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唐招提寺の新宝蔵には、奈良時代の立像も展示されていた。これらの像が、鑑真が連れてきた仏師たちが、当時の唐での最新の造像様式だったと聞いたことがある。それらの像については、かなり以前に唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文としてまとめたことがあるが、勘違いも多いだろうと思うので、今回は、翻波式衣文だけでなく、仏像全体としてみていくことにした。
伝薬師如来坐像 木造 像高160.2㎝ 『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、木心を後方にはずしたカヤの一木より、頭頂から蓮肉の下方に伸びる軸(葺軸)までを含めて彫り出している。頭部は小さく、体部は幅広で量感があり、腰が高い位置にあることから伸びやかである。顔は頬が豊かに張り、微笑をみせる。肉付けを強調した大腿部と腹部の間には極めて密に衣文線が刻まれ、それが下方にいくと急に疎になるという、集中と拡散のリズムをみせる。またうねる衣端部には、生命感のある波状の衣文線が刻まれる。このような表現は、鑑真和上に随行した仏工の作であることを示しているという。茶杓形衣文は膝のあたりに見られるが、翻波式衣文は左袖あたりに限られる。衣文はそれぞれが盛り上がって表されている。
伝衆宝王菩薩立像 木造 像高173.2㎝ 同書は、失われた腕を復元すると六臂だったことがわかり、条帛に鹿皮様のものを結ぶことから不空羂索観音であったと考えられてきたが、近年では千手観音の可能性も浮上している。伝薬師如来立像と同じ構造で、表情に微笑がみられることも共通する。また、肉身のふくよかさに対して、局所的に細かく畳まれている衣や、天冠台・石帯などの稠密な彫りなど伝薬師如来立像に共通する独特のリズムがみられる。これらの彫り口は檀像を思わせるものがあり、その点で和上将来品のなかに彫白栴檀千手像が含まれることは興味深いという。直立して、全体に左右対称につくられているのを、左肩から右脇に通った条帛とその結び目が破っている。2本の天衣が正面部分が失われているため、脚部の茶杓形衣文が交互に表されているのがよくわかる。裙の折返しでは、茶杓形衣文はあるものの、左右同じ高さになっている。翻波式衣文はみられない。
伝獅子吼菩薩立像 木造 像高171.8㎝ 同書は、額に一眼を表し、両腕の後方に各一腕が配され、条帛の上から大きな結び目を作った鹿皮と思われるものを懸けていることから、三目四臂の不空羂索観音と考えられている。小さめの頭部に雄偉な体軀というプロポーション、両肩が盛りあがり腰から大腿部への張りのある肉付けなど、伝薬師如来立像・伝衆宝王菩薩立像と同じ作風を示している。表情における微笑相や構造も共通する。その上で本像は全体におおらかさが目立ち、肉付の張りは伝薬師像ほどではなく、腕釧や臂釧の彫りも伝衆宝王菩薩像より大まかなところがあり、耳の彫り口も2像と異なることは、仏工の違いによるものと考えられるという。左肩に浅い翻波式衣文がみられる。脚部の茶杓形衣文は、下にいくにつれ弧状としていくなど、この仏工独自の表現法がみられる。
伝大自在王菩薩立像 木造 像高169.4㎝ 同書は、構造は先の3像と同じく、頭頂から蓮肉下の葺軸までを共木で彫り出す。裳の上部を折返して石帯で留め、天衣が2段に脚部を渡る表現、また天冠台・石帯・臂釧の形などは、伝衆宝王菩薩像に学んだと思われる。しかしすっきりとした卵形の顔に見開きの細い目を刻んだ面相や蓮肉・葺軸の形など、伝衆宝王菩薩像と異なる点も多い。瞳に別材を嵌める技法や、翻波式衣文を表す彫法などとも異なる。顔立ちやプロポーションのよさは天平彫刻の流れを受け継いでいることを示し、翻波式衣文も奈良・東大寺法華堂本尊不空羂索観音立像にみられる。古典的な仏像表現の中に、和上がもたらした新様を取り入れた像であるといえようという。他の像と比べると、量感も控えめで、茶杓形衣文も見られない。翻波式衣文は、裙の折返しに見られる程度である。
なんと、翻波式衣文は、鑑真さんが当時(盛唐期)の最新流行の量感あふれる体軀と共に将来したものだと思っていたのに、それ以前にすでに日本に入っていたとは。
関連項目翻波式衣文はどこから唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文唐招提寺の四天王像
※参考文献「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社
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唐招提寺の奈良時代の仏像について調べていると、『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』に翻波式衣文も奈良・東大寺法華堂本尊不空羂索観音立像にみられるという記述があって驚いた。翻波式衣文は鑑真和上がが当時(盛唐期)の最新流行の量感あふれる体軀と共に将来したものだと思っていたのに、それ以前にすでに日本に入っていたとは。
不空羂索観音立像 奈良時代(8世紀中頃) 像高362㎝ 脱活乾漆 東大寺法華堂(三月堂)『カラー版日本仏像史』は、東大寺法華堂は、恭仁宮文字瓦の転用や『正倉院文書』における初見年代から、天平12年(740)以降、天平勝宝元年(749)以前の創建とわかる。その本尊、脱活乾漆造の不空羂索観音菩薩立像も、740年代の製作とみられる。雑蜜経典の『不空羂索経』の経説に従い、鹿皮衣をまとう3目8臂の姿に表される。骨格たくましい体軀は、充実した量感を示し、強く起伏する肉身には生命感があふれ、眼瞼裂をうねらせた表情には威厳がただよう。多臂の変化観音像の製作は、天平7年(735)の玄昉帰国にともなう雑蜜信仰の広まりを背景に本格化した。本像では、多臂の超現実的な像容に確固とした実在感が具わり、雑蜜の造像にふさわしい造形が展開されている。その作風や図像解釈には、新たにもたらされた盛唐期の仏教美術の影響が及んでいるとみられるという。本像は、法華堂建立以前に造られていたという説もあるらしく、書物によって、あるいは筆者によって見解が違って、未だに定説がないらしいが、とりあえず、8世紀中頃とすると、鑑真和上が来日した天平宝勝6年(756)よりも以前になる。裙には確かに翻波式衣文があった。 昨年の正倉院展の後に法華堂(三月堂)に行ったというのに、全く気が付いていなかった。しかも、こんな巨像なのに。
奈良時代に翻波式衣文があったのだろうか。『天平展図録』にぱらぱらと目を通すと、いくつかの仏像に翻波式衣文らしきものが・・・
十一面観音菩薩立像 天平宝字6年(762)前後 像高209.0㎝ 木心乾漆造・漆箔 奈良・聖林寺同展図録は、条帛は左胸下でたゆませてからその先を長く垂下させ、天衣もゆったりと弛んで蓮肉に達し、裳は縁を波状に表して柔らかさをみせるという。年代的には鑑真和上来朝後になる。その裳(または裙)の波状のはっきりとした衣文線の間に浅い線が表されて、翻波式となっているような。
十一面観音菩薩立像 8世紀後半の早い時期 像高176.6㎝ 脱活乾漆造・漆箔 岐阜・美江寺同書は、左手を屈臂して水甁をとり、右手は垂下して直立し、条帛をかけ、天衣を2段にかけて裳を着す。この姿は、聖林寺や観音寺等この期の十一面観音像に共通する。中国より請来されたイメージが、奈良時代の我が国で広く定着した姿をここに見てよかろう。造像期は、8世紀後半も早い時期に考えたいという。鑑真和上が将来した仏像よりも、渡来仏の影響と考えられている。裙の膝下に幅広に翻波式衣文が表されている。
薬師如来坐像 奈良時代後半 像高37.3㎝ 銅造 奈良国立博物館 同書は、ずんぐりとした体軀を粘りの感じられる着衣で包み、豊かな頬とうねりのあるややつり目の表情を見せる作風は、奈良時代後半の木心乾漆造・漆箔の諸像にも共通し、本像の制作年代をその頃に求めることができる。下半身を包む裳はさらに蓮台を覆って、蓮弁の先端に引っかかりながら垂下する様子を表している。中国・唐時代の作例にはしばしば見られる形式であるが、日本の現存例では類例の少ないものであり、本像が渡来作品を強く意識して造像されたものであることを示唆しているという。 着衣の各所にはっきりとした翻波式衣文が表されているのは、その手本となった渡来作品によるものだろう。その像が鑑真和上が請来したものかどうかわからないが、それをまねて作られたということらしい。顔はかなり異なるが、唐時代(710年)に制作された仏像には翻波式衣文があった。
如来坐像 唐時代・景龍4年(710) 石灰岩 最大幅44.5㎝奥行45㎝ 山西省出土芮城県風陵渡東章出土 芮城県博物館蔵
『中国国宝展図録』は、切れ長の目と引き締まった口元から作られる表情は、おごそかな雰囲気を漂わせる。衣の襞の処理などはややパターン化しているとはいえ、肌には張りを感じさせ、優れた造形感覚をうかがわせるという。同じような裳懸座に座している。これに似た像が、鑑真和上以前に請来されていた可能性はある。
十一面観音菩薩立像 奈良時代、宝亀年間(770-780) 像高215.0㎝ 木造・乾漆併用・漆箔 奈良・金剛山寺 同書は、条帛以外は乾漆を使用しないのであるが、乾漆の柔らかさを出すように衣端や天衣端などを波打たせるのは、本像の作者の好むところで、乾漆像を意識して作られたものといえる。 製作期は、以上の形式・作風、そして頭上面が唐招提寺金堂本尊の光背化仏に通じる表情を盛っていることを考えると、宝亀頃の8世紀後半を想定したいという。三曲に捻った脚部を覆う裙は、折返しの部分に始まり、下に向かって茶杓形から波状へと変化していく衣文が、全て翻波式となっているが、全体に彫りが浅いためか、煩雑ではない。唐招提寺金堂の本尊といえば盧舎那仏、その光背に無数についている化仏に似ているとは。
十一面観音菩薩立像 奈良時代、宝亀年間(770-780) 像高42.8㎝ 白檀 奈良国立博物館 同書は、髻の前にある頂上仏面、右方の牙上出面が笑みを含んでいるかにみえること、大笑面も怒りを含まず笑っていることなど、十一面観音像の中でも古様な表現がみられる。ちなみに宝亀年間(770-780)の作と考えられるという。 裙の深い波状の衣文の間に浅い衣文があり、翻波式衣文であることは明確である。
十一面観音菩薩立像 宝亀年間(770-780) 像高50.3㎝ 木造 大阪・道明寺 同書は、形式面では、神福寺十一面観音像や唐招提寺十一面観音像をはじめとする木彫群に共通した特徴をもつことが指摘され、作風面では唐招提寺金堂の本尊や梵天・帝釈天像の面貌との共通性が説かれている。これより制作期はおおよそ宝亀年間(770-780)頃と推定されている。以上の指摘をもとに考えれば、本像も鑑真和上がもたらした仏像の影響下にあることは確かで、檀像風でありながら柔らかな着衣部の表現が見られる点において特に伝獅子吼菩薩像に共通し、そこから展開した像との位置づけも可能となるという。唐招提寺の伝獅子吼菩薩立像と同様に、裙の下部にわずかながら翻波式衣文がある。
見つけた翻波式衣文の見られる仏像はそのほとんどが鑑真和上来朝以降のものだったが、来朝以前から唐から将来された仏像に翻波式衣文があり、その新しい様式を採り入れて制作されたものもあったのだった。
関連項目唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文翻波式衣文はどこから
※参考文献「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社「天平展図録」 1998年 奈良国立博物館「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社
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翻波式衣文は、鑑真和上が将来したものではなく、それ以前から日本の仏像にも用いられてきた様式だった。では、鑑真和上が造立した唐招提寺の金堂に安置されている3体の巨大な仏像には翻波式衣文はあるのだろうか。
盧舎那仏坐像 奈良時代、天応元年(781)頃 像高304.5㎝ 脱活乾漆造・漆箔 義静『カラー版日本仏教史』は、力強い新しい作風を示すのが唐招提寺金堂の盧舎那仏坐像である。量感を強調したなで肩で幅の広い体つきは、唐・天宝年間(742-755)の作例にもみられ、そこに鑑真渡来にともなう唐影響が認められる。着衣の表現は、写実的な表現を基調としながら、細部の装飾性が増し、一段と成熟した様相をみせる。緊張感にとんだ雄渾な作風は、世俗臭の漂う盛唐期の作風とも一線を画し、天平後期における最高の製作水準を示すという。翻波式衣文については言及されていないが、図版で見る限りでは、はっきりとわかる翻波式衣文は採り入れられていない。同書は、新渡の唐風を積極的に受容した、官営工房の仏工による製作であろう。台座内の各所に残る署名のうち、「造」を冠する漆部造弟麻呂・物部広足は官営工房の仏工と考えられ、中国人名とみられる「練奥子」は鑑真に従って渡来した唐の仏工と解される。本像の造立者と伝える唐僧義静は、天平宝字4-6年(760-762)の同寺造営に関与しており、本像も8世紀第3四半期の製作と思われるという。正面向きではわからなかったが、左袖には翻波式衣文がある。そういうと、以前に唐招提寺の仏立像にみられる翻波式衣文を調べたことがあったが、その使用は極めて限定的だった。それについてはこちら唐招提寺草創期の仏像には、翻波式衣文は見られるが多用することはなく、自然な着衣の襞ということを表現を目指していたようだ。それだけでなく、この像の着衣の柔らかな質感は、脱活乾漆によって制作されたということもあるだろう。
千手観音菩薩立像 8世紀末 木心乾漆・漆箔 像高535.7㎝同書は、像高が5m余りある巨大な像で、丈八(一丈八尺)というわが国では珍しい大きさの像で、実際に千本の手をつけている(現在953本)。頭には頭上の仏面をはじめ十面を戴き、顔には縦に一眼を刻む。面相はやや角ばり、眼球の膨らみをはっきりと、鼻は太く短めに、上唇はめくれるように表している。制作期は、本尊に遅れる8世紀末頃と考えられるという。制作時期が四半世紀ほど異なるだけで、盧舎那仏のきりっとした顔立ちから柔らかな表情へと変わり、三道も異なっている。そして、翻波式衣文はというと、どうもなさそうだ。 大腿部が極端に張り出すようなこともなく、肩から脚部まで、ほとんど同じ幅で制作されている。やや斜めから撮影した図版には、脚部はなかった。
薬師如来立像 平安時代、延暦15年(796)-弘仁6年(815) 木心乾漆・漆箔 像高336.0㎝ 如宝造立『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、奈良時代以前の薬師如来と同様に薬壺は持たない。顔は大きめで、首はきわめて短い。衣端には大きな翻りはなく、股間の衣文線もほとんど真っ直ぐに下りていくので、静謐にたたずむ感がある。左掌から延暦15年の「隆平永宝」が発見されたため、この年に近い時期の造立と考えられている。また『唐招提寺建立縁起』によれば、鑑真和上の弟子の如宝の造立とされるので、如宝の没年である弘仁6年が制作年代の下限となるという。 8世紀末の千手観音立像の容貌とも異なっている。左袖に翻波式衣文はあるのだろうか? どうやら翻波式衣文は、金堂の仏像ではあまりないか、あっても非常に限定的なようだ。
関連項目翻波式衣文はどこから唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文唐招提寺の四天王像
※参考文献「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社
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久しぶりに唐招提寺を訪れた。奈良に着くと雨が降り出して、写真を撮るには少し残念な日だった。JR奈良駅東口⑥乗り場からバスが出ている。20分弱で唐招提寺南大門を過ぎたところにある「唐招提寺」というバス停で下車。分かり易いし楽。バス停から少し戻って南大門前より門と周壁を撮影。道路も狭いが、南側に家並みがあるので、全体を捉えることができない。南大門と周壁の続き。その向こうの新しい建物は社務所。 南大門は、唐招提寺で購入した『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』には説明がない。 あまり重要な建物ではないのかなと、同寺ホームページを開くと、昭和35年(1960)に天平様式で再建されたもので、5間の中央に三扉とする切り妻造の建物ですという。私よりも若かった。中央の扉口上に何とも簡素な扁額があり、控えめな大きさで「唐招提寺」と書かれている。新宝蔵に本物があった。扁額ではなく勅額というらしい。
勅額 縦148.0横117.0㎝同書は、孝謙天皇(718-770)の御筆と伝えられ、講堂または中門に掲げられたという。文字は王羲之の書風にならった細身の行書で、字の輪郭線からやや斜め内側に刀を入れて刻まれている。中央の大部分はヒノキの一枚板で、もとは周囲に飾り縁がついていたという。前日に大阪市立美術館で「王羲之から空海へ」展を見てきたばかり、何という奇遇。
門を入ると金堂の屋根だけが木立の奥にあって、静寂な空気に満ちている。2種類のサクラも新緑を際立たせる程度なのが好ましい。中門が失われているためにこのような空間が生まれたのだが、ずっとこのままでいてほしいと願う。左にある境内図。まずは金堂を拝観し、その後新宝蔵へと向かう。
この辺りが金堂全体を写せる限界かと思って撮ったのだが、左の屋根が木に隠れていた。
金堂 正面7間、奥行4間同書は、奈良時代の金堂建築として唯一現存する貴重な建物で、鑑真和上の弟子如宝(にょほう)により建立された。正面庇1間通りを吹き放しとし、柱間は中央間から両端間に向かい段々狭くなっている。柱は直径60㎝と太く、下から2/3は真っ直ぐで、残りの1/3は上方に向かって補足なっている。屋根は寄棟造、本瓦葺で、大棟両端には平成大修理で新しく造った鴟尾を飾るという。
大修理以前まで屋根にのっていた鴟尾は、新宝蔵に展示されている。
東側鴟尾 鎌倉時代、元亨3年(1323) 高117.5㎝同書は、鎌倉製作の鴟尾は、当然当初の鴟尾に倣って大きさ・形を造っているが、よく見ると2つの鴟尾は全く異質であることが分かる。鴟尾の腹には製作年月日と作者銘が陰刻されているのも貴重であるという。その銘文がよく読めないのだが、作者は壽王三郎正重かな?西側鴟尾 奈良時代 高120.4㎝ どのように違うのか、同書は、全体の形・細部の仕上げ・材質等で、当初の鴟尾は大らかで対立的であるが、鎌倉の鴟尾は緻密で現日本人に近い感覚で造られているという。2つの鴟尾は一見して異なるが、それは風化によるものだと思っていた。平成の大修理をまとめた『共結来縁』に、平成の鴟尾を製作する図版があった。この面を腹という。
屋根の方を眺めたついでにもう一つ、いやもう2点、気付かなかったが、興味を惹かれるものが『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』に掲載されていた。それは隅鬼である。
西北隅鬼 奈良時代『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、隅鬼は金堂の四隅に4個用いられ、隅軒先で上方の荷重を支えている。4個のうち3個は当初材、材種はヒノキ、筋骨隆々でその姿は力強さに満ち溢れ、仕上げ痕を残さないように丁寧につくられているという。大きな歯が並んでいるが、その下は顎なのか、お腹なのか・・・本当に力強さがあらわれている。すごい。西南隅鬼 江戸時代 同書は、元禄取替材で、材種はマツ、仕上げは丸のみの痕跡を強く残し、その姿は少し猫背気味で情けない表情を浮かべているという。これはこれで面白い。深目高鼻系で、ソグド人みたいだが、江戸時代にソグド人は日本にはいなかったと思う。こんな面白いものを見逃したとは・・・
『共結来縁』の平成の大修理、2003年の図版に隅鬼が登場していた。 金堂正面の灯籠はあまり古くなさそう。
参考サイト唐招提寺のホームページ
参考文献 「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年淡光社「共結来縁」 2009年 唐招提寺
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唐招提寺の金堂をつぶさに見学している(つもり)。
金堂 奈良時代『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、奈良時代の金堂建築として唯一現存する貴重な建物で、鑑真和上の弟子如宝により建立された。正面7間、奥行4間で正面庇1間通りを吹き放しとし、柱間は中央間から両端間に向かい段々狭くなっているという。
吹き放しの軒。力強く簡素な組物を見たいと思っていたが、ハト除けの金網が・・・・三手先の細部が金網でよく見えない。 この方が分かり易い? 『共結来縁』の平成の大修理2003年の図版の方が、少し解体されているが斗と肘木の組んで重ねている様子がよくわかる。庇部分を見上げると、虹梁が2段になって、上側に板状の蟇股がある。 蟇股のアップしかし、『共結来縁』の創建当初の復元断面図をみると、虹梁は1本しかない。同書によると、創建時のものは庇虹梁、後の時代に加えられたものは繋虹梁という名称らしい。そして、庇の隅は尾垂木が斜めになっている。隅木というらしいが、庇の小壁を突き抜けて力強い。この隅木の上の方に隅鬼がいたとは気付かなかった。
その下の連子窓。 同書には、2003年に解体される場面の図版があった。内側にはまだ朱がよく残っているのだなあ。
西側。 風変わりな舌のさがった風鐸。左奥には簡素な鐘楼、北側には講堂。西北の隅木の上にも隅鬼がいたのだった。どこから眺めたら、隅鬼を見つけられるのだろう。
列柱を撮りたいのだが、うまく捉えられなかったり、人が邪魔していたり・・・ こういう風に撮れば良かったのだ。
東南の組物。白っぽいのが当初材? 『共結来縁』に金網のない画像があった。三手先の組物がずらりと並んで壮観。
唐招提寺1 南大門から金堂へ← →唐招提寺3 金堂内部
参考文献 「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年淡交社「共結来縁」 2009年 唐招提寺
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唐招提寺金堂、今回はその内部『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、金堂内陣は、柱間に大虹梁(だいこうりょう)を掛け広い空間をつくり出し、石組仏壇の上には中央に盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像が安置され、本尊の前方両脇には梵天・帝釈天、仏壇四隅には四天王が配されている。
同書は、天井は折上組入(おりあげくみいれ)天井で、当初の形式・部材及び彩色がよく残っている。天井板は4間を一つの絵として描かれている。折上部の支輪(しりん)板には5種の文様が見られ、文様によって数の違いがあるが当初の配置状況は不明であるという。天井が格子になっているからといって、格天井というのではないようだ。格子の間には蓮華が描かれているような。外から覗くと暗くてわからなかったが。天井に蓮華が描かれるのは一般的だったのだろうか。法隆寺金堂の天蓋や橘夫人念持仏厨子の天井にもその遺例がある。創建当初は金箔の貼られた仏像が、外からの淡い光にも反射して、美しく輝いていたのだろうなあ。
千手観音立像 同書は、像高が5m余りある巨大な像で、丈八(一丈八尺)というわが国では珍しい大きさの像で、実際に千本の手をつけている(現在953本)。頭には頭上の仏面をはじめ十面を戴き、顔には縦に一眼を刻む。面相はやや角ばり、眼球の膨らみをはっきりと、鼻は太く短めに、上唇はめくれるように表している。制作期は、本尊に遅れる8世紀末頃と考えられるという。今は昔、仏教美術史の授業で、「明治の大修理の時、千手観音菩薩立像の手を全部外したら、組み立てた時に数十本が嵌めきらなかった」というようなことを聞いた。そして、平成の大修理が行われることが決まって、今回はきっと残りの手も観音さんの体に戻るのだろうと期待し、その様子がテレビ番組となって放映されるのを楽しみにしていた。ところが、今回もその数十本は収まらず、今でも953本のままなのだった。『共結来縁』には2001年に解体した時の図版があった。 番組でも、小さな手は数本が釘でまとめられて観音さんの体に取り付けられていたことが紹介されていたが、この図版でも、そのような束になった手があちこちに見ることができる。同書の2009年に千手観音小脇手の最後の1本を取り付ける様子の図版。小脇手といっても人間の腕くらいの長さがありそう。
盧舎那仏坐像 奈良時代、天応元年(781)頃 像高304.5㎝ 脱活乾漆造・漆箔 義静『カラー版日本仏教史』は、力強い新しい作風を示すのが唐招提寺金堂の盧舎那仏坐像である。量感を強調したなで肩で幅の広い体つきは、唐・天宝年間(742-755)の作例にもみられ、そこに鑑真渡来にともなう唐影響が認められる。着衣の表現は、写実的な表現を基調としながら、細部の装飾性が増し、一段と成熟した様相をみせる。緊張感にとんだ雄渾な作風は、世俗臭の漂う盛唐期の作風とも一線を画し、天平後期における最高の製作水準を示すという。『共結来縁』の2009年に蓮弁を取り付ける作業の図版。蓮弁1枚は人の上半身くらいありそう。ところで、この盧舎那仏の光背には化仏がたくさん付いている。でも、あまり古くなさそうなものもあるみたい。『柳孝骨董一代』でその化仏の一つを見たことがある。
化仏唐招提寺伝来 天平時代 木造漆箔 像高11.3㎝ 柳孝氏蔵同書は、唐招提寺の盧舎那仏の大光背にはもともとは千体の化仏が取り付けられていたのだが、現在の化仏の数は864体、そのうち天平当初のものは322体と言う。鎌倉期や江戸期に補填した化仏の方が多いらしい。明治期にも何体かの化仏が民間に流出し、仏教美術好きの垂涎の仏像となっているという。何ともいえない、良い雰囲気を醸し出す化仏。盧舎那仏よりもこちらの方が好みです。
薬師如来立像 平安時代、延暦15年(796)-弘仁6年(815) 木心乾漆・漆箔 像高336.0㎝ 如宝造立『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、奈良時代以前の薬師如来と同様に薬壺は持たない。顔は大きめで、首はきわめて短い。衣端には大きな翻りはなく、股間の衣文線もほとんど真っ直ぐに下りていくので、静謐にたたずむ感がある。左掌から延暦15年の「隆平永宝」が発見されたため、この年に近い時期の造立と考えられている。また『唐招提寺建立縁起』によれば、鑑真和上の弟子の如宝の造立とされるので、如宝の没年である弘仁6年が制作年代の下限となるという。 この像は修復後に奈良国立博物館の仏像館に安置されていたので、間近で見ることができた。確か、光背はこの像本来のものではないとか。
唐招提寺2 金堂建物の細部←
関連項目翻波式衣文はどこから唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文唐招提寺の四天王像天井の蓮華蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子唐招提寺1 南大門から金堂へ
※参考文献「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社「鑑真和上展図録」 奈良国立博物館編 2009年 TBS「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社「柳孝 骨董一代」 青柳恵介 2007年 新潮社
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唐招提寺の金堂の東北には縦長の礼堂、その西に鼓楼がある。
金堂の東側にも石段からのぞむ鼓楼と礼堂。礼堂の方がすっきりとしている。
鼓楼(舎利殿) 鎌倉時代、仁治元年(1240) 『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、鼓楼は、本来仏舎利を納めているので舎利殿とよばれていたが、江戸時代に「鼓楼」と名称を変更したようである。下層は通常は土間とするが、金亀舎利塔を納めているため上層と同様に床板を張り、四方に縁を回している。上層を経蔵、下層を舎利殿にした。様式は、基本的には和様であるが、木鼻付の頭貫や足固め貫など一部大仏様が取り入れられているという。
礼堂 鎌倉時代、建仁2年(1202)同書は、講堂東側に位置し、桁行19間、梁間3間の南北に細長い建物。建設当初は東室と称し、講堂の東・西および北側に立つ三面僧房の一つで、僧の居住の場面としていた。しかし、時代とともに生活様式の変化に伴い不要のものとなり、南側8間を礼堂に改築し、釈迦如来像を安置した厨子と舎利厨子を南北に配し釈迦念仏の道場としたという。40年ほどの違いで建物の雰囲気がこうも変わるものなのだ。礼堂南より。 屋根が低いせいか、鬼瓦がやたら目立つ。鳥衾・隅棟・降棟などに鬼瓦が見られるが、あまり古くなさそう。 隅棟の一の鬼と二の鬼。このように並んでいても全く異なる鬼瓦が使われている。 そして南側に一対の鬼瓦が置かれているが、左と右はよく似ているが、鼻筋の盛り上がりや額にかかる髪、顎鬚などに違いが見られる。どちらにしてもあまり古くはなさそう。
礼堂の東側には、経蔵と宝蔵が南北に並んでいる。どちらも校倉造である。2つの蔵の間には、元は十三重ではなかったかと思われる塔が2基安置されている。右の方が古そう。
経蔵 同書は、唐招提寺がこの地に開かれる以前からあった建物2棟を1棟に造り替えたもので、境内では一番古い建物となるという。お寺の説明では、校倉造としては日本最古とのことだった。天平宝字3年(759)までに建立正倉院よりも古いことになる。通り過ぎようとしていて、西北の隅鬼が色が違うのが目に留まった。一の鬼はあまり古そうではないが、二の鬼は古そう。今まで調べた中では、平城宮ⅥA式(大)に一番近いかな。特に頬が瘤のように出ているところなんか。『仏教伝来展図録』は、Ⅵ式については、大小2種。外形はⅠ-Ⅳ型式と同じだが、鬼面の表現はかなり退化しているⅤ式の系統下にあるという。平城宮ⅥA式(大)でもなさそう。
平城宮ⅥA式(大)『仏教伝来展図録』は、Ⅵ式については、大小2種。外形はⅠ-Ⅳ型式と同じだが、鬼面の表現はかなり退化しているⅤ式の系統下にあるという。
宝蔵 同書は、古文書によると当初は鑑真将来の舎利3千余粒を蔵していたようであるという。五重塔が建てられるまでの間、舎利を仮安置していたということかな。
白瑠璃舎利壺 唐時代 ガラス製 高9.2胴長11.2㎝『鑑真和上展図録』は、白瑠璃の舎利壺は扁平な胴に短めの頚を付したフラスコ形で、底がわずかに盛り上がり、吹きガラスの技法を用いて制作されたと考えられる。ガラス自体は肩辺に大きな気泡が1個、他に細かい気泡が多数見られる透明で淡黄色を呈したもので、近年の研究で西方系に多いアルカリ石灰ガラスと判じられていることから、国際性豊かな文化が栄えた中国唐時代の制作になる請来品かと見られ、鑑真和上請来の伝承を裏付けているという。 この宝蔵の西北の隅鬼には更に驚いた。平城宮の獣身文鬼瓦のように平らで、文字通り獣の後ろ肢まで描かれている。それは平城宮ⅠB2式の鬼瓦そのものにも見えるが、下図のようなひび割れがないので、補修瓦かも。
平城宮ⅠB2式 唐招提寺出土 唐招提寺蔵『鬼瓦』は、B1は中型で、表現がやや平板。体部の巻き毛は外側に傾斜面をつける。B2は小型、B1に類似するが、巻き毛の断面が蒲鉾形であることなどで異なる。AとB1にくらべB2はわずかながら遅れてつくられたと考えられる。平城宮内での出土数はB1・B2型式の1割。A・B2が唐招提寺から出土しているという。
屋根にのる鬼瓦のお腹が丸く出て、色が異なるのは、釘隠しらしい。宝蔵の先を右に曲がった突き当たりが新宝蔵。校木の隙間から新緑が見えた。蔵の高床を支える太い柱と、その上にのる鼠返しの太い板。 通り過ぎる時に、古材が横たわっているのが見えた。どこに使われていたのだろう。
唐招提寺3 金堂内部← →唐招提寺5 境内を巡る
関連項目鬼面文鬼瓦2 平城宮式唐招提寺2 金堂建物の細部唐招提寺1 南大門から金堂へ
※参考文献「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社「仏教伝来展図録」 2011年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂「鑑真和上展図録」 2009年 TBS
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唐招提寺の境内には鑑真和上に関したものが複数残っている。それを見がてら境内を一回りした。
新宝蔵を見学した後、来た道を少し戻って右折、階段を登っていくと、右側に外装の剥がれた塀が続いていた。 この門の向こうに鑑真和上御廟があるらしい。 門の中は木立は背が高過ぎて葉が視界に入らず、ひたすら青い苔が海のようにひろがるばかり。 墓廟の堀か池かわからないが、水はあまりきれいではいのに、葉の色を鈍く映す。小さな橋を渡ると灯籠の向こうに小山が。あれが鑑真和上の御廟らしい。大きく盛り上がって古墳みたいで、頂部の宝篋印塔が場違いに感じる。『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、鑑真和上の廟は、没後に寺の東北に葬られその地につくられた。小高い方墳状の土壇の上に、鎌倉時代後期の宝篋印塔(ほうきょういんとう・総高2.5m、笠石上部と相輪は後補)が立っている。鑑真和上の命日(6月6日)に因んで、和上が将来した舎利を礼拝し、和上の徳を偲ぶ(開山忌・御廟法要)という。ここが元から鑑真さんのお墓だった。古墳のように土を盛ったのではなく、境内が北にいくほど高くなっているので、このような小さな丘があったのだろう。右手には若い木が蕾をつけていた。アジサイのような花で、「瓊花 鑑真和上の故郷、中国揚州の名花。毎年4月下旬~5月上旬にかけて咲きます」という札があった。同書の写真その数日後、唐招提寺の御影堂の供華園で瓊花の白い花が咲いたというニュースを見た。
御廟の門を出て、その前の道を歩いていると、ある門の前で中をのぞいている人たちがいた。行ってみると、これが御影堂だった。 同書は、御影堂は、建設当初は興福寺の別当の一つ一乗院の御殿であったが、 ・・略・・ 昭和39年(1964)に唐招提寺の現在地に移築され、当初の姿に復原された。建物は書院造で、「宸殿」には国宝の鑑真和上坐像が安置され、毎年6月の開山忌と9月の観月讃仏会に拝観できるという。今年は修復中で、鑑真和上坐像は新宝蔵に安置され公開されているというニュースがあった。その前を進んで行くと左手に新しい建物が木々の間から垣間見えた。 「開山堂 鑑真和上身代わり像 どうぞお参り下さい」という札に導かれて表側に回ってみると、真新しい鑑真和上像が安置されていた。「御身代わり像(御影像)は、年間通して数日しか開扉しない国宝の和上像に代わって、毎日参拝していただく目的で平成25年に制作したものです。またこの像は奈良時代の脱活乾漆技法を忠実に踏襲した大変貴重な模造です」という説明書きがあったが、石段には結界があって近寄れず、また入口にはガラスが入っているので、色彩鮮やかな新しい像というくらいにしか見えなかった。せっかく制作当時の技法で造られたのだから、もっと近くでその技をじっくりと拝見したかった。
白い藤の咲く藤棚を見て左の道に入り、 ショウブの葉が青々と茂る傍を辿ると、戒壇に行き着く。
戒壇 鎌倉時代(昭和53年宝塔建立)同書は、金堂西側に位置し、東西南北各面の中央に開口部を設け、南・東面には門を開く土塀に囲まれた一画があり、その中央に石造の戒壇がある。戒壇は僧に資格を与える場所で、寺にとっては非常に神聖な一画である。戒壇は3段に積まれ、3段目中央には昭和に製作されたストゥーパが立つ。元々この戒壇は覆堂により覆われていたが、嘉永元年(1848)の火災により焼失しているという。鎌倉時代の戒壇なので、これも鑑真和上の没後に造られたもの。戒壇から正面に鐘楼がある。 あまり古そうな鐘ではなかった。
講堂にも入ってみたが、鎌倉時代(弘安10年、1287)の大きな弥勒如来坐像が安置されており、その東には平成の大修理の様子が写真パネルで紹介されている程度だった。同書は、平城京の朝集殿を移築した建物で、本来柱間は殆ど仕切られていなかったが、移築時に講堂としての体裁を整えたようである。この堂は、鎌倉時代の修理により当初の形式が大きく変更されている。堂内には折上小組格天井を新設し、本来化粧屋根裏だった小屋組に野小屋を設け、屋根を高くしている。扉構えは当初の板戸から桟唐戸に変更し、柱間には補強材として木鼻付の頭貫・飛貫・腰貫を入れているという。何となく古くは感じなかったが、改変されているとはいえ、奈良時代の建物だった。
その東正面には鼓楼(舎利殿)、右に金堂、左に講堂。
鼓楼の奥には、東室と礼堂があり、その繋ぎ目がこんな風に屋根付き通路となっている。それぞれに巡った縁側は、お寺では珍しく拝観者が一休みできるところとなっている。
『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』には、鑑真在世中の寺の姿という項目があった。それは私の知りたいことでもあった。 唐招提寺は、かつては鑑真の亡くなるまでに完成したとする研究者もあったが、今ではそれは認められなくなった。金堂の解体修理に伴う調査で、部材の年輪を調べることにより、垂木の中に天応元年(781)ごろに伐採された木が見つかっている。少なくとも金堂の完成は、鑑真の没後だったことが確実である。では鑑真が天平宝字7年(763)に亡くなるまでの唐招提寺は、どのような姿だったのだろうか。鑑真の在世中にできていたことが確かなのは講堂である。平安時代前期に唐招提寺の縁起と財産を書き上げた『招提寺流記』には、講堂が「平城の朝集殿を施入した」ものだったとある。平城宮では天平宝字の初年から、大規模な改造工事が始まっており、建て替えることになった東朝集殿の建物が、造営中の唐招提寺に払い下げられたというわけであるという。食堂は、先の『招提寺流記』に、藤原仲麻呂家から施入されたとある。また僧房では、東北第一房、東北第二房、西北第一房などが「用度帳に見える。『招提寺流記』では、これらの僧房は、鑑真に随行した弟子の内、年長者と見られる法載や義浄が建立したとしてあり、これも矛盾はない。西北僧房の北にあった鑑真の住房の「大和上室」(のちに開山堂となる)とともにこれらの僧房も早く整備されたと考えられよう。羂索堂は『招提寺流記』に、藤原清河家から寄進されたとある。唐招提寺の造営で特徴的なのは、寄進による建築が少なくないことだ。有力者、あるいは広く庶民からの寄付で、堂塔を建てたり修理したりするのは、唐の社会では当たり前のことだった。もっぱら朝廷や地方の役所、豪族などが費用を出して寺院を建立する日本の古代の方が、むしろ特殊といってよい。それは仏教信仰の広がりと深さが違っていたからで、仏教が入ってまだ200年にしかならない日本は、それだけ遅れていたのであるという。
唐招提寺4 鬼瓦←
※参考文献「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社
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『見仏記』という番組で、姫路市の弥勒寺や円教寺と同じ時に放送されたお寺に、太子町の斑鳩寺がある。その番組では、住職が秘仏を「飛鳥時代の仏像風に鎌倉時代に造られたというようなことを言いながら、風が吹いたといって少し厨子の扉を開いて見せた。各扉の向こうには巨大な如来坐像が3体、なんとも言えない顔をのぞかせていた。飛鳥仏と言えば私の好みの仏像である。開帳は2月22・23日のみということだったので、23日に行ってきた。
斑鳩寺の歴史同寺リーフレットは、推古14年(606年)聖徳太子が飛鳥の豊浦宮(今の橘寺)において、推古天皇の御前で勝鬘経を講説されたところ、大変喜ばれ播磨国揖保郡の水田100町を聖徳太子に寄進されました。聖徳太子はその地を「斑鳩荘」と名付け、一つの伽藍を建てられました。それが斑鳩寺の始まりです。その後、斑鳩荘を法隆寺に施入されたことにより、法隆寺の荘園として千年近くにわたり栄えました。しかし、天文10年(1541)火災で堂塔伽藍全て焼失しましたが、当山中興)昌仙法師等により漸次再建され、現在の伽藍となりましたという。その日は参道には出店が所狭しと出ていた。2月22・23日は「太子春会式」という行事だったのだ。22日が聖徳太子の祥月命日なのだそう。16世紀半ば以降の再建ということで、仁王さんはあまり迫力がない。 門を入ってもお店が並んでいて、どこが講堂かわからないくらい。とりあえず直進する。
門の正面にあって、屋根だけ見えていたのが講堂だった。果たして3体の秘仏はどの程度見られるのだろうか。「見仏記」では、講堂の格子の外から垣間見て、「御開帳の時もこんな風にしてみるのではないか」などと言っていたのだが。石段を登り詰めても大きな賽銭箱が阻んでその格子にも近寄れなかった。世話役のような人たちが複数いたので、秘仏について聞いてみた。すると、秘仏を見るには聖徳殿から入って下さいと言われた。
聖徳殿?よくわからないままに講堂の左手にある建物で尋ねると、そこから靴を脱いであがるように言われた(勿論有料)。聖徳殿前殿という建物らしい。建物の中廊下をぐるりと巡って、ほぼコの字に進んだところで、左側に出た。 縁側の向こうに渡り廊下が付いていた。スリッパを借りられる。この装置が何のためなのか、不思議に思いながら、秘仏見たさに進んでいく。振り返ると聖徳殿の前殿と奥殿が見えて、先ほどの不思議な空間が少し分かったような気がした。向こうに見える八角形の建物は聖徳殿奥殿というらしい。同寺リーフレットは、聖徳太子十六歳孝養像を安置する伽藍。江戸時代の寛文5年(1665)に再築。また明治43年から、大正5年にかけて従来の太子堂に、法隆寺夢殿(八角円堂)・中殿が増築されましたという。奥壁と思ったものが、奥行があるように見えたのは、この奥殿だったのだ。
講堂へ。やっと到着。スリッパを脱いで、講堂の奥から入ると、続く部屋に厨子が3つ並んでいた。
「見仏記」では、風が吹いて扉が微かに開いたくらいの隙間からそれぞれの厨子に安置された仏像をのぞいていたが、この日はしっかりと扉は開かれ、巨大な像がそれぞれの厨子いっぱいに座していた。番組で住職が、「飛鳥時代の仏像を鎌倉か室町あたりに手本にして制作した仏像です」と言っていたが、まさに飛鳥仏の面影のある巨大な像が目の前にあった。それぞれの前にいってはじっくりと拝見したが、一体一体が大きすぎて、全体として捉えられない。もう少し離れて、礼盤の後ろに立って、やっと三体を見渡すことができた。
リーフレットは、講堂に本尊として、中央に釈迦如来像、右に薬師如来像、左に観世音菩薩像が安置されています。いずれも丈六の坐像、国指定重要文化財、鎌倉時代という。
釈迦如来坐像薬師如来坐像 如意輪観音坐像半跏思惟というよりも、如意輪観音らしく遊戯座(ゆうげざ)に座している。唐招提寺金堂も盧舎那仏・薬師如来・千手観音と不思議な組み合わせだが、斑鳩寺講堂の三尊も釈迦・薬師・如意輪観音。おそらく、1541年の火災で焼失した別々のお堂から救い出した3体を講堂にまとめたのだろう。
秘仏を拝見した後は、講堂の前側から退場した。
寺宝が納められている聖宝殿へ向かっていると、先ほど渡った廊下の下をくぐることとなり、聖徳殿前殿の側面には釈迦涅槃図が掛けられていた。聖徳太子の命日ということで掛けられているのだろう。 図の右下に、寛政5年、尾形公良とある。1753年に作成されたものらしいが、画家については調べてもわからなかった。午後からの春会式で、お稚児さんたちが渡り廊下を通っているのを、当日のニュースで見た。
聖宝殿には木彫の仏像などが納められていた。日光月光菩薩立像 鎌倉時代 小さな像だが、鎌倉仏らしい均整のとれた造形である。他にも十二神将像など、鎌倉時代のものが数体残っていた。
三重塔は南門の右側にある。法隆寺が左に五重塔、右に金堂という伽藍配置だが、それにはこだわらなかったようだ。
三重塔 室町時代同寺リーフレットは、斑鳩寺伽藍のうち最古の建造物。永禄8年(1565)に再建。輪柱に聖徳太子伝来の仏舎利が蔵められ、露盤には永禄5年に龍野城主赤松下野守政秀が天下泰平を祈願して発願したという銘文が刻まれています。三重ですが五重を思わせる均斉のとれた壮麗な姿で、西播磨地方に残る古建築のうち最初の国指定重要文化財ですという。なるほど形のよい塔である。
→太子町斑鳩寺の飛鳥仏風仏像の手本
※参考文献 斑鳩寺リーフレット・絵葉書 太子町斑鳩寺発行
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斑鳩寺の歴史について同寺リーフレットは、推古14年(606年)聖徳太子が飛鳥の豊浦宮(今の橘寺)において、推古天皇の御前で勝鬘経を講説されたところ、大変喜ばれ播磨国揖保郡の水田100町を聖徳太子に寄進されました。聖徳太子はその地を「斑鳩荘」と名付け、一つの伽藍を建てられました。それが斑鳩寺の始まりです。その後、斑鳩荘を法隆寺に施入されたことにより、法隆寺の荘園として千年近くにわたり栄えました。しかし、天文10年(1541)火災で堂塔伽藍全て焼失しましたが、当山中興)昌仙法師等により漸次再建され、現在の伽藍となりましたという。
その講堂には、丈六の坐像が3体安置されていた。
「見仏記」では、風が吹いて扉が微かに開いたくらいの隙間からそれぞれの厨子に安置された仏像をのぞいていたが、この日はしっかりと扉は開かれ、巨大な像がそれぞれの厨子いっぱいに座していた。番組で住職が、「飛鳥時代の仏像を鎌倉か室町あたりに手本にして制作した仏像です」と言っていたが、まさに飛鳥仏の面影のある巨大な像が目の前にあった。リーフレットは、講堂に本尊として、中央に釈迦如来像、右に薬師如来像、左に観世音菩薩像が安置されています。いずれも丈六の坐像、国指定重要文化財、鎌倉時代という。しかしながら、リーフレットや絵葉書では、残念ながらその迫力も飛鳥仏風の雰囲気も伝わってこない。
釈迦如来坐像薬師如来坐像 如意輪観音坐像半跏思惟というよりも、如意輪観音らしく遊戯座(ゆうげざ)に座している。
では、鎌倉時代の仏師は、飛鳥時代のどの仏像を手本としたのだろう。飛鳥仏といえば、なんといっても飛鳥寺の大仏である。
丈六釈迦如来坐像 推古14年(606)または17年(609) 飛鳥寺『法隆寺日本美術の黎明展図録』は、わが国で最初の本格的寺院は蘇我馬子によって造営された飛鳥寺で、鞍作止利によって鋳造された丈六釈迦如来像が安置された。本像は現存するものの火災のため補修が多く原様を正しく留めているとは言い難いという。しかし、新しいX線による調査で、仏身のほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いとされるようになった(2012年、早稲田大学大橋一章教授らによる)。目が杏仁形であるのが特徴だが、斑鳩寺の仏像は半眼で似ていない。絵葉書の仏像は着衣も似ているようには見えないが、もう少し彫りが深いように見えた。実物は飛鳥の雰囲気は残っていたように感じたのだが。
釈迦三尊像うち主尊 推古31年(623) 法隆寺金堂 同書は、中尊釈迦如来像は台座に懸裳を垂す二等辺三角形の中に納まる姿で、衣の襞は 左右相称形に近く畳み込まれる。その様式は北魏末から東西魏の仏像を基本としそれが朝鮮半島を経由してわが国に伝わったものであるが大陸・半島の直模では なく、日本独自の審美感が加味されていることは注目すべきであろうという。同じ止利仏師の作だが、こちらの方が似ていない。
法隆寺夢殿の救世観音立像とも違う。
飛鳥仏ではなく、白鳳時代の仏像では?
伝虚空蔵菩薩立像 白鳳時代、7世紀 木造 像高175.4㎝ 奈良、法輪寺蔵『白鳳展図録』は、江戸時代以降、虚空蔵菩薩像として信仰されてきたが、百済観音像が宝冠に化仏を戴くこ とから観音像と特定できるので、本像もまた観音像として造られたかと推定される。像の作風には、飛鳥時代前期(7世紀前半)の主流様式であった止利派のそれが残るも のの、体側を垂下する天衣が面を側方に向けることや、また身体の正面にわたる天衣が上下に分かれる点は、百済観音像や救世観音像において天衣がX字状に交 差し、厳格な左右対称性を示すのと明らかに異なり、様式的に一歩進んだ様を呈しているという。細長い顔だが、造作は似ているような。
薬師如来坐像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 木造彩色 法輪寺螺髪の生え際が一直線になっているところなどが似ているし、鼻から口にかけてよく似ている。この斑鳩寺には誕生仏の良いのがあるのではなかったかな。ひょっとすると、その誕生仏の顔に似せて造られていたのかも。あるいは、製作当時、その仏師が見に行ける範囲で、飛鳥仏が残っていたのかも。
→太子町斑鳩寺で秘仏を見る
関連項目白鳳展3 法輪寺蔵伝虚空蔵菩薩立像
※参考文献 斑鳩寺リーフレット・絵葉書 太子町斑鳩寺発行「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館「法隆寺」 編集小学館 2006年 法隆寺
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社「開館120年記念特別展 白鳳-花ひらく仏教美術ー展図録」 2015年 奈良国立博物館w-y f
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粒金細工については以前にまとめたことがあるが、図版でしか知らない作品も多く、『黄金伝説展』は様々なところの作品を見られる絶好の機会だった。
図録の表紙には、シリアで制作されたというペンダントが、全体が入りきらないほどに大きく載せられていた。
ペンダント 前6-5世紀 金 直径4.2㎝ エジプト出土 シリア制作 ライデン国立古代博物館蔵 同展図録は、この見事なペンダント(垂れ飾り)はシリアで制作されたものだが、発見されたのはエジプトである。この種の宝飾品は、ほんのわずかな例しか知られていない。きわめて豊かに装飾されたこのような円形飾りの使い道は定かではないが、対で見つかる場合が多いため、耳飾りの垂れ飾りとして装着されていたとも推測される。しかし実際には、衣服を飾るブローチとして-両肩にひとつずつつけ、その間をチェーンでつないで-使われていたにちがいない。本作には、中央の花の周囲に7つの花と微細な粒金細工による三角形が表されているという。直径4.2㎝のものに、これだけの粒金が嵌め込まれている。その細かさに感心。部分拡大大きさの揃った金の粒に見えたが、拡大してみると大きさはまちまちである。粒金で三角形を表すということは、かなり古くから見られるもので、頂点に1つ、その下に2つ、更に下に3つと、1つずつ粒を増やして並べていくと常に正三角形となっていく。シリアでは、ウガリット出土の耳飾り(前14世紀)に、小さな粒金が三角形に整然と並んだものが制作されているのだが。ところが、この作品では正三角形にはなっていないし、粒の大きさも列もそろっていない。花冠も溶けすぎて球がへしゃがったような粒金が積み重なっている。それでもデザイン性にも優れた作品であるには違いない。
細かいといえばエトルリアの粒金。『知の再発見双書37エトルリア文明』は、金の「粒」を金粉と言えるほど細かくしたのは、エトルリア人が初めてであるという。
耳飾り一対 前4世紀半ば頃 金 高さ2.1㎝ ヴィッラ・ジュリア国立考古博物館 カステッラーニ・コレクション同書は、長方形の薄板を曲げ、両端を円板で閉じてできた耳飾りである。本体は、4枚の槍形の花弁で表される非常に様式化された花のモチーフで飾られ、花弁の間にはパルメット紋があしらわれている。植物のモチーフの背景と花冠は極小の粒金でできているという。拡大 花冠の表面は、上のペンダントよりも粒がそろっているが、やや溶けたか、圧迫されたか、全体にやや扁平になっているように見える。主文を囲む四角形の枠には、押し出しで造った半球に大きめの粒金が付属しているが、それが失われていたり、半球の頂部とはずれた位置に付いていたりする。
横たわるシレノスが表された飾り板 前480年頃 金・クオーツ 高さ3㎝ ヴィニャネッロ、クーパ墓地第7号墓出土 ローマ、ヴィッラ・ジュリア国立考古学博物館蔵同書は、表面には複雑な接合部があり、形状に沿うような装飾と構図でできている。装飾の要は、宴の席で宴会用の寝台に横たわるサテュロスであり、寝台の表現は連続した二重の渦巻き模様により、理想化されている。背景には、5つの先端からなる星がひとつある。打ち出し細工と彫金によって毛深い身体がハッチングのように描写されたシレノスは、背景と周りの極小の粒金によって輪郭が際立っている。シレノスが表された半円部分は、上部が打ち出し細工と粒金細工のロゼット紋に囲まれており、一方、下部には、ふたつのどんぐりの垂れ飾りの間に小さな球で飾られた半円形の宝石台があり、そこには水晶がはめ込まれている。この飾り板が出土した墓は紀元前6世紀から紀元前3世紀まで長期にわたり使用されていたが、様式から判断すると、本作は紀元前480年頃のものと推定できる。このような縁取りに調和しているのは、この時代のエトルリアの金細工特有の色彩効果であり、これはまさにさまざまな技法と素材の使用によって達成されたものであるという。拡大 シレノスの周囲、あるいは背景に貼り付けられた粒金は「金の粉」と呼べるほど細かいものだ。今回の出品では、最も細かい粒金だった。
シレノスの飾り板ほど密ではなかったが、細かい粒金で文様を表した作品は、もっと以前にエトルリアで見られる。
フィブラ 前7世紀第2四半期 金 長さ15㎝ ヴィトゥローニア出土 フィレンツェ国立考古学博物館蔵フィブラとは衣服の留め具である。全長15㎝のこ針金を収める鞘はほとんど失われているが、本来はこの左側で、蛭形と呼ばれる三日月状の弓と繋がっていた。
残存部分の拡大 そこには細かい粒金で、鞘には獣の列が大きく表され、その下には逆三角形が並ぶ。弓部には向かい合う獣が表されている。![]()
このタイプのフィブラの完全な作品を見ると、
蛭形フィブラ 前7世紀半ば 金 長さ9.4㎝、高さ3.5㎝ イタリア、ヴェトゥローニア出土 フィレンツェ国立考古博学物館蔵少し時代が下がる。粒金で象られた動物は、弓部でははっきりわからない。技術的には上の作品の方が優れている。
また、蛭形フィブラの針受けがもっと短いものもある。
蛭形フィブラ 前7世紀第2四半期 ヴェトゥローニア出土 フィレンツェ国立考古博学物館蔵長い柄の、粒金で獣や逆三角形が表された作品と同じ頃に、線刻だけの文様のものもあった。線を幾何学的に刻み込んだものだが、何かを表しているのかな。
蛭形フィブラ 前8世紀初頭 金 長さ3.4㎝直径2㎝ ヴェトゥローニア出土 フィレンツェ国立考古学博物館蔵蛭というよりもイルカでも表したような形。輪っかは飾りにつけていたのだろうか。イルカの尾には打ち出しによる列点文、胴部には密な縦線に斜線を刻んだ文様が、線刻のない地と交互に並んでいる。「黄金伝説展」に出品されたエトルリアの遺品に限ってみれば、前8世紀初頭、エトルリアには粒金細工というものがまだなく、前7世紀第2四半期に登場したものは、かなり細かい粒金で動物文を表した、粒金の技術としてはかなり高い作品だった。どこか他の地域から、高度な技術を持った工人がやってきたのだろうか。
→黄金伝説展2 粒金だけを鑞付けする
関連項目黄金のアフガニスタン展1 粒金のような、粒金状は粒金ではない中国の古鏡展1 唐時代にみごとな粒金細工の鏡クレタ島で出土した粒金細工についてはこちら古代マケドニアの粒金細工についてはこちらトロイ遺跡で出土した粒金細工についてはこちらシリアの粒金細工についてはこちらエトルリアの粒金細工についてはこちら
※参考文献 「黄金伝説展図録」 監修青柳正規 2015年 東京新聞・中日新聞・TBSテレビ「知の再発見双書37 エトルリア文明」 ジャンポール・テュイリエ著 1994年 創元社
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根津美術館で開催されていた『村上コレクション受贈記念中国の古鏡展』で、1点だけだが細かな粒金で装飾された鏡があった。
貼金緑松石象嵌花唐草文鏡 唐時代(8世紀) 径5.5㎝ 重70g 同展図録は、円形鏡体の鏡背面(文様面)に非常に薄い金板をはめ込み、その上に文様をつくる。全面に瑞花をあらわす文様構成をとるが、瑞花の茎はすべて薄い金板であらわす。鈕のまわりを蓮華形に囲い、そこから外側に向かって茎を放射状に伸ばすという。小さな鏡やながら、地にあたる広い面積を極小の粒金が覆っているのには驚きを禁じ得なかった。以前に調べた範囲では、中国では粒金細工の遺例があまり見られなかったからだった。葉は緑松石(トルコ石)象嵌であらわし、茎の隙間はすべて金の細粒を充填する。盛唐期を中心に発達した宝飾背鏡の一種と考えられるが、類例に乏しい珍品であるという。 たいていは貴石の象嵌はその形には削られていても、表面にパルメットや葉脈のような浮彫を施したものはあまり見かけない。珍しい粒金細工だけでなく、このような点からも非常に珍しいものだろう。
中国の粒金細工の作品をもう一度見てみると、
玉象嵌金竈 かまどのミニチュア模型 前漢後期(前1~後1世紀初) 陝西省西安市沙波村漢墓出土 高1.1長3.0㎝ 西安市文物管理委員会蔵
「世界美術大全集東洋編2」は、金の細線と細粒を吹管の炎によって巧みに「ハンダ付 け」し繊細な意匠を表した装飾品は、メソポタミア初期王朝やエジプト第12王朝にあり、前6世紀から前3世紀のギリシアやエトルリアに発達した。中国には 前3世紀の戦国末期に出現し、前1世紀から後1世紀に中国独自の意匠をもつ装飾品として盛行する。
実際の竈を細金細工で細やかに表現している。竈台の側面と上面には金糸・金粒で雲気文を表し、鍋に満たされた御飯(盛り上がった金粒)は福禄寿をかなえてくれる現世利益的なお守りとして貴族のあいだで用いられたものだろうという。
ご飯を表した碗の中の粒金は、1㎝にも満たない中に、びっしりと並んでいる。欠落したのか、隙間もあるが、割合整然と並べてある。
金帯金具 後漢前期(1世紀) 長9.4㎝ 平壌市石巌里9号墓出土 韓国国立中央博物館蔵『世界美術大全集東洋編2』は、金の薄板を用い、中心に1匹の大龍とその周囲に6匹の小龍を高肉に打ち出したものである。龍身は、その中心線をやや大きな金粒を並べて示し、体部には小さな金粒が密集してつけられている。龍の目鼻や輪郭線などを金線で表し、締具の周囲も金線を折り曲げた文様で装飾されている。雲気文は金線とそれに沿った1列の金粒で表現している。また、締具の各所にトルコ石(緑青石)などの宝石が象嵌されており、多くはすでに抜け落ちているが、もとは41個あったという。 躍動感のあるみごとな龍の高浮彫で、粒金の大きさも揃っている。後漢時代にすでに完成された技術だったのだ。
金糸金粒嵌玉獣文玉勝形簪頭 後漢~三国時代(2~3世紀) 『世界美術大全集東洋編3』は、この作品は中国へ伝わった初期、漢時代末か三国時代の作であろう、金粒の大きさがまちまちで、金糸も太く、なお技術の未熟が感じられるという。後漢が滅んだ後、粒金細工の技術は低下してしまったよう。
金帯金具 西晋、306年頃 湖南省安郷県山南禅湾劉弘墓出土 長9.0幅6.0㎝ 湖南省、安郷県文物管理所蔵『世界美術大全集東洋編2』は、後漢の金製鉸具の伝統を引くものであるが、その作りはより精緻、華麗になっている。金の薄板を透彫りにして1匹の大龍を形作り、輪郭線などは、やはり金線で表現している。龍身にびっしりと接合された金粒はより小さくなり、象嵌された宝石の数も多くなっている。
鉸具もそれぞれの王朝の中枢部で製作され、たんなる装飾品としてではなく、所有者の身分を表すものとして、皇帝より下賜されたものであろうという。比較的争いの少なかった南朝では、粒金細工の技術は蘇ってきたようで、龍の体を覆う粒金はかなり小さい。このような技術が唐時代まで受け継がれていたのだ。しかしながら、龍の造形という点では、後漢にははるかに及ばない。
関連項目黄金のアフガニスタン展1 粒金のような、粒金状は粒金ではない黄金伝説展1 粒金細工の細かさ
※参考文献 「村上コレクション受贈記念 中国の古鏡展図録」 2011年 根津美術館 「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」 1998年 小学館
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
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東京国立博物館で開催された「黄金のアフガニスタン展 守られたシルクロードの秘宝展」。中でもティリヤ・テペ遺跡より出土した金製品を見たかった。
『黄金のアフガニスタン展図録』は、ティリヤ・テペとは、アフガニスタン北西部にある直径約100m、高さ3-4mのテペ(遺丘)である。地元のウズベク語で「黄金の丘」と呼ばれたこの遺跡からは、1978年の発掘調査によって2万点を越える金製品が出土した。それらは「バクトリアの黄金」として、世界的にも高く評価されているという。同書は、前2千年紀中頃には拝火教神殿が建てられた。この建物が大火で廃墟と化してから400-500年ほど経った紀元1世紀半ば、遊牧民の王族たちがこの地にやってきて、黄金に彩られた墓が造られた。 彼らは何者だろうか。サリアニディは、彼らの出自について次のように思い描いている。ティリヤ・テペの墓地が営まれた頃、グレコ・バクトリアはパルティアによる攻撃を受け、国家としては弱体化していた。このためさまざまな遊牧民が領域内に侵入し、バクトリア内で培われたギリシアの都市文明は彼らの格好の標的となっていた。そのような遊牧民のひとつがクシャーン族である。彼らは、中国との国境付近で匈奴と衝突を繰り返し、次第に西へと押し出されていった。南シベリアでスキタイ族と出会った彼らは、さらに西に向かってアム川を越え、バクトリアに攻め込んだ。この地を占拠したクシャーン族はギリシア風の都市的な生活や文化と出会い、次第にその虜となっていく。そして彼らは攻略された都市を再建し、強大なクシャーン朝を樹立した。ティリヤ・テペ墓地に葬られた被葬者たちは、そのような経緯でバクトリアにやって来たクシャーンの王族層であった。しかし近年では、このようなサリアニディの想定とは異なった見解も有力である。たとえば匈奴に撃退された月氏に追われ、パルティアにやって来たサカ族も候補の一つとされている。遊牧民の活動は広大で国家の枠にはとらわれない。彼らは雪崩のように民族移動をくり返しては、ことたび強力な王朝が誕生するとその中に溶け込んでしまう。このような理由のため、ティリヤ・テペの被葬者が誰かという問いに答えることは容易なことではないという。ティリヤ・テペの墓より出土した金製品は知っていたが、その出土地がこのような拝火教神殿跡だということに驚いた。更に驚いたのは、その拝火教神殿第1期(前1500年頃)の平面図が、トルクメニスタン、マルグシュ遺跡のトゴロク21号神殿の平面図とよく似ていることだった。6人の被葬者が埋葬された後1世紀第2四半期という時期に、この拝火教神殿の遺構はどれほど残っていたのだろう。
遊牧民の王族とされる被葬者たちに副葬されていた豊富な金製品を、粒金の用いられたものに重点を置いて鑑賞していった。特に粒金だけを接合させたものなどは見たいものの筆頭で、わくわくしながら見て行ったのだった。ところが、図録には、「粒金のような」などという解説が各所にあって、自分の頭の中にあった粒金細工という概念が、ガラガラと壊れてしまった。取り敢えず、墓ごとにみていくと、
1号墓出土品耳飾 1世紀第2四半期 金 2.9X2.4㎝同展図録は、中空でゴンドラの耳飾であり、端部は鉤になっている。この耳飾には、両端付近に粒金細工に見えるような装飾が加えられている。出土状況から、本品は耳飾が髪飾に転用されたと推定される。このような装飾品は、ギリシアでは珍しく、黒海北側から類例が出土しているという。粒金細工に見えるような?粒金細工ではないのかな?粒金が圧迫されて表面が扁平になっていたりするような・・・そう言われてみると、下写真の方に凹みのある粒が。中空の粒を鑞付けしたのだろうか。こんな小さな粒を中空につくることができるものだろうか。
太鼓形装飾品 1世紀第2四半期 金・トルコ石・ガーネット・真珠母貝 1.1X1.4㎝同展図録は、上下端は粒金細工のように飾られている。また、象嵌されたトルコ石と真珠母貝、インド産の透明なザクロ石が色彩の好対照をなしている。このような装飾品は、シベリアのアルタイ山脈のパジリク2号墓で出土しており、耳飾と考えられている。また、筒形あるいは糸巻き形の耳飾は、ドン川沿いのサルマタイ族の墓地やウズベキスタンのダルベルジン・テペでも出土しているという。 やはり粒金細工のようにである。下部の左側の粒もくぼんでいるように見える。
三角形飾板 1世紀第2四半期 金 衣服に付けられた装飾板 1.3X1.0㎝同展図録は、粒金状の逆ピラミッド形の飾板で、最上段が5粒、最下段が1粒で出来ているという。これこそ地金に粒金を鑞付けしたのではなく、粒金だけを鑞付けしたものだと思っていたのに。しかし、1つだけ拡大した図版を見ると、多くの粒は中央に凸線がある。粒金では考えられない線だし、へこみがある。それに、球の形ではない。縦長の六角形に近い形である。完全な球体なら、このように並べると正三角形になるはず。これは半球の金の殻のようなものを貼り合わせ、それを鑞付けしたものだろう。
蝶ネクタイ形飾板 1世紀第2四半期 金・トルコ石・ラピスラズリ・バイライト 0.4X0.35㎝同展図録は、下部は粒金状の菱形文を付け加えている。蝶ネクタイ型の部分は金線で縁取りされ、内部にはラピスラズリまたはバイライトを象嵌して、多彩さが一層増しているという。粒金状。それぞれ飾板は、金の粒の大きさや並べ方がまちまちで、これこそ粒金かと思っていた。
ハート文付飾板 1世紀第2四半期 金・トルコ石 1.3X1.1㎝同展図録は、ハート形の上下に水滴文を向かい合せに結合し、5つの部分から構成された飾金具である。輪郭に沿って金線をめぐらせ、粒金に見えるようあしらっているという。金線細工だった。金線細工(filigree)については、『THE GOLD OF MACEDON』に図解の説明があった。同書は、金の表面は様々な装飾モティーフを創り出すために曲げられたワイヤで飾られていた。ワイヤはおそらく同じ「粒状のしっかりした鑞付け」で表面に鑞付けしたのだろうという。 しかし、金線細工は、マケドニアの作品などでは、一見して線状であることがわかったのだが、ティリヤ・テペのものは、それがわからない。
2号墓出土品歯車形飾板 1世紀第2四半期 金・トルコ石 径2.0㎝同展図録は、衣服を飾るための飾板(アップリケ)である。中央に6弁の花形を透かし彫りし、その輪郭に沿って16個の逆三角形の文様が付けられた、歯車形の装飾金具である。花柄部分の中央にはトルコ石を象嵌し、その周囲を粒金状に加工した装飾が施されているという。やっぱりこれも金線細工だった。
垂飾付髪飾 1世紀第2四半期 金・青銅 12.7㎝同展図録は、帽子形で金線や粒金状で複雑な装飾が付けられた円盤と先端の尖った青銅ピンから構成された金製垂飾付髪飾である。帽子の鍔部分からは、樹状に金線が立ち上がるという。この作品こそ、粒金同士を鑞付けしたものだと思っていた。 粒金だけを鑞付けしたものは、前1700-1450年(中期-後期ミノア文明)の耳飾りにすでに見られるが、これはどのように作ったのだろう。
首飾 1世紀第2四半期 金・琥珀 径1.8・2.0・2.4㎝同展図録は、半球形を注意深く貼り合わせて中空にした11個のビーズと4個の黒色ビーズ、2個の円錐形から構成されたネックレスである。多面体に加工された金製ビーズのうち6点には、稜線部を粒金状で加飾している。琥珀で作られた黒色ビーズ4個は合わせ目を金で装飾している。この首飾の両端は、粒状の金で飾られた円錐形の金製ビーズで終わるという。粒状の金、これは粒金細工と捉えても良いのかな?粒金細工もあったのだ。 多面体のビーズには金線細工、円錐形のビーズには粒金細工というが、見分けられない。
3号墓出土品 首飾 1世紀第2四半期 金 球径2.1・1.9・1.6㎝同展図録は、8個の細かく刻みが施された玉と、5個の無文の玉と、2個の留具としての細長い玉からなるという。これも粒金細工ではなさそう。円錐形の留め具は、粒金が押し潰されたようにも見える。その下端や次の玉には、小さな四弁花文状のものが規則的に配置されていて、中には平たいもの、四弁の中央に出っ張りがあるものも。裏から文様に打ち出した後に、円錐や球の形に整えたのだろうか。
4号墓出土品戦士図飾板 1世紀第2四半期 金・練ガラス 1.8X1.3X0.6㎝ 同展図録は、粒状の金により縁取られる楕円形のモチーフに、翼を広げた鷲がとまる中央の柱を挟んで戦士が立つという。金線細工かと思ったら、粒金細工らしい。
5号墓出土品 襟飾(部分) 1世紀第2四半期 金・トルコ石・ガーネット・パイライト 長29.1㎝同展図録は、2種のペンダントが組み合わされるつくりで、そのひとつは、つるりとした球にガーネットないしトルコ石がはまる丸い装飾が続き、さらに暗い石がはるアーモンド形の装飾と、対語に金の円盤がさがる。もうひとつは、金粒が列をなす環から、2つの三日月形が合わさる形状の金板が続き、先と同様の暗い石がはまるアーモンド形の装飾、金の円盤がさがる。粒状の金を縁に巡らせる装飾は広くみられる特徴である。粒金のような細工をあしらった円錐形の部品は留具であるが、飾板の裏側には糸が通るような管が付いており、この襟飾りがガウンに縫い付けられたものであることを示している。非常によく似たデザインのものがドン川河口の墓にもみられ、さらにロープの首に縫い付けられている点が共通するのも特筆されるという。この作品には粒金細工が施されている。
6号墓出土品 首飾 1世紀第2四半期 金・トルコ石 球径2.8X2.5㎝同展図録は、10個の中空の丸い玉と2個の円錐形の留具となる玉からなる。玉は粒状の金による線で区画され、区画一つおきに5弁のトルコ石を嵌めたハート形花弁を配するという。これも金線細工ではなく、粒金細工だった。
粒金もあれば、中空の金の粒、金線など、同じに見えても手の込んだ様々な細工のものが使われていた。このような技術は、ミノア文明からあるもの、古代ギリシア時代にはあったものなど、ヘレニズム期にギリシア系の人々から伝わったとも考えられるが、それらはどのような工人たちが作っていたのだろうか。
→黄金のアフガニスタン展2 ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠
関連項目 唐時代にみごとな粒金細工の鏡黄金伝説展2 粒金だけを鑞付けする黄金伝説展1 粒金細工の細かさティリヤ・テペの細粒細工は金の粒だけを鑞付け古代マケドニア6 粒金細工・金線細工イラクリオン考古博物館3 粒金細工黄金のアフガニスタン展3 最古の仏陀の姿は紀元前?黄金のアフガニスタン展4 ヘラクレスは執金剛神に
※参考文献 「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社 「THE GOLD OF MACEDON」 EVANGELIA KYPRAIOU 2010年
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「黄金のアフガニスタン展」では、粒金に見えて粒金でないものが多かった。中でも、ティリヤ・テペ1号墓出土の三角形飾板(1世紀第2四半期)は、粒金だけを鑞付けしたものだと思っていたので、中空の2つの殻状のものを貼り合わせたもので、粒金ですらなかった。
しかし、粒金だけを鑞付けしたものは、クレタのイラクリオン考古博物館で見たことがある。それについてはこちら新宮殿時代(前1700-1450年頃)に、すでに粒金だけを鑞付けしたものが作られていたのだった。
「黄金伝説展」では粒金だけを鑞付けしたものがいくつか出品されていた。
耳飾り 前9世紀 金 高さ2.1㎝ ドイツ、ブフォルツハイム宝飾品博物館蔵『黄金伝説展図録』は、稜をもち、先のほうが細くなっている。幾何学的に並べられた金の粒で装飾され、中央部分ではそれらがピラミッド形に配置されている。この高度に様式化された葡萄の房状の下げ飾りは、小アジアに由来するものであるという。この作品は粒金を立体的に鑞付けしている。それが葡萄の房を表したものだとは思いもよらなかった。これがギリシアで制作されたものであることは、以下の作品から判明する。葡萄といえば豊饒の象徴なので、不思議ではない。きっとイラクリオンの耳飾りも、ティリヤ・テペの三角形飾板も葡萄を表したものだったのだろう。
耳飾り 前6世紀 琥珀金 高さ4㎝ ブフォルツハイム宝飾品博物館蔵同展図録は、両端の細くなった四稜の金線に、三角形の小さな金の板に上下を挟まれた樽形の輪が3つ鑞づけされている。その下には高度に様式化された葡萄の房が合計8つ位置する。それらは金の粒から構成され、金線を介して樽を挟む下側の板に接着されている。葡萄の房の下端にはそれぞれ平らな豆状の粒がついている。この耳飾りは幾何学様式に属するもので、その非常に遅い時期の形態を示すという。葡萄の房をたくさんさげたこの耳飾りは、解説によって、ギリシアの幾何学様式時代後期に作られたものであることがわかる。
耳飾り 前5世紀 金 高さ3.08㎝ マケドニア出土 ブフォルツハイム宝飾品博物館蔵同展図録は、一周半の螺旋を描く力強い造形の耳飾りである。螺旋の両端には、金の粒から3面のピラミッドが形作られ、その頂点にはやや大きな金の粒が冠されている。これと同様のピラミッドがいまひとつ、台座を介してそれぞれの螺旋につけられているが、この位置は、耳飾り着用時に最も下になる部分である。螺旋には、4つの小さな菱形も金の粒によって描かれ、両端付近に、溝が平行に刻まれているという。この三角錐もまた葡萄の房を表したものだろう。
耳飾り アケメネス朝ペルシア(前5-4世紀) 金 直径2.1㎝ イラン出土 オランダ、ライデン国立古代博物館蔵 同展図録は、一列の粒金と数個の大きめのビーズで装飾されており、蝶番とフックを用いた複雑な仕組みによって開閉できるようになっているという。この大小の金の粒の組み合わせはペルシア風の葡萄の房なのだろうか。粒金だけを鑞付けする技術は、ギリシアに攻め込んだときに得た、あるいは工人を連れて帰ったためにもたらされたものだろうか。耳飾り アケメネス朝ペルシア(前5-4世紀) 金・半貴石 直径2.9㎝ イラン出土 ライデン国立古代博物館蔵同展図録は、垂れ下がるタイプのこの耳飾りには、半貴石がはめ込まれ、粒金がちりばめられている。重量を軽くするため、本体は中空になっているという。 下から2段目の中くらいの金の粒に凹み発見。これは粒金ではなく中空だった。
黄金のアフガニスタン展1 粒金のような、粒金状のは粒金ではない←
関連項目黄金伝説展1 粒金細工の細かさイラクリオン考古博物館3 粒金細工
※参考文献 「黄金伝説展図録」 監修青柳正規 2015年 東京新聞・中日新聞・TBSテレビ
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「黄金のアフガニスタン展」で、以前に記事にしたことのあるティリヤ・テペ6号墓出土の金冠の実物を間近で見た。
冠 1世紀第2四半期 金同展図録は、冠は頭部に巻く帯と、樹形をなす5つの立ち飾りからなる。帯は金板を切り出したもので、20点の六つ葉のロゼットにより飾られ、そこから小円板がさげられている。それぞれのロゼットには、粒状の金で縁取られた円形のくぼみがあり、トルコ石がはめられるという。少ないながら粒金が使われている。小円板は紐状の金線で取り付けられており、被って動くと揺れる、歩揺冠である。金冠を広げると5つの立ち飾りが現れる。同展図録は、帯の後ろ側には金板を丸めてつくられた5本の垂直の管があり、5つの立ち飾りにつく同様の管によって固定し、さらに立ち飾り同士も結合する仕組みとなっている。これにより、この見事な遊牧民の冠は分解して持ち運ぶことができるのであるという。 同展図録は、立ち飾りの内、4つは同じ形状で、幹の左右に対称に枝を伸ばし、2つの相対するハート形文様とそれぞれに挟まれた三日月文様に切り抜かれたモチーフで飾られている。枝の上部には2羽の鳥がおり、羽根を広げ、頭を上に伸ばし、くちばしを樹の頂部近くに付ける。それぞれの樹は六つ葉のロゼット6点で飾られており、丸い飾りをさげているという。
同展図録は、中央の立ち飾りには鳥は表現されずロゼットと丸いさげ飾りで飾られる。中央下部に丸い空間をつくり、プロペラのような文様を配置するという。 プロペラのような文様というのはよくわからない。
同展図録は、この型式の冠は遊牧民の間で類例があるが、ギリシアやパルティア、クシャーンの美術には見出せない。紀元前4世紀の終わりの早い段階に位置付けられるカザフスタンのイシク・クルガン(墳丘墓)から出土した鳥が飾られた冠は、生命樹を表したものに違いない。生命樹と鳥の組み合わせは、リボチェルカスク近くのサルマチアン遊牧民の墓の遺跡でも発見されており、ドン川の河口近くのやや西、コジュホヴォの王妃の王冠にもみられるという。
イシク・クルガン出土の冠飾りはこのようなもの。左右対称に出た枝の先が輪になっているのは、葉のようなものを取り付けていたのだろうか。そうでなければ樹木のようには見えない。あるいは、葉の代替として小円板が取り付けられて、歩揺冠となっていたのかも。
同展図録は、この様式の王冠は東アジアにも広く伝播し、5-6世紀の韓国・新村里王墓、さらには日本の奈良県藤ノ木古墳でもみられるという。
金銅冠 三国時代百済(5-6世紀) 韓国、羅州新村里9号墳出土 ソウル、国立中央博物館蔵同展図録は、この古墳は百済と伽耶の境界に位置しており、百済の古墳でよく出土する冠帽が伴っている。 この冠では鳥形がどこに取り付けられているのかよくわからないのだが、小円板の歩揺はあちこちに見られる。
金銅冠 古墳時代、6世紀後半 奈良、藤ノ木古墳出土 文化庁保管
同展図録は、藤ノ木古墳出土冠は古墳時代の伝統的な冠とは型式が異なり、特殊な存在である。古代オリエントの生命樹をモチーフとした樹木冠は、ティリヤ・テペを経由して中国にもたらされ、6世紀になって中国の南朝と交流のあった百済を介して日本の倭王権中枢へと到達したのではなかろうか。ただし、この想定を裏付ける詳細な伝播ルートの解明のためにはさらなる類例の増加を待つ必要があるという。鳥形は多数みられるし、小円板もあちこちに取り付けられている。『黄金の国・新羅展図録』は、金冠は華麗な外形とは裏腹に薄い金板で製作されており、また過多ともいえるほどに装飾が多いため、実際に使用したというよりは、墳墓の副葬品または葬送儀礼用具として製作されたと考えられるという。
ティリヤ・テペ6号墓の金冠は実際に被った状態で出土しているが、藤ノ木古墳では飾履と共に足元から出土している。
中国では歩揺の付いた小さな冠がは出土しているが、樹木冠もあったかな。中国の歩揺冠についてはこちら
→黄金のアフガニスタン展3 最古の仏陀の姿は紀元前?
関連項目歩揺冠は騎馬遊牧民の好み?金冠の立飾りに樹木形系と出字形系?黄金のアフガニスタン展4 ヘラクレスは執金剛神に黄金のアフガニスタン展3 最古の仏陀の姿は紀元前?
黄金のアフガニスタン展1 粒金のような、粒金状は粒金ではない
※参考文献 「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」(1991年 古代オリエント博物館)「世界美術大全集東洋編15中央アジア」 1999年 小学館「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」 2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館
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「黄金のアフガニスタン展」では数々の黄金の副葬品に混じって、小さなコインのようなものが展示されていた。
インド・メダイヨン 前1世紀第4四半期 金 径1.6㎝ 4.33g ティリヤ・テペ4号墓出土表面 同展図録は、右前脚をもちあげるライオンと、その前方にはナンディパダと呼ばれる仏陀のシンボル(三又の鉾を伴った円)が刻まれ、ライオンの上には、カローシュティー文字で「恐怖を滅し去ったライオン」という。裏面ライオンの皮をまとったとみられるヘラクレスのような男性が、8本のスポークがある車輪を前方に両手で押して歩く姿を描き、その右方に古代インド文字であるカローシュティー文字で「法輪を転じる者」または「(彼は)法輪を転じる」と解されるという。
同展図録は、法輪を押す姿の概念は、転法輪すなわち、仏陀の説法から来るものである。またライオンの吠える声は皆に法、存在の中心にある真実を気付かせるとされ、ライオンは仏教や仏陀の精神的な力のシンボルといわれる。このことから、裏面の人物は仏陀の姿を表した最古の例とする説が示された。しかしこれには異論もあり、人物は単に法輪を転じる動作を象徴するのみで仏陀ではないとする説もある。ティリヤ・テペの数ある出土品の中で唯一仏教的な要素をもつものであり、なぜこの遊牧民の王の墓に副葬されていたのか、数々の謎を秘めているという。
法輪という言葉が記されているが、私にはこれが仏陀の姿だとは思えない。
仏陀の入滅後、その教えは広まったが、仏陀の姿は長い間表されることはなかった。仏陀が人間の姿で表されるようになったのは、クシャーン朝時代の後1世紀とされている。
エーラバトラ龍王の訪仏 インド、バールフット欄楯隅柱 シュンガ朝、前2世紀後半 コルカタ・インド博物館蔵 同書は、前世の宿縁から龍王の姿に生まれたエーラバトラは、ブッダのみが答え得るという偈を唱えつつ、五苦からの離脱を願いブッダの出現を待っていた。時にウッタラという年若の修行者から釈尊の成道を知り、鹿野苑を訪れて釈尊の法を聞いた龍王はついに悔悟し、五苦を離れ、蛇身を逃れることを得た、というのがこの物語の梗概である。龍王の跪き合掌礼拝する対象がたんに聖樹と宝座ではなく、そこに坐すべき釈尊であるという。仏陀は聖樹と宝座によって表されている。
ナイランジャナー河の徒渉 サーンチー第1塔東門南柱 初期アーンドラ朝、紀元前後『図説ブッダ』は、慢心のカーシャパに対し、釈尊は徒歩で河を渉る奇蹟を演じた。水鳥の遊ぶ河中を渉る釈尊は一枚の経行石であらわされ、兄弟は舟でこれを追う。渉り終えた姿は右下に空座で示されるという。 珍しいことに、経行石というもので表されている。そして右下隅には聖樹と宝座で示される。
三道宝階降下 1世紀 緑色片岩 36X34㎝ パキスタン、スワート、ブトカラⅠ遺跡出土 スワート考古博物館蔵『ブッダ展図録』は、釈迦は成道後、母に法を説くために忉利天という天上世界に昇り、説法後その天からサンカーシャという地に降り立ったという。その際、釈迦は3つの階梯の中央を降り、左右に梵天(ブラフマー)と帝釈天(インドラ)を従えた。本浮彫は階梯を斜め向きに表現し、向かって左に髷を結う梵天、右にターバン冠飾をつける帝釈天をそれぞれ合掌する姿で表す。釈迦は中央の階梯の下方に、仏足跡で象徴的に表されているという。後1世紀後半に仏陀が人間の姿で表されるようになったという。1世紀前半という説も出ているらしいが、ここではまだ仏足跡で表されている。梵天と帝釈天が登場するようになって、仏伝図として整ってきてはいるが、まだ人間の姿で表すことに抵抗があったのだろう。
円輪光の礼拝 1世紀 片岩 26.7X23.5㎝ パキスタン、ガンダーラ出土 大英博物館蔵同展図録は、台座の上に鋸歯文をめぐらした円輪光を大きく表し、その左右で梵天・帝釈天が合掌して立つ。円輪光の上には樹葉が生い茂り、上方両脇では飛天が散華する。ブッダを人間として表すことなく、菩提樹・聖壇・法輪などで象徴的に表すことは初期仏教美術では行われた。近年、ガンダーラ浮彫にもブッダの象徴表現の例が知られるようになった。この浮彫のような円輪光の例が特に目立っており、中インドには見られなかった表現である。おそらく光輝く存在としてのブッダを象徴したものと思われ、成道のブッダと関係するものであろう。ターバン冠飾や装身具をつける帝釈天(向かって右)と、頭髪を結い髭面の梵天(同左)。この浮彫もブッダを象徴的に表した「梵天勧請」の場面かも知れない。ガンダーラ初期の作品と考えられるという。
初転法輪の礼拝 1-2世紀 ガンダーラ出土 片岩 32.5X49.5㎝ 東京国立博物館蔵 同展図録は、3つの法輪を戴き、二童子が支える形の柱を台座上に表し、そこに2頭の鹿が横たわる。この法輪柱の背後には円輪光が表され、向かって左に3人の比丘、右に二比丘と一礼拝者の姿があり、みな合掌作礼する。この浮彫は、釈迦が鹿野苑で最初に5人の比丘に説法したという初転法輪(初説法)を表したものに相違ないが、ブッダは円輪光と法輪柱で暗示的に表現されている。円輪光には鋸歯文をめぐらすが、円輪は単なる円盤ではなく同心円の刻線を二重に加えているという。
金貨 クシャーン朝カニシュカ1世期(2世紀) 1スタテール 7.97g 平山郁夫コレクション表 左手に三叉の戟を持ち、右手に拝火壇にかざす、焔肩の国王立像 銘:諸王の王、クシャン族、カニシュカの裏 頭光、身光のある、右手施無畏印の仏陀立像 銘:ブッダ解説は『ガンダーラとシルクロード展図録』よりカニシュカ1世は仏教に帰依しながらも、ゾロアスター教もまだ信仰していたようだ。頭光と身光に包まれた仏陀は、左手には何を持っているのだろう?金剛杵?仏陀の表されたコインは他に知らないが、仏陀が表されるとしたら、このような立像ではないだろうか。
では、ティリヤ・テペ4号墓から出土したメダイヨンの銘にある「法輪を転じる者」とは誰なのだろう。 それは、このメダイヨンの持ち主ではないだろうか。自分の信仰の深さをメダイヨンに表したのでは。金貨ならば在位中の王が表されるのだが、それがないのでメダイヨンとされているのだろうが、このようなものをつくることができるのは、よほど力を持った人物であったに違いない。ただ、メダイヨンが前1世紀第4四半期、ティリヤ・テペ4号墓は後1世紀第2四半期なので、遊牧民のリーダーであったという墓主ではない。
黄金のアフガニスタン展2 ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠← →黄金のアフガニスタン展4 ヘラクレスは執金剛神に
関連項目 黄金のアフガニスタン展1 粒金のような、粒金状は粒金ではない
※参考文献 「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社「ブッダ展-大いなる旅路 図録」 1998年 NHK「図説ブッダ」 安田治樹・大村次郷 1996年 河出書房新社「平山郁夫コレクション ガンダーラとシルクロードの美術展図録」田辺勝美ほか 2002年 朝日新聞社
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久しぶりに田上惠美子氏から個展の案内を頂いた。なんという長さ!平安時代の源氏物語絵巻から極彩色ではない蓬生の場面を背景に、9個のトンボ玉が紹介されている。しかも、いつものように作品の影のある写真ではなく、粗い織の布が地になっている。
横向きで見るべきものでした。文字はいつもいただく案内状の田上氏の字ではなさそう。
思い返せば、最初に田上氏の源氏物語シリーズを拝見したのが2009年のART BOXで、この時は9個だった。
次に同じくART BOXで2011年に開かれた個展では16個になっていた。
以来幾多の個展の中で私が行くことができたのは一握りだったせいか、「源氏物語シリーズ」には出会わなかったように思う。
そして5年の歳月を経て、残りの38個が出来上がった。田上氏ご自身は片時も源氏物語シリーズを仕上げることが頭から離れなかった1年に約8個というのはかなりのペースである。 葵は2009年から、御法は2011年に登場しているが、あとは初めてみるものばかり。
個展の会場は東京青山のKARANIS、滅多にないことに、先月その辺りを通った。根津美術館の「中国の古鏡展」を見に行ったのだが、確か田上氏の個展が度々開催されるKARANISというギャラリーも近くにあったと思って探したがわからなかった。根津美術館が新しくなって初めて行ったので、以前とは全く違う建物が並んでいて、YOKUMOKUさえ見つけられなかった(今調べてみると16年8月まで改装工事中だった)。一緒に開催される京真田紐のお店と田上氏との関係は?
KARANISには行くことはできないが、9月に箕面でも「蜻蛉玉源氏物語」は開催されるそう。箕面といえばあの天善堂かな?拝見するのが楽しみ!
田上惠美子氏の二人展
関連項目 ART BOXで田上惠美子氏のトンボ玉展田上惠美子氏のハガキのトンボ玉は「須磨」だった箕面で田上惠美子ガラス展3箕面で田上惠美子ガラス展2箕面で田上惠美子ガラス展1
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ティリヤ・テペ4号墓は男性の墓で、黄金のメダイヨンは棟の上に置かれていたという(『黄金のアフガニスタン展図録』より)。
インド・メダイヨン 前1世紀第2四半期 金 1.6㎝その裏面に登場する人物について同展図録は、ライオンの皮をまとったとみられるヘラクレスのような男性が、8本のスポークがある車輪を前方に両手で押して歩く姿を描き、その右方に古代インド文字で「法輪を転じる者」または「(彼は)法輪を転じる」と解される。
裏面の人物は仏陀の姿を表した最古の例とする説が示された。しかしこれには異論もあり、人物は単に法輪を転じる動作を象徴するのみで仏陀ではないとする説もあるという。私もこれは仏陀を表したものではないと思う。それについてはこちら
しかし、ライオンの皮を纏って表されるのは、ギリシアの神ヘラクレスであることに疑いはない。 ヘラクレスは、古代ギリシア時代以来、棍棒を持って表されてきたが、このメダイヨンではそれが見当たらない。それについてはこちら
棍棒を持つヘラクレスは東方にも伝わって、王の銀貨の裏に表されていることがある。
銀貨 グレコ・バクトリア朝エウティデーモス1世(前230-190年頃) 4ドラクマ 16.40g 平山郁夫コレクション 『平山郁夫コレクションガンダーラとシルクロード展図録』は、岩に腰かけ、右手で棍棒を持ち膝の上にのせる。左向きのヘラクレス神像という。こぶこぶの棍棒は右手で握り、何かの上に突き立てている。小さいのでわかりにくいが、ライオンの皮はまとっておらず、頭部は癖毛か、ライオンの頭部を被っているようだ。
銀貨 インド・グリーク朝エウティデーモス2世(前190-171年頃) 4ドラクマ 16.6g 平山郁夫コレクション同書は、蔦の冠をかぶり、左手に棍棒と獅子の毛皮、右手に環を持ち、正面を向くヘラクレス神立像という。
その後、棍棒を持ったヘラクレスは仏教美術に採り入れられ、執金剛神となった。
出家踰城図 仏伝図浮彫 1-2世紀 パキスタン、ローリヤーン・タンガイ出土 片岩 高48㎝ コルカタ・インド博物館蔵 『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、まさに城門から出ていく太子を描写している。画面中央には、ローマ皇帝の凱旋、入城、行進のように右手をあげて進む太子と馬が側面観で描写されている。馬の足は、ヤクシャが蹄の音を消すために支えている。馬の後ろには馬丁のチャンダカが傘蓋を捧げ持っている。その背後には城門があり、その上に金剛杵を持つ執金剛神がいる。左端で円形頭光で荘厳された梵天が合掌しているという。ヘラクレスの持物である長い棍棒は、短い金剛杵となり、ライオンの皮も被っていない。執金剛神について『仏教美術用語集』は、金剛杵を持って仏法を守護する天部。一般に仁王と呼ばれ、上半身裸形の姿で守門神となる場合が多いという。金剛杵は中央が凹んだ短い棒で、クシャーン朝の武器。その武器を持っているという言葉そのままが執金剛だった。
執金剛 涅槃図断片 2-3世紀 ガンダーラ、スワート出土 緑色片岩 高さ58.5幅24.5㎝『平山郁夫コレクションガンダーラとシルクロード展図録』は、女は髪型と腰の垂飾からクシャン女性、ギリシア風着衣の男はヴァジラを持っており、執金剛である。手を頭に当てる仕草は悲しみの表現で、二人の間には沙羅らしき樹木も描かれており、涅槃図の断片であろうという。
初転法輪の準備 2-3世紀 ガンダーラ出土 灰色片岩 高さ65幅75㎝同展図録は、初転法に訪れた仏陀と彼を迎えるかつての苦行仲間。彼らはのちに仏弟子となるが、すでに剃髪で表される。三宝(仏・法・僧)を表す三つの車輪を戴く柱頭は、鹿野苑にあったアショカ王柱のものを写している。有翼のエロスはローマ美術の影響であろうという。 この執金剛神は金剛杵を持ち、外側を威嚇的に睨んでいる。
黄金のアフガニスタン展3 最古の仏陀の姿は紀元前?←
関連項目 ヘラクレスの棍棒が涙の柱に
※参考文献 「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社「ブッダ展-大いなる旅路 図録」 1998年 NHK「図説ブッダ」 安田治樹・大村次郷 1996年 河出書房新社「平山郁夫コレクション ガンダーラとシルクロードの美術展図録」田辺勝美ほか 2002年 朝日新聞社「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館 「仏教美術用語集」 中野玄三編著 1983年 淡交社
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『黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展』はベグラム遺跡の出土品も出品されていた。同展図録は、ベグラムは、首都カブールの北約70㎞、標高1.600m、ヒンドゥークシュ山脈南麓の町チャーリーカールの近郊に位置する。パンジル川とゴルバンド川が合流する地点の南側の台地にあり、川のすぐ南とそこから南に約500mの地点の2ヵ所で、王城の址が発見された。前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王は、この地を北方の中央アジアや東方のインドへの拠点と定め、「パロパミサダエの麓にあるアレキサンドリア」または「コーカサスのアレキサンドリア」と呼んだ。その後シリアからイランを支配したセレウコス朝のセレウコス1世は、前4世紀末に北西インドへ攻め込み、インド、マウリヤ朝のチャンドラグプタと対峙した。両者は協定を結び、マウリヤ朝はアフガニスタンの東半を獲得し、ベグラムもインドの支配を受けた。続く前2-前1世紀にアフガニスタンから北インドを支配したのは、北西インドにいたギリシア人の王朝がたてたインド・グリーク朝である。ベグラムはその後、バクトリアから南下してきたイラン系遊牧民のクシャーン王朝の支配下に置かれ、最も強勢を誇ったカニシュカ王(2世紀)の治下、クシャーン帝国の夏の都として栄えた。1938年には、新王城第10室の北に隣接する第13室において、やはり出入口を日干レンガで封じられた部屋の中から、再び同様の発見があった。いずれの部屋の出土品も、素材や種類毎に分類して整然と置かれた状態で見つかっている。ガラス製品は東と北西に散在していた。ベグラムからは多様なガラス製品が出土しており、いずれの品もアレクサンドリアを中心とした地中海世界からもたらされたものであるという。
水差し 1世紀 ガラス、金 21.4㎝ ベグラム第13室出土同書は、金箔を用いて絵や文様を描いている。胴部には3人の人物がおり、ディオニュソスが子鹿の皮をまとって、手にテュルソスと呼ばれる竿をもつ姿も見られるという。水差しの首から肩にかけての部分は、月桂樹とハート形の樹葉からなる文様を巡らせるという。頚部上から連珠文、月桂樹またはオリーブの葉、長方形の枠の中に菱形を入れた文様帯、蔦文が並んでいる。月桂樹またはオリーブの葉がこのように並ぶ文様帯は見たことがあるが、思い出せない。蔦文はアクロティリのボクシングをする少年や羚羊の壁画(前17世紀中葉)の上に文様帯として表されている。テュルソスには蔦や葡萄の葉が巻かれ、頂部に松ぼっくりをつけるという。 金箔の上に黒っぽい色で顔、髪、葡萄の粒などを描いている。
把手付鉢 1世紀 水晶、金 高9.0径14.45㎝ ベグラム第13室出土 同展図録は、透けるように透明な水晶の鉢の表面に葡萄の葉と新芽を表わし、金箔で装飾している。金箔はわずかに残るのみだが、当初の豪華で鮮やかな装飾のさまがうかがえる。2つの耳と脚を持つこのタイプの坏はカンタロスと呼ばれる。ギリシア神話の酒神ディオニュソス(ローマのバッカス)は、しばしばこのタイプの鉢を持って描かれ、また、ディオニュソスのための酒は、カンタロスに容れて捧げられたという。ガラスではなく水晶の原石をこのように彫り出したものだった。葡萄の蔓や葉に金箔が貼られている。
文様を金箔(截金や截箔)で表してそれをガラスとガラスの間に入り込ませたものは紀元前に見られるが、ベグラム出土のガラスや水晶の器には金箔を貼り付けるという技法を使っている。そのためか、金箔の失われた部分もある。
ゴールドアカンサス文碗 イタリア、プーリア州カノッサ墓出土 前250年頃 ガラス(ナトロン)、金 アンチモンによる消色 高11.4㎝径20.3㎝ 大英博物館蔵『古代ガラス色彩の饗宴展図録』は、口縁は外反し、口唇部内面に2条、外面に1条の 沈線装飾が施される容器本体(内側容器)と、金箔を覆う半球形容器(外側容器)を別鋳し、金箔装飾後に加熱/熔着させたもの。鋳造による内側容器、外側容 器とも約2㎜程度と薄く、高度な制作技術の存在をうかがわせる一方、熔着は不完全であり、ゴールドサンドイッチ技法初現期の様相を呈している。内側容器外面に施される金箔装飾は我が国仏教美術で用いられる截金技法の祖ともいうべき技術で、細く切った金箔を貼付け、優美な渦巻文やアカンサス文を表しているという。
後1世紀にはガラスの間に金箔を入れる技術がなくなったわけではない。
聖女アグネス、ガラス杯底部 4世紀半ば 金彩ガラス 直径7.7㎝ ローマ、パンフィロのカタコンベ出土『世界美術大全集7西欧初期中世の美術』は、金彩ガラスの器は、ガラスとガラスの間にはさみ込まれた薄い金箔に切り紙状の装飾を施したものであるという。
このような手の込んだ技法が、ベグラムまで伝わらなかったのだろうか。
関連項目古代ガラス展5 金箔ガラスとその製作法金箔入りガラスの最古は鋳造ガラスの碗アクロティリ遺跡の壁画4 ボクシングをする少年黄金のアフガニスタン展2 ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠
黄金のアフガニスタン展1 粒金のような、粒金状は粒金ではない
※参考文献
「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社
「世界美術大全集7 西欧初期中世の美術」 1997年 小学館
「古代ガラス 色彩の饗宴展図録」 MIHO MUSEUM・岡山市立オリエント美術館編 2013年 MIHO MUSEUM
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バーミヤンについて『Shotor Museum アフガニスタンの美』は、谷を挟んで南側にある高台からバーミヤン渓谷を望むと、はるか対岸に2つの大仏が見える。東の大仏について玄奘が「この国の先の王が建てたもの」と書き、彼が見た 時はまだ傷みも少なそうな様子から、玄奘がこの地を訪れた632年をそれほどさかのぼらない頃の作ではないかと思われる。バーミヤンを調査した樋口隆康氏 も年代の確定を困難としている(『バーミヤンの石窟』同朋舎)という。
『アフガニスタンの美』は、西のよりやや小ぶり、といっても東の大仏も高さは38mある。西の頑丈な男性的体軀に対し、東の方は女性的で優しいという。近隣に住む人々はムスリムだが、お父さん、お母さんと慕っていたと何かの番組で聞いたことがある。在りし日の東大仏
『季刊文化遺産14文化の回廊アフガニスタン』(以下『文化の回廊アフガニスタン』)は、東大仏の仏名を玄奘は「釈迦仏」と明記しているという。
東大仏の窟頂には太陽神が描かれていた。『文化の回廊アフガニスタン』は、有翼の4頭の白馬に引かれる黄金造りの二輪車に乗り、輝く日輪を背にして立つ神は、イランのミスラ、中央アジアのミイロ、インドのスーリヤ、そして釈尊の超越性とを融合したみごとな象徴図像といえよう。この画像には、大仏造営のパトロンたちの宗教的、政治的なさまざまな想いが托されているように想われるという。
東博で「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展」が開催された時、東京藝術大学ではバーミヤンの壁画の復元されたものが展示されるということで、「めぐりん」に乗って行ってみた。美術館ではなく別の建物で開催されていた。開館まで時間があるなあと思っていたが、植え込みにアカンサスの花を見つけてしまい、閑をもてあますこともなかった。 こんな花柄が高く伸びるとは。 赤い花のように見えたのは、萼の色だった。白いと思ったものは萼が緑色で、どちらも花は白い。良い香りがすると聞いていたが、雨が降っていたためか、匂わなかった。一番高いものには、まだ蕾がたくさんついていて、ギリシアの棟飾りのアクロテリオンのようだ。というか、このような植物の葉や花が勢いよく伸びる様子がデザイン化されたものがアクロテリオンではなどと想像が膨らむ。
本来の目的を忘れそうになった頃、9時半になり、扉が開いた。
2階が復元壁画の展示場になっていた。入口は二手に分かれ、中央に復元壁画を印刷したものがあった。同展リーフレットは、東大仏天井壁画においては、完全に破壊されてしまっているため、過去に写された写真資料でしか見る事は不可能であった。そこで今回、東京藝術大学の特許技術を活用し、デジタルとアナログの融合によるクローン壁画の制作に着手した。新しいデジタル技術により壁画の凹凸や質感までも再現し、アナログ技術により使用されている絵具の成分までも再現する事が可能になってきた。また、6mX7mに近い大壁を短時間で完成させる事ができるこの試みは、今後も他の消失した壁画の再生に大いに役立つ事であろうという。
左手の入口から入ると、馬の足元から太陽神が見えたが、写すことも忘れて進んでしまい、窟頂の外側になる位置から写した。暗いのと、平らに近いものを写すので、こんな写真になってしまった。入口前に見易いコピーがあった訳がわかった。想像していたよりも低い位置に復元されているのは、破壊された大仏頭頂と天井との間隔も再現しているからだろう。撮し損ねたが、大仏の顔(顔の前面はずっと以前に切りとられている)の位置を示すラインが床に描かれていた。描き起こし図 『アフガニスタンの美』は、イラン風衣装の太陽神が描かれているという。同展リーフレットの図版同展図録で宮治昭氏は、1969年の調査の際に筆者が作図した線図をもとに、東大仏の仏龕天井壁画を観察しよう。天井大画面には四頭の有翼の白馬に曳かれる馬車に乗って、天を駆ける太陽神が描かれる。中央に大きく描かれた主神は、丸首で筒袖の遊牧民の服装をマントで翻し、両肩を覆ってその両端を左胸のところで留めている。この太陽神は両肩から冠帯をはね上げ、首飾りを垂らし、腰にはベルトを付けて長剣を吊し、、左手でその柄を握り、右手に長い槍を持つ。全身が収まるほどの大きな円形の光背を負い、その光背は放光を表す鋸歯文で縁取られている。大画面の上端は剥落がひどいが、ハンサが数羽列をなして太陽神の方に向かって舞い下り、両端に一対の風神が描かれる。白いショールを広げ、その両端をしっかりと握る裸形の上半身が表され、頭髪を後ろへ大きくたなびかせる。大構図の両端には雲をかたどるかのような赤褐色の帯があるという。 主神の足下には車軸上に御者がいるが、わずかに有翼の一部を左足が残るにすぎない。四頭の有翼白馬はみな前脚を蹴り上げ、二頭ずつ左右対称に、両端の車輪とともに側面観で表される。御者のの両側、車上の左右にはいずれも有翼でヘルメットを被り、頭光をつけた一対の女神が描かれる。向かって左右脇侍女神は右手を上げ(持物不明)、左手には顔のついた楯を持つ。一方、左脇侍の女神は左手に弓を持ち、右手で矢をつがえようとしているという。主神のマント、神々の人体表現、馬、風神などの表現には運動観があるが、形体は類型的で、人物の輪郭線や目鼻立ちなどは一本調子の描線を用いて描き起こす。隈取りや暈しなどは施さず、人物や事物の立体感の表出にはほとんど意を用いない。このような絵画様式は、ヘレニズム・ローマやインドの絵画伝統とは異なり、ササン朝絵画の伝統に連なるものと推測されるという。ササン朝の伝統的な絵画って、どんなものだったかな?
さて、この大画面の主題は何であろうか。馬車に乗る太陽神の図像は、ギリシャのヘリオス、インドのミスラ、インドのスーリヤなど古代ユーラシア大陸に広まっている。四頭立ての二輪戦車(ガドリガ)に乗る太陽神という図の基本形は、ギリシャのそれに由来するものに違いない。かつてB.ローランドや前田耕作が指摘し、F.グルネが積極的に主張するように、バーミヤンの太陽神は、図像的に『アヴェスター』の「ミヒル・ヤシュト」の記すミスラに近い。ミスラは多面的な特徴をもって描写されているが、わけても太陽神としての性格が強い。ミスラの両側に従う二女神はアルシュタートとヴァナインティーであろう。東大仏の天井に描かれた太陽神ミスラは、グルネが示唆したように、おそらくバーミヤンに仏教が根づく以前のこの地の信仰であって、仏教に取り込まれたものであろう。しかし、それは単なる守護神として描かれたのではない。言語学者・宗教学者が指摘するように、ミスラと弥勒(マイトレーヤ)はもともと繋がりをもっており、おそらく弥勒信仰が発展していくなかで、バーミヤンではミスラ信仰を吸収していった-あるいはむしろ、ミスラ信仰を吸収したが故に弥勒信仰が発展した-のではないかという。大画面壁画では、太陽神が長い槍を持ち、四頭の白馬が曳く馬車に乗り、馭者と二女神を従え、上方から風神がショールを翻しており、「ミヒル・ヤシュト」とかなりよく合う。グルネは壁画の二女神を、「正義の女神」であるアテナ型のアルシュタートと、「勝利の女神」であるニケ型ヴァナインティーと解釈する。二女神の上には半身半鳥の霊鳥が描かれ、頭には頭巾状の被り物をつけ、冠帯を垂らし、右手には松明、左手には柄杓のようなものを持つ。松明を持つ半人半鳥は「燃え盛る火」を表すものとみられるという。迦陵頻伽とは異なる半人半鳥のようだ。東大仏と天井壁画がバーミヤン石窟全体の中で初期に位置づけられることは間違いない。それはいつか。 ・・略・・ 大仏自身も6世紀後半の造立と考えるのが妥当であろうという。また、2階にはこのような東大仏の頭部から眺めたバーミヤンの景色が大画面で表されていた。
流出した美術品が平和になったアフガニスタンに戻るだけでなく、このような復元の技術や研究が、現地の人々の手によって行われる日が来ますように。
関連項目三十三間堂3 風神雷神の起源
※参考文献
「Shotor Museum アフガニスタンの美」 谷岡清 1997年 小学館
「季刊文化遺産14 文化の回廊アフガニスタン」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団「2016 アフガニスタン流出文化財報告書~保護から返還へ」のリーフレット及び図録 2016年 東京藝術大学アフガニスタン特別企画展実行委員会、東京藝術大学ユーラシア文化交流センター
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