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幾何学的な組紐文

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サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群の最奥部、トマン・アガのモスクはその廟に隣接して、1405-06年に建立された。
廟の方は、やや文様が異なるものの、植物文を並べたモザイク・タイルでファサードが覆われている。
それについてはこちら

モスクの方は、組紐文による幾何学文様とそれによってできた空間を埋めるロゼット文という、廟にもシリング・ベク・アガ廟にも見られない、新らしい文様をモザイク・タイルで表している。

組紐文を駆使した幾何学文様はやはりペルシアの影響だろうか。

コーラン装飾ページ マムルーク朝、1368-88年 制作地エジプト カイロ国立博物館蔵
エジプトではもっと細かな組紐文による幾何学文様がそれ以前に作られていた。
中央のロゼット文(開花した花を真上から表した文様)から出た16点星の輪郭となった組紐が外方向に伸び、折れ曲がりながら、複雑な幾何学文を編み出している。
変形菱形、ロセッタと呼ばれる変形六角形が長いもの短いものの2種、変形4点星、変形5点星、六角形など。
そして、それぞれの幾何学文の中には植物文が表されている。

20点星組紐文のある幾何学文 14世紀 アランブラ(アルハンブラ)宮殿
タイル装飾でもかなり細かな幾何学文が組紐で構成されている。しかし、組紐が太すぎて、幾何学文様が小さい。今までこれがどのように作られたのか、あまり考えていなかったが、白い帯の交差している箇所を見るとモザイク・タイルのよう。
昔、深見奈緒子氏に窺ったところ、中心の星が20の角を持っているので20点星、そして各色タイルの間に白い帯状のものが輪郭を描いているので組紐文ということで、「20点星組紐文のある幾何学文」という風に呼ばれている。
以前からあった文様で、建築装飾に使われる前から、象嵌や寄せ木細工などの木製品にあるのではないかということだった。

ミフラーブ 1354年頃 制作地イラン モザイク・タイル 高343㎝ メトロポリタン美術館蔵
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、幾何学的に構成された複雑な多角形の文様は、イスラーム文様を特色づけている。その多くは充填文様として、無限の広がりが可能な構成法がとられたという。
ミフラーブの凹みには、六角形や5点星、6点星とみられる幾何学文が組紐文によって造られている。トマン・アガのモスクの50年も前に、すでに現れていた文様だった。
そしてその上部には、やや曲線的な節のある植物の白い茎で6点星、六角形が作られ、その中にはトルコ・ブルーで蔓草が表されている。水色の蔓草は、白い枠を超えて繋がっている。

木製ミフラーブ部分 アナトリア・セルジューク朝、14世紀初期 制作地トルコ 木 アンカラ民族学博物館蔵
12点星、変形菱形、ロセッタ、5点星が組紐で無限につくり出されている。しかも、各幾何学形の中には、複雑に絡まる蔓で埋め尽くされている。

木製扉の装飾 セルジューク朝、13世紀 制作地トルコ アンカラ民族学博物館蔵
大きな6点星、六角形、五角形を二つ接合したような形という3つの幾何学文で扉の中央部を構成している。それぞれの文様の中には左右対称の蔓草文が透彫のように浮彫されている。

ドーム内部 アナトリア・セルジューク朝、1251年 カラタイ・マドラサ、コンヤ
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、タイル・モザイクによる建築装飾は、アナトリア・セルジューク朝において人気を博し、その技術や文様構成は著しく発展した。その装飾技法は、イル・ハーン朝のタイル・モザイクなどに影響を与えた。
カラタイ・マドラサのドーム内部のタイルは、黒に近い茄子紺とトルコ・ブルーの2色で、複雑な多角形文様を形成している。大振りのこの多角形は、見上げると天空の星が光を発しているかのように見えるという。
中心に白と茄子紺で交互に表したロゼットが24点星となり、白で縁取られたトルコ・ブルーの輪郭線が絡み合って変則的な網目を作りながら、次の24点星へと向かって行く。

金曜モスクミフラーブ イル・ハーン朝、13世紀後半 イラン、ウルミエ
『イスラーム建築の見かた』が12点星の幾何学紋という透彫の半球のある文様は、その輪郭から伸びる蔓が直線と曲線となって伸び、別の幾何学文をつくっていく。中央の12点星の周囲には、葡萄の葉のようなものを12枚繋いだ蔓は円を成している。
小さな幾何学文も六角形や三角形が主だが、何と表現すればよいのかわからない図形も多い。
この透彫を見ていると、このような蔓草の絡み合うデザインから、様々な幾何学文が組み合わさったものが生まれたのではないかと思ってしまうのだが、幾何学的な組紐文はそれ以前にも存在する。

扉パネル部分 アナトリア・セルジューク朝、12世紀 木 制作地アナトリア コンヤ、マドラサ博物館蔵
変形六角形、甲虫のような六角形のロセッタ、他にも様々な変形多角形で構成されている。
木彫ということもあってか、幾何学文様の中の植物文が細やか。

ミンバル部分 ムラービト朝、1137-47年 制作地コルドバ マラケシュ、クトゥビーヤ・モスク 木・象牙 バダィーイ宮殿博物館蔵
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、木製のミンバルの土台は、象牙と高価な木材を組み合わせた寄木と象嵌細工、木材の透かし彫りや浮彫で全体が覆われている。ミンバルの外側には幾何学文様と植物装飾が用いられているという。
組紐を捻らせた上で交差させながら幾何学文をつくっている。

大モスク円柱 セルジューク朝、10世紀 ナーイーン
『イスラーム建築の見かた』は、幾何学的な組紐文様の合間を埋めるように葡萄唐草が浮き彫りされる。イスラーム以前のペルシアにあったスタッコ細工の技法がうかがわれるという。
組紐文に葡萄唐草を埋めている。組紐はレースの帯のようで曲線的。それでも8点星、三角形、四角形とわかる幾何学文となっている。
残念ながら、イスラーム以前の漆喰装飾は見つけられていない。

ラスター彩型押幾何学文皿 アッバース朝、9世紀 制作地メソポタミア 径21.7㎝ ベルリン国立博物館イスラーム美術館蔵
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、薄い黄釉とラスター彩がかけられた型押陶器の一例である。アクセントに淡い緑釉が、随所にかけられている。
皿の中央部に型で押しつけられた文様は、連珠文のつけられた帯文で、5つの卍繋ぎ、4つの環状のモティーフで形成されているという。
他にこのような帯文が交差しながら文様をつくっている陶器は知らないが、やがては複雑な幾何学文を創り出すイスラーム美術の素地だったのかも。

         トマン・アガのモスクには組紐付幾何学文のモザイク・タイル
                       →アフラシアブ出土の陶器に組紐文

関連項目
火焔山のトユクに組紐文のタイル
シャーヒ・ズィンダ廟群6 シリング・ベク・アガ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群11 トマン・アガのモスク
シャーヒ・ズィンダ廟群15 トマン・アガ廟

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「イスラーム建築の見かた」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店


アフラシアブ出土の陶器に組紐文

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アフラシアブの丘で発掘された陶器にも組紐文様のような図柄のみられるものがあった。

『中央アジアの傑作サマルカンド』は、アフラシアブで、年代の異なる発掘が行われた際、9世紀から12世紀の大量の陶器が発掘された。これらは、サーマーン族時代とカラハーン族の時代の文化の陶器であった。その大部分が、多彩なエンゴーベで装飾され、上薬で覆われた大皿と水差しであった。
陶器の装飾には、アフラシアブのパネルと同じように大量に作られた、多彩な異教の記号が使われているのは、幸福の結び目、卍、植物の十字、星、かみつれである。模様の中心となっている、植物と植物がからみ合っているものはその典型である。その植物と植物がからみ合っている模様は、陶器とガンチ(石膏の一種)のパネルが組み合わさった模様である。手細工でからみ合った画像の絵を実際に作ってみると、からみ合ったものの縒りを戻すことができなかった。このことから大宇宙の中心となる成分である自然、太陽、地球の合一が分かる。
アフラシアブの陶器をはじめ、とでこにでも異教の記号が使われていた。中世の末まで、イスラム教の芸術においてはイスラムテキストと共に使われ、不思議な力をもっていた植物と幾何学模様は、代表的なシンボルであったという。
エンゴーベは仏語engobe(アンゴブ)で白化粧土、かみつれはカモミール

その中から、組紐文が幾何学的な文様を形作っている陶器は、

陶器部分 9-12世紀 サマルカンド、アフラシアブ出土
曲線的な組紐は、中央に黒に白の連珠文、その外側に赤、輪郭線に緑という幅の広いものだが、それが交差しながらつくり出すのは三角形。その中の文様は植物だろうか。

陶器部分 9-12世紀 アフラシアブ出土
中心となる文様は、連珠文が組紐のようにねじれ、交差して大きな三角形をつくっている。
その内側の白いものは植物の茎となって、中央に三葉の葉を表す。

陶器部分 9-12世紀 アフラシアブ出土
緑の茎が組紐のように交差を繰り返して、円、四角形、三角形などをつくっている。そしてその端には半パルメット文のようなものが付く。

皿または浅鉢 9-12世紀 アフラシアブ出土
組紐というよりも、白い茎が上下にうねって中央の円、その周りの7つの円をつくっていき、その端は蔓のように巻いている。

皿または鉢
中央には蕾のついた植物が十字に表され、それを囲む円から7本の茎が出て三葉を迂回し、自らも先が三葉となる。それぞれ2箇所に2枚の葉を付けている。
これは半パルメット唐草文と呼べるような文様だが、当時の中国から将来された文様かな。それとも、アレクサンドロスが征服した街でもあるので、その後中国よりも早く伝わった文様だろうか。

白地彩画鉢 10-11世紀 サマルカンド製 出光美術館蔵
『世界の文様2オリエントの文様』にはギローシュ文様(組紐文)として紹介されている。
外側の文様は蛸の足がもつれたような連珠文のある幅広の帯だが、三角形、円などを隙間につくる。
中心には五角形ができているが、その外を見れば5点星にもなっている。

白地彩画鉢 10-11世紀 サマルカンド製 中近東文化センター蔵
同書の説明は、やはりギローシュ文様とだけ書かれている。
ラフな筆致ながら、中心に10点星、それを囲む大きな連珠のある1本の帯が、越えたりくぐったりして、コの字形のものを5つ作る。その内側で、連珠文のある紐が外の帯を越えたりくぐりながら、コの字の内側に角の丸い5点星を作る。
手本にするようなものを見ながら真似たらこんな風になるのかも。



よく似た作品があるが、製作年代がわからない。

白地彩画鉢 ニシャプール製? ヴィクトリア&アルバート美術館蔵
見込みには中央に連珠文のある緑の紐が交差して十字を作り、その周りを連珠文のある赤い3本の紐が互いに越えたりくぐったりしながら、9点星を作っている。
胴部にはアラビア文字風の文様がぎっしりと描かれている。
写真の写し方にもよるのかも知れないが、サマルカンド製とされるものに比べると、この鉢は見込みと胴部の境目がはっきりとした器体なので、製作地の違いとも考えられる。
問題は、この白地彩画鉢が、サマルカンドのものよりも早い時期に作られたものかどうかなのだが、今の段階では、どちらとも言えない。

         幾何学的な組紐文←     →火焔山のトユクに組紐文のタイル

関連項目

トマン・アガのモスクには組紐付幾何学文のモザイク・タイル


※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「世界の文様2 オリエントの文様」 1992年 小学館

火焔山のトユクに組紐文のタイル

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東京国立博物館の東洋館では、驚いたことに、トユク(吐峪溝)の出土が幾つか展観されていた。
トユクには行ったことがある。もう10年前のことだが、石窟の見学だけでなく、その小さな谷間の様子がとても気に入った。
それについてはこちら

磚破片 唐時代、8世紀 中国トユク他出土 大谷探検隊将来品
同館説明板は、これらの甎(せん)は、官衙(かんが)、寺院などの建造物の床面に敷かれていたものです。大部分はトユクを中心とするトルファン地方から発見されたものです。ただし雷文甎1枚だけは西安で入手したと考えられますという。
左2点が「本」という文字と花文のある塼、大きな塼には蓮華文、右端も植物文のように見える。

手押型つき長方磚 唐時代、8世紀 焼成粘土 トユク出土 大谷探検隊将来品
説明板は、粘土がまだ乾燥していない状態で手形を押した後に焼成したものです。このほか、中国の旅順博物館と韓国国立中央博物館に類品がありますという。 
大谷探検隊の収集品は、幾つかの博物館などに分散して収蔵されているので、どちらの博物館にある類品も大谷探検隊将来品。

宝相華文方磚 唐時代、8世紀 焼成粘土 トユク出土 大谷探検隊将来品
花弁の表現が独特の宝相華文。こんなに凹凸のある塼が床に敷かれていたら、でこぼこして歩きにくかったのでは。

蓮華文方磚 唐時代、8世紀 焼成粘土 トユク出土 大谷探検隊将来品
一方、線だけが浮き出た塼もある。
覗き花弁のある単葉蓮華文を中央に、小さな花文を四隅に置いて、渦巻く蔓草文を外周に表している。

蓮華文方磚 唐時代、8世紀 焼成粘土 中国トルファン南部城址出土 大谷探検隊将来品
風変わりな蓮華文である。  小さな中房には蓮子がなく、8枚の蓮弁は沈み彫り、その周囲には16弁の浮彫の蓮弁が巡る。
また、上の2点は、敷き詰めると同じ文様の塼が並ぶのに対して、このような塼は、通常四隅に1/4の文様を施して、縦横に並べると、4枚の塼の繋ぎ目にもう一つの文様が現れるように構成されているものだが、これが完形とすると、下側の対角線がどのように繋がったのかがわからない。部屋の端にはこの形でないと敷くことができなかったのかも。

組紐模様タイル 唐時代、8世紀 磚 トユク出土 大谷探検隊将来品
くっきりとは発色していないが、8世紀にすでにあった唐三彩の緑と褐色。

組紐が交差しながらつくり出す形は、ロセッタという甲虫のような六角形の変形したものと小さな小さな三角形、4点星、そして、欠けているが右上辺に8点星らしきもの。
それだけでなく、他のタイルと組み合わせて壁面に嵌め込むことができたのだろうかと心配になるほど、それぞれの辺が歪んでいる。いったい何角形だったのだろう。九角形?
8世紀といえば、中央アジア以西ではまだ施釉タイルが出現していない時代。それなのにと言うか、中国なので不思議ではないというか、これは施釉タイルである。釉薬が溶けた時にできた気泡の痕が残っている。
しかも、2色の釉薬が混ざることなく籠目のような文様をはっきりと表している。組紐には浅い輪郭線を刻んでいるが、それだけで釉は溶けてはみ出さないものだろうか。
ハフト・ランギー(クエルダ・セカ)の初現は、14世紀後半のサマルカンド、シャーヒ・ズィンダ廟群のウスト・アリ・ネセフィ廟とされているのに。
このタイルは、幾何学的な組紐文だけでなく、タイルの施釉技法という点でも、かなり重要な遺品ではないのだろうか。

     アフラシアブ出土の陶器に組紐文

関連項目
幾何学的な組紐文
トマン・アガのモスクには組紐付幾何学文のモザイク・タイル
ハフト・ランギー(クエルダ・セカ)の初例はウスト・アリ・ネセフィ廟
世界のタイル博物館5 クエルダ・セカとクエンカ技法
トユク石窟にアカンサスはあった

※参考文献
「世界のタイル・日本のタイル」 編世界のタイル博物館 2000年 INAX出版
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館
   

ドームを際立たせるための二重殻ドーム

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サマルカンドのビビ・ハニム・モスク(1399-1404年)では、ファサードが高すぎて正面からドームを見ることができず、横に廻ってやっと廟自体から巨大に突き出したドームとドラムが確認できた。
『イスラーム建築の世界史』は、ドームには従来の二重殻ドームよりさらに内殻と外殻とを大きく乖離させた二重殻ドームを用いることで、室内は従来通りの高さながら、外側は高いドラムの上のドームを際立たせているという。
ドーム内部
外側にも正方形、八角形と円形に近づける移行部が確認できるが、十六角形をつくらずに、八角形の8つの尖頭アーチの間に小さな尖頭アーチをつくって16のアーチの頂点がドラムの円形の輪郭を支えているように見える。
ドラム(円筒)部分は外は筒形だが、内側は凹凸がある。それはドームの荷重を支える工夫だったのだろうか。それが見えるということは、内ドームが失われたままになっているからだと思うのだが。

南側からみたグル・エミール廟(1403-04年)のドーム
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、外壁の装飾には、いわゆる施釉レンガが使われている。これは、褐色の無釉レンガの間に淡青色とコバルト・ブルーの施釉レンガで「アッラー」や「ムハンマド」のような聖なる名前をクーフィー体のアラビア文字で表したもので、その装飾効果を十分に計算したものであるという。
円筒部と八角形の壁面は、バンナーイというタイル装飾のでできていて、モザイク・タイルの一種ではある。
ビビ・ハニムの主ドームとほぼ同じ時期に造られた。ティムールは遠征から帰ってくる時に、遠くからでもこの廟のドームが見えるように高く造り直させたのだろうか。
廟は八角形平面だが、内部は正方形平面となっているが、ビビ・ハニムの主ドームのような移行部は見えない。

内部でドームを見上げると、正方形から四隅にスキンチを用いて八角形にし、青い地にアラビア文字で構成した文様帯は十六角形となり、そこからドームが架構されている。

『シルクロード建築考』は、元来墓廟の建築が求める目的は、記念的で象徴性のある外観であり、そこにこそ墓廟の建築の生命があって当然であろう。荘重で高いドームやドラム(円筒壁体)装飾の華麗さは、やはり、墓廟として必然的な要素であったのに違いない。
ドームをより以上に高くしようとする技術には、当然ながら内装用のドームの上に外観用のドームを重ねるためもう数段も煉瓦を積み上げるという工法の必要があったのだろう。二重殻のドームが、12世紀以来のアイディアではあっても、14世紀から15世紀になってから、壮麗で雄大なドームが各地に多くの姿を見せはじめたのは、耐震性に自信の持てる構造技術が、その間やっと進歩したことにほかならない。 
ドームを積み上げる工法の弱点は、接合部分の凹凸を整形するテクニックのむずかしさにあるが、凹凸が逆にドームの美しさの要素となっていることも、当然の帰着であるのかも知れない。
このグル・エミル廟に見えるドームも、チムールの高さへの不満というより、八角になった支持壁体の量と、色ガラス窓をつけてクーフィック文字でデザインしたドラムとの高さの調和が、ドームに対する高さの強調を要求したのではないだろうかという。 
立面図を見ると、正方形から八角形への移行部は円筒部に組み込まれている。
また、見上げてもこの立面図ほどに傾斜のある尖頭ドームには見えなかった。

同書は、1404年の秋ごろ、この墓も完成したとはいえ、ドームの高さが低すぎるという意見から、溝条の美しいドームに再び工事が加えられたという。
今は、あの特異な64本による溝条の錯覚による膨らみのあるドームも、支持したドラムの面から適格な手法で持送りしたタイルの技法によって天空への憧れを持った素晴らしいドームとなって輝いているという。
この64もの畝のあるドームは、遠方から見ると単に青いタイルのドームだったが、近くから眺めると、赤・水色・紺の正方形を斜めに並べていた。
更にアップすると、それらは小さな正方形の色タイルで構成されている。これもモザイク・タイルの一種。

『イスラーム建築の世界史』は、ティームール朝期の代表的ドームとして、ドラムに内側ドームを入れ込み、その上に支持板を介して外側ドームを構築する極端な二重殻ドームを挙げることができる。しかし、それへの変容は、現在実例から見ると、14世紀後半のわずかな期間に集中する。
内側ドームと外側ドームの極端な乖離は、14世紀半ばのイスファハーンのスルタン・バフト・アガー廟、コニヤ・ウルゲンチのトゥラベク・ハーヌム廟が現存最古であり、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダにある1385年のシーリーン・ビカー・アガー廟が中間的な存在で、1390年代のトルキスタンのアフマド・ヤサヴィー廟やサマルカンドのグーリ・アミール廟では鶴首形ともいえるような二重殻ドームが完成するという。

また、同じく深見奈緒子氏は『イスラーム建築のみかた』で、中世の中盤期、モンゴル族が西へ西へと領地を広げ、イスラーム化し、西アジアに王朝を打ち立てた14世紀に、イスラーム建築の流行は、巨大な建築、高いドーム天井の高い空間へと空間嗜好が大きく動いた。それまでのドーム建築は部屋の幅、すなわち内接するドームの直径に比べて高さは、現在残る実例から推し量れば、1.7から2倍くらいの空間が好まれていたようである。モンゴル侵入後の14世紀になると、ペルシアではどんどんドームが高くなり、その比が2倍以上の空間が多くなる。さらにペルシア建築を受け入れた同時代のエジプトでは、ドラム(太鼓のように中空柱状のドームの載る部分)を用いて、高さが直径の3倍近くもあるドーム空間が構築されるようになる。
この傾向は、14世紀後半にさらに加速した。中央アジアから発し、15世紀までにユーラシア大陸の西半分を覆う大帝国を築き上げた大ティムール帝国の建築では、外から見ると青いタイルで覆われた塔のようなドームが現れたという。

いつものように遡ってみていくと、

ホジャ・アフマド・ヤサヴィー廟 1390年代 カザフスタン、トルキスタン
『地球の歩き方中央アジア』は、コジャ・アフメド・ヤサウイは12世紀に活躍したスーフィー(イスラーム神秘主義伝道者)で、ヤサウイ教団を創設し、この地でのイスラームの布教、定着に貢献した聖人である。
コジャ・アフメド・ヤサウイ廟は、1390年代にティムールの命により建てられた。高さ44m、ドームの直径22m、現在中央アジアに残っている歴史建造物のうちでも最大級の物であるという。
中央に大ドーム。墓室の上に小ドームがのっている。小ドームの方はドラム(円筒部分)が長く、グル・エミール廟のドームのように畝のあるドームとなっている。
廟にモスクが付属しているだけでなく、迎賓室、図書室その他が大ドームのある大広間を囲んでいる。

シリング・ベク・アガ廟 1385-86年 サマルカンド、シャーヒ・ズィンダ廟群
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、この廟はイラン式で建てられており、二つのドームは窓が付いているドラムの上にあるという。
円筒部はおそらく16面に分割され、各面に凹みを作って、一見窓のよう。
同廟は、ファサードが細かなモザイク・タイルで装飾されているので、円筒部もモザイク・タイルかも。
その後建立されたトマン・アガ廟(1405-06年)も、高いドラムの上に青いドームが載る二重殻ドームである。

トゥラベク・ハニム廟 TUGHABEG KHANUM 1370年 トルクメニスタン、クニャ・ウルゲンチ
『旅行人ノート⑥シルクロード中央アジアの国々』は、廟はグルガンジ最大の見どころで、保存状態が最もよい。1370年にスーフィー朝のハーンの一族の墓所として建てられた。
トラベク・ハニムはクトゥルグ・ティムールの正妻である。建物の建造は当時の天文学的な世界観を反映したもので、直径12mのドームの内側には星を模した金色の点が365個散りばめられており、それを円筒部分で12のアーチが支え、その下に24のアーチがある。それに4つの大窓が付いていて、これらはそれぞれ年・月・日・週を表している。ハーン一族の棺は北側の部屋にある
という。
残念ながら、外殻ドームは崩壊して、本来の高さがわからない。
ドラム(円筒部)がかなり高くはなっている。
内側から見上げると、六角形、十二角形、二十四角形と移行し円形に導いている。
二十四角形の面は、明かり採りと壁面が交互に並んでいる。
真下からはドームの曲面が半球か、もっと平たいのかわからない程には高い。

『イスラーム建築のみかた』は、こうしたドームを高くする動きの中で、いつどこで外と内を別に考える二重殻ドームが7成立したのだろうか。現存遺構から言えることは、14世紀の後半、1360年近傍に、イランのイスファハーン、エジプトのカイロに明確な二重殻ドームの建築が存在するという。

スルタン・バフト・アガー廟 14世紀半ば(1356年) イスファハーン
スルターニーヤ廟 1360年代 カイロ
『イスラーム建築のみかた』は、内側のドームはドラムの上の位置に架かっている。
ただしカイロでは後続例がなく、高いドームが井戸底のような単殻ドームとなるという。
内部で見上げると、虚空にドームの天井が浮かんでいるように感じるのかな。

同書は、年代は14世紀半ば過ぎと決着が付くにしても、二重殻ドームの起源はどちらの地方に求めたらよいのであろうか。
14世紀後半から15世紀、すなわちダブル・ドームの技法が確立した直後の建築を観察してみよう。ペルシア世界では、極度に発達したアーチの造形や装飾を美しく演出させるべく、高さを押さえ気味とする内側の天井を構築することが流儀となった。
加えて、中世初頭から大ドームを標榜したペルシア世界には、既に11世紀頃から自重を軽減させるための中空部分を設けたドームや、錘状屋根を戴く墓塔の内側ドームがあった。これらは、14世紀後半に成立したダブル・ドームの素地となった。したがって、現状においてはペルシア世界においてイスラーム的なダブル・ドームが出現したと考えたいという。

また、『イスラーム建築のみかた』は、それでは、ティームール朝の二重殻ドームの起源はどこにあるのだろう。
ペルシアの北、カザフスタンのウクライナ一帯は、14世紀にはジョチ・ウルスの領土であったが、今ではその遺構は残らない。一方、カイロのマムルークたちは、中央アジアやカフカス出身のトルコ系の人々であった。
木造のロシア正教の教会には、風変わりな玉葱形ドームが多い。玉葱形ドーム最初の例は明らかではないが、すでに10世紀からギリシア十字式教会堂の中央屋根には、高いドラムの上にドームが載りロシア正教会としては12世紀の例が残る。小型ながらバリエーションの多いロシア正教会の木造ドームが、ジョチ・ウルスの建築に影響を与え、木造と組積造の両方で二重殻ドームの技法が試されていたと考えられないだろうか。とすれば、14世紀後半に、ペルシアとカイロに極端な二重殻ドームが同時に存在するという事象は、すでにジョチ・ウルスで試された形態がもたらされたからと考えられるという。
そのギリシア十字式教会堂として『イスラーム建築の世界史』は、現在もイスタンブールに存在するミレレオン修道院を挙げている。

ミレレオン修道院 922年 イスタンブール
『地中海機構紀行ビザンティンでいこう!』は、8世紀から9世紀にかけて、おそらく小アジアを発祥の地として、ビザンティン聖堂の形態に、集中式にのっとった革新が行われる。プランは正方形の内部に十字形が接する「内接十字形」をとり、十字形の交差部には4本の円柱が立てられて、上部にはドームが載るという。
平面図
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、中期ビザンティン建築で最も特徴的なのは方形ギリシア十字式プランである。第1のタイプはいわゆる典型的な方形ギリシア十字式プランの聖堂で、円蓋を4本の円柱が支え、平面図で見ると、正方形の中にギリシア十字式を描いたプランで、それに内陣部が付加されている。聖堂入口には通常ナルテクスが設けられるという。
このように構成された堂内は、キリスト伝を初め、聖人に至るまで、様々な絵画で埋め尽くされているが、ドームには大抵パントクラトールと呼ばれる、聖書を持ったキリストの胸像が大きく表されるが、ドームを支える円筒状の壁面には窓が広く開けられて、明かり取りのためだと思っていた。。
小アジアのキリスト教会には、大きなドームの載る教会堂で、もっと古いものが残っている。

クズル・キリッセ 5-6世紀 カッパドキア、シヴリヒサール
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、この円蓋を支える柱をもたない プリミティヴな構成は、コンスタンティノポリスの9世紀のアティク・ムスタファ・パシャ・ジャミイにも見られる。オシオス・ダヴィドとほぼ同時代に建立さ れたカッパドキアのシヴリヒサールのクズル・キリッセ(赤い聖堂)に、方形ギリシア十字式プランへの移行形を示す興味深い建築構成が見られる。コンスタンティノス・リプス修道院のように円蓋を4本の円柱が支え、微妙なリズムのある、調和した内陣の構成は、コンスタンティノポリスの聖使徒聖堂に見るような単純なギリシア十字式プランとバシリカ式との結合によって完成される。
5世紀末のクズル・キリッセ聖堂にもスキンチ工法が見られるという。
教会そのものに比べドームが大きすぎるように見えるが、これもドームを高く見せたいというよりも、堂内に光を取り込むためのものだったのだろう。

関連項目
ドームを持つ十字形プラン聖堂の最初は?

※参考文献
「東京美術選書32 シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「地球の歩き方D15 中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々」  2015-16年版 ダイヤモンド・ビッグ社
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「イスラーム建築の見かた」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「地中海機構紀行 ビザンティンでいこう!」 益田朋幸 2004年 山川出版社

アラビア文字の銘文には渦巻く蔓草文がつきもの

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サマルカンドの建築群を見学していて、それぞれの玄関の上方や扉口の上に、アラビア文字の銘文が、一重の蔓草が渦巻くのを地文にしているのに気付いた。

オリジナルと思われるものを年代の新しい順に並べると、

2:表玄関 15世紀 モザイク・タイル
オレンジ色の文字と白色の文字が交互に置かれていた。
トルコ・ブルーの細い蔓は、小さな葉を出しながら渦巻いていくが、花は付けていない。
隣りの渦巻の途中から枝分かれしていくのだが、葉の付き方が伸びる方向とは逆になっていることもある。

36:トマン・アガ廟 1405-06年 モザイク・タイル 
外壁北側
ここだけ残っていたので、オリジナルかと思って写した。
中心へと渦巻く蔓と、そこから出る葉の方向が一致している。
花は茎に直接ついている。
ファサード右側
下の渦巻の中心から出た茎が弧を描きながら外へと伸びて、次の渦の中心に向かって行く。

27:トマン・アガ・モスク 1405-06年 モザイク・タイル
扉口上のアラビア文字の銘文
蔓から出た葉の向きを辿ると、文の始まる右の渦巻から左の渦の中へと伸びていく。
二つ目の渦巻の途中から出た蔓は三つ目の渦巻を作っている。

15:シリング・ベク・アガ廟 1385-86年 モザイク・タイル
イーワーン扉口上の銘文(部分)
左(画面外)から伸びてきた蔓が枝分かれして、右の渦巻と左の渦巻をつくっている。
ファサード左壁
植物を左右対称に表した文様帯の両側にアラビア文字の文様帯がある。どちらも装飾帯から伸びた蔓が、左右にうねりながら枝分かれして渦巻をつくっていく。

13:トグル・テキン廟 1376年 浮彫タイル
ファサード左壁
非常に繁雑な蔓草となっていて、その伸びる様子をたどることができない。

14:シャディ・ムルク・アガ廟 1372年 浮彫タイル
扉口からファサードへと移行する目立たない凹面に、書体の異なるアラビア文字の銘文が、一重に渦巻く蔓草文のトルコ・ブルーの混じった白色で表される。その渦巻は、一定の大きさのものが連なるのではない。文字と文字の間上の方に小さな渦巻が表されているが、中には渦ではなく、おおきなうねりのようになっているものもある。
左の付け柱は、2本の蔓と1本の蔓が互いに交差しては離れることを繰り返して、美しい文様をつくり出している。

24:無名の廟2 14世紀後半 ラージュヴァルディーナ
玄関上部
珍しく二重の蔓だが、撮影した角度が変なので、蔓の伸び形がわからない。

35:クトゥルグ・アガ廟 1360-61年 浮彫タイル
ファサード左壁
あまりにも高浮彫すぎて、1枚のタイルの単位がわからない。蔓草は渦巻いているが、上下には繋がっていないように見える。

37:ホジャ・アフマド廟 14世紀半ば 浮彫タイル
ファサード左壁
文字のないのは補修タイルだろう。
茎が細すぎて、葉が多すぎるので、どこから渦巻が始まり、どこへ向かっているのかよくはわからないが、渦巻は確かにある。
このように見ていて、アラビア文字の銘文と一重に渦巻く蔓草文の地文という組み合わせは、シャーヒ・ズィンダ廟群、あるいはティームール朝独特のものかと思ったのだが、サマルカンドの他の建物にもあった。
その後調べていくと、ほかにもそのような組み合わせがあり、それはイスラーム世界で一般的なものだとわかった。

イマーム・ザーデ廟ミフラーブ部分 イル・ハーン朝、1313-33年 制作地イラン、カシャーン アリー・イブン・ジャアファル作 テヘラン、イラン・バスタン博物館蔵
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、ラスター・タイルはミヒラーブにも盛ん に用いられたが、陶工として著名なアブー・ターヒルの息子ユースフ・イブン・アブー・ターヒルが制作したイマーム・ザーデ廟のミヒラーブは、最高傑作の一 つである。わずかに高く浮き出されたスルス書体のコーランの章句は、精緻な蔓草文様の地文で埋め尽くされているが、その完璧なまでに整然とした文字と文様の構成には、「天国の扉」と命名されたこのミヒラーブに相応しい崇高さを感じさせるという。
蔓の伸び方や渦巻の巻き数には違いはあるが、14世紀前半に、すでに墓廟に現れていた。
白い蔓は細く、白い小さな葉を付けたり、青い花を咲かせたりしている。蔓もあちこちで分かれ、どれが主茎の先端かがわからない。蔓草文様が地文ではあるが、その余白には白い点々がびっしりと描き込まれていて、中国や日本で見られる、細かい魚々子を地文とした唐草文にも通じるような作風だ。

コーニスの浮彫タイル 13世紀 イラン考古学博物館蔵
ダビデの星のような文様を組紐で表し、それを円で囲んだものとその上から出た蔓草が地文になり、主文にアラビア文字が表される。
ここでは蔓草は渦巻かず、幾つにも枝分かれして、三つ葉を出したり、蔓の先に花を咲かせている。

ラスター彩唐草文字文フリーズタイル断片 イルハーン朝、13世紀中葉-1275年頃 イラン出土 29.8X31.5X2.8㎝ 個人蔵
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、この時代のフリーズタイルには、ラスター彩やラージュヴァルディーナで、地文に植物文や鳥、小動物を描き、浮彫で銘文を表したものが多い。
断片だが、後補や補彩がなく、当初の色彩やラスターの光沢を保っている。ペルシア語銘文は解読困難という。
細い一重の蔓草は、ところどころに葉を出し、蔓が分かれながら、渦の中心へと伸びている。面白いことに、その中に鳥や獣が登場している。


青釉文字文フリーズタイル セルジューク朝、12-13世紀 23.9X33.4X1.5~3.0㎝ イラン出土 個人蔵
同書は、セルジューク朝時代末期から色鮮やかな青釉タイルが多くなった。これは石英分の多い、粒子の荒い白い胎土にアルカリソーダ系の釉をかけて、含まれる銅の成分を青く発色させたもので、それまでの鉛釉陶器では銅は緑に発色する。
フリーズタイルは、建物の内壁で腰羽目の上縁に沿って水平に連なり、アラビア文字銘や植物文などを連続的に表したという。
1枚の細い葉を出しながら、伸びた蔓はくるりと巻き、そこに花を咲かせている。途中から枝分かれして反対向きに巻いてそこにも花がある。


大モスクタイル装飾 1158-60年 イラン中部アルディスタン
『イスラーム建築の世界史』は、植物文様の中に、文字文様の部分だけに青いタイルを用いる。トルコ・ブルーは銅を含む釉薬をかけて低温焼成することで発色する。当初は煉瓦地に、釉薬をかけた青いタイルが部分的に挿入された。次第に鉛で発色する白色も使われる。煉瓦に浮彫を施し、高い部分に釉薬をかけると、彫り削られた部分が陰影となり、鮮やかな色彩が浮き出す効果をもつという。
ここでは渦巻はなく、蔓草ですらない。いや、葉が多いために見逃してしまったが、図右中程の草から下に伸びた葉が、文字の下の空間で蔓らしきものとなり、丸い実のようなものからまた葉をたくさん付けている。それに、小さいながら葉の先がくるりと巻いて、渦巻とも見える。

コーラン部分 セルジューク朝、12世紀 制作地イラン 着彩 紙 メトロポリタン美術館蔵
『世界美術大全集東洋編17イスラーム美術』は、コーランの装飾には、さらに工夫が凝らされるようになり、文様絵画であるダズヒーブは複雑になった。文様は、本文の上下左右の余白を埋め尽くし、ほぼ全ページがダズヒーブで埋め尽くされた装飾ページも描かれた。ダズヒーブの大胆な幾何学文様と、その中を充填する精緻な幾何学文様がバランス良く組み合わされ、豪華なダズヒーブが構成されたという。
下の行には文字の間に蔓草文が描かれ、しかも蔓が巻いた中には大きな蕾。
上の行にも蔓草文の他に、限られた空間には渦巻の中に鳥がいたりする。
それらはコーランの文章の地文なのだが、更にその文様の隙間を、くりくりと巻いた文様がびっしりと埋め尽くしている。

銀盤 イラン・セルジューク朝、1066年 制作地イラン ニエロ 高さ6.6径43.8㎝ ボストン美術館蔵
『世界美術大全集東洋編17イスラーム美術』は、この銀盤は、打出技法で器形が造られ、それから線彫とニエロ技法を用いて装飾が施された。中央にはクーフィー書体でスルターン・アルスランの名前が彫られている。彫りは浅いが、ニエロを使い黒い地に仕上げているので、銀色とのコントラストが文様を浮き出させているという。
葉の多い3つの蔓草が渦巻いている。

コーラン 11世紀 制作地イラクまたはイラン 着彩 紙 プリンス・サドルッディーン・アガ・カーン・コレクション
『世界美術大全集東洋編17イスラーム美術』は、このコーランは、イラン風のクーフィー体で書かれている。その地文は小さな渦巻が密に描かれているだけで、蔓草文にはなっていない。
蔓草の地文とアラビア文字という組み合わせは、11世紀にはまだなかったのかも知れない。

せっかくなので、イスラーム美術で蔓草文を遡っていくと、

ムシャッター宮殿外壁 ウマイヤ朝、8世紀前半 石灰岩 ヨルダン ベルリン国立博物館イスラーム美術館蔵 
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、イスラーム世界で文様は、まず建築の装飾の手段として展開した。初期には、まだイスラーム独自の文様はなく、アカンサス、パルメット、葡萄、石榴、翼など、イスラーム以前の古代ギリシア・ローマ美術、ビザンティン美術やサーサーン朝美術などの伝統文様を借用していた。それらの文様のモティーフは、時には写実的に、時には多少形式化した形態で、蔓草文様、帯状文様、または充填文様として構成された。ムシャッター宮殿外壁は、イスラーム以前の諸美術の文様が共存している典型的な作例であるという。
大きな鋸歯文には、一重の蔓草が渦巻く文様が地文となっている。これはアカンサスの葉から出た蔓草が渦巻ながら左右に伸びていくという、前4世紀前半に遡る後期クラシック期にその萌芽が見られる唐草文が変遷し、伝播していったものが、この地で受け継がれてきたものだろう。
葡萄唐草には動物や鳥がおり、天上の楽園を表しているのだろうか。


岩のドーム ウマイヤ朝、687-692年 エルサレム
『イスラーム建築の世界史』は、ハディースには、ムハンマドがある夜、遠隔地(アクサー)の礼拝堂に導かれ、天馬にまたがり天国への旅に出かけたとあり、遠隔地の礼拝堂とはエルサレムの神殿の地であるとされる。夜の旅をイスラー、昇天をミーラージュと呼び、地上から天に向かってムハンマドが飛び立った岩がエルサレムのソロモン神殿の跡地の岩だとする。
イスラーム軍はエルサレムを638年に征服、カリフ・ウマルはエルサレムに赴き、ソロモンの丘でその聖なる岩を発見、傍らで礼拝したといわれ、矩形のモスクが建立された。ウマイヤ朝期に、カリフ・アブドゥルマリクが聖なる岩を囲う岩のドーム(691年)を、彼の息子のワリードがアクサー・モスク(705-15年)を建設する。
岩のドームは、聖なる岩を覆う直径20mを超えるドームを架け、二重の周廊で取り巻き、全体を八角形平面に納める。これには集中式教会堂との類似性が指摘されるという。

同書は、最初のドームは木造で、船大工の技術が使われた。ドームの内側には煌めくガラス・モザイクの装飾が残り、アラビア語で銘が記されている文字を通して意図を伝える装飾化された文字文様は、幾何学文と並んでイスラーム装飾の基本となるという。
幾つかの蕾から出たアカンサス唐草が壁面に隙間なく繁茂している。
金地のモザイク自体がキリスト教の教会堂を荘厳するものだった。しかも、アカンサス唐草で壁面や床を装飾するのは初期キリスト教会にもあり、更に言えば、キリスト教以前のローマ時代にも見られる。
ドームの下辺にはアラビア文字の銘文を、赤や緑の葉の出た蔓草文の文様帯が表されている。
アラビア文字の銘文の地文に蔓草文が入り込むのは、自然なことだったのかも知れない。

関連項目
シャーヒ・ズィンダ廟群3 アミール・ザーデ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群4 トグル・テキン廟
シャーヒ・ズィンダ廟群5 シャディ・ムルク・アガ廟


※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「イスラーム建築の見かた」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店

一重に渦巻く蔓草文の起源はソグド?

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サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群で、アラビア文字の銘文の地文に一重に渦巻く蔓草文が使われていることに興味をもった。

トマン・アガ廟 1405-06年 モザイク・タイル 外壁北側
中心へと渦巻く蔓と、そこから出る葉の方向が一致している。
花は茎に直接ついている。

前回はそれをイスラーム美術で遡っていって、エルサレムの岩のドームに辿り着いたのだが、実際に蔓草文が一重に渦巻いていたのは、イル・ハーン朝期のものだった。

ラスター彩唐草文字文フリーズタイル断片 イルハーン朝、13世紀中葉-1275年頃 イラン出土 29.8X31.5X2.8㎝ 個人蔵
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、この時代のフリーズタイルには、ラスター彩やラージュヴァルディーナで、地文に植物文や鳥、小動物を描き、浮彫で銘文を表したものが多い。
断片だが、後補や補彩がなく、当初の色彩やラスターの光沢を保っている。ペルシア語銘文は解読困難という。
細い一重の蔓草は、ところどころに葉を出し、蔓が分かれながら、渦の中心へと伸びている。面白いことに、その中に鳥や獣が登場している。

うっかりしていたが、それ以前に一重に渦巻く蔓草文はあったのだった。
しかも、地文として使われているのだが、主文はアラビア文字の銘文ではなく、なんと猟犬だった。

壁画断片 カラハーン朝(10-12世紀) 宮殿出土 サマルカンド歴史博物館蔵
疎らに小さな葉を付けた蔓草文は、蔓が細く優美。
それを背景に、左向きに犬が駆けている。赤い方は尾が長く、後ろの方は耳が垂れている。どちらも首輪を付けた猟犬のよう。

壁画断片 カラハーン朝(11-12世紀) 宮殿出土
ここでは細い蔓草文を背景に、白い犬が駆けている。首の辺りの毛が長いので、首輪は見えない。
連珠文の上の青いものはくアラビア文字、そして上端にちらっと顔を出しているのは、どうやら蔓草らしい。この時代、すでに一重に渦巻く蔓草文はアラビア文字の銘文の地文だったのかな。
それでも下の犬の地文に描かれた蔓草文の方が、葉がしっかりと描かれているのは、カラハーン朝以前にこのような文様があった可能性を示しているのでは。

アフラシアブの丘で発掘されたイッシュヒッド宮殿(7世紀中葉-後半)謁見の間のは四壁に壁画が表されている。それぞれ、場面の下に連珠文、その下に力強い唐草文の文様帯がある。その茎は何本かがぐるぐると渦巻いているように見える。
そして、上の場面では、右の人物の足元に、犬のようなものが描かれているように見える。
ひょっとすると、カラハーン朝の蔓草文と犬の組み合わせは、ソグドに遡るかも。
そして、一重に渦巻く蔓草文を地文にすることが、中央アジアに広く伝播してうったのかも。

          アラビア文字の銘文には渦巻く蔓草文がつきもの

関連項目
アフラシアブの丘 サマルカンド歴史博物館3

イーワーンの上では2本の蔓が渦巻く

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サマルカンドでは、モスクや墓廟の扉口上部やファサードの壁面に表されたアラビア文字の章句の地文に、一重に渦巻く蔓草文が表されていたが、イーワーンの上左右の三角の壁面には、2本の色違いの蔓草が渦巻いていた。

シャーヒ・ズィンダ廟群
1:表玄関 15世紀 モザイク・タイル

円花文から出たオレンジ色の蔓草の渦巻の間にトルコ・ブルーの蔓草が入り込んで等間隔で渦巻いている。

13:トグル・テキン廟 1376年 大判絵付けタイル
円花文から出た白色渦巻く蔓草の間にトルコ・ブルー蔓草が入り込んで、等間隔に渦巻いている。しかも、白色を使っているせいか、非常に躍動感がある。

15:シリング・ベク・アガ廟 1385-86年 モザイク・タイル
大花文を囲む蔓から、同じ色の蔓が左右に出る。左の小さいものも、右の大きいものも、途中からトルコ・ブルーの蔓草を出し、少し渦巻いている。

ビビ・ハニム・モスク、主門 1399-1404年 絵付けの補修タイル
絵付けタイルなので修復されたものと思われるが、建物が大きいだけに渦巻の数も多い。
白色の渦巻く蔓草の間に、トルコ・ブルーの蔓草が入り込み、等間隔で渦巻いている。 

グル・エミール廟 1404-05年

主門上部 絵付けの補修タイル
円花文から出た白色の蔓草は左右に渦巻きながら広がり、その間をトルコ・ブルーの蔓草が埋めるように渦巻いている。
開口部上 モザイク・タイル
円花文外側の緑の部分を突き抜けて、白色の蔓草とトルコ・ブルーの蔓草が等間隔で渦巻いている。

レギスタン広場

ウルグベク・メドレセ 1414-20年
イーワーン上 モザイク・タイル
突起のある大花文から、その輪郭と同じ色の蔓草が左右に渦巻きながら伸び、地文のトルコ・ブルーの蔓草も渦巻きをつくっているが、どたちらも互いの渦巻の中で、等間隔で渦巻くことはしない。
北イーワーン モザイク・タイル
10弁の大花文と同じ色の蔓が数本、渦巻くことなく左右に伸び、枝分かれしていく。その地文に、やはり渦巻くことのないトルコ・ブルーの蔓草が枝分かれしながら空間を埋め尽くす。

シルドル・メドレセ 1636年
イーワーン上
トルコ・ブルーの蔓草は白い花や蕾をつけながら枝分かれした地文と化し、右下から伸びたオレンジ色の蔓草は、ライオンの後肢を囲み、ライオンの鼻先で大きな渦を巻く。蜜に渦巻くことに執着していない。

ティリャカリ・メドレセ 1647年
イーワーン上
トルコ・ブルーの蔓草は渦巻ながら枝別れして次の渦巻をつくっていく。
一方、花文やそれに付属するアラビア文字のあるカルトゥーシュや小さな花文から出た白色の蔓は、大きくうねりながらトルコ・ブルーの蔓草の描く渦巻の中に入り込んだり、或いはその外側で弧を描いたりする。
その上、黄色の蔓草は大花文左斜め下の小円花文の先から左右対称に伸び、枝分かれしながらトルコ・ブルーの蔓草の渦巻の中に入り込んだりする。




どうやら、2色の蔓草が一つの渦の中で等間隔で渦巻くというのは、限られた時期のものらしいことが、このようにまとめていてわかってきた。
しかしながら、渦巻くことがなくなっても、複数の色の蔓草が伸び伸びと表されるこのようなタイル装飾は、ウズベキスタン独特のものではないだろうか。

「田上惠美子ガラス展~すきとおるいのち~」はきのわで

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田上惠美子氏の、きのわでの個展の案内を戴いた。

実はこの画像を、田上氏の作品というよりも、撮影した人の作品として魅入ってしまった。金属(ステンレス?)の板に載せたのか、背景にしてぶら下げて撮ったのか、よくはわからないのだが、やや右方向から撮影しているので、手作りの金属(銀?)の少しずつ大きさや形が異なる輪っかが、板にも少しずつ異なる姿を映している。見続けると消えてしまうのではないかと思うほどの儚さがある。
などと思って視線を下に移すと、そこには内に金の輝きを内包した、田上ワールドの小宇宙が!
当たり前だが、田上氏の作品が主役である。
こんな絵葉書をもらえるとは嬉しい!

田上氏の個展にお邪魔すると、案内状だけではわからない、新たな作品群がj待ち受けている。
そして、今回は料金別納のところにも田上氏の作品がある。画像が小さいので、拡大してみると、八弁花文の截金のような文様のある瑠璃色のトンボ玉。指輪だろうか、留め具の手作り感が金箔の線の掠れたのと良く合って、ええ雰囲気。
「~すきとおるいのち~」と文章の間にも、それぞれ別の色のガラスと、金箔とレースガラスの筒状のトンボ玉が置かれている。それぞれの下に映った影は全部は取り込めなかったが、こちらも拡大してみた。
端っこの小さなプチプチもかわゆいなあなんて、一言で表現するのでは済まない苦労が、この一つ一つにはあるのだろうな。全て一度に付けてしまわないと、溶けて表面張力で平たくなってしまうのでは。

2015年9月2日-8日とは、えらく短期間やなあ。

         田上惠美子氏硝子展はあべのハルカスで


雲崗石窟の忍冬唐草文

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かなり以前に軒平瓦の忍冬唐草文を調べていて、長広敏雄氏が分類した忍冬唐草文が、どの窟のどんなところにあるのかが気になっていた。
それについてはこちら
雲崗石窟のパルメット系唐草文の方が古いが、中央アジアの蔓草文に興味をもったこの機会に、せっかくなのでまとめておこう。

『日本の美術358唐草紋』(以下『唐草紋』)は、中国石窟寺院の唐草紋を研究した長広敏雄は、雲崗石窟のパルメット系 唐草紋を羽状唐草、並列唐草、環つなぎ唐草の3群に分類した(『雲崗石窟』京都大学人文科学研究所 1951)。前2群に共通するのは、三葉もしくは四葉の半パルメット、すなわち五葉あるいは七葉の全パルメットを折半したものを単位紋様とした点であるという。

1群:羽状唐草
『唐草紋』は、半パルメットの波状唐草には2種類あって、波状の茎を主軸とし、その山と谷にS字形に彎曲した三葉半パルメットをつけた形式、および半パルメット葉の先端から次の半パルメットが吹き出るように生じて、波状に展開するものとであるという。

第7窟後室西壁第3層仏龕 雲崗中期(470-494)
第3層と4層の境界となる文様帯に1のタイプの反対向き偏行唐草文

第13窟南壁第2層西側 雲崗中期
台座は2のタイプ

第9窟後室南壁東側 雲崗中期(470-494)
台座は3のタイプ、光背は6のタイプで、台座下中央に三葉パルメットがあり、左右に半パルメットが波状にのびている。しかし、下の偏行唐草には中心となる三葉パルメットがないのでタイプ2となる。

2群:並列唐草
『唐草紋』は、波状の茎がなく、S字形の半パルメットを連接させながら並べてゆく単純な構成のもの。これにも2種類あって、下向きの半パルメットが連続している偏行唐草と、中央に全パルメットを配し、そこを起点に左右対称に上向きの半パルメットが連続する均整唐草とである。この類は中央アジアにはみられない中国独自の唐草であることから、伝統的な雲紋との融合を説く論者もいる。雲崗石窟では第1期に属する16-20窟と7・8窟にのみ認められ、第2期にはより複雑な波状唐草、輪つなぎ唐草へと変わったという。
第9窟前室北壁第3層東側
上側は8のタイプだが、環内の文様の中央が三葉パルメットになっていない例、下側は4のタイプ。
第20窟未来仏 曇曜5窟(雲崗初期)
右耳の高さの唐草文は6のタイプのよう。
右目の高さから左にかけては5をひっくり返したタイプが、左右逆の巻き方となっている。頭頂部は『中国石窟雲崗石窟2』の図版では、半パルメットが向かい合って、全パルメットとなっている。
第17窟過去仏 雲崗初期
6のタイプだが、半パルメットが長く伸びている。頭頂部で向かい合った半パルメットが全パルメットをつくり出している。
第7窟後室南壁門拱上側 雲崗中期(470-494)
6のタイプの典型
第9窟前室弥勒菩薩像光背 雲崗中期
6のタイプが着色によって輪郭が強調されている。
第12窟前半西壁 雲崗中期
6のタイプの略された文様のよう。

3群:環つなぎ唐草
同書は、環つなぎ唐草は、輪郭内に色々なパルメットを納めたもので、交差する2本の茎のリズムを基調にした波状唐草系(7)と、単に環形を並べただけの並列唐草系(8)とがある。後者には三葉半パルメットを2個向き合わせて環を形成した例がある。なお、横に伸びる横帯式と縦に連なる縦帯式の二様があるが、基本は変わらない。環のばあいは内部に別のモティーフを配しやすいのであろう、仏像、天人、瑞鳥などをおさめた例が多い。六角形に構成すると亀甲紋に通じるという。
第10窟前室西壁第3層の下 雲崗中期
第3層は交脚菩薩像と両脇侍の菩薩半跏像とを隔てる角柱に環つなぎ唐草が縦に配列され、複弁蓮華文の文様帯で分けられた下層の天蓋に、8の並列唐草系三葉パルメットの環つなぎ唐草文がある。
第6窟後室東壁南側 雲崗中期
8の並列唐草系に、Y字形が入り込み、環の内部を3分割する。上側のパルメットは極端に小さい。
Yの両腕は環の外に伸びて、文様帯の上辺で交わる。横に並ぶ亀甲繋文を部分的に表しているようにも見える。
第10窟後室南壁拱門 雲崗中期
柱には8の変形が縦帯式に並び、環の内部には鳳凰や龍のようなものが入り込む。
框の下側は浅浮彫の天人と、高浮彫の化生童子が交互に配されるが、それらの背景となる唐草文は8のタイプの変形とみることができる。
上部の唐草文は2のタイプで、そこには様々な鳥が表されている。
7のタイプは見つけられなかった。

また、蔓の主茎が波状に上下しながら、それぞれの空間に蔓が弧状に別のモティーフを巻き込む、いわゆる唐草文もある。

第11窟南壁第2層西側仏龕 雲崗中期
二仏並座像の仏龕龕眉には、正面を向き合掌する化生童子を中央において、その頭光あたりからでは茎が小さな三葉の半パルメットを出しながら、それぞれの蔓の先に化生童子を出現させるという唐草文様となっている。
写真に文献名のないものは、雲崗石窟で撮影した写真です。


関連項目
日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦

※参考文献
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「中国石窟 雲崗石窟2」 雲崗石窟文物保管所編 1994年 文物出版社
「雲崗石窟」 山西雲崗石窟文研所・李治国偏 1995年 人民中国出版社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
 

サマルカンドのアク・サライ廟に井桁状のアーチ・ネット

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サマルカンドの9:グル・エミール廟近くには15:アク・サライ廟があった。

アク・サライ廟
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、アク・サライ廟(白い宮殿)は、グル・エミール廟の南東、旧市街の宅地にある。仮説では、この建物はサマルカンドに住んでいたチムール族のある男性のための廟であり、イシュラト・ハナ廟と同時に建てられたものであるとされている。1460-70年代に、チムール族の資力を尽くして建築された。2つの廟の建設主はねアブ・サイドであったという仮説もあるという。
同書は、グル・エミール廟と比較すると、アク・サライ廟は質素である。大きなものではないが、複雑な構造をしている。この建物は、十字状の追善教義のホール、角の僧房、3つの部分に分けられたホールからなっていた。建物の地下には、大理石で外装された八面体の柩があるという。

『イスラーム建築の世界史』は、キリスト教建築との関連による技法の進化は、アーチ・ネットにも現れる。12世紀前半にペルシアに導入された時、アーチ・ネットは天井に多く使われていたが、次第に、移行部に使う、二重にする、井桁状にする、などさまざまな事例を発展させ、ティムール朝期には、移行部の技法の主流としての位置を占めるという。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、ドームの骨は、縦断アーチと楯状のカンバスに支えられている。壁の基礎には、上薬をかけたモザイクのタイルが残っているという。
かなり修復の手が入っているとはいえ、モノクロで見るのとカラーで見るのとで、こんなに違うとは。こんなにギャップがあっても見学できた方が良かったのか、しない方がよかったのか・・・
それでも井桁状のアーチ・ネットはよくわかる。その上にスキンチがあって八角形に、十六角形、ドームと移行していく様子も。アーチ・ネットの間にムカルナスもある。

『イスラーム建築の世界史』は、その影響は、ティムール朝の領域を超え、オスマン朝のチニリ・キョシュク(1472年)やインドのバフマン廟(1423年)へも波及する。
こうした中で、ティムール朝の室内と外観が極端な乖離を見せる二重殻ドームが成立すると、次第に天井が低くなる。その一方で、井桁状のアーチ・ネットを用いることによって、室内が広くなるという。

イスタンブールのチリニキョスク断面図を見ると、中央のイーワーン状のところが井桁状のアーチ・ネットのよう。しかし、断面図は建物の中央部のものなので、主ドームの写真がなく、残念。
それにしても、平面図はアク・サライ廟によく似ている。こちらは墓廟ではないが、主室が十字形になってドームを戴き、十字の袖に4つの部屋を配置するという定型化された建物自体がオスマン朝へと伝わっていったのでは。
でも、井桁状のアーチ・ネットは、他にもみたような。

同書は、この井桁状のアーチ・ネットは14世紀のアルメニア教会の前室(ガヴィット)に使われている。アルメニア建築は、アナトリアのイスラーム建築からムカルナスを取り入れる反面、井桁状のアーチ・ネットを中央アジアのティムール朝建築に与えたのであろう。このように、今までは建築史を宗教別に考えることで相互関係に充分な考察が加えられてこなかった技法もあり、宗教を超えた観点に立つことによって、さまざまな交流が浮き彫りになるという。


アーチ・ネットではないが、井桁状に横断アーチが交差するガヴィットは、アルメニア教会ではもっと早くから見られる。

ガヴィット ハグバット修道院 Hagbat Vank 10-13世紀 アルメニア
教会の西側に付け加えられたガヴィットは、縦横2つずつの大きなアーチが井の字に組み合わされて、曲面の天井を支えている。
神谷武夫氏の「アルメニアの建築 写真ギャラリー」というサイト(現在は閉じられている)に 平面図があった。それによると、両端に部分的に見えているのは、南北壁に2本ずつある付け柱で、それぞれに大きなアーチが架かっている。東壁は教会への入 口両側にある付け柱から、2つの大アーチがこちらに向かっている。同書の別の写真でそのアーチを2本の柱が支えている。この空間には独立した柱はその2本 だけである。
このように大きなアーチ4つで天井やドームを支えていたアルメニア建築が、西方から伝播したイスラームのアーチ・ネットと出会うことで、井桁状のアーチ・ネットが誕生したのだろう。

関連項目
サマルカンドで街歩き2 アク・サライ廟を探して
アーチネットがアルメニアのキリスト教会に
カヴィト kavitはガヴィット gavitだった

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「トルコの陶芸 チニリキョスクより」 1991年 イスタンブール考古学博物館
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「アルメニア共和国の建築と風土」 篠野志郎 2007年 彩流社

ルハバッド廟にロマネスク様式教会のような控え壁

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サマルカンドで街歩きをして、ルハバッド廟は思い出深い建造物となった。
それについてはこちら

南側
こぢんまりしているが、ドームへの移行部もよく見えるし、すっきりとした外観である。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、現在まで残っているドームは内部のドームであり、このドームの上に外部のドームがあるはずである。しかし、外部のドームは残っていないか、または何らかの原因で、ドーム建築が途中で停止されたようであるという。
もっと高いドームが載っていたのだった。

南東より
南扉口に1つ、東扉口に2つという、変則的な控え壁(バットレス)があるのが不思議である。
ひょっとすると、その大きな、重いドームの荷重を支えきれずに、南側や東側が傾いたので、創建時にはなかった控え壁を、3箇所に付けたのかも。

東側
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、現在、この簡単な形で、ドーム状の煉瓦の建物はルハバド(悪の住居)と呼ばれるという。
何故この派手な装飾もなく、すっきりして小さな建物が悪の住居と呼ばれているのだろう?

北側
墓廟ということなら他にもたくさんあるし、それに葬られている高僧ブルハン・アド・ディン・シガリジを慕って、今でも早朝からお参りに来る人たちがいるくらいである。

西側
控え壁が見えない方がすっきりとしているが、この上に高いドームが載っていたのなら、印象はかなり違ったものになっただろう。
このように眺めていると、「悪の住居」と呼ばれているのは、控え壁(バットレス)が付いていて、外観が妙に見えるためではないだろうか。しかも、東面に2つ、南面に1つと均整がとれていない。
それにしても、他のイスラーム建築では控え壁というものを見た記憶がない。
どこからもたらされた技術なのだろう。


控え壁はコンスタンティノープルのアギア・ソフィア大聖堂(6世紀中葉)でも見られる。
アトリウム側の入口にも並んでいるが、穴の空いた箇所もあったりした。
平面図の緑色部分はユスティニアヌス帝の創建時(6世紀中葉)ではなく後世に付け足されたもので、その中に控え壁も含まれていた。
アギア・ソフィアに控え壁を付け足した時期はよくわからないが、オスマン朝よりも以前だろう。何故なら、キリスト教の大聖堂をモスクに変えたくらいなので、その修復は国の威信をかけて行ったはずで、こんな粗悪なものは造らなかっただろう。
ひょっとすると、ビザンティン帝国の衰退期に行われたのではないだろうか。
ところで、ルハバット廟とは何の関係もないロマネスク建築には控え壁というものがある。仏語ではcontrefort、この文字で検索すると、いろんな控え壁の画像が出てきます。


我が「書庫」の数少ない図版でみると、

サン・ギレーム・ル・デゼール修道院教会 1075年 仏、ラングドック
『世界歴史の旅フランス・ロマネスク』は、10世紀の前ロマネスク時代のものは、1962年に発見された地下墳墓と南側のサン・マルタンの小塔で、ついで12世紀の後半のものは、たとえば洗礼者志願室である。11世紀のギレームの聖遺骨を見せるための祭壇をめぐる回廊と2つの階段があるが、前ロマネスクの時代は後陣が二重になっていた。それは9世紀のスペインのいくつかの教会と似ているという。身廊と側廊が完全にできたのは1075年であった。
身廊は高さ16mで壮大であるが、ほとんどなんの装飾もないので、ちょうどカタルーニアのサン・ビセンテ教会のように簡素で心がまっすぐ内陣に向かい、信仰が純粋に高まるような印象だ。交叉リブは北ラングドック地方では最古のものである。ここは、後陣祭室は3つで、中央がもっとも大きい。梁間の窓と後陣上部の十字架形窓と左右の内窓からの光がみなぎる。
祭室の外にでて、振り返るとその教会の異様な大きさに驚く。上部を円く取り巻く半円アーチの18の柱廊のリズム感が美しい。下の2つの窓の回りの柱頭彫刻の蔓草文様はモズ・アラブ風であったという。
モズ・アラブはスペイン語ではモサラベ。イスラーム統治下でも、自分たちの信仰を守り、イスラーム美術の影響を受けたキリスト教徒の美術様式のこと。唐草文だけでなくモサラベ様式も興味があるが、この図版からはその柱頭の詳細はわからない。
平面図でみると、後陣祭室の外壁は1076年以降に造られたらしい。控え壁は祭室と比べても、かなり大きなものが突き出ている。

外観では、ルハバッド廟にやや似ている教会も。

ペロス=ギレック教会 ブルターニュ
同書は、現在の教会は外から見ると、ずんぐりとしたかたちで、現代になってつけた鐘楼があり、見た目には美しくないという。
正方形の壁面にドームが載ってはいるが、なんと現代のものという。
それでも、木に隠れているが4本見える控え壁は古様な印象を受ける。
平面図を見ると、14世紀に建造されているので、身廊などにロマネスク様式のものが残っているとはいえ、世はすでにゴシック様式の真っ盛りで、控え壁から飛び梁(フライイング・バットレス、仏語では arc-boutant)だったはず。それにしては古様を保って、ずんぐりとええ感じ。

本をいろいろ引っ張り出して開いてみると、このままロマネスク様式の建築に惹き込まれてしまいそう。
ともあれ、イスラーム世界では、東で誕生したムカルナスが西へ伝わっているし、西で生まれたアーチ・ネットも東へと伝播している。それだけでなく、アルメニア教会にもイスラームの要素が、そして、アルメニア教会の技術がイスラーム建築にも採り入れられている。
ルハバット廟の控え壁が、それを築いた当時の人の独自の発想だったのかも知れないが、ロマネスク期の壁面を支える控え壁の技術も、どこかから伝わっていった可能性もあるのでは。


関連項目
サマルカンドで街歩き3 ルハバッド廟1
サマルカンドで街歩き4 ルハバッド廟2

参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「ヨーロッパ中世の旅」 饗庭孝男 1989年 グラフィック社
「世界歴史の旅 フランス・ロマネスク」 饗庭孝男 1999年 山川出版社

アク・サライ宮殿の門 タイルの剥落

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シャフリサブス、アク・サライ宮殿(1380-96年)門西側の塔は、タイルの色が濃い下の方がオリジナルで、上の方が修復タイルだろう。ほぼバンナーイで装飾されている。
バンナーイについて『イスラーム建築の世界史』は、ティームール朝盛期に、急速に大建築を量産する中、 タイル技法は絵付けタイルとモザイク・タイルに収斂していく。建物の軀体部と被覆部が分離し、建物各所がタイルで覆われるようになると、次第に矩形の土色 のタイルと色タイルを組み合わせるハザール・バフ(バンナーイー)と呼ばれる技法が主流となり、大柄な幾何学文様が建物のファサードを覆い尽くすという。
バンナーイは大きな文様に仕上がるので、細かく色タイルを形に刻んで作り上げた植物文のモザイク・タイルなどよりは、遠くからでも文様が見える。
ここでは、コバルトブルーで卍文を組み込んだ幾何学文、その中にトルコブルーで表したアラビア文字はアッラーなどの短い文字列を繰り返している。
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』には今まで見たことがないようなタイルが載っていた。これがどこを写したものかわからないが、上図版の一番下に同じようなタイルが残っている。しかし、自分の撮った写真でみると、すでに失われていた。
このタイル技法は、輪郭線よりも色のある箇所が凹んでいるので、クエンカではないだろうか。
『世界のタイル・日本のタイル』は、8世紀半ば以降、イベリア半島南東部を支配したイスラーム教徒によって、新しい製陶技法がヨーロッパ大陸にもち込まれた。15世紀後半には、油性顔料で輪郭線を描くクエルダ・セカ技法が、続いてクエンカと呼ばれる技法が伝わった。
クエンカ技法は、型を使い、輪郭を残して文様部分を凹ませ、この凹部に色釉を詰めて焼成するもの。モザイクに近い効果が得られるという。
最も手間がかかるとされるモザイク・タイルの文様を、簡便に大量生産するための新たな技法ということになるのかな。
アク・サライ宮殿ではそれが1380-96年に現れているが、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群では、アミール・ザーデ廟(1386年)に使われている。どちらが先か微妙。  

門の内側はタイル装飾がよく残っている。

大アーチ下の壁面
絵付けタイルが多く見られる。下の方のタイルの剥がれた箇所に、六角形のタイルの痕跡が並んでいる。
六角形タイルとその剥落した跡
同じ文様の六角形のタイルを並べているのではなかった。同じ文様のタイルもあるが、数種類の絵付けタイルを組み合わせてこの唐草文とも言えない植物文をつくっている。

左手の壁面はモザイク・タイル。何故わかるかというと、その小さな部品がところどころ剥落しているから。
アラビア文字の銘文には一重に渦巻く蔓草が2列地文になっている。
それについてはこちら
中央に大きな緑の花文を配し、そのまわりにはトルコ・ブルーの蔓草が繁茂し、黒い花弁状に縁取られた枠の外にまで伸びている。それはほぼ左右対称のように見えるが、剥落箇所が多いので、断定はできない。

螺旋状の付け柱を回ると小壁面が現れる。
モスクのイーワーンにも螺旋状の装飾があったが、このようなものは、衣装の縁飾りなどに用いられるものを借用したのかも。
付け柱もモザイク・タイルで、やはり部分的に剥落が見られる。
螺旋の下部
何故部分的に剥がれるのだろう。青や緑の色タイルは比較的残っているが、どの色が剥がれ易いのだろう。
その基礎には一重に渦巻く蔓草を地にアラビア文字が表されている。剥落の跡に白いものが盛り上がっているのが見られるが、これは塩だろうか。
また、色タイルが剥がれているのではなく、タイルの目地から塩分やそれを含んだ漆喰が膨張して表面に出てきたのかも。
更に下の花瓶のようなものは、もっと盛り上がりが強くなり、粉を吹いたような跡も見られる。
上の方が傷みが少ない。
中には、一体何が起こったのだろうというようなへこみがあったりする。
このような剥落の仕方は、色タイルの細さとか小ささによるのでは。


東の内側の同じ部分。こちらの方が面積的にはよく残っているが、部分的に剥落した箇所が多い。
付け柱に近い壁面中程
モザイク・タイルは、色タイルを部品の形に削り、裏側を削って小さくし、ある程度の大きさに裏向けに組み合わて漆喰で固め、それを壁面に貼り付ける。
ここでは幾何学文の部品に成形されたタイルが、その漆喰から剥がれ落ちたが、漆喰そのものは壁面に張り付いたままになっているため、当時の色彩はわからなくても、文様は復元できそう。
その下方でも、植物文様のモザイク・タイルがかなり剥落しているが、やはりそれを固定していた土台となる漆喰は残ったために、このような輪郭だけを浮彫りしたような跡がある。
その下側では、漆喰と共にタイルも剥落してしまっている。

付け柱横では、等間隔で横に段ができている。
モザイク・タイルはある程度の大きさにしたものを裏から漆喰で固定する。その一つ一つを貼り付けた隙間から塩分が浸み出て、このように等間隔に深く剥落するのだろうか。

このようにタイルが剥落するのは、塩分が地中から昇ってきたために漆喰が膨張したというのも大きな原因ではないだろうか。
その証拠は塔の基礎で見ることができる。

中央アジアに行くと、古い時代に海だったので、地中に塩分が残っていますという話をよく耳にする。その塩分と乾燥した強烈な暑さが、シャイバニ族の破壊を免れた宮殿の門に残る貴重なタイル装飾を蝕んでいる。


関連項目
世界のタイル博物館5 クエルダ・セカとクエンカ技法
アラビア文字の銘文には渦巻く蔓草文がつきもの

参考文献
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 アレクセイ・アラポフ 2010年 
「岩波セミナーブックスS11 イスラーム建築の世界史」 深見奈緒子 2013年 岩波書店

ハフト・ランギーの起源は浮彫タイル

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もう10数年前のことになるが、タイルに興味を持つようになった。
その頃、岡山市立オリエント美術館で特別展や講演会などがあり、ある程度の知識は得られた。
そして、色タイルをそれぞれの形に刻んで組み合わるという手間のかかるモザイク・タイルによる壁面装飾を、より簡単にできるものとして、ハフト・ランギー(クエルダ・セカ)という技法が発明されたのだと、長い間思っていた。
ところが、今回ウズベキスタンの旅をまとめるためにタイルについて調べているが、どの本にもそのようなことは書かれていなかった。私の妄想だったのだ。

『砂漠にもえたつ色彩展図録』で深見奈緒子氏は、モザイク・タイルとは、一色の釉薬をかけた板状のタイルを焼き、それを細かく刻んでモザイクのように組み合わせて文様を作る技法である。この技法はペルシア語でモアッラグと呼ばれ、下絵付 けタイルやハフト・ランギーとは異なり、タイルを切り刻んで修正するという工程が付け足される。言いかえれば、下絵付けやハフト・ランギーは陶器にも同じ 手法が見出されるが、モザイク・タイルは陶製品を用いた建築特有の手法といえるのであるという。

シリング・ベク・アガ廟(1385-86年)
同書は、シャーヒ・ズィンダーにイランで熟成した植物文のモザイクタイルが出現するのは1372年建立のシーリーン・ビカー・アガー廟が最初であるという。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、シャディ・ムルク廟の向こうに、1386年に亡くなったアムール・チムールの妹シリン・ベク・アガの廟があるというので、一応1385-86年としておく。
ほぼファサード全面がモザイク・タイルで覆われている。しかも、完成度の高いデザインと技術で。

そして、ハフト・ランギーの初現について同書は、何といっても注目せねばならないのは、ハフト・ランギー技法の出現で、先のサファヴィー朝技法の先駆けとなった。その初例は管見の限りシャーヒ・ズィンダーに見受けられる。
サファヴィー朝の首都イスファハーンに建立されたマスジディ・シャーでは、ほぼ20 ㎝角のタイルに、青を基調に空色、緑、白、黄、黒などの彩色がなされており、この技法を現代イランのタイル職人たちはハフト・ランギーと呼ぶ。ハフト・ラ ンギーとはペルシア語で七色を意味し、となりあう色と色が交じり合わないように、まず境を溶剤で線描し、線に囲まれた面に色を発する釉薬を挿して焼き上げ る方式であるという。

ウスト・アリ・ネセフィ廟 1360-70年
シリング・ベク・アガ廟よりも早い時期にハフト・ランギーは出現していた。
これがごく浅いが浮彫になっているのには、後の時代のクエルダ・セカを見ていた者には奇異に感じた。
それについてはこちら
ところで、この大きな画面輪郭いっぱいに表された意匠はなんだろう。花瓶のようにも見えるし、柱礎のようにも見える。その内側には生命の樹が描かれているのかな。
拡大してみると分かり易いが、例えば左上、地のコバルトブルーよりもトルコブルーの線は盛り上がっていて、黄色い線よりも高いし、少し下の赤い部分はトルコブルーの輪郭よりもくぼんでいる。

ウスト・アリ・ネセフィ廟にやや送れて建造された廟には、柱礎が浮彫タイルでつくられている。

シャディ・ムルク・アガ廟 1372年
玄関の上と左右に表されたアラビア文字の銘文の両下部にこの文様があるので、柱礎だっのだ。
かなりの高浮彫で植物文を表している。トルコブルーの小さな葉にコバルトブルーと白で色分けされた花。その花は色が滲んでいるようないないような。
いや、下中央に置かれた鉢のようなものは、はっきりと凹んだ線が色の異なる釉薬の間にある。
ということは、『世界のタイル・日本のタイル』が、鮮やかな色彩を用いた明快な文様が特徴のクエルダ・セカは、油性の顔料で輪郭を描いたのち、各面を色釉で塗りつぶして焼成したものである。顔料は燃えてしまうため、輪郭線が色釉の部分よりも凹んだ状態で残る。イスラーム支配下にあったスペインでも用いられ、クエルダ・セカという名称もスペイン語から生まれた。本来は「乾燥した紐」を意味するという、ウスト・アリネセフィ廟で見た最古のハフト・ランギーよりも進んだ技法が、この高浮彫の中に出現していることになる。 

シャーヒ・ズィンダ廟群で浮彫タイルの柱礎を遡っていくと、

クトゥルグ・アガ廟(1360-61年)
主文の彫りは浅いものの、やや高い浮彫で柱礎が表されている。
輪郭線の白と同じレベルで柱礎が表され、その周囲もほぼ同じレベルで、窓の中は3段ほど低いレベルでもう少し浅い彫りで植物文が表される。
このように浮彫の場合は他の部分とは隙間があるので、異なる色の釉薬をかけても、別の箇所に釉薬が滲むことはなかったのだろう。

ホジャアフマド廟(14世紀半ば)
すでに柱礎が浮彫タイルで表されている。白い花にコバルトブルーが滲んでいるような。

アミール・ザーデ廟(1386年)
ウスト・アリ・ネセフィ廟よりも時代は下がるが、凹凸ははっきりしている。これは浮彫タイルかな、それともハフト・ランギーと呼んでもいいのだろうか。


深見氏は、現存実例の希少さゆえに推論を脱することは難しいが、シャーヒ・ズィン ダーの初期の数例とトゥグルク・ティムール廟はセルジューク朝の文様積み煉瓦建築をそのまま釉薬タイルで置換えたような建築で、幾何学文が多く、部品化に 徹している。部品の中には、柱頭や大型のパネルもあり、大型の塼の文化をもつ中国との関係が想起される。シャーヒ・ズィンダー最古のクーサム・イブン・ アッバース廟が建立された1300年頃の中央アジアには、イランを中心としたイル・ハーン朝のタイル文化とは異なるもうひとつのタイル文化の中心が存在し たとは考えられないだろうかという。
確かにシャーヒ・ズィンダ廟群では浮彫という別のタイル文化があった。そして、浮彫タイルを部分的に色を変える工夫から、ハフト・ランギーと呼ばれる華やかな色彩のタイルが誕生したのだった。

関連項目
ハフト・ランギー(クエルダ・セカ)の初例はウスト・アリ・ネセフィ廟
世界のタイル博物館6 クエルダセカのタイル
シャーヒ・ズィンダ廟群16 ホジャ・アフマド廟
シャーヒ・ズィンダ廟群14 クトゥルグ・アガ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群8 ウスト・アリ・ネセフィ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群6 シリング・ベク・アガ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群5 シャディ・ムルク・アガ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群3 アミール・ザーデ廟

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館
「世界のタイル・日本のタイル」 世界のタイル博物館編 2000年 INAX出版
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館

法隆寺献納宝物の中に木造の仏像

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昔々、東京国立博物館に法隆寺宝物館はあったが、水曜だけしか開館していなくて、はるばる東京に行っても見ることができなかった。その次は水曜に合わせて行ったので、見学できたが、もう遠い記憶の向こうにある。
そのずっと後に法隆寺宝物館が谷口吉生氏の設計で生まれ変わったので、機会があれば行ってみたいと思いつつ、その機を逸してきた。
今回やっと東博に行くことができたのだが、新たに建てられた宝物館は、あいにく補修中で休館していた。

本館の平常陳列では、1体の木製の小さな仏像があった。とても良い表情の如来立像だったが、説明を見て驚いた。これが法隆寺献納宝物とは。法隆寺献納宝物の仏像はみな金銅製だと思っていたからだが、今まで見てきた小金銅仏とはかなり趣きの異なる像だった。

N193 如来立像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 木造漆箔 像高52.6㎝
『法隆寺宝物館』は、法隆寺献納宝物のなかでただ1つの木彫像。頭から台座まで1本のクスノキから作られている。飛鳥・白鳳文化期の木彫像のほとんどはクスノキから作られている。この像は7世紀後半の白鳳文化期の作という。
法隆寺献納宝物の金銅仏と比べると、50㎝を超える像というのは大きい方だ。
なんとなく猫背気味で、仏像には珍しくやや上を向いている。そして、顔に比べて小さな手は、左右逆に施無畏与印になっている。
大衣は両肩左右対称に襞を作り、右手側は胴部で結んだ2本の紐の下に、左手側は右袖の方向へ、それぞれ別の形に衣文線を描く襞が表される。衣文線とはいうものの、両側が盛り上がってその稜を刻線で表すのも珍しいのでは。どこかで見たこともあるような気がするのだが・・・
また、直立不動の姿で表されるのが普通のこの時期の立像だが、本像は右脚の膝がやや出ている。
ピンボケだが、側面から見ると猫背でもないことくらいはわかる。猫背気味に見えたのは、胸部に張りがないからだろう。
右膝が出ているために、腹部からの出っ張りが下の方まで続いているように見える。
同書は、木製の光背やそれを取りつけるための鉄製の支柱も当初のものであるという。
右側面の方はどのようになっているのかよく分からなかったが、大衣の端が左肩にかかり、柔らかなギザギザの衣端線で終わっている。
その下の大衣は、背中の中心から右脇の1点へと襞が寄っていくが、下半身では、その襞と交互になって左腕にかかった大衣の襞が、放物線を描くように、4本出ている。
このように背後の衣文まで克明に表した仏像に出会うと、その像がどのようなところに置かれ、礼拝されていたのだろうと気になってしまう。

この表情がとても良かった。そう感じたのは、仏像には珍しく、上を向き、黒目が見えるからかも知れない。
頭光の蓮弁も1枚1枚が幅広にゆったりとつくり出され、その間に表された覗花弁も花びらとわかる表現となっている。
細長い巻き貝のような螺髪は、一つ一つ取りつけたものが幾つか残っている。
後方から眺めると巻いた表現が分かり易い。

『法隆寺宝物館』には館内の写真が掲載され、それぞれの小金銅仏の名称と位置も図解されていて分かり易い。
いつの日にか、このような空間の中で、静かで豊かな時を過ごしてみたいものだ。
ところで、この木彫の如来立像はこの展示室に展観されるのかな。『法隆寺宝物館』では金銅仏のところに記事があるし。

                      →法隆寺献納宝物 如来立像の着衣さまざま

※参考文献
「法隆寺宝物館」 1999年 東京国立博物館

法隆寺献納宝物 如来立像の着衣さまざま

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東京国立博物館本館に展示されていた木製如来立像は、法隆寺献納宝物N193だった。
それについてはこちら

如来立像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 木造漆箔 像高52.6㎝ N193
その大衣は両肩左右対称に襞を作り、右手側は胴部で結んだ2本の紐の下に、左手側は右袖の方向へ、それぞれ別の形を描く襞が、右半身に表される。衣文線とはいうものの、両側が盛り上がってその稜を刻線で表されて、竹の節のよう。
大衣や裳の裾は広がるどころか、すぼまっている。

よい機会なので、東博の『法隆寺宝物館』という図録の中から法隆寺献納宝物の如来立像の着衣をみていくと、

『法隆寺宝物館』は、6世紀の前半から半ば頃、百済から日本へ仏教が伝来し、この時、金銅の釈迦像が贈られたことが『日本書紀』に書かれているが、6世紀から7世紀には朝鮮半島から数多くの金銅仏がもたらされ、日本での仏像制作に大きな影響を与えたと考えられる。日本には、三国時代に半島からもたらされた金銅仏が比較的多く残っているが、法隆寺献納宝物の3件はその代表的な作品であるという。

如来立像 三国(朝鮮)時代、6-7世紀 銅製鋳造鍍金 像高33.5㎝ N151

頭頂から足元まで全体に左右対称で、上からA字形に広がる。大きく胸元を開いた大衣の衣文もほぼ左右対称に6本ある。
その点、N193は衣文線が左右対称を崩しているので、この像よりも時代が下がることがわかる。
如来及び両脇侍立像うち如来 三国時代(6-7世紀) 銅製鋳造鍍金 像高28.1㎝ N143
裳裾は長く蓮台にまでかかる。胸元からは僧祇支と紐の結び目が見え、その下から襞が左右対称にならずに5本の襞を作っている。
N193の衣文はこの像に近いが、大衣の着方が異なる。

7世紀前半-飛鳥様式の像
同書は、7世紀前半の飛鳥文化の栄えた時期には、聖徳太子や蘇我氏とも関係があった止利仏師の工房が仏像制作の中心をなしていた。止利は、中国の北魏時代後期~東魏時代(6世紀はじめ~半ば)が源流で、朝鮮半島を経て日本に伝わった仏像の形を参考にして、神秘的で崇高な仏像を制作した。
法隆寺献納宝物には止利工房の作例が3体残されているという。

如来立像 飛鳥時代、7世紀前半 銅製鋳造鍍金 N149
両肩の大衣の衣文が左右対称に表される。胸元に僧祇支と紐をのぞかせ、左手にかかる大衣は後方に流れる。
大衣の右端は内側に隠れ、U字形の衣文線がl両袖の間に並ぶ。
N193は肩にかかる大衣の衣文線や紐の結び方が似ているが、この極端な左右対称性は失われ、裳裾も襞を表さない。

7世紀半ば-飛鳥様式から白鳳様式へ
同書は、7世紀前半の止利工房の像に典型的に示された飛鳥様式は、7世紀半ば頃になるとその表現が少しずつ変化していく。献納宝物の小金銅仏にはそのような過渡的な様相をよく示す像がみられるという。

如来立像 飛鳥時代、7世紀半ば 銅製鋳造鍍金 像高27.0㎝ N150
同書は、それらはいずれも左右対称を基本とする点は止利工房の像に通じるが、N150の如来立像では衣文の形を、左右で微妙に変えているという。
裳裾は確かに向かって左が2段、右が3段と、左右対称性を崩してはいるが、まだまだ飛鳥の面影が濃い。

7世紀後半-8世紀はじめ-白鳳様式の像
同書は、白鳳文化の中心をなす天武・持統期(672-696)には、本格的な律令国家としての体制が整えられ、仏教も全国的な規模で広まった。この時期には、7世紀前半の飛鳥文化期に流行した古い仏像の形を踏襲したり、北周・北斉・隋から唐時代初期(6世紀半ば-7世紀半ば)の中国の像や、朝鮮半島の新しいスタイルの仏像の影響を強く受けながら、それらを取捨選択して、時代の感性に合わせた仏像が次々につくられた。その形はさまざまであるが、みずみずしく伸びやかな表現を示すものが多いのが特色である。
法隆寺献納宝物の小金銅仏はこの時期のものがもっとも多く、多様性に富んだ仏像表現のありかたを知るこどかできるという。

如来立像 飛鳥時代白鳳期、7-8世紀 銅製鋳造鍍金 像高27.5㎝ N154
大衣の端が背中側でどのようになっているのか、裏側に回って見てみたいものだ。
それにしても衣文線の刻み方が稚拙だなあ。
N193とは大衣の着け方が似ている。裳裾もジグザグの箱襞を作らないし、広がらない。
あ、両手の位置が通常の如来の施無畏与願印と逆になっている。N193と同じだ。
顔は全く異なるが、N193はこの像の系統に属していたのだ。

如来立像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 銅製鋳造鍍金 像高30.5㎝ N152
この像が大衣というものを纏っているのかさえ疑問に思える。右肩に布がかかるとはいえ、偏袒右肩とも思えない。左肩を覆った大衣は腹部の中央で右から回した大衣の内側に巻き込み、その端はまた出て左腕にかかっているのだろうか。
左右反対の施無畏与願印はN193やN154と共通するのだが。
この時期は倚像の如来にも同じような着衣が見られる。

阿弥陀如来倚像および両脇侍立像うち阿弥陀如来 飛鳥時代白鳳期、7施無畏後半 像高28.4㎝ N144
N154像のように、右肩の襞は少なく、左肩に密に重なり、腕の襞は広くなっている。
N193像と共通するのは、2本の紐で、この像には結び目はないが、裳あるいは裙に大衣を挟んでいる点で、膝に展開する流れが広がるような衣文線は倚像でこその表現である。

童子形の像
同書は、7世紀後半から8世紀はじめの白鳳文化期には、子供のような顔と姿をした小金銅仏が流行した。形の源流は中国の北周・斉-隋時代(6世紀後半)や、朝鮮半島の三国時代(6、7世紀)に求められるが、日本の像では清純さ、愛らしさがさらに追求されているという。

如来立像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 銅製鋳造鍍金 像高29.7㎝ N153
左右の腕は同じ高さで通常の施無畏与願印を表す。
大衣は、右肩のものが広い襞、左肩のものが密な襞となって下方に下がり、右端は内側に入り、左側は背中側までまわっている。衣文も右側に寄っていて、2本の紐などもN193と共通する特徴となっている。
立体的な衣褶の端や袖口には魚々子が並び、裳裾には箱襞をつくるなど、装飾的な像である。そう言えば、螺髪も魚々子がびっしり打ってあるのかな。

木彫という珍しい仏像にも、金銅仏と同様に、造られた時期がほぼ推定できる着衣の特徴がそなわっていた。
しかしながら、この少し上方を向いた顔に似たものはない。木製の像も多く造られたが、火事に遭うなどして失われ、わずかしか現存しないのかも知れないし、木彫の如来にはこのような顔貌が珍しくなかったのかもわからないが、法隆寺献納宝物の中では、一番和む仏像である。

こんな風に見ていると、仏像の正面だけなく、側面や背面もどのようになっているのか知りたくなってくる。法隆寺宝物館の修理が終わったら、是非第2室でゆっくり、じっくりと眺めたいものだ。

          法隆寺献納宝物の中に木造の仏像

※参考文献
「法隆寺宝物館」 1999年 東京国立博物館


白鳳展1 薬師寺東塔水煙の飛天

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奈良国立博物館の開館120年記念展が白鳳で、その図録の表と裏の表紙に、現在解体修理中の薬師寺東塔相輪の水煙の2つが使われていた。しかも造られたのは奈良時代という。白鳳展の図録の表紙が奈良時代のものって何で?
『白鳳展図録』は、平安時代の11世紀に編集されたとされる『扶桑略記』には、天平2年(730)3月29日に「始建薬師寺東塔」(はじめて薬師寺東塔を建つ)と記されている。薬師寺伽藍が藤原京から移築されたのか、それとも平城京において新築されたのか。明治時代以来議論がある。ただし、擦銘が天武天皇と持統天皇を称え、白鳳様式の水煙を掲げているように、東塔は白鳳時代以来の由緒、形式を大切にしている。平城薬師寺の性格を考える上で興味深い問題を提起しているという。
それで敢えて薬師寺のものを出したのか。
これがその図録の表紙。同じように編集しても、どうしても色が同じにならない。


東塔水煙 奈良時代、8世紀 銅製鍍金 各面高194.5下辺幅49.0㎝ 薬師寺
『白鳳展図録』は、薬師寺東塔の上部を飾る相輪の一部で、水煙は相輪の最上部に位置し、4枚あり、それが十字型に組まれる。4枚とも同じ意匠で、各面表裏は同文である。意匠は3人の飛天を表したもので、背景には飛天の天衣と筋状の雲が透彫されているという。
地上から東塔頂部のこの水煙を見ても、飛天は見分けられないだろう。それくらい巧妙に天衣のたなびく端や雲の尾の間に潜ませている。
同書は、飛天[上]は花のつぼみらしき物を両手で包み、ほぼ垂直に倒立する姿勢を見せる。飛天[下]は唯一帽子を被り、駆けるような姿を見せ、横笛を吹くという。
同書は、 飛天[中]は片手で華籠を持ち、もう一方の手は頭上に伸ばす。腰を「く」の字に曲げ、脚を若干広げている。飛天[上]ほどの倒立ではないが、頭を下にして斜め下方に舞い降りる姿を見せるという。
実は、飛天[中]は頭の上に手か足が付いていて、それで枠を支えているように見え、妙に思ったのだった。
また同書は、このうち飛天[中]は川原寺裏山出土の三尊塼仏(明日香村所蔵)や三重・夏見廃寺出土の三尊塼仏(当館所蔵)、法隆寺金堂壁画など白鳳時代の作品に見える飛天と近似した姿を見せており、水煙のスタイルが白鳳時代のものを強く反映していることがうかがえるという。
それらの作品も展示されていた。

三尊塼仏 白鳳時代、7-8世紀 土製 高23.1幅18.5㎝ 川原寺裏山遺跡出土 明日香村蔵
同書は、塼仏はすべて同型で起こされた方形三尊塼仏で、倚坐して定印を結ぶ中尊と、左右の脇侍、上方には天蓋と飛天が表されている。また裏面に「釋」「勒」や「阿弥他」と篦書きのある破片があり、それぞれ「釈迦」「弥勒」「阿弥陀」に対応すると考えられる。これを製作していた工人が表面の中尊を多様に認識していたことがうかがわれて興味深いという。
右飛天
かつて敦煌莫高窟を見学した時、敦煌研究院の王さんは飛天は仏が説法したりすると、その行いが素晴らしいと讃美するために現れますと言っていた。
この飛天はいかにも天から舞い降りたような姿で、左手に華籠のようなものを持っている。足の裏が見えたりと、水煙の飛天[中]の仕種に似ているが、顔はこちらを向いて笑っている。これは表情のない水煙の飛天が真横を向いているのとは大きく異なる点である。

三尊塼仏 白鳳時代(7世紀後半) 土製 復元:縦23.2横14.4㎝ 三重県名張市夏見廃寺出土 奈良国立博物館蔵
同書は、二光寺廃寺の大型多尊塼仏と同型品で、その一部とみられる破片中に「甲午年」(持統8年、694)の陽刻銘がある。
三尊塼仏は、中央に倚坐する中尊を置き、左右上方には散華を撒く飛天を表す。川原寺裏山遺跡や橘寺の三尊塼仏と基本的な構図は同じであるという。
川原寺の飛天と体の動きはほぼ同じで、顔も笑っている。異なる点といえば、両足の裏が見えているくらいだろうか。

三尊塼仏 白鳳時代(7世紀後半) 土製 縦23.5横18.3㎝ 南法華寺出土 同寺蔵
同書は、南法華寺は、飛鳥の南方、吉野に向かう山麓地に所在し、通称壺阪寺という。
図像は橘寺や川原寺裏山遺跡の方形三尊塼仏と同じであるが、型抜けにやや甘さがみられるという。
これまで見てきた飛天と似ているが、型抜けの甘さか、真似て作ったためか、なんとなくぼんやりとした雰囲気がある。肉付きのよい顔は笑うというよりは微笑んでいる程度。

水煙の飛天は、天衣や雲の間に組み込むという制約があるせいか、塼仏の飛天ほどには自由に宙を舞うような表現にはなっていない。それとも、仏像に微笑みのなくなる時期と重なるのだろうか。

飛天は塼仏だけではない。法隆寺献納宝物の灌頂幡にも透彫で表されている。
それについてはこちら

                               →白鳳展2 透彫灌頂幡の飛天

※参考文献
「開館120年記念特別展 白鳳-花ひらく仏教美術ー展図録」 2015年 奈良国立博物館

白鳳展2 透彫灌頂幡の飛天

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白鳳展では、法隆寺献納宝物の金銅灌頂幡が4点出ていた。本来は縦に6枚繋いで吊り下げていたことが、『法隆寺宝物館』の図版でわかる。

法隆寺の灌頂幡 白鳳期、7世紀中頃-末頃 銅製透彫鍍金 法隆寺献納宝物N058 東京国立博物館蔵
『法隆寺宝物館』は、法隆寺献納宝物には数多くの染織製や金銅製の幡が含まれている。なかでも灌頂幡は法隆寺献納宝物を代表する名品で、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』に「金泥銅灌頂壱具」と記されたものにあたり、その名もこれに由来する。四角い傘形の天蓋から6枚1連の大幡と小幡4組をつり下げ、各部に精緻な透彫りと流麗な毛彫りで如来三尊像や供養菩薩、奏楽天人などを表している。縦長の坪の形や細部の意匠の特色からみて、7世紀後半のいわゆる白鳳期に制作された可能性が高いという。

『白鳳展図録』から、薬師寺東塔水煙の飛天に近いものをみると、

幡身第5坪 長76.7幅33.4㎝
『白鳳展図録』は、いずれも天人あるいは唐草文様を、銅板を透彫し毛彫を加えて表し、鍍金を施している。
第4坪には香炉を持す天人を2体、下方に舞踏、また笛を吹く天人を1体ずつ配置する。第4坪の意匠は第5坪でも繰り返され、第1坪に安置された如来像を中心とする仏菩薩とともに浄土を現出するという。
上部では、横向きの天人は、体を曲げ、脚を上に残して天から舞い降りながら、右手に香炉を持ち、良い香りを蒔き散らしているよう。
中段の飛天は、踊ったり笛を吹いたりしている天人たちに香りを降り注ぐべく、その上空に体を横向きにして浮かんでいるかのよう。
登場する天人たちはみな、顔に丸みがある。

金銅四隅小幡
『白鳳展図録』は、施入者の「片岡御祖命」については所説あるが、聖徳太子の娘の片岡女王(生没年未詳)にあたると考えられる。本品の制作年代は、大幡の縁金具と百済観音像の臂釧・腕釧における唐草文様の意匠構成、また法量も一致することが確認されており、制作の時期が近接することが指摘される。本品はその制作に長い期間を要したと考えられ、各部位は制作年代を異にする説も提出されており、7施中頃から末頃にかけて制作されたと推定できるという。
左側の部分
上坪の天人は斜め右を向き、毛彫りでその表情や着衣を表し、両腕を広げる。下坪の天人は蓮台の上に結跏扶坐し、横笛を吹く。
どちらも細身であるが、大幡よりも自然な人体表現となり、やや遅れて制作されているのではないかと思う。
そして、東博の法隆寺宝物館(2016年3月14日まで休館中)にはこれらの上にのる天蓋がある。区画の制約のあるなか、横向きに宙に浮く飛天が多いが、それぞれ横笛・筝・鈸などを奏でている。

『法隆寺宝物館』は、幡は仏堂内の天蓋や柱に懸けたり、境内に立てた竿の先に懸けて用いられる荘厳具の一つである。本品のように天蓋を伴うものを灌頂幡と称するが、この「灌頂」は密教の儀式とは異なり、古代インドで国王等の即位の時に四大海の水を注ぎかけて祝福したという風習が仏教に取り入れられたものという。

灌頂幡図解

また、白鳳展ではもう少し小さな金銅製透彫幡も展観されていた。獅子に合わせたのだろうか、横向きに配置されていたので、仏や天人を見るのは困難だった。周りの人たちも「見難いなあ」「分かりにくいなあ」と言いながら見ていた。

金銅小幡 白鳳期、7世紀末 金銅透彫鍍金 長304.0幅11.5-12.0㎝ 法隆寺献納宝物N060 東京国立博物館蔵
同書は、幡身は全体で7坪あり、第2坪から第7坪までは同程度の大きさであるが、第1坪のみやや大きい。各坪は銅板を透彫し、そこに毛彫を施すことによって文様を表し、鍍金を施し荘厳する。坪部は内外2条の帯と唐草文様とにより構成される縁部を設け、その内部には如来立像、如来坐像、菩薩立像、横笛を吹くかあるいは散華する天人、獅子を配する。いずれも部分的に彩色が点じられており、眉や目は墨、口唇は朱、頭髪部は群青の顔料が残る。
本品の一部の唐草文様には波状の刻線表現が見られ、これが法隆寺金堂の西の間天蓋に描かれた天人の戯画、阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)の蓮池など、法隆寺再建期の作品群に見られることから、7世紀末頃に制作されたと考えられるという。 

第1坪
上から天蓋、如来立像、左手に蓮華の蕾をのせる飛天は宙で寝そべっている感じ。その下に気を吐く獅子。拡大してみると、口中が赤く塗られ、歯は白い。
第5坪
上から蓮華に結跏扶坐する天人は正面を向いて横笛を吹く。その下では、下降姿勢の天人が左手に蓮華、右手に華籠を持ち、下の獅子の前肢に掴まれそう。
第6坪
上から、右手に蓮華の蕾、左手に蓮弁を持った天人は下降しながら顔は正面に向ける。その下では天人が結跏扶坐して横笛を吹く。その下の天人は手には中庭も持たず、地面に接触した模様。
薬師寺東塔水煙の飛天も顔の輪郭は丸いが少し違う。

ところで、頭を下にして飛翔する天人というのは、中国ではいつ頃からあるのだろう。とっくにまとめていたと思ったら、まだだった。

             白鳳展1 薬師寺東塔水煙の飛天

参考文献
「白鳳-花ひらく仏教美術-展図録」 2015年 奈良国立博物館
「法隆寺宝物館」 1999年 東京国立博物館

頭を下にして舞い降りる飛天

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以前に敦煌莫高窟で飛天について調べたことがあり、薬師寺東塔水煙の飛天のような倒立とはいかないまでも、頭を下にして飛来する例が、隋末唐初(7世紀初)以降の窟にみられることがわかった。

390窟北壁中央 説法図
頭を下にして華籠や蓮華を持って天から舞い降りてきた様子が描かれているが、胴体はほぼ水平で、脚だけが上に残っているような描き方。

初唐期(618-712)になると、

220窟北壁薬師経変
天蓋右の飛天は、五色に尾を引く雲の間に、頭から飛び込むように両手を頭の上で合わせている。体は足の先まで真っ直ぐ伸ばしているのが、細い裙の両側に少し出ていることでわかる。
敦煌莫高窟の他の窟の飛天について詳しくはこちら

石造の舟形光背石像などでも、頭を下にして飛来するものもある。

如来三尊像 唐、長安3-4年(703-4) 石造 高110.6㎝
『なら仏像館名品図録』は、陝西省西安市宝慶寺の仏殿及び仏塔に嵌められていた石仏群のうち1点。この石仏群は元来、女帝武則天(在位690-704)が、側近の僧徳感を総監督として長安3年から翌年にかけて造営させた、光宅寺七宝台(仏塔とみられる)を荘厳していたものであるという。
仏龕の中に天蓋があり、その左右にははっきりと頭を下に、両脚を上にして宙に舞う飛天が表されている。
拡大すると、右の飛天は手の仕種は不明だが、両脚をそろえ、天衣は体に添って長く上にたなびいている。左の方は、小さな華籠を両手で持って、脚は開いて足の先から天衣が長く伸びている。
でも、この作品は8世紀初頭のもの。日本でもそれ以前に頭を下にして宙に舞う飛天が出現している。
中国の飛天を遡っていくと、

弥勒菩薩交脚像 北斉、河清3年(564) 銅製鍍金 現状高27.8像高9.0光背幅26.0㎝ 1983年博興県龍華寺遺跡出土 博興県博物館蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、像は台座を含む本体、光背、それに光背外周に鋲留めされた宝塔と飛天を別々に鋳造している。
飛天は両手を上げて広げるように舞っているという。
飛天は左側と右側で向きが異なるだけで、片側には同じ型で作ったのではないかと思われる姿態に見える。
それは、頭を下にしているとまでは言えず、どちらかというと、上半身を起こし、胴から脚にかけては横にしたようなもので、それが舟形光背に付ける位置によって段々上半身が横に、脚が上になっているのではないだろうか。それでも、脚は上になった飛天ではある。

仏三尊像 北斉、天保9年(558) 漢白玉 総高120.3主尊像高59.0最大幅60.0台座奥行23.4㎝ 濵州市文物管理所蔵
同書は、光背に表された片手に宝珠を捧げる飛天の丸々として愛らしい姿も北斉の典型的作風を示しているという。
左右の飛天は、どちらも手前の膝から下を折り、向こうの足は裙からはみ出した裳から高く出ているが、頭を下にしてはいない。裳裾、天衣が共に後方に靡いている。
頂部の宝塔を2頭の龍ず捧げ持っているが、その姿は頭を下にして天より飛来した姿とも思える。ひょっとして、頭を下にして舞い降りる飛天は、このような龍の表現から派生したのかも。

菩薩三尊像 東魏、武定7年(549) 白大理石 高56.8幅35.9奥行20.8㎝ 大阪市立美術館蔵
微笑む菩薩に、天から舞い降りた飛天が宝珠を差し出している。飛天の脚は残念ながら欠けているが、残った箇所から判断すると、背ををU字形に反らせ、頭と同じくらいの高さで両脚を交差させている。かなり足が高い位置に残っているが、胸部から上は普通の姿勢となっている。

弥勒三尊像 東魏、武定4年(546) 石灰石 総高45.0主尊像高22.0光背幅27.0奥行9.0㎝ 1988-90年諸城市体育場出土 諸城市博物館蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、光背は先端を欠失しているが、頂に蓮華座に坐る化仏を表しており、その下の左右に2体ずつ、両手で円筒状の持物を捧げる飛天を表しているという。
体が半円を描くような姿勢で、ゆったりと宙に浮かんだ飛天だが、足は微笑んだ顔とは裏腹に、後方上に反らせている。

弥勒仏立像 北魏、孝昌3年(527) 石灰石 総高290.0像高216.0光背幅130.0光背厚140.基壇奥行61.0㎝ 1956-57年出土 山東省石刻芸術博物館蔵
同書は、北魏は天平2年(535)に、高歓の建てた東魏と宇文泰の西魏に分裂する。明るい微笑みを浮かべる表情に初々しさを見せる本像は、北魏末期の山東省の息吹をたたえているという。
光背の頂部に逆立ちする龍は逆立ち気味、その縁に左右4組の飛天が楽器を奏でながら、それぞれの姿勢で宙に浮かんでいる。

このように主に山東省の仏像を時代を遡ってみると、頭を下に舞い降りる飛天は、龍の姿からきているとも思える。
しかしながら、これらの飛天は、日本で最初期に現れた白鳳時代(7世紀後半)の細身の飛天とはかなり異なったものだった。
日本にはどのような形で頭を下にして舞い降りる飛天が伝わったのかはわからないが、細身という点では初唐期のものになるので、頭を下にして舞い降りる細身の飛天は中国で出現して、割合早い期間で日本にも伝わった可能性がある。

          白鳳展2 透彫灌頂幡の飛天

関連項目
白鳳展1 薬師寺東塔水煙の飛天
敦煌莫高窟14 飛天2 西魏以後

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌研究院 1987年 文物出版社
「なら仏像館 名品図録」 2010年 奈良国立博物館
「大阪市立美術館 山口コレクション 中国彫刻」 齋藤龍一 2013年 大阪市立美術館

白鳳展3 法輪寺蔵伝虚空蔵菩薩立像

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東博で法隆寺献納宝物の木彫如来立像を見て以来、飛鳥・白鳳期の木彫が気になっていた。というのも、当時の仏像は金銅製が圧倒的に多く残っているからだ。
そんな時に奈良博で「白鳳-花ひらく仏教美術」という特別展が開かれるのは、願ってもないことだった。
中でも、法輪寺蔵伝虚空蔵菩薩立像は9月13日までの展示ということで、それまでに是非行かねば、でもまだまだ暑いだろうなと思っていた。ところがあの8月前半の猛暑からは予想するべくもない平年を下回る気温で助かった。当日の予報は雨だったが、なんとか降り出す前に博物館に入ることができた。

伝虚空蔵菩薩立像 白鳳時代、7世紀 木造 像高175.4㎝ 奈良、法輪寺蔵
『白鳳展図録』は、法輪寺金堂に伝来した像で、頭上に髻を結い上げ、上半身に天衣、下半身に裙をまとう菩薩形であり、左手をゆるく下げて指先に水甁の首をつまみ、右手は前方に差し出して仰掌するポーズは、法隆寺の百済観音像と共通する。両手先は後補とはいえ、当初の形制を襲っている可能性は高いだろう。江戸時代以降、虚空蔵菩薩像として信仰されてきたが、百済観音像が宝冠に化仏を戴くことから観音像と特定できるので、本像もまた観音像として造られたかと推定される。
像の作風には、飛鳥時代前期(7世紀前半)の主流様式であった止利派のそれが残るものの、体側を垂下する天衣が面を側方に向けることや、また身体の正面にわたる天衣が上下に分かれる点は、百済観音像や救世観音像において天衣がX字状に交差し、厳格な左右対称性を示すのと明らかに異なり、様式的に一歩進んだ様を呈しているという。
この像はガラスケースに入れられずに展示されていた。人間でいうと等身大、私よりも頭一つ分くらい背の高い像で、金銅仏にはない、柔らかな雰囲気を漂わせていた。
ただ、会場では彩色の残る頭光も一緒だったので、この図版は寂しい。図版に載せないということは、後補ということかな。
蕨手の掛かる両肩から三重に折り重なった天衣は、腹部までは左右対称に垂下するが、右側のものは左腕にかかり、左側の方はその下をくぐって膝の辺りまで下がり、そこから右腕に巻きついている。天衣の端は鰭状にならずに、やや体側にカーブしながら、その先を蓮台に添わせる。
せっかくなので、百済観音立像と比較すると、

百済観音立像 飛鳥時代、7世紀 木造彩色 像高209.4㎝ 法隆寺宝蔵館安置
『法隆寺』は、丸みをおびた全身からは柔和な優しさが漂う。頬の輪郭、やや小さめに浅く刻まれた口辺、眼と眉の間を少し広くした感じなどは女性的で温雅である。
頭・体部・足下の蓮肉部まで樟の一材からなり、面部から上半身にかけては、乾漆の盛り上げがほぼ全面に施されている。
上半身の肉付け、棟や下腹部のかすかな盛り上がり、天衣の表面を側面へ向け鰭状の突起を前後にする表現、肩にかかる垂髪の側面へのひろがり、さらに宝珠形の光背を竹竿を模した支柱に取り付けるなど、側面からもみられることを意識している。また浅い彫りで表現された衣の重なりや裾の部分にみられる柔らかな布の感じは、飛鳥時代前期の木彫像である夢殿安置の救世観音が、深めの彫り口で正面性を基調としているのに比べ対照的であるという。
伝虚空蔵菩薩立像は上半身には衣は着けていないが、百済観音立像は僧祇支を着けている。しかしながら、これはどちらが先に制作されたかを判別できる材料ではない。法隆寺献納宝物の菩薩像には、飛鳥時代前期の菩薩像にすでにどちらも見られるからである。

救世観音立像 飛鳥時代飛鳥期、7世紀前半-半ば 木造金箔 像高178.8㎝ 法隆寺夢殿安置
同書は、頭部に大きな宝冠をいただき、火焔付の宝珠を、右手の掌を前に向けて両手で胸前に捧げ、宝珠形の光背を背に、高く盛り上がった反花座上に立つ。表面は漆で目留めをし、白土下地を施した上に金箔が押された珍しい手法が用いられている。墨書された眉や髭、鮮やかな朱彩がのこる口元は衆生救済の慈悲に満ち、いかにも太子を意識して造顕されたように思える。
金堂の釈迦三尊像と同じく、著しく正面観が強調されながらも、肉体性を具えた、生身の太子の尊像が重なる不思議な像であるという。
宝珠形の頭光は更に大きく、、火焔が浮彫されている。元は彩色が施されていたようだが、それがわからないくらい煤がついている。

『白鳳展図録』は、像の大半を台座の蓮肉およびその下方に造り出す角枘まで含め、木心を籠めたクスノキの一材で造られる。像本体の材は造像当初から洞(ウロ)のあるものを用いたらしいという。
側面から見るとこんなに薄い。会場では支柱が天然木の歪みを生かして、その曲がった先に頭光を取り付けているのが面白かった。その写真も楽しみにしていたらこれとは。
腕から下がった天衣は柔らかく伸びて、大きさの異なるギザギザを2つだけ作っている。しかも、上と下の大きさを変えて、裳裾の細かな襞と共に、この像の造形では唯一といってよいくらい装飾的である。
百済観音立像は像高があるため、天衣も伸び伸びと作られたということもあるだろうが、伝虚空蔵菩薩立像の天衣は、幾分簡略化されているとも言える。
法隆寺法蔵館では、三方から鑑賞できるようにガラスケースに収められているので、宝珠形頭光の支柱も見ることができた。支柱下部では竹の皮の残った様子なども表されていた。

『白鳳展図録』は、最近、本像が百済観音像の表現を参照しつつ、朝鮮半島・三国時代の百済の仏像様式の影響も受けて造像されたとの推定がなされているという。
蕨手が法隆寺献納宝物N158のものに似ているが、その像は百済とは特定されていない。どのような点が百済風なのだろう。
現在は額の周りに鉢巻のようなものが巻かれているが、ここに当初は宝冠が付けられていたはず。おそらく金銅製の透彫宝冠だっただろうが、臂釧に合わせたデザインだったのかな。
果たしてこの顔には、百済観音立像のように乾漆の盛り上げによる抑揚というものが付けられていたのだろうか。
顔はといえば、法隆寺献納宝物N193如来立像とは異なって、というより仏像では一般的な、うつむき加減となっている。そして目は細く半眼に表されるが、二重となっている。二重の仏像ってあったかな?

我が乏しい書庫で古い図版を探すと、頭光と共に撮影されたものが出てきた。
『太陽仏像仏画シリーズⅠ奈良』は、かつては法隆寺と同じく金堂、塔を東西に配す七堂伽藍のそびえ立つ寺であったが、江戸時代にはほとんどが倒壊し、近年再建されたものの昭和19年まで唯一残されていた三重塔も雷火で消滅した。この寺の草創は聖徳太子の菩提を弔うために、太子の妃膳三穗娘や山背大兄王子らが建てたものと伝えられるという。
菩薩ならば瓔珞などの装身具を付けていても不思議ではないが、臂釧以外は失われてしまったのかな。
火焔の表された頭光は褪色があっも尚強烈な色彩だが、頭部背後に垣間見える蓮弁が幅広で、あの法隆寺献納宝物で唯一の木造如来立像N193の頭光とよく似ている。
百済観音立像も宝珠形頭光に火焔が表され、また同心円状に突線の枠が数本あって、異なるそれぞれ異なる文様帯に彩色されている。中央の蓮華も素弁で、覗花弁もはっきりと表され、伝虚空蔵菩薩立像だけでなく、法隆寺献納宝物N193の木造如来立像とも共通している。
蕨手は波うつ数本の束に分かれているが、これは伝虚空蔵菩薩立像と全く異なる造形となっている。

おまけ
薬師如来坐像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 木造彩色 法輪寺
同寺の伝虚空蔵菩薩立像に似た顔貌の薬師如来だが、薬師如来の脇侍は日光月光菩薩なので、本来は別の堂に安置されていたものだろう。
坐した化仏が5体描かれたおそらく宝珠形の光背には彩色がよく残っている。
この像もやはり二重瞼。法輪寺独特の仏像といえるだろうか。
髪の生え際が一直線、螺髪が規則正しく並んでいる。一つ欠けているものの、よく残っている。
法隆寺釈迦三尊像の釈迦と似ているかなと思ったが、肉髻の高さ、大衣を身につける表現など、かなりの違いがある。やはり、次の時代の作品ということになるだろう。

                       →白鳳展1 薬師寺東塔水煙の飛天

関連項目

法隆寺献納宝物の中に木造の仏像
白鳳展2 透彫灌頂幡の飛天

※参考文献
「開館120年記念特別展 白鳳-花ひらく仏教美術ー展図録」 2015年 奈良国立博物館
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社
「法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録」 1994年 奈良国立博物館

サーマーン廟1 入口周りが後の墓廟やメドレセのファサードに

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『イスラーム建築の見かた』で深見奈緒子氏は、ゾロアスター教のチャハール・ターク(拝火神殿)を写し取ったような形である。四つのアーチを意味するチャハール・タークとは、聖なる火を祀る拝火壇で、四角い部屋の四方にアーチを開口させ、その上にドームを戴く。
サーマーン王朝時代の文化、つまりペルシアの伝統文化とアラブ・イスラムの文化、それからソグド地方の固有文化の特色をよく具現した貴重な建築物であることはいうまでもないという。
入口は東側だが、ほぼどの面も同じような構成となっているのは、ゾロアスター教の神殿を模していたからだった。

『中央アジアの傑作ブハラ』は、廟の装飾は古代のソグド建築の伝統を使用している。八面体の角の古風な円柱、軒と尖頭アーチギャラリーに沿った真珠のチェーン。アラブ人がブハラに侵入した時、モスクに変えられた月の寺院及び日の寺院を除いて、すべてのゾロアスター教の寺院が破壊された。そして、月の寺院が現在のマゴキ・アッタリ・モスクに、日の寺院は現在のサマニー族の廟になったという。
浅い尖頭アーチのイーワーンに付け柱のある扉口周りは、その上方の2つの三角を繋いだような壁面となり、イーワーンの中にもう一つ尖頭アーチと付け柱を配して開口部となっている。
タンパンには、枠内いっぱいに四弁花文あるいは十字形を置いた七宝繋文がある。

その上部の壁面には2つの正方形の文様があって、サマルカンドで見てきた廟やメドレセの門構えのイーワーンに一対の丸や花形の装飾を配するのに似ていることに気がついた。
ひょっとすると、サーマーン廟の小さなファサードから、あのようなタイル張りの壮大な門構えになっていったのではないだろうか。

それをシャーヒ・ズィンダ廟群で現存する中で最も古いホジャ・アフマド廟から見ていくと、

ホジャ・アフマド廟 14世紀半ば
門構えの左右に付け柱、イーワーンのアーチ下にも付け柱がある。
アーチ上の壁面には丸い装飾がある。
何故門構えという表現をするかというと、四つの壁面が同じ装飾だったサーマーン廟とは異なって、入口の壁面だけにタイル装飾があり、その壁面がドームを隠すくらい高く立派な構えに作られているからだ。
それは、平たい焼成レンガを積み重ねるのと、タイルに施釉して焼成し、それを貼り付けていくという手間がかかり、また費用もかさむ、そしてそれだけの工人を集めたり、育成したりしなくてはならないため、仕方のないことだったのかも知れない。

クトゥルグ・アガ廟 1360-61年
細いながら門構えの両端に付け柱、イーワーンの尖頭アーチ下にも付け柱、上部壁面には一対の丸い装飾。

これらに続いて建てられた廟にもほとんどが付け柱や丸い装飾がある。シャーヒ・ズィンダ廟群では最後の頃に建てられた廟を見ると、

トマン・アガ廟 1405-06年
門構え両端に付け柱はないが、イーワーンの尖頭アーチ下には付け柱、上部壁面には一対の丸い装飾がある。
そして他の壁面は、バンナーイという、焼成レンガと施釉タイルを組み合わせて文様をつくっている。

グル・エミール廟 1404-05年
かなり修復が入っているので、本来の形かどうかわからないが、門両端に付け柱はなく、イーワーンの尖頭アーチ下には付け柱がある。そして、上部壁面には一対の丸い装飾がある。

ティームール朝の建築の中でも、この壁面上部の一対の装飾文様は何を表しているのか、よくわからなかった。

サーマーン廟の正方形の文様について『中央アジアの傑作ブハラ』は、廟の秘密の鍵はアーチの角の「ダイナミックな正方形」のサインであるかもしれない。それは建築構造のレイアウトを反映する。それには、いくつかの正方形とセンターに円がある。円はドームを意味する。1番目と3番目の正方形は廟、2番目の正方形は入り口の位置を表す。40の「真珠」のサインが40のトップアーチに対応している。よく理解できるシンボル、正方形は地球、円は空、羽は天使を意味し、サマニー族の廟のサインをゾロアスター教、仏教、およびイスラム教に普遍的なコスモグラムとして解釈させるという。
ということは、各開口部の上方に、一対の廟の平面図を装飾に置いたことになる。
「天使の羽」と表現されたものは、半パルメットを左右反転させて合わせたようにも見える。
これについて『シルクロード建築考』は、外部四面の四角い文様は、敦煌莫高窟の249窟や259窟にある仏龕の天井彩画と同系である。しかも、それが木造隆穹天井のあり方を意識した作画であったのに相違ない。この霊廟の四角い文様も、あえていえば、まるでこの墓廟のプランそのものではないかという。
こちらの方もサーマーン廟のプランだとするが、一般にドイツ語のラテルネンデッケと呼ばれ、中国では斗四藻井という天井だとする。
ラテルネンデッケは敦煌莫高窟最古の石窟の一つとされる268窟(北涼)の天井にも同様の文様が表されている。
そう言えば、ラテルネンデッケの天井は、このように正方形を回転させながらというか、四方の上に三角形の板を置いていくという方法で、少しずつ高くして中央に丸い明かり取りの穴をあけるというもので、そのような天井の家屋が現在でも中央アジアにあるというが、ウズベキスタンの民家は大抵がトタン葺きの切妻や入母屋だった。そうだ、中央アジアでこんな天井を見たいと思っていたのに、すっかり忘れていた。
どちらにしろ、墓廟の平面が装飾モティーフになっているとは不思議。

また、サーマーン廟の四面の開口部上部には、このような四角い装飾が一対あるが、内部の正方形から八角形への移行部の8つのアーチの上部にも、それぞれ一対の丸い装飾がある。
この一対の丸い装飾は何だろう?


関連項目
ウズベキスタンの真珠サーマーン廟1 美しい外観
ブハラのサーマーン廟
法隆寺金堂天蓋から2 莫高窟の窟頂を探したら

参考文献
「中央アジアの傑作 ブハラ」 SANAT 2006年
「シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術選書32
「イスラーム建築の見かた-聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「ウズベキスタン シルクロードのオアシス」 萩野矢慶記 2000年 東方出版

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