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キュロス大王の墓はジッグラト風

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パサルガダエにあるキュロス大王の墓廟について『ペルシア建築』は、このパサルガダエには、初期のジッグラトとともにムサシールの神殿をも想起させるような、切妻屋根を持った建物があり、その中にキュロス大王が葬られている。この神殿=墓廟は、上へゆくに従って順次に高さが減ずる6つの段、いわば小型ジッグラトの上にそびえて立つ。その力強さは大きさの問題を超越しているように見えるという。
いくら段々に小さくなっているとしても、ジッグラトは比べようがないほど大きいし、
正面と
側面の長さが違う。
同書の平面図でみるとそれがよくわかる。
説明板は、周壁内部は726㎡、16mの高さの円柱が各辺8本ある広間があった。円柱は2X2mの黒い石を2段積んだ台座(現在は藁と土を混ぜた上塗で保護されている)があった。4つの扉口が守衛室の付いた広間に繋がり、日干レンガに藁と土で上塗りした高い壁で囲まれていた。一本だけ付け柱が残っていて、エラム風の服装で、エジプト風の王冠を被った像があり、その上方には三カ国語で「我はアケメネス家のキュロス王なり」という楔形文字が刻まれていた。1864年頃この部分は破壊され失われた。
長年ソロモンの母の墓とされていたが、1820年にキュロス大王の墓であることが判明した。アレクサンダーという名の考古学者は、王の庭園のような広大な敷地の中央に立っていたという。
墓は高さ11m。大きな切石で造られていて、長いものでは7mもあり、2つの部分から成っている。一段ずつ小さくなる6つの段がある基壇は、下の面積が164.20㎡。厚さ1.5m、高さ2.11mで、3.17mの小さな切妻屋根のある墓室。内部への唯一の入口は北西にあり、当初の石製扉は失われている。キュロス2世の防腐処理を施した遺体は、黄金の玉座の上の黄金の棺に安置され、その武器なども副葬されたが、全てはアレクサンドロス大王のペルシア侵攻の時に破壊されたという。
説明板の内容に合わないが、『ペルシア建築』には整備される以前の遺構の図版があった。

『ペルシア建築』には、ムサシールの神殿という言葉が出て来るが、それがどこなのかさえ分からない。
そして、ボスパルのアケメネス朝の墓廟の図版というのがあった。キュロスの墓に似て段々の基壇の上に切妻風の墓がのっている。しかし、ボスパルという地名も判明しない。
とはいえ、似たような建造物が複数存在していたのは確からしい。

ところで、ジッグラトといえば、イランではチョガー・ザンビールの(前13世紀中頃)が思い浮かぶ。カシャーンのテペ・シアルク遺跡でもジッグラトは見たが、その想像復元図は3段だった。
『古代オリエント事典』は、アケメネス朝は、紀元前550年にメディアを破って世界帝国を築いたが、紀元前330年にアレクサンドロスの遠征によって滅亡する。日乾煉瓦の伝統に切石積の新たな建築技法が混用された時代で、ギリシアからの影響に加え、建築の帝国性が指摘される。
メディアおよび小アジアを征服したキュロスは、首都をパサルガダエに置いた。巨大な切石とそれを堅結する金属の使用など、パサルガダエには小アジアなど西方の影響が見られる。中でもウラルトゥに先例をもつ盲窓を配した塔、整形に橋や水路を配した庭園、庭園内に配された石製円柱を用いた王宮、ジッグラト風の基壇の上に木造家屋を石に置き換えたようなキュロスの墓など、帝国内の建築文化を折衷した様相を示しているという。
エジプト征服が子のカンビュセス2世の代であったにせよ、一代でアナトリア半島まで版図を拡げたキュロス2世にしてみれば、各地で目にする珍しいものをどんどん採り入れて、新しい都を築き、自分の墓廟もこれまでにないものにしたかったのだとすれば、その墓がジッグラトと木造家屋の形を組み合わせたものというのも納得できる。





関連項目
パサルガダエ(Pasargadae)3 キュロス2世の墓
テペ・シアルク(Tepe Sialk)遺跡


※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトパサルガダエ

※参考文献
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社 
「古代オリエント事典」 日本古代オリエント学会編 2004年 岩波書店


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