ホジャ・アフマド廟以前の浮彫青釉タイル
サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群の一番奥にあるホジャ・アフマド廟は廟群の中でも、14世紀半ばという現存最古に近い廟だが、その施釉浮彫タイルに覆われた外観は圧巻である。どうもこのような施釉浮彫タイルは、空色嵌め込みタイルとは別の系統にあるのではないだろうか。施釉浮彫タイルを探してみると、 マゴキ・アッタリ・モスク南入口イーワーンの外枠 12世紀...
View Articleニサ遺跡、正方形の広間はラテルネンデッケ
ニサ遺跡には4本の柱のある部屋や建物もある。⑫、⑮、⑯がそうである。⑮正方形の部屋では、ラテルネンデッケの天井の想像復元図がある。『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、ラテルネンデッケの天井とは、方形の天井の四隅に 斜めに梁木を架して、ひとまわり小さい方形の枠を作り、それを積み重ねることによって中心を上に向かって次第に狭めてゆき、最も小さくなった中心頂にドー...
View Articleニサ遺跡の出土物はヘレニズム風
ニサ遺跡には円形平面にドームを架構したとされる⑨円形の広間がある。実際にはこのような遺構があるだけだが、想像復元図ではパンテオンまーのようなドームになっている。旧ニサの円形神殿復元図 前2-後1世紀『0LD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN...
View Articleマルグシュ遺跡の出土物1 青銅製車輪の箍(たが)
トルクメニスタンの青銅器時代の広大なマルグシュ遺跡では、都城址のゴヌール1号遺跡を見学し、また、出土物をマリの博物館で見学した。王族の墓のうち第3900号墓では、馬の骨と共に青銅製車輪の箍が副葬された墓坑があった。四輪馬車だったらしいが、荷車として用いられたのか、それとも墓主が乗り回した戦車だったのだろうか。ぐにゃりと曲がったものが青銅の輪っか。当時他の遺跡では見られないものだそう。車輪にしては幅が...
View Articleマルグシュ遺跡2 青銅製印章
マリの博物館で、マルグシュ遺跡の出土物で一番たくさん展示されていたのは、こんな小さなもの。衣服に付ける飾りかと思ったら、青銅製印章だった。左手前には二羽の鳥。同じケースの反対側から見ると、花を表したものが多いが、5点星もすでにある。全体にみて円形のものが多い。左のものは三日月が4つあるようにも見えるし、右のものはギラギラ照りつける太陽のようでもある四角形もあったりする。これを粘土に当てると印影は四菱...
View Articleマルグシュ遺跡の出土物3 祭祀用土器が鍑(ふく)の起源?
トルクメニスタンのマリという街に、メルヴやマルグシュの遺跡の出土品が展観されていた。その中で鍑好きの私の目を惹いた土器がある。しかも、鍑は青銅製なのに、トゴロク遺跡で発見されたものは土器だった。祭祀用容器 前3-2千年紀中頃...
View Articleマルグシュ遺跡の出土物4 モザイクの聖櫃
トルクメニスタンのマリという小さな街に博物館があり、そこにはマルグシュ遺跡で出土したものが多く収蔵され、展示されている。土器類や青銅器類に混じって、思いがけないものに出会った。それはモザイクによる装飾が施された容器だった。聖櫃 石...
View Articleマルグシュ遺跡の出土物5 女神像
トルクメニスタンのマルグシュの一部、ゴヌール遺跡を見学していた時、ヴィクトールさんは王宮の188号室の「開かない窓」で女神像が発見されたといって、その写真を見せてくれた。王宮についてはこちらところが、マリの博物館では女神像は展示されていなかったのか、見逃したのか、写真はない。...
View Articleカウナケスという衣装
トルクメニスタン、マルグシュ遺跡出土の女神像はカウナケス状の衣装を纏っているように見える。カウナケスはメソポタミアの服装ではなかったのだろうか。どのようにしてバクトリアやマルギアナにカウナケスが入ってきたのだろう。『古代バクトリア遺宝展図録』は、最近の発見ではナマーズガ文化の栄えたマルギアナ地方から同類の彫刻の断片が出土したことが知られている。同地域はエラム文化の影響を強く受けていたと考えられ、ゴヌ...
View Article伏見稲荷1 狐の銜えているもの
伏見稲荷は外国人旅行者にパワースポットとして人気があるという。若い頃は、鳥居がびっしり並んでいるくらいにしか思わず、また、スズメの焼き鳥のお店が並んでいると聞いて敬遠していたが、BS-TBSの『高島礼子・日本の古都~その絶景に歴史あり』という番組で、伏見稲荷のことを放送していた。その時に、稲荷山の頂上にある岩に白い鳥に姿を変えた神が降り立ち、稲の種を落とした。その後稲が育ち、日本で稲作が行われるよう...
View Article伏見稲荷2 鳥居のトンネル
伏見稲荷大社の最初の鳥居をくぐってから、これまでも多くの鳥居や鳥居のトンネルの下を歩いて来た。やっと千本鳥居と呼ばれる、一方通行の鳥居のトンネルのところまで来た。ここの鳥居はさすがに小さい。実は伏見稲荷大社というのはこのような鳥居のトンネルが延々続いて、その奥の方に社殿があると思っていたのだった。下り専用の鳥居のトンネル。人の往来がわからないほど密に並んでいる。...
View Article伏見稲荷3 京都の街を眺める
熊鷹社を経てまた鳥居のトンネルを進んでいく。参道は階段状の急傾斜だったり、 ほぼ平たいところもあったり、カーブしていたりの繰り返し。鳥居のなくなっているところには、次の奉納者の札があるものも。 三ツ辻に到着。参拝図では現在地のところ。T字路を四ツ辻方面に行くので右折。すぐに②のマークのある休憩所、その奥には鳥居のトンネル。 また登って休憩所があった。...
View Article伏見稲荷4 お山する1
『伏見稲荷全境内名所図繪』は大正末か昭和の初めに描かれたものである。そこには社殿が描かれている。ところが、BS11の「古地図で謎解き」という番組では江戸時代の古地図が紹介されていて、そこには総本宮の社殿は描かれていなかった。京都感動案内社の小嶋一郎氏は、総本宮の社殿が描かれていないのは何故か?それは、四ツ辻に手水鉢がある。お参りの前に清めて下さいという手水舎がこの場所にあるからです。それこそが古地図...
View Article伏見稲荷5 お山する2
やっと稲荷山の頂上、一ノ峯まで登り、後は「お山」しながらの下山となる。二ノ峰に向かう。 不思議なことに、鳥居は奉納者が書かれた側が見えている。逆ではないの?そうか、伏見稲荷の1万本とも言われる鳥居は、全て一ノ峰に向かって奉納されたものだったのだ。タイミングよく新しい鳥居を立てる作業をしている人たちがいた。...
View Article弥勒寺の弥勒仏三尊像は10世紀
姫路市夢前町寺というところに弥勒寺というお寺があり、その寺の仏像が平安中期のものらしいことを、いとうせいこうとみうらじゅんの「新見仏記」という番組で知った。ただし見学できるのは、正月三が日の本堂ご開帳の時だけだという。それで、初詣もしない私だが、数十年ぶりに初詣をすることとなった。ナビを頼りに山間の道路を行くと、赤い幟が並んでいるのが見えたところで右折、その先はまだまだ続いていたが、車の多さで迷わず...
View Article弥勒寺の仏像は円教寺の仏像と同じ安鎮作
弥勒寺弥勒仏坐像と両脇侍立像は10世紀、といっても長保元年(999)というぎりぎり10世紀に造立された仏像だった。弥勒寺は書写山円教寺の奥の院で、性空上人の隠棲所として建てられた。『日本の美術479十世紀の彫刻』は、性空(?-1007)は、播磨の書写山に入り、国司藤原季孝の助力により法華堂と鐘楼を建てて円教寺を開いた。性空の弟子円照の記『円照記』により創建期の堂宇と安置仏像を見ると、 ・・・略・・・...
View Article平安中期の如来坐像
性空上人が開創した書写山円教寺とその奥の院弥勒寺の10世紀あるいは11世紀初頭の仏像をみてきた。この機会に、主に『日本の美術479十世紀の彫刻』で、平安中期の如来坐像をいつものように年代を遡っていくと、弥勒仏坐像 10世紀末-11世紀初頭 奈良・法隆寺伝法堂安置...
View Article平安前期の立像は
平安前期の如来坐像を調べてみると、意外にも塊量感のある像ばかりではなかった。そこで、今回は立像を『日本の美術457平安時代前期の彫刻』で見ていくと、薬師如来立像 像高164.8㎝...
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