田上惠美子氏より初夏のたより
田上惠美子氏からガラス展の案内が届いた。横長の大きな葉書に巨大なペンダントトップの写真が、枠に収まりきれない。エネルギーが溢れてますなあ。まるで大胆な桃山時代の金碧障壁画のよう😃先日行ったフォッサマグナミュージアムのヒスイの原石にも見える🤩もう6月に入っているが、26日までと期間が長い。そこで今回はちょっと趣向を変えて、田上氏のガラス制作にこめる思いを外国語にしてみた。永遠であると同時に...
View Article今城塚古代歴史館 三島古墳群の最後は阿武山古墳
三島古墳群は高槻市だけでなく、茨木市や島本町にまでひろがる広範囲の丘陵に散在している。5世紀中葉に太田茶臼山古墳(宮内庁が継体天皇陵としている)、6世紀前半に今城塚古墳(発掘調査で継体天皇陵と比定されている)という巨大な前方後円墳が築造された後はどうなったのだろう。三島の後期・終末期古墳-群集墳の時代三島の後期・終末期古墳 『今城塚古代歴史館...
View Article糸魚川フォッサマグナミュージアム ヒスイについて
北陸高速道を糸魚川インターでおり、まだ雪の残る遠くの高い山々が見え隠れしながら、複雑な道路を辿ってやっとフォッサマグナミュージアムに到着。建物も複雑そう。館内の通路には、海岸で採取された石がその名称と説明パネルとともに展示されていた。キツネ石ネフライトにキツネ石。入館した矢先、狐に騙されたような・・・😅iStoneによると、特定の鉱物や岩石の名称ではなく、ヒスイを探している人が、ヒスイかどうか惑わせ...
View Article一乗谷朝倉氏遺跡 戦国時代の庭園を巡る
一乗谷朝倉氏遺跡のリーフレットは、朝倉氏は、但馬国朝倉庄(現兵庫県養父市)の豪族で、その地を名前の由来としています。南北朝時代に越前守護斯波氏に従って越前に入国し、地頭として一乗谷近隣を支配の拠点としていました。戦国大名朝倉氏の初代当主の孝景は、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに、1471年に幕府から越前守護に関する要望を認められ、以後、氏景、貞景、孝景、義景と5代にわたって越前を統治しました...
View Article一乗谷朝倉氏遺跡 復原町並
一乗谷朝倉氏遺跡の中で、❼朝倉館跡の川と道路を挟んで向かい側に❺復原町並がある。越前朝倉氏一乗谷』は、朝倉氏の家臣の屋敷などで構成される武家屋敷群は、ところどころに散在するのではなく、決まった配置の仕方をとっています。朝倉氏に近い重臣の屋敷は、主に一乗谷川の東側に固まっています。また「外様」とでもいうべき、在地土豪から成長して勢力を振るい、後に朝倉氏の家臣となった者たちの屋敷は主に川の西側に固まると...
View Article一乗谷朝倉氏遺跡 出土した器
一乗谷朝倉氏遺跡のリーフレットは、1471年に幕府から越前守護に関する要望を認められ、以後、氏景、貞景、孝景、義景と5代にわたって越前を統治しました。この間、一乗谷には京の貴族や僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれるほど隆盛を誇りました。しかし、天下統一を目指す織田信長と対立し、1573年に朝倉氏は滅び、城下町も焼き払われました。朝倉氏の滅亡後の一乗谷は、旧臣や一向勢による支配を経て、信長...
View Article日本に残る青白磁の梅瓶は南宋-元時代
一乗谷朝倉氏遺跡奥間野地区で発掘された医者の家からは青白磁の梅瓶と盤が出土している。そのうちの梅瓶が気になった。 何時の時代の、どこで製作されたものなのか?一乗谷朝倉氏遺跡 医者の家跡出土梅瓶 『越前朝倉氏一乗谷』より高麗時代のものだろうか。高麗の梅瓶は大阪市立東洋陶磁美術館の「高麗青磁-ヒスイのきらめき展」に出品されていた。そのうちの1点は、高麗青磁陽刻蓮花文梅瓶 12世紀...
View Article戦国時代の舶来ガラス
一乗谷朝倉氏遺跡資料館で2014年に開催された「戦国時代の金とガラス きらめく一乗谷の文化と技術」という企画展の図録を入手することができた。同展図録は、なぜ今「戦国城下町一乗谷」で”金 Gold”と“ガラス...
View Article珪砂組 ふたたびヘプタゴンで
猛烈な残暑の頃、それでももりもり食べて、ぐびぐび飲んで、元気が余っている私のもとに届いた透明な封書は、硅砂組の個展案内だった。京都二条城の北方に位置するギャラリー・ヘプタゴンで待ちに待った硅砂組の個展が始まる。とは言っても去年も個展は開かれたのだが、コロナ禍で列車に乗る勇気がなかったため、訪れることができなかった。岩とガラスのしぶき、格好ええなあ~🤩その間のタイトルが、...
View Article珪砂組 結界をむすぶ 境界をほどく 展
ギャラリー・ヘプタゴンにやってきました。祇園祭の粽が戸口上に飾ってあったりして、京都らし~い😊中に入ると北からの風が吹いて涼しい。町家を改造されたので、奥には坪庭があって、そこから涼しい風が通り抜けてくる。右壁面には写真パネル 境界 水 石 木 四国の渓谷で撮影その下のガラス作品左:茶杓...
View Article戦国時代に国産のガラス
日本では、奈良時代以降ガラスの製作は廃れてしまったのと思っていた。ところが戦国時代には各地でガラスが作られたことが発掘調査で明らかとなってきた。『戦国時代の金とガラス展図録』は、日本において原料からガラスそのものの生産が始まったのは、7世紀後半の飛鳥時代です。それ以前の弥生時代や古墳時代のガラス製品は、ほぼすべて輸入品であったと考えられています。一方で、7世紀後半に始まった国産ガラスの生産は、日本に...
View Article戦国時代の漆と金箔
戦国時代には、ガラス玉だけでなく、金箔を用いた漆器も作られていた。山科本願寺跡 『戦国時代の金とガラス展図録』は、京都府山科区山科本願寺は文明10年(1478)に本願寺8世蓮如上人により造営が開始された。山科本願寺の中心部、「御本寺」跡で行った発掘調査では、焼き討ちを物語る焼土の中から、輸入陶磁器や堆黒、金蒔絵、ガラス玉などの希少な遺物が多量に出土しているという。金蒔絵断片24点 約0.5-2.0㎝...
View Article丸岡城と笏谷石
丸岡城は山城から平城になった最初の城ということで、その最初がどんなのかを見たいと思っていた。それがやっと実現したのが2022年の初夏の頃。左端に天守閣の屋根だけが見えている。耐震工事で屋根が見られないかもと思いながら到着したが、広大な駐車場から屋根が見えたので一安心。瓦は石製だがしゃちほこは木彫銅板張り。入母屋破風のところだけ、軒丸瓦と軒平瓦を合体させたような瓦が並んでいる。調べてみると万十軒瓦とい...
View Article平安宮はこんなところに
珪砂組の個展が開かれたギャラリー・ヘプタゴンはJR二条駅に近い千本通りを上がっていき、下立売通りを東に入った、智恵光院通りに近いところにあった。久しぶりの京都なので、その近くに何かないかなと探していると、平安京がこの付近にあったことがわかった。学生時代はもっと東の鴨川周辺が活動範囲だったので、そんなことも知らずに過ごしていたのだった。運良くバスがやってきたので、千本丸太町の北側バス停まで乗って、汗を...
View Article平安時代の陶器
平安宮跡を巡っていて、説明パネルに出土した平安時代の緑釉陶器が紹介されていた。矩形の皿や2方向を折り曲げてフリルのような装飾を施した皿などもある。この形は、一乗谷朝倉氏遺跡出土の箸置きに似ている。京都市制作の説明パネルより平安時代の緑釉陶器とはどんなものだったのだろう。その前に、『日本の美術235 陶磁...
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