。現在見られるタイル壁面がいつの時代のものか分かるほどの知識もないが、タイルは傷みやすいので、後世の修復によるもの(後補)はある程度はわかった。
表門一番下の文様帯あまり古いもののようには見えなかった。
『COLOUR AND SYMBOLISM』にもこのパネルを部分的に紹介している。自分で写した画像をできるだけ同書のものに合わせて比較してみると、まずトルコブルーの色合いが違う。同書の図版の方が、色タイル一片一片の色に深みがある。そして植物文様の蔓や、蔓を図案化した文様の太さが違う。同じように造り直しても、その技術が当初のものに追い付かなかったということもあるだろう。そして、細い文様帯の蔓の伸びる方向が反対である。ひょっとすると、写した左側と、写していない右側では蔓が逆向きに伸びていて、同書の図版は右側のものかも知れない。葉か花の後を表したオレンジ色のタイル片の形などはよく似せているのだが。
同パネル中心部分 オリジナル(同書より) 写した写真 5点星は1枚のタイルからうまく削り出している。
主礼拝室イーワーン側壁一番下『COLOUR AND SYMBOLISM』ではチャクマク・モスク、1437年とされていたが、マスジェデ・ジャーメにあった。従って、1437年はチャクマク・モスクの建造年。型成形の浮彫による繊細な蔓草文で装飾した幾何学形のテラコッタをやや浮き出た組紐で繋いでいる。トルコブルータイルの組紐が交差する箇所には、菱形のコバルトブルータイルを配している。自分の写真 写した時は、浮彫テラコッタが黒ずんで古そうだと思ったが、同書の図版はそんな汚れはないが、色タイルは古びている。 自分の写真のタイルは新しいものが多そう。別の箇所で比べると、浮彫テラコッタは彫りが浅いというか、風化が見られるというか、 自分の写真の浮彫テラコッタは凹凸がくっきりしている。
また、一目で後補のものと見分けられるものもある。古い空色嵌め込みタイルは、矩形のタイルとタイルの間に隙間がないほどきっちりと造られているが、補修された部分では、タイルの間が黒くなっている。
表門の複合柱のインスクリプション帯・各文様帯などは後補のようだ。
タイルは時代を経ると割れたり剥落したりするので後補のものに取り替えられるのは仕方がないことだ。しかし、古びていたり、壊れていたりしていても、オリジナルは保存されていることを願う。
※参考文献「COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE」 1996年 Thames and Hudson Ltd.London
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私が見たかったジョルジール・モスク(10世紀)を知ったのは、『イスラーム建築の見かた』という本だった。サーマーン廟と同じ頃、ドームの移行部だけでなくイーワーンにも同じような曲面が現れるという。その曲面という言葉は、ムカルナスを指していると思っていた。その図版がこのようなものだったから。
それはイスファハーンにあったが、現地で見たものは両側の壁面から奥まった位置にあった小さなイーワーンで、上の図版はその一部分だった。同書は、イランのイスファハーンにあるジョルジール・モスクのイーワーン(前面開放広間)を見ると、サーマーン廟のスクインチ・アーチの内部と同様な構成が見られるという。2枚のムカルナス曲面がイーワーンに収まって、どちらも中央よりに半アーチが付いている。ムカルナスよりも、この半アーチが上部を支える構造体だろう。
なるほどそれは、サーマーン廟(943年頃)のスキンチアーチ内の構造によく似ている。サーマーン廟では装飾的な2つの花弁状の壁面の間に半アーチがわたる。スキンチアーチとこの半アーチ、そしてムカルナスの外側のレンガ積み部分が、ドームの1/8の荷重の多くを支えていて、ムカルナスは装飾でしかないように思われる。
サーマーン廟のスキンチの構造はまた、ブハラのマゴキ・アッタリ・モスク(10世紀創建、12世紀再建)のイーワーン上部とも似ていることは気が付いていた。それについてはこちら
マゴキ・アッタリ・モスク 12世紀 ブハラ焼成レンガを組み合わせた中央の幅広の帯は装飾であっても、その両側の矩形の素焼きタイルが2列に並ぶ半アーチが、上からの荷重を支える構造体なのだろう。そう考えると、ジョルジール・モスクのイーワーン中央に開いた空間は、元は何かの装飾があったのが、今では失われてしまった可能性もありそう。両側の壁面は全体でムカルナスの形になっているが、上部は蜘蛛の巣のようなものを棒状の素焼きタイル片でつくり、その下にもっと小さな文様を浮彫テラコッタが並ぶ。そして、その下は小さなムカルナスを積み上げている。が、白い箇所は後世の補修のよう。10世紀には、こんな風に小さなムカルナスを何層か積み上げるという装飾はなかった。ひょっとすると、その初現が、このイーワーンかも知れない。
『ペルシア建築』は、ブワイフ朝期(935-1055年)、シーラーズやイスファハンでは、一つの建築様式が成立しつつあった。イスファハンのジョルジール・モスクは、門だけ残しているが-また、仕上げ材料に専らプラスターを使っていたため、今ではゴールデン・アイボリー一色となり、他の色彩は認められないが-記録によれば甚だ華麗な建築だったという。 どうも焼成レンガには見えないと思っていたら、プラスターで仕上げてあったのだ。生命の樹が複雑な区画の中に4本表されている。サーマーン廟のムカルナス場所によって漆喰面が見えるものもあるが、このムカルナスは平レンガをヘリンボーン状に積み上げてあり、それがいくばくかの荷重を支えているのかも。マゴキ・アッタリ・モスクのムカルナス状曲面はもっと装飾的。この下には小さなムカルナスが3段積み重なっている。 正方形からドームの円形を導く工夫として、四隅にスキンチ・アーチを造り、それを支えるために生まれたのがムカルナスという蓮弁のような小曲面だと思っていたが、どちらかというと装飾っぽいのだった。そして、サーマーン廟のスキンチ全体が、イーワーンの構造と化していったらしい。
関連項目ジョルジール・モスクのムカルナスを探してムカルナスの起源マゴキ・アッタリ・モスク1 ソグドの文様とイスラーム文様ウズベキスタンの真珠サーマーン廟2 内部も美しい
参考文献「イスラーム建築のみかた 聖なる意匠の歴史」深見奈緒子 2003年 東京堂出版
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サーマーン廟 943年以前 外観高さ10.05幅10.8奥行10.7m ブハラ『イスラーム建築考』は、内部の壁の中から、イスマイルの孫、ナスルⅡ(943)の名前の書かれた木札が見つかったため、多少、建立の時期がずれていたとしても、この霊廟の建設は、サーマーン朝の892年から943年間の造営になった墓廟建築であることには変わりはない。後に、イスマイル自身もこの墓廟に葬られたのであるという。
『イスラーム建築の見かた』で深見奈緒子氏は、ゾロアスター教のチャハール・ターク(拝火神殿)を写し取ったような形である。四つのアーチを意味するチャハール・タークとは、聖なる火を祀る拝火壇で、四角い部屋の四方にアーチを開口させ、その上にドームを戴く。サーマーン王朝時代の文化、つまりペルシアの伝統文化とアラブ・イスラムの文化、それからソグド地方の固有文化の特色をよく具現した貴重な建築物であることはいうまでもないという。ドームは半球状で、高さを強調することもなく、バランスがとれている。内部では四壁中央の僅かに尖頭形のアーチの底辺と同じ長さの底辺で、四隅にスキンチアーチが設けられ、その上は底辺と同じ長さの8つの辺で八角形となり、十六角形・円と短い間隔で移行させている。 スキンチアーチとその頂点から隅におりる半アーチ、そしてスキンチアーチに接したレンガ積みの小面で上からの荷重を支えていて、以前は、これこそが支えていると思っていたムカルナス状の曲面は、段々と装飾のように思えてきた。真下から見上げると、スキンチの力強いアーチと、それに直交する半アーチで、T字形を造っている。これがドームを支えていたようだ。『イスラームのタイル』の図ではこのようになるが、ドーム架構に必要なのは、白い半アーチの方である。
この形が、同じブハラのマゴキ・アッタリ・モスクの入口イーワーン(12世紀)と、イスファハーンのジョルジール・モスク(10世紀)の表門イーワーンという、ドームではないところに造られたことは前回まとめたが、その後ドームの移行部には、全く違う形が現れた。『イスラーム建築の世界史』はイランから中央アジア一帯のペルシアでは、10世紀からイーワーンやドームなどのペルシア的要素が復活の兆しを見せていたが、イスラーム教が民衆の間に深く根付いていくにつれ、モスクや墓建築において、これらのペルシア的要素が進化し、洗練されるという。
アラブ・アタ廟 977年 ウズベキスタン、ティム外観は、ファサードにドームを隠すほど高いピーシュターク(門構え)ができて、サーマーン廟よりも墓廟風になっている。ドーム下の移行部の丈が伸びて、その分尖頭アーチも高く、二段重ねになった。また、四隅にスキンチアーチはなくなり、小さな門構えのようなものの両側にムカルナスが1つずつできている。門構えの上部の尖頭アーチは平面に見える。これを三葉形スキンチと呼ぶらしい。
ダヴァズダー・イマーム廟ドーム 1037年 イラン、ヤズド同書は、壁上に八角ドラム。11世紀になると、キャノピー墓のドームが大きく高くなる。サーマーン廟を端緒としたドーム技法はモスク建築にも適用されるようになるとともに、四角形の部屋から円形のドームに至る移行部の技法が飛躍的な進化を遂げる。四角形から八角形を導き十六角形を介して円形へと達する移行部が、建築の見せ場の一つとなる。また、外部には筒状の部分(ドラム)が設けられ、ドームが一層高くなるという。『ペルシア建築』は、イスファハンのマスジェデ・ジャーミの若干部分を別にすれば、この時代の新傾向を体現している現存モニュメントのうちで最も古いのは、ヤズド所在のダヴァズダー・イマームの聖廟で、1036年の作である。正方形プランの上にドームを据えるという古代以来の課題について、この廟はほぼ完全に近い解決をしている。しかし、その解決が真に完璧なものとなるのは次のセルジューク朝時代であり、イスファハンにおいてであったという。あいにく修復中で中に入ることができなかったので、スキンチの画像は『イスラーム建築の世界史』より。 見上げたハシムの世界史への旅の12イマームの霊廟では、アラブ・アタ廟の小さな門構え状のものが大きくなり、四壁中央の尖頭形のアーチの底辺と同じ幅と高さの辺、つまりここですでに八角形を造っている。三葉形スキンチは、下部は隅に小さなイーワーン型が2つでき、その両側にムカルナスが一つずつできている。上部は半ドーム形。それが門構えの尖頭アーチの中に収まっている。
マスジェデ・ジャーメ南ドーム室(主ドーム) 1083年 高さ24.5奥行14.4 間口14.3m『ペルシア建築』は、インスクリプションが語るところによれば、広間はニザーム・ウル・ムルクの命にもとづき、マリク・シャーの治世の初期(1072年以降、たぶん1075年以前)に建設されたという。
この広間-宏壮で気品があり侵しがたい威厳をもつ主礼拝室-は直径15.2mという巨大なドームをいただくが、その場合、ドームを支えるために彫りの深い三ツ葉形のスクインチ(この形はヤズドにあるブワイフ朝時代のダワズダー・イマーム廟のスクインチから発展したもの)が使われているという。1080年頃に建造されたともいわれ、深見奈緒子氏のヴォールティングの諸形態では、1083年建立という。ダヴァズダー・イマーム廟と同様に、スキンチ高さのところで壁面は八角形になっていて、その上に低い尖頭アーチが16個並んで十六角形・円へと移行していく。この移行部はちょっと間延びした印象だった。ダヴァズダー・イマーム廟と違いは、小さな門構えが4つ並んだ上に三葉形が現れていることだ。その中は、隅の特に小さな門構えの上にムカルナス2つでスキンチ状の曲面ができ、その上に浅いヴォールト天井がのっている。その両側の小さな門構えの上には、もう少し大きく、高いムカルナスがある。見上げると、同じ比率のはずのスキンチだが、より外に出っ張った感じがする。
マスジェデ・ジャーメ北ドーム室(ゴンバディ・ハーキ) 1088年 高さ19.8直径10.7m『ペルシア建築』は、審美的な観点からすれば、この大モスクにおける最も重要な区画は、通称「ゴンバデ・ハーキ」と呼ばれる北端のドームであろう。規模こそ小さいとはいえ質的にすこぶる秀逸なこのドームは、中軸線上で主礼拝室のちょうど正反対に当たる位置にあり、1088年の銘を持つ。おそらくこれは現存する最も完全なドームと言えよう。その荘重にして、しかも人の心を捉えてやまぬ力は、規模の問題(高さ19.8m、直径10.7m)ではなく、意匠の問題であるという。やはりスキンチ内も壁面の尖頭アーチ内も、三葉形になっている。しかし、スキンチの下部の小さな門構えは4つとも大きさが揃っていて、それぞれの上にのるムカルナスも安定した形になっている点が、少し前に建立された主ドーム室との違いのようだ。 見上げると、小さなムカルナスの大きさがほぼ等しいので、安定感があり、それが美しさにも繋がっているのではないだろうか。後世にドーム下の四隅のスキンチが2枚の大きなムカルナスだけに造られているのをよく見かけるが、その原点が、このようなイスファハーンのマスジェデ・ジャーメ内に残るスキンチの一番隅にあって互いに接している2枚の小さなムカルナスなのではなだろうか。
また、このような小さなムカルナスが複数スキンチに配されるようになってから、それがより細かく、段数も多く造られるようになっていく。
1104-18年 セルジューク朝 イラン、ゴルペーガーンの金曜モスク4段の複雑なムカルナスとなっている。
それが入口イーワーンに現れたのが、12世紀再建とされる、ブハラのマゴキ・アッタリ・モスクだろう。 この面が、12世紀のままのものであるとしての話だが。
サーマーン廟のスキンチはイーワーンに←
関連項目 ヤズド ダヴァズダー(十二)イマーム廟ムカルナスの起源ムカルナスとは
※参考サイトハシムの世界史への旅の12イマームの霊廟
参考文献 「イスラーム建築の見かた」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店「聖なる青 イスラームのタイル」1992年 INAX BOOKLET
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大阪市立美術館は天王寺公園の中にある。「天王寺」という地名は、もちろん聖徳太子の創建した四天王寺に由来する。『木X仏像展図録』は、厩戸皇子は白膠木(ぬるで)を切り取って急いで四天王像を作り、頂髪に置き誓願して、「今もし敵に勝たせていただけるなら、必ず護世四王のために寺塔を建立しよう」と仰せられた。『日本書紀』用明天皇2年(587)の条にある、有名な物部合戦に関する記述である。日本仏教の祖として宗派を越えて崇敬される聖徳太子の仏教に関わる最初期のエピソードが、この自らウルシ科ヌルデで四天王像を作り頭に載せて戦勝を祈願したという、四天王寺開創にまつわる出来事であった。大阪・四天王寺は飛鳥時代の創建以来幾度も災害や戦火に見舞われながら、その都度復興を果たし今日に至っているという。
天王寺という地にある美術館で催された特別展に、その四天王寺に伝来している仏像が展観されていた。とはいえ、聖徳太子の造った四天王像ではなく、平安前期の仏像だった。
阿弥陀三尊像同展図録は、高く半球形の肉髻が印象的な中尊如来坐像と、片脚をあげる楽しげな脇侍菩薩立像からなる三尊像。少なくとも近世以降は阿弥陀三尊像として礼拝されてきたが、如来像し菩薩立像は作風や樹種が異なり、三軀共に平安時代の制作ながら本来は一具(セット)ではなかったと考えられている。本三尊像は昭和9年(1934)に、西門と鳥居の間に所在した念仏の堂宇である引聲堂の厨子から発見されたという。四天王寺のホームページによると、その年は室戸台風で五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、境内全域が相当な被害を被りましたという。忘れ去られていた厨子が、被災の際に出現したのだろう。
阿弥陀如来坐像 平安時代(9世紀) 木造 50.0㎝ 大阪・四天王寺蔵同展図録は、張りのある体格、クッキリと立体的に表現される衣文や台座蓮肉側面の緻密な刻線が大きな特徴である。構造は頭頂部から大きな台座蓮肉までをカヤの一材から彫出する一木造で、両膝前は別の堅材による。なお頭頂には、小さな円孔があり埋木されている。いわゆる平安時代初期一木造の優品として知られ、両手先が後補なため本来の印相は不詳だが薬師如来として造立された可能性も指摘されているという。図版だけ見ていると、50㎝の小像とは思えない重厚感がある。膝を横に張り出さず、折った足先を深く内側に組んでいる点が、京都・高山寺本薬師如来坐像(奈良時代後期、8世紀後半)に似るが、衣文はずっと浅く短い。しかし左肩から入る衣文の際に膨らみをつくる点は他では見られない。顔貌が独特で、一番似ているのは、奈良・室生寺本釈迦如来坐像(平安時代、9世紀)かな。背中側も省略することなく衣褶に膨らみをつくり、浅い翻波式衣文もあって、平安前期らしい像である。左肩から下がる大衣の衣端に渦巻があるが、室生寺本は結跏扶坐した足元の衣端に渦巻を2つ刻んでいる。また、斜めに走る衣褶は深く、先が刀状の形で深く終わる。また、右肩につくられた2本の茶杓状衣文の際にも膨らみを残す彫り方をしている。
両脇侍像について同展図録は、脇侍の菩薩立像は、独特のポーズが珍しく、両像とも体をねじって片脚立ちをし曲げた方の足裏をみせ、頭をややかしげている。両像共に肩から底部までヒノキの一材から彫出する一木造であるが、両像共に肩から先の両腕が後補なため本来どのようよなすがたであったかは不詳である。このような軽快なポーズの菩薩像は京都・宇治平等院鳳凰堂の国宝・木造供養菩薩像の舞踊像などにもみられ、本像も同様の供養菩薩の群像として造立されたうちの2軀とも考えられているという。
右脇侍像(合掌像) 平安時代(10世紀) 木造 56.2㎝ 四天王寺蔵 同展図録は、合掌像の衣文は、角のとれた穏やかな表現であるという。確かに衣文に鋭さはない。顔も体も丸くつくられている。左脇侍像 平安時代(10世紀) 木造 58.5㎝ 四天王寺蔵 同展図録は、衣文はエッジが立ち中尊にやや近い表現とするという。こちらも顔も体も丸くつくられているが、顔貌は合掌像とは全く違う。複数の仏師が分担して群像を制作したのだろう。
その後あべのハルカスへ初めて足を踏み入れた。ガラス作家の田上惠美子氏は、ここでも作品の展示を複数回されていたが、やっと来ることができたというのに、残念なことに、氏の作品展は開催されていなかった。展望台から眺めていると、緑に囲まれた一角に大阪市立美術館が。東には慶沢園、西には動物園。南側はいろいろと変遷があったが、現在はてんしばという芝生の広場と食事できるお店が数店できている。 日本一混雑してるという御堂筋線で来る時は、動物園前駅と天王寺駅のどちらが近いのかといつも迷いながら、天王寺駅で下車している。美術館の受付の方に尋ねると、若干天王寺駅の方が近いとのこと。覚えておこう。その後東方に目を遣ると、古くはないが広いお寺があった。その中に回廊に囲まれたところがあり、門・五重塔・金堂(修復の養生がある)・講堂と縦に並んでいる。四天王寺式伽藍配置・・・? これって四天王寺やん。昔は四天王寺址が天王寺公園になっているのだと思っていたが、あるときテレビで四天王寺を見て、まだ存続していることを知ったが、どこにあるのかわからなかった。四天王寺のホームページを見ると、空襲で灰燼に帰した後、昭和38年に再建されたとのこと。新しいのは仕方のないことだ。同ページによると、お太子さまをしのんで毎年4月22日に催される聖霊会舞楽大法要では、重要無形民俗文化財の天王寺舞楽が披露されるという。来年行けるかな?それは大阪市立美術館の特別展次第でもある。
木X仏像展 東博蔵木造菩薩立像←
関連項目 木X仏像展 法隆寺四天王像に似た小像
参考サイト四天王寺のホームページ
参考文献 「木X仏像展図録」 編集大阪市立美術館 2017年 大阪市立美術館・産経新聞社
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書写山円教寺の奥の院として建立された弥勒寺で10世紀の仏像に出会ってから、それまではあまり印象に残らなかった平安中期頃の仏像が気になるようになった。今春大阪市立美術館で開催された「木X仏像展」でも、10世紀の仏像が数点展示されていたが、目立つのは量感のある地蔵菩薩立像なのだった。
比較のために平安前期の地蔵菩薩立像を挙げると、地蔵菩薩立像 像高172.7㎝ 奈良・法隆寺 同書は、もと奈良・大神神社神宮寺の大御輪寺に祀られていたことから、本来地蔵菩薩としてではなく、僧形の神像として造立されたと見る説も出されている。奥行きのある堂々とした体形を示し、衣文の彫りも深く鋭いが、その形や各所に見られる翻波には形式化の傾向がうかがえるという。肩から大腿部にかけて量感あふれる像だが、腹部は出ていない。
では、木X仏像展で展示されていた地蔵菩薩立像を。地蔵菩薩立像 平安時代(10世紀) 木造(ヒノキ) 95.7㎝ 奈良・薬師寺同展図録は、左手で宝珠を執り、右手を垂下し掌を正面に向けて与願印とする。一木造、彫眼、彩色。ヒノキとみられる針葉樹材。頭頂より両肩先を含んで地付きまでを一材より彫出し、内刳は施さない。木心を像中央にこめる。右肩口に節を残す。両足の間に枘を造り出す。別材製の両手先・両足先、持物の宝珠、および台座・光背は後補。現状古色を呈するが、袈裟の田相や下地の白土をかろうじて確認することができる。後方へ流れるような耳朶、腹前の衣端の処理、大腿部でY字形を描く衣文の表現など平安初期彫刻に特有の表現を持ちながらも、後世の修理が加えられている可能性はあるが、温和な面相表現、張りのおとなしい大腿部、鎬の立った鋭さが見られない浅い彫りなど、全体に柔和な雰囲気を醸し出している。量感あふれる平安初期彫刻から温和な和様彫刻への過渡期の作と見て、制作年代は10世紀前半を想定したいという。量感という点では、平安前期の仏像ほどではなく、肩や胸の張りは減少しているが、腹部が出ている。一方、着衣には衣文線自体が少なく、翻波式衣文はなくなっている。やっぱり平安中期の仏像の特徴は、平安前期と後期の過渡期ということなのか。地蔵菩薩立像 平安時代(10世紀) 木造(センダン) 114.5㎝ 大阪・蓮花寺蔵 同展図録は、左手に宝珠、右手に錫杖を執り、雲上の蓮台に立つ地蔵菩薩像。一木造で頭頂から地付まで右肩先を含んで一材より彫出し、体部後方に木心をこめる。左肩先、両手・両足・持物・台座・光背は後補。彫眼とし現在は素地を呈すが、元は彩色を施したかと推察される。材は広葉樹環孔材で、組織が粗く早材(木目の色の薄い部分)の風化の早いことからセンダンとみられる。造像当初は美しく整った像であったことが想像されるが、永年の風喰による損傷は一種近寄りがたい荘厳な雰囲気を醸し出す。寺伝によれば、応仁の乱に際し寺内の池に沈めて難を逃れたという。伝来不詳ながらも、10世紀に遡る北摂地域屈指の古像であるという。この像も肩や胸部の張りが減少しているのに、腹部、あるいは大衣の襞が大きく膨らんでいる。上の薬師寺本では盛り上がってはいなくても、Y字形の衣文線の両側に太腿が感じられたが、本像ではY字形からX字形に変化した衣文線は太腿を表すことさえ忘れられたようである。後ろ姿は、腰を晴らせて減り張りを付けている。前から見るとあまり感じないが、背後から見るとかなり前屈みである。
地蔵菩薩立像 平安時代(10世紀) ケヤキ 152.2㎝ 大阪三津寺蔵 同展図録は、鼻筋が通り、静かで安らかな雰囲気の地蔵菩薩立像。右手に錫杖を執らず垂下させる。耳の縁が紐状に太いこと、腹部が出ずすっきりとした体型である点が本像の特徴である。構造は頭頂部から底部まで両腕を含めケヤキの一材から彫出する一木造で、内刳は施さない。見た目と同様に重く、像高150㎝にして重量は70㎏を超える。制作年代は平安時代(10世紀)にさかのぼると考えられ、三津寺伝来像のなかで最も古いだけでなく、大阪市内所在の木彫像としても屈指の古仏である。三津寺は大阪随一の繁華街、心斎橋にほど近い御堂筋沿いに所在する。行基開創49院のひとつ摂津国御津の大福院が当寺にあたると伝わるという。全体に法隆寺本と似た体型であるが、違いはやはり腹部。この像はほかの地蔵菩薩ほどには腹部が出ていない。平安前期の仏像が量感あるいは塊量感と形容されるほど、横幅があるのに、腹部はどれもぎゅっと締まっているのだ。それがなくなってきたのが10世紀ということかも。
地蔵菩薩立像 平安時代(10世紀) ケヤキか 大阪和光寺蔵 同展図録は、かわいらしい顔つきにどっしりとした体格の地蔵菩薩立像。面部は彫り直しが認められ整っているが、体部は木肌がかなり荒れており焼けた痕跡も残っている。構造は頭頂部から底部まで、ケヤキかと思われる一材から彫出する一木造で、内刳りを施さず木心をこめており大きな干割れが生じている。寺伝に拠れば、隠岐国の海辺に流れ着いた仏像で、大阪の豪商鴻池家により奉安され江戸時代安政2年(1855)に開扉供養が執り行われたという。地蔵菩薩の顔はどれも丸いが、この像は格別である。そして、後ろ姿は肩から裳裾までほぼ真っ直ぐなくらい材を削っていない。
「木X仏像展」に出展されていた10世紀の地蔵菩薩立像は細身ではない。平安前期の仏像と比べると量感が減少してきてはいるが、全体に寸胴で、丸太を彫り過ぎるのを最小限に留めているようにも感じる。そして出品された像の中でも、地蔵菩薩立像は着彩などがない、或いは失われているためか、木目がよく見えた。切り出した木を内刳も施さず、最小の削りに留めて、仏像にして木を生かしてきた仏師の思いが叶ったのかも知れない。
今回だけでなく、大阪市立美術館の展観では、四方から作品を見られるようになってきて、一巡してそれぞれの表情が窺えて嬉しい。これらの地蔵菩薩立像の背面に共通するのは、着衣の表現である。前面では両肩に大衣がかかっているのに、背中側は右肩を覆う着衣が表されていないので偏袒右肩のようだが、右腕には長い大衣の裾がさがっている。左肩へと上がっている大衣の内側になっているかというと、首元に襟状の返りがないのである。木X仏像展 四天王寺の仏像←
関連項目木X仏像展 東博蔵木造菩薩立像弥勒寺の弥勒仏三尊像は10世紀弥勒寺の仏像は円教寺の仏像と同じ安鎮作平安中期の如来坐像木X仏像展 法隆寺四天王像に似た小像
※参考文献 「木X仏像展図録」 編集大阪市立美術館 2017年 大阪市立美術館・産経新聞社「日本の美術457 平安時代前期の彫刻」 岩佐光晴 2004年 至文堂
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パサルガダエにあるキュロス大王の墓廟について『ペルシア建築』は、このパサルガダエには、初期のジッグラトとともにムサシールの神殿をも想起させるような、切妻屋根を持った建物があり、その中にキュロス大王が葬られている。この神殿=墓廟は、上へゆくに従って順次に高さが減ずる6つの段、いわば小型ジッグラトの上にそびえて立つ。その力強さは大きさの問題を超越しているように見えるという。いくら段々に小さくなっているとしても、ジッグラトは比べようがないほど大きいし、正面と側面の長さが違う。 同書の平面図でみるとそれがよくわかる。説明板は、周壁内部は726㎡、16mの高さの円柱が各辺8本ある広間があった。円柱は2X2mの黒い石を2段積んだ台座(現在は藁と土を混ぜた上塗で保護されている)があった。4つの扉口が守衛室の付いた広間に繋がり、日干レンガに藁と土で上塗りした高い壁で囲まれていた。一本だけ付け柱が残っていて、エラム風の服装で、エジプト風の王冠を被った像があり、その上方には三カ国語で「我はアケメネス家のキュロス王なり」という楔形文字が刻まれていた。1864年頃この部分は破壊され失われた。長年ソロモンの母の墓とされていたが、1820年にキュロス大王の墓であることが判明した。アレクサンダーという名の考古学者は、王の庭園のような広大な敷地の中央に立っていたという。墓は高さ11m。大きな切石で造られていて、長いものでは7mもあり、2つの部分から成っている。一段ずつ小さくなる6つの段がある基壇は、下の面積が164.20㎡。厚さ1.5m、高さ2.11mで、3.17mの小さな切妻屋根のある墓室。内部への唯一の入口は北西にあり、当初の石製扉は失われている。キュロス2世の防腐処理を施した遺体は、黄金の玉座の上の黄金の棺に安置され、その武器なども副葬されたが、全てはアレクサンドロス大王のペルシア侵攻の時に破壊されたという。説明板の内容に合わないが、『ペルシア建築』には整備される以前の遺構の図版があった。
『ペルシア建築』には、ムサシールの神殿という言葉が出て来るが、それがどこなのかさえ分からない。そして、ボスパルのアケメネス朝の墓廟の図版というのがあった。キュロスの墓に似て段々の基壇の上に切妻風の墓がのっている。しかし、ボスパルという地名も判明しない。とはいえ、似たような建造物が複数存在していたのは確からしい。
ところで、ジッグラトといえば、イランではチョガー・ザンビールの(前13世紀中頃)が思い浮かぶ。カシャーンのテペ・シアルク遺跡でもジッグラトは見たが、その想像復元図は3段だった。『古代オリエント事典』は、アケメネス朝は、紀元前550年にメディアを破って世界帝国を築いたが、紀元前330年にアレクサンドロスの遠征によって滅亡する。日乾煉瓦の伝統に切石積の新たな建築技法が混用された時代で、ギリシアからの影響に加え、建築の帝国性が指摘される。メディアおよび小アジアを征服したキュロスは、首都をパサルガダエに置いた。巨大な切石とそれを堅結する金属の使用など、パサルガダエには小アジアなど西方の影響が見られる。中でもウラルトゥに先例をもつ盲窓を配した塔、整形に橋や水路を配した庭園、庭園内に配された石製円柱を用いた王宮、ジッグラト風の基壇の上に木造家屋を石に置き換えたようなキュロスの墓など、帝国内の建築文化を折衷した様相を示しているという。エジプト征服が子のカンビュセス2世の代であったにせよ、一代でアナトリア半島まで版図を拡げたキュロス2世にしてみれば、各地で目にする珍しいものをどんどん採り入れて、新しい都を築き、自分の墓廟もこれまでにないものにしたかったのだとすれば、その墓がジッグラトと木造家屋の形を組み合わせたものというのも納得できる。
関連項目パサルガダエ(Pasargadae)3 キュロス2世の墓テペ・シアルク(Tepe Sialk)遺跡
※参考サイト大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのパサルガダエ
※参考文献「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社 「古代オリエント事典」 日本古代オリエント学会編 2004年 岩波書店
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絵付けタイルはイスファハーンの、マスジェデ・イマームやマスジェデ・ロトフォッラーで、サファヴィー朝初期のものを見た。その一例を挙げると、
マスジェデ・イマームのタイル。青・黒(または紫)・緑・水色・黄・白が使われている。『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、サファヴィー朝のイランでは、大きく分けてモザイク・タイル、クエルダ・セカ・タイル、そして釉下彩タイル(下絵付けタイル)の3種類のタイルが製作された。モザイク・タイルは、手間がかかることから、サファヴィー朝においては、次第にクエルダ・セカ・タイルを多く使う壁面装飾が主流になった。クエルダ・セカ・タイルとは、正方形のタイルを施釉するために、あらかじめ文様の描線を、様々な成分を含んだ顔料で描き、その後いくつかの色彩の釉薬で塗り分ける。こうすることによって、顔料がにじみ出して、混ざることを防ぐことができる。本来は、最初に描いた描線が、焼成中に蒸発して素地が現れるが、黒色の線として残存することが多かった。クエルダ・セカ・タイルは、モザイク・タイルと比べると、比較的短期間に建築の壁面を覆うことができたので、次第にモザイク・タイルに取って代わり、17世紀建造のイスファハーンの「イマーム・モスク」においては、大規模に使用されたという。今までは単に絵付けタイルとしてきたが、厳密にはクエルダ・セカの技法で焼かれている。ペルシア語ではハフト・ランギーと呼ばれている。マスジェデ・ロトフォッラーのタイルも使われている釉薬の色は同じで、黒ではなく、紫であることがはっきりとわかる。
シーラーズでは、サファヴィー朝の後のザンド朝(1750-94年)とカージャール朝(1796-1925年)の絵付けタイルを見た。『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、サファヴィー朝が、1722年のアフガン族のイスファハーン侵入によって、事実上崩壊したのち、アフシャール朝の短期間の支配を経て、1750年にシーラーズを首都と定めたザンド朝では、建築の壁面装飾に、それまでの青色や黄色を基調としたクエルダ・セカ・タイルに、ピンクや紫などの新しい色調が加わり、ヨーロッパ絵画の技法を取り入れ、植物や鳥、人物などを、より写実的に表現した。その後、ザンド朝に代わって、20世紀初頭までイランを支配したカージャール朝下で、ザンド朝において試みられたタイル装飾を発展させ、ヨーロッパの装飾文様に加えて、文学、宗教的説話などから題材をとり、より具象的なテーマを好んで描いたという。
カリム・ハーンの城塞城塞といっても焼成レンガの壁に囲まれた内部は広い庭園と宮殿になっていて、東側の目立たない門の上にこんなタイル絵画があった。人物や動物などが描かれているが、とても写実的な表現とは思えない。それに中央の主題は、主人公が敵を討ち負かしているというよりも、角と尻尾の生えた怪物に短剣を振りかざしている。本当にザンド朝期のタイル装飾だろうか。ピンク・茶色などがサファヴィー朝になかった色が使われているだけでなく、同色を濃淡を付けて立体感を表現するなど、絵画のような筆遣いが見られる。
パールス博物館はザンド朝の迎賓館として使われていた。従来から見られるスパンドレルの蔓草文だけでなく、下のパネルには、地面から生え出した細い3本の木が、幹を絡まらせながら上に伸びて、いろんな花を咲かせている。 百花繚乱する中で、2羽の小鳥が留まって、天上の楽園を表しているようだ。花はあまり写実的な表現には思えないが、中にはピンクのバラも描かれているみたい。別のパネルには下中央の花瓶から伸びる生命の樹が描かれている。 壺の左右にいるのは足の長い鳥ではなく、青い木の幹に留まっているのだった。
マスジェデ・ヴァキールは1773年銘のあるザンド朝のモスクだが、壁面装飾は完了しないままになっていたらしい(『GANJNAMEH6』より)。北イーワーンには1827年の銘があるので、カージャール朝期のタイル装飾だった。通りで全体にピンクがかっているわけだ。ムカルナスは白っぽい。 平らな面には1枚のタイルが、三角状に凹んだ面には2枚の二等辺三角形のタイル、もう少し複雑な凹面には3-4枚のタイルを組み合わせている。全て植物文の絵付けタイルだが、地はコバルトブルーか白、枠の色も黄やトルコブルーと、入念に配色されている。植物文もこれまでにないものだ。 ムカルナス頂部の傘状の部分はそれぞれの凹面を8枚の絵付けタイルで作っているが、目地が空きすぎている。イーワーンの側壁パネルにも天上の楽園が描かれている。樹木の中央にはアヤメが出現。ヒヤシンスのような花もあり、樹木に咲くのは青とピンクのバラ。イーワーン脇の壁面には色タイルを幾何学形に切って幾何学文様に組み合わせた文様帯の中に天上の楽園のパネル。ここにもアヤメが描かれ、バラの花は青・ピンクの他に黄色もある。
マスジェデ・ナスィーロルモルク『GANJNAMEH6』は、入口通路の銘文には1876年(ヒジュラ暦1293)とあるというので、カージャール朝期に創建されたモスクのよう。イーワーン脇の上部。チェリーピンクはほぼバラを描いているみたい。下の壁龕内だけが幾何学形に矩形の色タイルで幾何学文様をつくっている。他は絵付けタイルの植物文など。 その間の矩形のパネル。 ここは黄色が勝っているが、花はやはりバラ。一部貼り間違いがある。その左下ヨーロッパから請来された花瓶だろうか。それに盛られたバラやアヤメなどは切り花である。イーワーンはピンクと青。スパンドレルは赤い茎の蔓草。インスクリプション帯に描かれている蔓草の花はやはりピンク。ムカルナスの平らな面には幾何学文がある。幾何学形だけにしろ、モザイクタイル(ペルシア語でモアッラグ)という技法は残っている。入口上のドームも幾何学文のモザイクタイル。やつぱりピンクが入っている。北イーワーンは複雑な造りをしている。頂部もやはりピンクが多い。ほぼバラ。 南イーワーン見上げると、ムカルナスには幾何学文のモザイクタイルと、やっぱりバラが多い。
関連項目 シーラーズで朝散歩イスファハーン、マスジェデ・イマームのタイルマスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーのタイル
※参考文献「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館「GANJNAMEH6 MOSQUES」 1999年
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ペルセポリスの入口大階段を上り詰めたところに万国の門がある。ダリウス大王の息子クセルクセス1世期(前486-465年)のもの。門の両側に牡牛像がある。その想像復元図(『Persepolis Recreated』より)では、牡牛が金色で荘厳されている。おそらく金箔を貼り付けていたのだろう。牡牛たちは前方を見ているというよりは、直下を通る者を監視するように、下を凝視していた。
メソポタミアのラマッスは、前面観と側面観を同時に表しているために肢が5本あるのだが、この牡牛像は前肢2本で正面観、後肢2本で側面観を表している。
人面有翼牡牛像 前721-705年 イラク、コルサバード、サルゴン2世の宮殿出土 アラバスター 高420㎝ ルーヴル美術館蔵 『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、新アッシリア時代には、宮殿の主要な通路や出入口に、巨大な石製守護像が設置された。巨像は、肩までかかる髪と顎鬚を有する人間の頭部に、翼をもつ牡牛の身体を組み合わせた想像上の生き物として表現された。頭部はほぼ丸彫りに近く、身体部は巨大な一枚岩に高浮彫りで表現されている。巨像は前9世紀のアッシュールナツィルパル2世の時代から前7世紀のセンナケリブ王の時代までの宮殿建築に盛んに取り入れられたが、それ以降に造られた宮殿からは出土しない。 アッシリアでは、一般に守護像を「ラマッス」と総称し、なかでもとくに人面有翼牡牛像は「アラドランムー」と呼ばれたという。この図版でラマッスの脚がはっきりとわかる。前方から見た時に静止しているように前脚を2本揃えているが、側面から見ると、歩いているように4本の脚が見えるように造られているために、計5本の脚が彫り出されている。尻尾は後ろに垂れている。
万国の門の出口にもラマッスがあり、こちらは人面だった。 顔面が壊れているため、コルサバードのラマッスのような顔だったのかどうかは分からない。コルサバードのラマッスの肩を覆う羽毛は縦向きなのに、ペルセポリスでは横向きになっている。 羽毛の向きが変わってしまったのと同様に、肢の数もペルシア人にとっては問題となるほどのこともなかったのだろう。前7世紀を最後に造られなくなったラマッスが、何故遠く離れた地で前5世紀前半に造られたのだろう。ペルシア人にとつてそれが目新しいものだからか、それとも、かつてのアッシリア帝国への憧れがあったのだろうか。
関連項目イスタンブール考古学博物館で思い出した2 アッシリアのラマッス
※参考文献 「Persepolis Recreated」 Farzin Rezaeian 2004年 Sunrise Visual InnovationsSD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
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ペルセポリスでは最初に入口大階段で高い基壇に登る。その大階段は左右2つ付いている。その登り口に2つの浮彫された巨大な石造物が置かれていた。12枚の花弁のロゼット文を渦巻の中心に配している。花がなければイオニア式柱頭を十字に組み合わせたものにも見える。
大階段を登ると最初の建造物万国の門には、本来は見えないはずの高い円柱が3本露出している。 崩れ落ちたものを復元しているので、それぞれに欠けた箇所などがあり、本来の形はわからないが、。アパダーナから見ると、右の1本が高いところまで残っている。先ほどのものは、この手前の円柱に当たる。円柱には、まず蓮華座でいうと受花と返花のようなものがあり、その上に、大階段下に置かれていたロゼット文のある十字形渦巻がのる。しかも十字形渦巻は2段に積まれ、少し上にもう2段の十字形渦巻、更に上に踞った動物の肢が見える。それを別の方向から見ると・・・双頭の牡牛形柱頭?かな万国の門の想像復元図(『Persepolis Recreated』より)では、柱礎や柱頭が部分的に金色になっている。金泥ではあまり輝きは得られないだろう。金箔を貼り付けたのだろうか。牡牛の頭部と前肢を両側に表し、凹みを付けた柱頭に、短い肘木を組み入れ、その上に立派な梁を載せている。なんとなく斗と肘木を組み合わる斗栱を思わせる。石材を多用していても、天井や屋根が木材だったために、アレクサンドロスに火を放たれて焼失してしまったという。
双頭の牡牛形柱頭はアパダーナの北階段横に置かれていた。『Persepolis Recreated』の想像復元図ではこうなっている。顔はもっと長いのかと想っていた。
アパダーナの東から南面には柱頭は残っていなかったが、見学を終えて自由時間が少なくなり、焦りながらアパダーナの東階段から東柱廊玄関へと階段を登ると、双頭のライオンの柱頭を見つけた。ガラスに反射して見難いが、鼻や口周りの皺まで表現されている。角の先は別材を継いでいたのが外れている。それに側面が捨てられた鷲グリフィンのように平たい。『Persepolis Recreated』の想像復元図では、曲がった角はもう少し長いが、胴部は牡牛のように丁寧には表現されておらず、平たいままだ。上のライオンをそのまま復元したからかも知れないが。
ライオンの柱頭を近くから見てみようと思ったにもかかわらず、この景色が目に飛び込んできて、それを忘れてしまった。 今までとは違う台座は何をモティーフにしたものだろう。 ここにも口を開いたライオンの柱頭が。 鷲グリフィン(ホーマ)の柱頭のようにも見えるが・・・側面はやっぱり平たい。ここにもライオンの頭部が。歯だけでなく、舌も彫り出されている。これもライオンだ。 これも。 そしてこれも。背中の肘木を通す凹みも残っている。ここにも。アパダーナの東柱廊玄関の柱頭だけは確かに双頭のライオンだった。
北階段付近にあったのは牡牛。それは側面が平たくないから。
ペルセポリス ペルシア風ラマッス←
※参考文献 「Persepolis Recreated」 Farzin Rezaeian 2004年 Sunrise Visual InnovationsSD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会「竹中大工道具館 常設展示図録」 2014年 公益財団法人 竹中大工道具館
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アパダーナの東階段は比較的保存状態が良いので、屋根を架けて直射日光に当たらないよう保護されている。従って暗い所での撮影となり、思うような写真とはならなかった。『THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis』(以下『GUIDE』)には屋根が架かる前の写真があった。こういう状態で、午前中に見学していたら、もっと良い写真が撮れただろうなあ。
それでも、各国の使節団がそれぞれの服装で、献上品を掲げ、或いは動物を牽いて階段上の広間へと向かって行く浮彫を間近に見ることは出来た。また、使節団の区切りに樹木(糸杉とされる)が置かれ、糸杉の次に杖を突いたペルシア人の先導者がいて、使節団の先頭の人の手を引いている。腹部で紐を結んだような長衣の裾は規則的に襞が表され、イオニア人によって浮彫されたか、その影響が残っていることを示している。紐の上に出ているのは、短剣?先導者の服装が異なる場面もある。帽子も丸く、膝までの長衣に、腰紐からアキナケス剣を提げている。このアキナケス剣について『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、鉄剣は柄と刃が一体になっており、鐔は蝶あるいは逆ハート形に近い形をしている。このような鐔をもつ剣をギリシアではアキナケスと呼ぶ。アキナケス剣は、いわゆるスキタイの三要素(動物文様、馬具、武器)の一つである武器のなかで、三翼鏃とともに本来スキタイ固有の要素と考えられ、スキタイ時代にはユーラシア草原地帯とその周辺の中国やイラン、ギリシアにも広まったという。すでにペルシアでもアキナケス剣は普通に使われていた時代だが、3つのスキタイの国から使節団は派遣されている。この先導者が手を引いているのは、バビロニアからの使節団長。
糸杉と先導者は省略して、使節団だけを紹介する、ただし、『GUIDE』にはそれぞれの国の使節団を番号を振って解説されているが、それは階段上部から、つまりは、ペルシアにとって重要な国から並んでいる。南端の階段下部から見ていったので、逆順になる。また、同書の説明は北階段のものなので、使節団の人数が東階段とは異なっているものもある。
㉓から⑲までは斜めになった階段壁面の上端
㉓ エチオピア人 3名一際大きなペルシア人に案内される。二人目は器またはその中に特産品を入れている。ダナキル砂漠で採れる塩とか。3人目は象牙を担ぎ、後方に顔の短い動物を牽いている。『Persepolis Recreated』はオカピとしている。帽子は被らず長衣を着る。
㉒ リビア人 3名二人目はガゼルのような動物を連れ、三人目は二頭立ての戦車の馬の横を歩いている。縁飾りまたは房飾りのある長衣を着る。帽子は被らないが、ウエーブのある髪の端だけがアッシリア人のようにパーマをかけているる
㉑ ザランジュ人 4名 『地球の歩き方』は現在のアフガニスタン南西部にいたとされるという。二人目は槍と丸い楯を持つ。三人目は牛の引き綱の端を左手で握り、右手で綱を支えている。四人目は棒を持つ右手で牡牛を抱えるように行進する。膝下までの服は胸前でかなりの襞がある。髪は筋状で鉢巻きを締め、髪の端と髭にパーマをかけている。
⑳ ヨルダンとパレスチナのアラブ人 3名(同書では4名)長い衣類を持った人と、左手で手綱の端を握り、右手で綱を牽いて背後のヒトコブラクダを連れた人。 半袖のようで、⑳よりも襞は少ない膝下までの服を着る。直毛で、端だけ外にカーブしている。
⑲ ヨーロッパのスキタイ人 4名 登場しているのは「尖り帽子のサカ(サカ・ティグラハウダー)」。wikipediaによると中央アジアの西側に住んでいたという。二人目と三人目は先になるほど太い槍と密に縦線が入った楯を持ち、三人目は良い種馬の左側で手綱を牽く。尖り帽子は耳も覆っているが、後頭部の髷?は出ている。襞のないゆったりとした服装で、袖口は広い。
⑱から④までは3段構成で5列
⑱ 北西部のインド人 6名天秤棒で何を運んでいるのだろう。同書は香辛料か砂金としている。続いてラバの左側に棒を持って連れる人。最後は戦斧を持つ人。短い直毛で、鉢巻きを締める。膝上の服を上半身脱いで、腰のところで丸めているのかな。
⑰ サカ・ハウマヴァルガー(西部スキタイ人) 5名(同書は6名)wikipediaによると、ハウマを飲むあるいは造るサカで、中央アジアの東側に住んでいたという。アキナケス剣を両手で縦に持つ人。腕輪を持つ人。戦斧を持つ人。良い種馬を牽く人。耳まで覆う帽子は尖っていない。足首で絞ったズボンに膝丈の上着を着てベルトを締めている。その裾からアキナケス剣の下端が見えている。
⑯ サガルティア人 5名『地球の歩き方』は、現在のヤズド周辺にいた部族だと言われているという。 メディア風衣装(『GUIDE』によると)を運ぶ3人の後ろには馬を運ぶ人。尖頭の者は丸い帽子を被り、パーマをかけた髪の端が出ている。後ろの者は頬も隠れる頭巾を被っている。あまり特徴のない膝丈の服装で、ベルトはしていない。
⑮ パルティア人 4名縦長の器を2つ運ぶ人。鉢を2つ運ぶ人。フタコブラクダを牽く人。中央アジアより西に生息するのはヒトコブラクダではなかったかな。拡大ウェーブのかかった髪に鉢巻き、前髪だけ短くしている。耳飾りも付けておしゃれ。顎髭にピンと伸ばした口ひげも。長袖の膝丈の衣服をベルトで締め、たるませたズボンの裾を先の尖ったブーツに入れているみたい。
⑭ カブール地方のガンダーラ人 6名コブウシは二人がかりで連れている。丸い楯と槍を持つ人。後ろの2名は2本の槍を運ぶ人。鉢巻きの下はパーマをかけた髪と顎髭。五分袖膝丈の服に太いベルトを巻き、裾の長い上着を羽織る。
⑬ バクトリア人 4名小さな器を2つ持つ人。その後ろには別の形の器を2つ運ぶ人。フタコブラクダを牽く人。丸く小さな帽子から髷を結った髪が出ている。少なくとも後ろの者は耳飾りを着ける。チュニック丈の上着にベルトを巻く。足首で締まったズボンをはいている。
⑫ イオニア人 8名3種類の器を3名で一対ずつ運ぶ。布を運ぶ2人と羊毛玉を2つずつ運ぶ2人。㉒リビア人の髪型に似るが、丸まった端は4列と多い。五分袖の内着にはウェーブした横縞があり、その裾は縦縞となる。その上に襞をつけて大きな布を巻く。
⑪ 尖り帽子のサカ(スキタイ人) 6名戦闘の人は箙を肩から提げている。良い種馬を連れた人、一対の腕輪を持つ人、衣服を持つ人3名。全員右腰にアキナケス剣を提げている。⑲のヨーロッパのスキタイ人の帽子よりも先が長く尖った帽子を被る。膝丈の服にベルトを巻き、別のベルトにアキナケス剣を提げる。裾のすぼまったズボンを履く。
⑩ エジプト人 6名足元だけが残る。『GUIDE』は、衣装と牡牛を運ぶという。足首まである長い服を着ていることくらいしか分からない。
⑨ カッパドキア人 5名馬を運ぶ人、メディア風衣装(『GUIDE』による)を運ぶ3名。複雑な形の帽子あるいは頭巾を被り、パーマをかけた髪と顎髭に覆われている。膝丈の服にベルトを締め、マントのような上着を羽織る。後方の者が運んでいるのは、足先まで続いたズボンのよう。
⑧ メソポタミアのアッシリア人 7名大きさの異なる器を一対ずつ運ぶ2人。水を容れる革袋を左手に、カップを右手に持つ人。衣装ほを持つ人。2頭の牡羊を二人で連れている。4段の鉢巻きをしてパーマをかけた髪をおさえている。五分袖で膝下丈の服に4段のベルトを締め、足首までの靴を履く。
⑦ アラコシア人 5名Wikipediaでは、アフガニスタンのカンダハール州とする。両手に一つずつ鉢を持つ人、その後にフタコブラクダを連れる人。『GUIDE』は、野生ネコの皮を持つ人もあるようだ。段々になった帽子のような頭巾のようなものを被る。 膝上丈の服にベルトをして、長いブーツにたるみのあるズボンを入れている。
⑥ リュディア人 6名壺・碗・腕輪をそれぞれ一対ずつ持った3名と二頭立ての戦車の馬を連れた人、その背後に1名。 5段の帯状の円錐形の帽子を被る。近隣のせいか、⑫イオニア人の服装に似ている。
⑤ バビロニア人 6名似たような鉢を2つずつ持った2人、刺繍したような布を持つ人。水牛の綱を牽く人と背後に水牛を抱いて進む人。尻尾のような先を垂らした帽子を被る。五分袖で足首まである長衣に、襞が多く端に小さな重りを着けたようなストールを肩に回し掛けている。
④ ヘラートのアーリア人 5名開いた鉢を2つ持つ人。フタコブラクダの綱を牽く人と背後に2名いるが、持ち物は不明。『GUIDE』は衣装を持つ人とヒョウの毛皮を持つ人だという。髭も隠れる頭巾を被る。前の者は膝下丈の長衣、後ろの者は膝上丈の服にベルトを締める。
階段が始まるので③と②は2段に
③アルメニア人 3名(『GUIDE』は5名)馬を連れた人と壺を運ぶ人。⑨カッパドキア人と同じような帽子あるいは頭巾を被る。口ひげは先をカールさせ、顎髭にはパーマをかけていない。長袖で膝丈の服にベルトを締め、前に飾りを垂らす。
② エラム人 6名『GUIDE』は前の二人を、弓を持つ人と双刃の短剣を持つ人とする。続いて牝ライオンを綱で制御する人と、子ライオンを抱く2人。鉢巻きで留めた髪は端が6段にパーマがかかる。着物のように広くなった袖口の長衣は前に規則的な襞がある。
そして一番上には①
① メディア人 9名壺を持つ人。一対の器を持つ人。アキナケス剣を持つ人。一対の腕輪を持つ2人、衣装を持つ3人。人数も多いし、ペルシアの最重要国なのだろう。先頭の者は丸い帽子、後ろの者は頭巾を被る。長袖に膝丈の服にベルトを締め、先頭の者は、もう1本のベルトにアキナケス剣を提げる。このメディア人の服装を多くの国のものが献上しているのは何故?順番が逆になりましたが、東階段を見学した様子は後日。
参考文献「THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis」 ALIREZA SHAPUR SHAHBAZI 2004年 SAFIRAN-MIRDASHTI PUBLICATION「地球の歩き方E06 イラン ペルシアの旅」 2012-13年版 ダイヤモンド社 「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
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使節団が運んでいるのはその国の特産品や動物、あるいはペルシアの王が要請した品だっただろう。 その工芸品について、それに類似した作品を挙げてみた。
① メディア人壺・深鉢・アキナケス型短剣を持ってる。深鉢は類似した作品が見つからなかったが、④ヘラートのアーリア人も似たような深鉢を運んでいる。
銀製アンフォラ アケメネス朝 高24.3径13.7㎝ ハマダーン州出土? イラン考古博物館蔵 『ペルシャ文明展図録』は、外見は両把手の付いた貯蔵用の器「アンフォラ」だが、底部には2つの注口があり、ここから内部の液体を注ぎ出していたことがわかる。すなわち、この作品の使用法はリュトンのそれであり、「アンフォラ形リュトン」と呼ぶこともできる。このようなアンフォラ形リュトンはペルセポリスの浮彫に表現されているばかりでなく、土製のものも存在することから、アケメネス朝時代に比較的一般的な容器であったと推定されるという。リュトンならば蓋はなかったかな。頸の付け根に連珠が巡り、肩部は浅く水平な凹みが続いた下には鱗状の刻文、胴部には花弁状のものが巡る。両把手も凝っている。上端は蛇が口を開いたようだが、下端は蛇の尾ではなく、人の足先のようだ。
アキナケス型短剣は、腰に提げるための紐まで描かれている。聖樹と有翼神・動物文の剣と鞘覆い スキタイ(前7世紀末期) ロシア、クラスノダル地区ケレルメス1号墳出土 金・鉄 鞘覆い:長47.0㎝幅14.1㎝ 剣の柄:長15.5㎝ サンクト・ペテルブルグ、エルミタージュ美術館蔵『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、鉄剣は柄と刃が一体になっており、鐔は蝶あるいは逆ハート形に近い形をしている。このような鐔をもつ剣をギリシアではアキナケスと呼ぶ。アキナケス剣は、いわゆるスキタイの三要素(動物文様、馬具、武器)の一つである武器のなかで、三翼鏃とともに本来スキタイ固有の要素と考えられ、スキタイ時代にはユーラシア草原地帯とその周辺の中国やイラン、ギリシアにも広まったという。浮彫よりも時代が古いためか、浮彫に表されたアキナケス型短剣よりも長い。紐はベルトに通して腰に提げていたのだろう。鞘には前進する鳥グリフィンと弓を引いて前進する鳥グリフィンが交互に4対表されている(下図の矢印は同じ鳥グリフィン)。③アルメニア人大きな双耳壺を持つ。その把手の上なは外側を振り返る鷲グリフィンが表されている。
アンフォラ型リュトン 前6-4世紀 ブルガリア、ドゥヴァンリ、タコヴァ墓出土 銀鍍金 高27口径13.4㎝ ソフィア考古博物館蔵『世界美術大全集東洋編16』は、現在のブルガリア(トラキア)はかつてアケメネス朝の支配下に入ったことがあった。そのためか、アケメネス朝で制作されたと考えられる銀鍍金のアンフォラ型リュトンが出土した。これはペルセポリスの朝貢者の持つアンフォラ型リュトンに形態が酷似している。両把手は別造されたライオン型グリフォンであるが、この聖獣は内部の液体を守護する役目を持っていたと推定されている。本体の部分は3段に分かれ、ギリシア風のパルメット文とロータス文が打ち出し技法で施され、鍍金されている。このような文様によって、このリュトンはギリシア系の職人が制作したものとわかる。もっとも下の段には縦溝(畝)が打ち出されており、アケメネス朝のリュトンではこの部分に縦溝ないし横溝を施すのが一般的であったという。 獅子形把手付リュトン アケメネス朝(前6-5世紀) 土製 イラン、アゼルバイジャン州出土 岡山市立オリエント美術館蔵土製のものもあった。こちらは底に注口がありそう。背後を振り返った形もあれば、正面を向いているものもある。パルメット文やロータス文はないので、ペルシアの工人が製作したものかも。
⑥リュディア人アルメニア人の持つ双耳壺に似ているが、だいぶ小型の壺は縦溝がある。幅広の鉢ち腕輪も一対ずつ運んでいる。⑪尖り帽子のサカ(スキタイ人)の持つ腕輪は動物の装飾は控えめ。
グリフォン装飾腕輪 アケメネス朝(前5-4世紀初) 金 径12.3㎝ タジキスタン南部出土オクサス遺宝 大英博物館蔵『世界美術大全集東洋編15』は、輪の下部がややくびれているのはアケメネス朝の腕輪の特徴である。これと同じような輪の一部がくびれて両端にグリフォンがついた腕輪は、ペルセポリスの浮彫りで、シリアあるいはリュディアの使節が王への献上品としてもってきたものの一つに見られる。グリフォンの体のくぼみには石が象嵌されていたはずであるが残っていない。要素はすべてアケメネス朝のグリフォン図像表現の基準を満たしているという。リュディア人が持っている腕輪も鷲グリフィンのようだが、互いにそっぽを向いているのと角がないという違いがある。鴨装飾ブレスレット アケメネス朝(前6世紀中期-4世紀) 金、ラピスラズリ、トルコ石、縞瑪瑙、水晶、ガラスの練物 高11.7幅10.5厚2.4重197.4g MIHO MUSEUM蔵グリフィンではないが、後ろを向いているのと、象嵌がよく残っているので。『MIHO MUSEUM南館図録』は、羽の細部を色の付いた素材で象嵌する方法は、アケメネス朝の工芸に及ぼしたエジプトの影響を示している。大王たちがエジプトの工匠を用いたことが知られているが、この技法が用いられているからといって、それを作った宝石細工師が必ずしもエジプト人であったというわけではない。というのも、この技法は、アケメネス朝の王朝様式の作品に広く用いられているからである。アケメネス朝のブレスレットやトルク(首飾)にみられる動物のなかでは鴨はまれであるから、このモティーフは興味深い選択である。さらに、通常アケメネスの宝飾品はもっと細身のものが好まれるのに対し、作品は比較的頑丈な様相を呈している。鳥の頭が後ろを振り返っている点や、頭や前軀だけではなく動物の全身を洗わしている点などは、確かにアケメネス朝の慣例を反映している。しかし、羽にみられる比較的写実的な配色や明暗の変化は、決してアケメネス朝美術の装飾規範に一致するものではないという。⑩エジプト人の使節団は上半分が欠落しているが、ひょっとしてこんな太いブレスレットを持っていたかも。
黄金の杯 アケメネス朝(前5世紀) 金 伝ハマダーン出土 高11.6径20.5㎝重1407g イラン国立博物館蔵『世界美術大全集東洋編16』は、ダリウス1世やクセルクセス1世の銘(諸王の王)を口縁に沿って楔形文字で刻んだ金製の碗が偶然に発見されたといわれている。容器の内部には、円形の突起があるが、これはギリシアのフィアラ杯に見られるいわゆるオンファロス(臍、地球の中心)で、この凹形にくぼんだ部分に指を入れて碗を支えるのである。そして、この円形部分を中心にして、アッシリア由来の菊花文を打ち出し、その上に木の実(ドングリ)のような文様、太い眉毛のような文様、小さな涙のような文様を連続的に与えて装飾効果を出そうとしている。おそらく、イラン南西部に栄えたエラム新王国の金属工芸の伝統を受け継いだものであろうという。
鉢を持つ者は多い。その中から、
⑤バビロニア人二人とも同じ形の鉢を左右に一つずつ持っている。浅鉢 アケメネス朝期 銀製 径20㎝重400g ペルセポリス出土 イラン国立博物館蔵『THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis』は、似た鉢がイラン人とバビロニア人の使節団に見られるというが、イラン人がどれを指すのかよくわからない。中央に16弁の花ロゼット文、外側に26弁の菊の花状の稜のある花を表す。
⑤アッシリア人二人とも同じ形のフィアラ杯を持っている。口縁と胴部の境目に筋を入れる。後者のものは口縁部に縦溝があらしい。
⑮パルティア人前者は横溝のある鉢、後者はフィアラ杯だが口縁に縦溝がある。
今のところは以上です。また見つかれば追加します。
ペルセポリス アパダーナ東階段の各国使節団←
参考文献 「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝 展図録」 2006年 朝日新聞社・東映 「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館「THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis」 ALIREZA SHAPUR SHAHBAZI 2004年 SAFIRAN-MIRDASHTI PUBLICATION「MIHO MUSEUM南館図録」 監修杉村棟 1997年 MIHO MUSEUM
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