彬県大仏寺 盛唐期の特徴
千仏洞の大きな仏像には盛唐期(712-765)の特徴がよく現れていた。その特徴の一つがウエストは細いのに大腿部に張りがあることである。159龕 盛唐(712-765)...
View Article彬県大仏寺 二仏並倚像と並立像
二仏並坐像というものがある。『建築を表現する展図録』は、『法華経』見宝塔品には、霊鷲山で『法華経』を説く釈迦と大衆の前に、1基の大宝塔が地中から涌出する場面が記される。涌出し、空中に浮いた宝塔の中には多宝如来の舎利が納められており、中から多宝如来が釈迦の説法が真実であることを大音声で宣言した。その後、宝塔内に入った釈迦は十万世界から集まった諸仏や菩薩とともに多宝仏の分身を拝し、さらに、釈迦如来は多宝...
View Article彬県大仏寺 羅漢洞に渡海文殊群像
羅漢洞の西開口部に近い一角に文殊菩薩騎獅像があったが、向かい側にゾウに乗った普賢菩薩像はなかったので、唐時代には釈迦の眷属として文殊菩薩と普賢菩薩が対で登場することはなくなっていたのかななどと思っていたが、獅子の綱をひく小さな人物に気が付いた。これは安倍文殊院にある渡海文殊群像と同じではないか。『仏像図典』は、文殊は釈迦入滅の後インドに生まれ、菩薩道を修し、釈迦十大弟子たちと往復問答をしたのをはじめ...
View Article日月のある仏像
唐時代に開かれた陝西省の彬県大仏寺の大仏、阿弥陀如来の光背の上には菩提樹が繁り、左右から日月(じつげつ)を持った手が出ている。この日月が光背の上にある図は以前に見たことがあるが、北魏時代のものだった。仏三尊像部分 北魏時代 山東省広饒県埠城店出土 山東省石刻芸術博物館蔵...
View Article聖徳太子の墓 叡福寺古墳
以前に夾紵棺のことで記事にしたこともあり、聖徳太子の墓が叡福寺にあることを知ってはいたが、不便そうなので、行くのをためらっていた。それが、学園前のきのわさんで田上惠美子氏の個展が開催される時期と、紅葉の時期が重なって、それなら車で行こうと、ずっと巣ごもりがちな夫と出掛けることとなった。近鉄南大阪線の上ノ太子駅の前を通って、電車でも来ることができるところだったと思ったが、そこからが結構あった。車で来て...
View Article磯長谷古墳群
聖徳太子の墓とされている❶叡福寺古墳を見学したのち、磯長谷古墳群へ。『王陵の谷・磯長谷古墳群』は、二上山西麓の竹内街道に沿った太子町には、南北2㎞、東西2.7㎞の範囲に敏達・用明・推古・孝徳の4天皇陵と聖徳太子墓のいわゆる梅鉢御陵を中心に、前方後円墳1、前方後方墳1、方形墳5基以上を含む約30基の古墳が群集しており、磯長谷古墳群と呼ばれていますという。かなり以前に道路地図で小野妹子の墓を見つけたが、...
View Article法隆寺 五重塔まで
久しぶりに法隆寺にいった。国道25号から南大門まで松並木の間の参道がある。『法隆寺』はこの松並木の参道から始まる、優れた案内書である。南大門は、平面は三間一戸。控柱が前後各4本、合わせて8本あるから八脚という(『日本古建築細部語彙...
View Article法隆寺 金堂
金堂の初層と二層の間にある支柱には龍が巻き付いている。これは江戸時代に補強のために加えられたもので、ずいぶん前に記事にしている。金堂にも裳階があって、『日本古建築細部語彙』は、裳階の板葺屋根は大和葺、板扉は彫出しの連子窓をもつというが、板扉には注意していなかった😅金堂にも裳階と初層の屋根の間に邪鬼がいるのだが、北西の邪鬼は奇妙な装飾があって、それが何かの顔だろうかと思ったが、長い鼻と牙で象だと気が付...
View Article法隆寺 西院伽藍と若草伽藍
20年11月、久しぶりに法隆寺を拝観した。そろそろ記事を書こうかなと思っていたところ、12月27日(同年1月4日放送の再放送)BSフジで「令和の法隆寺...
View Article法隆寺大宝蔵院 百済観音像
大宝蔵院は塼が敷き詰められた中庭を囲む4つの棟からなっている。南棟は出入口で、まずは左手の東棟から仏像群を拝観していき、その突き当たりで玉虫厨子の四面を見た後は北棟へ。北棟の中央には宝形造の百済観音堂が造られている。そこには百済観音像だけがガラスケース内に安置されて、四方から眺めることができる。百済観音は何度か拝見したが、その度に惹かれていく、不思議な仏像である。百済観音 飛鳥時代 像高209.4㎝...
View Article中心柱窟とは
これまでに見学した石窟の中には、中心柱窟は幾つか見てきた。最初に行ったのは敦煌莫高窟だが、歴史的にはキジル石窟の中心柱窟の方が先行する。キジルの中心柱窟貴重書で綴るシルクロードの西から東へ伝わった仏教文化:キジル石窟と鳩摩羅什(以下『貴重書』)は、主な構造には中心柱窟・方形窟・僧房窟の三種があるが、中でも特徴的なのは中心柱窟であるという。『中國新疆壁畫全集...
View Article敦煌莫高窟19 428窟は一仏二弟子二菩薩像の最初
莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。敦煌莫高窟の428窟(北周)と427窟(隋)は、隣り合う中心柱窟で、それぞれの特徴がそれぞれの時代の様式を表している。敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より428窟...
View Article敦煌莫高窟20 427窟に四天王像、金剛力士像、そして新たな三世仏
北周期の428窟に隣接して隋代に427窟が開鑿された。莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より427窟...
View Article西方にいた秦は国力をつけて中原へ
戦国秦の長城を調べていると、秦という国はずっと西の方から長い期間に徐々に国力を付けていき、遂には中国の統一を果たしたことが分かってきた。『歴史アルバム...
View Article麦積山石窟 43・44窟
『仏のきた道』は、西魏窟で想起されるのは『北史』に伝えられている西魏文帝(在位535-551)の皇后乙弗氏の悲話である。文帝は東魏と対立中に柔然王に攻められ、懐柔策としてその娘を皇后に迎え、皇后であった乙弗氏を廃位して出家させ、尼として麦積山に幽居し、ついに自害させてしまった。遺骸は「麦積崖を鑿ち龕を為って葬る」と記載されている。その墓窟の「寂陵」が43窟の後室であるといわれ、窟前には殿堂式の扉がつ...
View Article麦積山石窟4・5窟 前廊装飾
4・5窟の外観4窟は修復中で養生のネットがかかっているところ(2019年11月現在)4窟 北周、隋 唐、宋、明重修『天水麦積山』は、七間八柱だが、現存は両端の2本。前側に通廊があり、正壁は方形四角錐尖頂に帳が表された龕が7つ。廊下の左右壁に耳龕が各一つ、左壁の下に5窟に通じるトンネルがあるという。麦積山4窟前廊 北周開鑿...
View Article麦積山石窟133窟 仏像と造像碑
133窟は麦積山の西崖区、98窟の大仏(北魏、宋代重修)の近くにある。『中国石窟芸術』は、北魏晩期に開鑿され、五代、宋、元代に重修され、万仏洞とも呼ばれ、漢代の崖墓に倣ったため大型の窟龕であるという。『中国石窟芸術』は、前部の平面は横長の長方形の堂、後部は左右に長方形の龕が開かれている。周壁には15の龕があり、麦積山石窟で最大の規模であるという。不思議な形の窟だが、2つに分かれた部分を大きな龕と捉え...
View Article麦積山石窟133窟 敦煌莫高窟249窟に繋がる壁画
麦積山石窟133窟は北魏後期に開鑿され、後の時代の重修を受けている石窟である。その前室東側窟頂に北魏後期の壁画が残っていた。『中国石窟芸術』は、前室東側窟頂に約20㎡余りの壁画が残っている。山水樹木、騎虎仙人、騎犬仙人、大魚などの内容で、犬や虎は勢いよく走り、自由な筆致で描かれているという。全てが左に向かって勢いよく走っている。このような空中を駆ける壁画は、敦煌莫高窟の285窟や249窟のような西魏...
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