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ニサ遺跡の出土物はヘレニズム風

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ニサ遺跡には円形平面にドームを架構したとされる⑨円形の広間がある。
実際にはこのような遺構があるだけだが、
想像復元図ではパンテオンまーのようなドームになっている。

旧ニサの円形神殿復元図 前2-後1世紀
『0LD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE』は、ゾロアスター教時代の典型的な建物だった。円形の広間は二階建てで、下階はくぼみのない壁面、上階は円柱の間の各壁龕に彩色された神々の塑像があったという。
これは復元想像図だ。これまで見てきた建物から考えて、この時代の円形の建物に、当時ローマのパンテオン(後118-128年)のような格間があって、半球ドームが架けられたとは考えにくい。きっと円錐ドームだっただろう。
パンテオンのドームができるまではこちら
『世界美術大全集東洋編15』は、 135
そして、ドームの下では等間隔でコリント式風柱頭ののった円柱がドームを支え、柱間にある半円アーチの壁龕に人物の彫像が置かれている。

女性立像 前2世紀 大理石製(右像の下半身は別の石材) 高さ、左51.0右:60.0㎝ 王の宝物庫出土
おそらくこのような彫像を元に復元図が描かれたものと思われるが、その姿態はヘレニズム風である。
『埋もれたシルクロード』は、この地において、青銅器時代にはプロト都市的タイプの大集落が形成されたのである。その後衰退と荒廃の時期を経て、鉄器時代にはいってからはこの地に内城のある中心地エリケン・デペが出現した。
前6-4世紀、パルティアはアケメネス帝国の領内にはいった。われわれは当時の摩崖碑文によって、パルティアが一時、古代史に明白な痕跡を残しているダレイオスの父ヒュスタスペスの治下にあったことを知ることができる。「ダレイオスの遺産」をめざして困難な東方遠征に向かったアレクサンドロス大王は、この地に長く止まらずに、以前の支配者=サトラプを確認しただけであった。事実、果てしない砂漠の端にある貧しい国は、虚栄心の強い征服者にとってとるにたりないものであったかも知れない。ストラボンもその『地理』の中で書いている。「パルティアはあまり大きくない・・・。その土地が狭い上に、一面樹木におおわれ、山がちで貧しいために、大王はその軍勢を率いて、大へん急いでこの地を通過した」という。 
アレクサンドロスはバビロンで急死、広大な支配地はその部将たちによって分割された。パルティアはセレウコスの支配下におかれた。
同書は、しかしパルティアの住民は、自らの国が異国の支配者の玩具になることを欲しなかった。 ・・略・・ したがって、セレウコス朝弱体化の最初の最初の兆候が現れるやいなや、パルティアを含むその東部サトラペイアが脱落し、独立を宣した。まもなくパルティアに遊牧種族が進入したが、これはかつてセレウコス朝国家からの分離をうながしたのと同じ勢力であったと思われる。遊牧民の首長は新王朝を創始したが、これは創始者の名前によってアルサケス朝とよばれているという。 
という訳で、衰退していたためにアレクサンドロスに蹂躙されずに済んだニサの地にも、ヘレニズム文化は伝播し、このような彫像が造られることとなった。
右像について『世界美術大全集東洋編15』は、ミトラダテス1世(在位前171-138年)が西アジアのセレウコス朝の都市を攻略したときに持ち帰った略奪品だった可能性もあるという。
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、ヘレニズム美術が着実にこの地域に伝播し たことはイラン系のアルサケス朝パルティア(前3-後3世紀前半)の時代に制作されたさまざまな作品が物語っている。アルサケス朝の宮廷美術は、その初期 の首都であった現トルクメニスタンの旧ニサの宮殿や神殿から発掘された若干の彫刻以外、ほとんど現存していないという。
兵士の頭部 前2世紀 ニサ、⑮方形の建物に付属する部屋出土 粘土、目は貴石の象嵌 高45.0㎝ アシュハバード、トルクメニスタン科学アカデミー蔵
『世界美術大全集東洋編15』は、塑像は輸入品とは考えられないので、この地にギリシア美術(ヘレニズム美術)の技術を身につけたギリシア系の工芸家が存在したことが判明する。粘土で成形し、表面にストゥッコ(化粧漆喰)を塗って着色しているが、その顔貌表現は写実的である。人体の細部を詳細克明に再現する様式はパルティア美術の特色の一つであるから、のちの1-3世紀に西アジアで開花したパルティア美術の萌芽が見られるという。
ギリシアの工芸家が、写実的には東方アーリア系(イラン系)の人々を表現したということだろう。
上の女性像とはかなり雰囲気が異なる。
コイン
アルサケス王(在位前247-211年)は若く、ミトラダテス王(1世?)は老人に表されている。

リュトン 前2世紀 象牙 右は高さ43.5㎝ 王の宝物庫出土 アシュガバード、トルクメニスタン国立歴史博物館蔵
『世界美術大全集東洋編15』は、リュトンは葡萄酒を飲む酒宴に用いられた古代の代表的な酒器で、アケメネス朝ペルシア、アルサケス朝パルティア、ギリシア、ローマなどでも銀や金製のリュトンが愛用された。
しかしながら、象牙製のリュトンがこれほど大量に一度に出土した例は知られていない。角形の本体の湾曲度、その長さから判断すると、このリュトンの形はヘレニズム時代に属する。これらのリュトンがどこで制作されたのか明らかではないが、少なくとも旧ニサではないようである。その制作地としては、インドの象牙を入手しやすかった東方のバクトリアのギリシア人都市が有力視されている。しかしこのリュトンは元来セレウコス朝の宮廷が所有していたもので、パルティア人がそれを略奪したものであるから、制作地はメソポタミアで、ギリシア系工芸家によって作られたという説もあるという。
こういう風に見ていくと、数少ない旧ニサ出土の美術品でさえ、旧ニサで制作されたものは少ない。

その点建築部材や壁画は、パルティア人の仕事だったかどうかは不明だが、確かに旧ニサで造られたものである。

ライオン頭部浮彫 テラコッタ製 メトープの一部
メトープは、エンタブラチュア(日本風に言えば鴨居)の上に、トリグリフ(束石)と交互に嵌め込まれた装飾のある板である。
そのアルカイック期の例はこちら
ギリシアのメトープと比べると幅が狭いが、
パルティア美術とされるコンマゲネ王国のアンティオコス1世の墓がその山頂に築かれたネムルート山の西のテラスにあったライオンの彫像と比べると、ヘレニズム色の濃い表現となっている。

腰羽目板 石製 ⑫赤い建物出土
赤や橙色の縦溝の並ぶ上には卵鏃文様のようなものを横に並べる。
これはエピダウロス遺跡に併設された博物館で見た、軒飾りにあるモティーフが伝播したのだろう。クラシック期からヘレニズム期と幅が広いが、アンテミオンの表現からクラシック期のように思われる。

若者頭部 前2世紀 ニサ出土 壁画断片 高12.0㎝ アシュハバード、トルクメニスタン科学アカデミー蔵
アルファベットらしき文字も書かれている。
顔や首筋、鼻の脇はほのかに濃く、隈取りが施されているように感じられる。

壁画断片
右は馬に乗る人物、左下には後ろ向きの馬の頭部、その左には青い馬に乗って弓を引く人物の左手、その向こうにも馬に乗る人物の背中が見えている。パルティア人の遠征を描いたものだろうか。
右の馬の首には確かに濃淡があり、立体感を出して描かれている。

ニサ遺跡からの出土物は、ほとんどが首都アシガバードにある国立博物館に収められているが、ちょうど休館日で見学できなかったのは残念だった。



関連項目
隈取りの起源は?
ニサ遺跡、円形の広間のドーム
円形平面から円錐ドームを架ける
ネムルート山の浮彫石板

参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「0LD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年
「埋もれたシルクロード」 V.マッソン著 加藤九祚訳 1970年 岩波書店(新書)


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